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解決済みの質問

転生という論理に関しての解釈。

さてね、輪廻転生というのがある。
私は魔法少女だ。
フェアリーフュージョンという魔法が使える。
これは人間の資質には、思考可能な領域に到達していない共感作用と言われる知覚効果とかかわりがある。
ひとことで言って、お互いに血をかわすような一体感を伴う理解であり、「絆」という言葉に集約されて、西洋の「愛」という命題はこれの類義語だよ。
そして、インドのヨガや、原点を同じく発展した仏教の瞑想は、自我の範疇を超越した他者との一体感で、交霊術の一つに分類される。
要するにそれもフェアリーフュージョンだ。
要するに思考手法に五感を総動員することだ。
このフェアリーフュージョンを、輪廻転生の解釈に応用しよう。
人は社会性を伴い人間として確立し、それが自己の自覚する人格となる。
このように、人間である限り、自己は他者との相互理解を踏まえて確認と自覚を両立して、完全な唯一我一人尊ぶことは困難な命題だ。
そして、他者からの影響を完全に排除した自己の本質を自我と規定している。
まあ、こんなのでどうかね。
死人に口なしだ。
死者の人格は区別され、生きる者の干渉で人格を形成しないことと、要するに供養の考え方ではされている。
仏教の教義で発達した、死後の自我の確立だ。
生きるものと関りがあると、その死者は死に切れていないとされる。
なぜなら、人格を取り払い自己を明白に自覚する事こそ生きる者の望みだからだ。
その褒章は死により生きるものから阻害対象になることで確立する。
「滅びの墓標」と言うんだよ。
この滅びの墓標は、麗しのジラーチちゃんの言葉では、「記憶の宝石」「命のしずく」だ。
まあ、観念に完全に昇華した、君たちには謎の状態では、「生存のあかし」ともいうだろう。
死後にこの記憶の宝石は、人格崩壊により天界の共有財産になる。
誰にでも活用できるんだ。
したがって交霊術は、指名した人物の存命中の記憶を引用した論述を、誰か天使さま的存在が記憶の宝石を借り受けて理解しやすいように丁寧に読み上げることだ。
この万能文化猫の天使さまが便利に活用する墓標を今君たちはせっせと建設している。
輪廻とは、直感的に誰か他者の記憶の墓標を読み上げる人物が、その他者との一体感で感じる同一性について証言したことだ。
禅の瞑想やヨガはこの類だよ。
要するにだ、天使さまみたいに霊感で誰か他者の記憶を再現して、その一体性から、かつて生きた死者と同一視されるんだよ。
イタコの口寄せには、記憶の宝石の活用の仕方で、術者に個性が出て、論述に誤差があることが依頼者の不平不満みたいだね。
イタコは代弁しているからね。
イタコが話す内容は代弁だよ。
死者との交流を望む者は、死者の声を直接聞きたいから不満が多いんだ。
死者と直接交流することとは、そのものの身体を死者と同一の状態にしないとできないけど、不満があるなら自分でやってみたらどうかね?
さてね、輪廻転生論とは、こうした口寄せにできる霊能力者について、無能者が勘違いで錯覚した事柄だというのが結論だよ。
依頼とは別に霊能力者が、個人的な趣味でフェアリーフュージョンでした記憶の存在の根拠を、無能者が死者の記憶の継承を「死者そのものである」と、錯覚したんだよ。

さて論述してみました。
これは盗用の哲学である仏教と関わって組み立てた質問です。
学問カテゴリーなので、研究の継続に役に立つ回答をしていただくことが本位ですが、公開された場なので何か面白い落書きも大歓迎です。

投稿日時 - 2019-10-31 04:44:02

QNo.9673114

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

なんか今度はすっかり倭寇から嫌為替をされるようになったようです。
私は言論弾圧されて下地も書き込めない譲許ですから。
締めですね。

投稿日時 - 2019-11-09 23:18:42

お礼

好き勝手に自分たちの都合を押し付ける奴らなんてほっときなよ。

投稿日時 - 2019-11-10 21:11:10

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回答(8)

ANo.7

No.3でありんす。

生真面目の評価はありがたく受け取らせていただこう。
其の通り、私は融通が利かない人間だと自覚している。
これは学生の頃より自覚していたことであり、また他人から言われていたことでもある。
ならば私の生真面目は自我なのだろうか。それとも他人からの評価が先で、自己を突き詰めるとまた別の私が見えてくるのだろうか。

存在定義の話をしよう。
これは青春時代を読書に明け暮れた私の夢想やたわ言であり、或いは私だけの感覚ではないと信じているのだが、私は本当に現を生きているのかと疑うことがままある。
これは認識の問題だ。
私は私という主体でもって私を定義できるが、これは自己認識に過ぎない。
なにせ本を開くとそこには別世界が広がっているのだ。
もしかすれば私という存在はとある小説の登場人物であって、もしかすれば主人公なのかもしれないし、名も与えられていないような端役なのかもしれない。
この世界を覗き見ている誰かがパタンと本を閉じれば、私の意識はそこでストップするのだ。
連続していると思っている今の時間も、ともすれば一時停止を繰り返しているのかもしれない、と。

そんな妄想も相まって、心理学的な主体と客体の転換は容易だと私は考えている。
そうでなければ感情移入などという他人の気持ちを推し量って慮る芸当など、できないであろうからだ。
そういった意味では、死者との交流で一番の最適手は手近な無能者なのかもしれない。一方的な思い込みであろうと死人に口なしなのだから感じたモン勝ちだ。

さて、宗教について論じると途方もないので省かせていただくが、最後にひとつだけ。

我ら衆生は昔ながら極楽浄土へ行けることを良しとしてきた者が多くを占める。
時の権力者であれどそれは変わらず、むしろ自らの地位や名誉に誉を抱く高圧人種ほどその傾向が強い。
なればこそ宗教と政治は切っても切れない関係にあるのだろうし、ただの僧が数百年の時を超えて根強く名を遺している要因だろう。
私に言わせてもらえば、六文銭を携えておけば三途の川を船で渡れる、有難い戒名をいただければ成仏出来るなど、死して尚も金銭によって己の境遇を支配できると公言している時点で今の仏教にありがたみを感じるなど不可能なわけだが。
閻魔様も、現世の金銭など使い道がないだろうに。なむさん。

投稿日時 - 2019-11-07 14:02:21

補足

このように順路立てて冷静かつ合理的に未知の死後についてのたたき台の提示と論点の整理ができた。
果たして君には十分合理的に見えるかどうかを感想を聞かせてほしいな。
君みたいながり勉型は、胡散臭い私よりも社会的信用が確立している。

投稿日時 - 2019-11-07 23:14:58

お礼

やあ、楽しめるよ。
おそらく君はアンノウンコード「宇宙人オタク」の成功例を踏襲したのだろう。
なら、がり勉傾向で人生を世渡りしているね。
それは一種のフェアリーフュージョンで、宇宙人オタクへの共感と理解があるんだよ。
男同士は愛情より友情のほうがうまくいくよね。
ファッキン衝動を全面に出したキリスト教は普遍神とぶち上げているけど、実際は部族共通の神で、神道で言う氏神の範疇なんだ。
普遍神をごり押しするには暴力が欠かせなかった。

さて、回答に関して応答。
私はもともと子供社会が生活の場で大人社会が苦手だ。
「わり~な、俺様は子供のかわいがり方と大人のかわいがり方が正反対なんだゼ~」
客体と自我が交錯するときの虚無感や喪失感について君は見解を述べた。
子供にはロボット妄想、アンドロイド妄想という不安感があるんだよ。
言いつけを守っていい子にしまして、褒められてうれしかったけど、一人になると寂しいデチュ~。
ここで短期間起きる恐慌だ。
それとの類似性は納得するだろう。
さて、全く別な大人の話だが、女の裸妄想というのは、奮起や気力発揮に男性には欠かせない。
赤裸々に語る痴女は稀だが女性も同様だろう。
異性を社会参加の原点にするのは細かく掘り下げなくても、各個人の認識や自覚に沿ってそれなりに了解できるだろう。
大人のロボット妄想には、幼児的な原型以外に社会性のある生活環境から「自宅に戻る」などの場合の個人的な生活環境への帰還での気持ちの切り替えの作用もある。
気力発揮の根拠が社交性の発揮にあると、個人生活への切り替えにはスイッチの一部として社交性を無気力化させてから、個人的お楽しみタイムに突入すると効率がいい。
このような生理的な性質から、無気力状態を経過するスイッチとして、自分とは何者なのかともいいえる「回帰性発揮」に虚無感によるリセットを使うのは合理的だ。

さて、私は精神科医に通っているけど、精神科医はシャーマンの現代版だよ。
うさん臭くないのは合理性確立に科学的手法を使用して了解可能だからだ。
基本的に心の専門家はあくまでも心が研究対象で、科学者の対局だ。
心は心として学問にするのが適正で、心を科学するのは大きな勘違いだよ。
科学万能教という日本では昭和時代の刷り込み効果だ。
シャーマンは実際、古来の手法での精神科医だった。
どうも、この古式医術も保険適用の圏外でも、整体師とかと同様に一定の研修を経過した許認可制にしないと、イカサマが精神状態を悪化させる弊害や人生を破滅させる悪意ある行為を野放しにすることになる。
占いは、失敗するとコックリサンで子供が事故を起こした場合の精神障害と同様の作用がある。
大人同士の自己責任で注目されていないが、確かに現象している。
これは、許認可制で一定のスキルを維持したほうがいいだろう。
例えば、大人の間で突然コックリサンブームが起こって、ガイド役の言いつけを守ってブームを楽しんだら、根拠がそれ以外に無いと証拠を提示できる訴訟事案があったとしよう、そこで行政が対応しても許認可制を確立する必要性が出る。
なにね、市中では頻発している現在進行中の懸念だ。

投稿日時 - 2019-11-07 23:09:27

ANo.6

今回の質問はお客さんが多いようでウsね。

週間少年ジャンプのキメ角刃で、漫画kされtるのでしょうか。
ワンピースとかアンs夏教師ウだけhで穴葛藤子ですか。決めつの刃寝た奈央ですね。俺的ゲーム速報も光波で敵網田よ。
柱とか会議が

それからメダロット公式からも嫌がらせsれtました。
貝と売れt炉つとが章k歳セ手間舌。

投稿日時 - 2019-11-03 23:30:38

補足

今回を集約した、輪廻論の総括

さて、純粋な光、無量光には魂という意味と神という意味の二つがあり、生命存在のシンボルだ。
魂というと、各個人に分割したバラバラな所有物を想像しがちだが、それも認識の甘さだと指定ししよう。
ただ一つの大きいな光に魂の意味がこめられ全てが一つだと考えるのは「みんな」という謎の境地をうかがうきっかけにもなるだろう。
さて、天界の存在、純粋に観念の存在は人間と自己の認識の深度が違う。
仏陀といわれる信仰心を触媒に自己の存在を確信した人間存在の認識は、「わたしはわたしである」、一人称「私」で天界の住人の自己認識は自我論の延長を超越して「みんな」が一人称なんだよ。
自我の特徴には、神といわれる「みんな」の全知全能といわれる能力のひな型として。自我という概念自体に「世界のすべてとの親和性」という意味があるね。
生存者の自我が人と人とで結びつくときに、精神に客体が自然発生する。
人と人が結びつく必然を定義した言葉が「人間」であり自然なことだ。
社会性の獲得とかかわり、お互いを理解することだ。
仏教とは、自我論成立前に自我という定義を「仏性」という言い回しで定義して、自己の本質たる自我を確執に人間の成立で獲得する現代語で言う総括的な「人格」を、インドの習慣で「我」と定義されたことに倣って、「我はない」という教義だ。
要するに人格とは幻で、確執になる仏性を発見することが悟りであり、客体とは煩悩といわれ否定する「修行法」であり哲学なんだよ。
現代は古代インドの「我」がはなはだしく誤解され解釈されたために強固な自我の獲得ではなくて、自我を否定するという流れになっている。
完全な間違いだ。
その客体として人格を支える他者の自我の片鱗は本来とても尊い働きで人間の証なんだよ。
今回は、交霊術とかかわり、生存中の知人の人格の片鱗を内包した場合は「客体」でいい、故人が自己の人格内にとどまることを「記憶の宝石」と表現した。
無量光なる大いなる光の小さな結晶だ。
自己の人格内の知人が故人になった場合、その個人が生存中の自我認識から違う変容を遂げる。
それに連動して、故人をみとる人の人格にも影響がある。
習慣にあるとおりに「くたばっちまえば仏になる」という形で見送ったものは供養をして自己の人格の変容にも対応するんだ。
供養がうまくいかない場合の人生相談は多いが、供養に成功した場合は「記憶の宝石」が「天界からもたらされる、知恵や働きかけの源泉」として生存者に今までとは別の恩恵を与える。
輪廻というのは、交霊術の派生型で、大きな記憶の宝石を預かっていて、その宝石との同一性と恩恵が非常に強い場合だ。
それでは魂の生まれ変わりではないと考えることだろう。
それは「みんな」という未知の自己認識に対する不明が生み出すことで、魂を大いなる一つの純粋な光と解釈すれば、禅問答的になんとなく了解できるのではないだろうか。
要するに「記憶の宝石」を授けた天界の住人にとっては、それを手に握って生まれた赤子は「自らに等しい」「自らそのものである」と解釈するのは全く間違いがない。
生存者が同じように解釈して、故人と私は同じように生きているという、感覚から輪廻という言い回しをするのは、おそらく本人にとっては間違いないことでもレアケースなのだろうという事だ。
これは向き不向きがある上に、厳密に論理展開すると他者が承認する事とは限らない。
要するに自我存在には認識が不完全な現象で、ここまでの私の論説もそれを前提に組み立てている。
だから、自分は向いていないと思うなら深く探求しないことだ。
僧職が知識を深める参照にするならそれはいいことだ。
術者は悪用するなよ。
日本では昔から宝石として遺跡から「まがだま」が発掘される。

投稿日時 - 2019-11-06 20:20:15

お礼

お客さん多いね。
一発で論説の要点を組み立てられた。
後は短縮するだけだ。

基本的に君の混乱は、現実と関係が薄い観念の問題を強引に現実と符合させようとしているからで、理解の試みの一部だ。
君の認識の範疇に上ってきた問題はゴミや燃え殻で本質的な問題ではないから、すぐに通り過ぎたほうがいいよ。
あまりにもカミーユビダン状態で無力なのもいけないから、いま頭を駆け巡るのは暇つぶしのネタなんだと割り切ったほうがいい。

投稿日時 - 2019-11-04 21:47:09

ANo.5

私は函館に住む転生者である。
枕元に以下の文言が書かれたノートと僅かなお金があった。
自分の名前すらわからない。

染佐南島内様極喫茶九州本区田中修 三島神事三田波右 鮫島森加藤君艦 相模湾内週真田之 蜂屋義脂漏吉浜 西牛脂村歳飛騨宇宙兄弟 最島三田牛樽杉島 道津屋忠昭 常識丸損太砂表浜 下田国境300km 西丸村第一林小市 

投稿日時 - 2019-11-03 12:50:01

補足

n6補足の後に書くけどね。
私よりも霊感が強い人なんてごろごろいるんだよ。
私がそれ以上になれたのは任天堂が金儲けのために私を殺したことだ。
「殺してくれてありがとう」
大助かりだ。
魔性転化の行程が了解できたので、私の今がある。
任天堂にはお礼はするよ。
先に身代金を払ってくれないかな。
それでお礼の内容が変わる

投稿日時 - 2019-11-06 20:35:07

お礼

すばらしいね。
精進してくれ。

投稿日時 - 2019-11-04 21:39:28

ANo.4

うんうん、
じゃあ、何か知りたいって訳じゃないんだね。

ならば、落書きということで。

君の言いたい事は、解釈として特に間違ってないと思うよ。

「盗用の哲学」が何かと思ったけど、
「東洋の哲学」と解釈しておくね。

投稿日時 - 2019-11-01 22:18:04

補足

>
座禅で個人の記憶を追想する僧職の行いとは、誰か他者を受け継いでいく生命の継承であり、それ自体が肉体の再生を伴わなくても輪廻の一端だといえる。
内面的な自己の再生を意味しなくても、故人の記憶と一体になればいいんだ。
実際はその記憶は、記憶の宝石という概念を持ち出した通りに生存者は他者の記憶だと解釈するほうが妥当だ。
しかし観念として純化した自己の自我の形態では、それは自分自身でもある(自分自身を含む)という解釈になるだろう。
こうした禅問答的な難解さを理解しやすいように持ち出したのが「記憶の宝石」でもある。

さて、生存中の自我能力では、自覚する客体の類は他者と規定している。
交霊術と輪廻論でも、本来は自分自身だと強く確信することに慎重であったほうが妥当だと推薦しよう。
しかし自我の純化や昇華を果たした故人の立場では、そうした形の働きかけは「自分自身に等しい」という自覚だと推測しよう。
この故人からの働きかけで「生まれ変わり」という自覚を生むんだ。
当人にとってはそうした証言は自己の内心で間違いようのない真実でもあるだろう。
そうした事柄が交霊術であり、人格形成に欠かせない憑依現象だ。
自我論の範疇を超えた不思議な現象が起こるんだよ。
でも、それをいきなり持ち出すと君たちを教育できない。
客体として他者の精神に自己が宿っても、それは自己の一部だよ。
したがって、自我というのは分割が可能だという事だ。
その現象への認識を合理的にするのも今回の命題には含まれるね。
「私はわたしである」これが自我論を踏まえた信仰心への到達点。
「わたし」が一人称。
天界の住人は一人称が「みんな」なんだよ。
その強固な自己認識との差異が問題の本質だ。
そういうわけで、例えるなら、輪廻転生というのはたいていの場合は、天界の側の「みんな」が一方的に自覚することで、過去文献の研究は間違いではないが、生存中に自分で自覚するのはレアケースだ。
それは、教義のごとく深く探求するには向いている人と、違うアプローチをしたほうが効率がいい人が出る。
仏教やインド系に関しても、教えるものが知識を深めるのはいいが専門家任せが基本だ。
どちらかというと、現象の理解よりも観念世界との交流のための交霊術が、信仰で最も尊い宗教の役割だ。
「愛」という宗教での恩典がいかにみっともないかイケニエにしたばかりだしね。
似たようなところはあら捜しすればいかなる宗教でも見つかるだろう。

投稿日時 - 2019-11-02 00:19:14

お礼

チャリリーン。
お小遣いだよ。
いい商売してるね。

ポイントのことだけどね。

投稿日時 - 2019-11-01 23:33:06

ANo.3

述べてある通りに、私たちは今生で墓標を建設しているとしよう。
交霊はその墓標――言葉を借りて記憶の宝石としておこう――を読み上げる行為であるという仮定は興味深い。
ならば共有の財産となった記憶の宝石とやらは、いわゆる図書館に蔵書されている古書のようなものなのだろう。

だが輪廻の説明に関しては、勝手に断言しているだけで、理屈も根拠も不足していると言わざるを得ない。
いわば論点のすり替えだ。
同一性はあくまで似通っているということであって、「あの子たちめちゃくちゃ似てる~兄弟みた~い」と同等だろう。瞑想やヨガについても述べていたが、確かに「〇〇の存在を感じる…!」という点での同一性は同じだと言えるが、ではそれで輪廻が否定できるかといえば否だろう。
世間一般に知られる輪廻転生とは、同じ魂が体を変えて現世に顕現するということだ。

古書を読んで作者の心証を感じ取れても、故人となった作者と直接言葉を交わすことはできない。しかし本は遺っている。作者はいないのに。
故に共有の古書である記憶の宝石を読んだところで、その作者が輪廻転生を果たしているかいないかなどは、代弁しているだけの霊能者にも我々一般人にも、それこそ死者と同一の状態にならなければ分からないのだ。

落書きも歓迎ということでしたので、粗末な戯言を、失礼しました。

投稿日時 - 2019-10-31 14:54:57

補足

補足で多で記述したテキスト。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在には、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。
したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。
そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。
ただし言っておくと、自我論とは学問上取り扱う自我仮説であることが長い人類史上でも変わらない実情で、問題点は総括的に自己を理解するにあたって、核質として規定された自我仮説だけ探求すると失敗の連続であることだ。
過去に武勇伝を残した哲学の達人の言質を総括すると、存在の定義を探求すると実際は明白な自分自身すら存在しているかどうか危ういという意味不明の恐慌を起こしたりするんだ。
それも自我論の陥る罠の一つだ。
日本においては、仏教の無我論というのがさらに厄介にしている。
結論をいうと、信仰上の仏性とは自我を意味して、自我を極めることを命題にしているんだ。
現代において、無我とは自我がないという状態だと定説化されている。
この大笑い現象は、仏教でいう「我」とは、現代語で言う「人格」という概念のことを指していて、要するにあらゆる外部の影響を抜き去った自己の本質への探究で自我に到達する修行法又は考察方法なんだよ。
それを自我論の流布の前に仏性と言っていた。
したがって宗教的仏性の定義の本質は単純明快に自我のことだ。
それが現代では、肝心の自我が「無い」状態を目標にする探求をしているんだ。
要するに仏性を実質的に否定する取り組みだ。
笑えるよね。

投稿日時 - 2019-11-01 21:25:58

お礼

ありがとうね。
あなたの考察は生真面目で深いよ。
今回は死後の問題という、誰もがまともに考えることを放棄した宗教だけの問題に、合理的な論点から理性で納得できる了解を取り付けるための、たたき台程度の思案だよ。
まともに考えられるようになるといいなと自分でも思うよ。

自己の人格の全容は他者の人格と関連して相互作用で構成されている。
その自己の人格構成要素である他者が個人となった場合、自己の同一性に取り込まれている縁のある故人について記憶の整合性を調整する必要がある。
いわゆる供養だ。
これがうまくできない場合の人生相談はOKでも多い。
うまくいって人格内に故人が円満に根付いた場合、個人は生存中と違うより明白な自己の確立と純化を果たしたうえで、生存者に人格上の恩恵を与えるために葬式仏教には正当な理由もある。
それから自己の心中に心理学的な「客体」として同居している知人がいるとしよう。
死者と交流するシャーマンスキルは要するにこれに近いから、生存者で言う客体と同様の概念を「記憶の宝石」と規定したんだよ。
とりあえずそれなりに妥当性があるというだけの仮説だよ。
でも精霊との交流で、生存した証として残る「記憶の宝石」「命のしずくは」天界の宝物だと聞かされた。

投稿日時 - 2019-11-01 21:36:16

ANo.2

転生と霊は関連性がほとんどありません。
過去の人の記憶を受け継ぐ人が極稀にいる、過去の人が死んだ時に生まれた子供に記憶が移ると考えると、死と同時なら霊になっていない記憶の伝承、単なる超常現象と言う方が的を得ている。
死ぬ人→生まれる人です、霊になるとしたら死ぬ人→霊→生まれる人と段階が多くなる、人から霊になるのに多くのものを失う(強い思念だけが残る)と同じく、霊から人になるときは生まれるものに大きな犠牲をかけると言えます、死んだ人の霊と生まれた人の霊が共存することになるので、うまくいく可能性は極端に低くなります。
もし、転生があるなら、そうなるのではないかと思います。

投稿日時 - 2019-10-31 07:43:57

補足

参考でほかで記述したテキスト。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
え~とっ、
過去にお葬式の由来としきたりを中心に、生活に密着した仏教についての、わかりやすくまとめられた入門書を読んだことがあるんだ。
そこに座禅の解説もあって、ものは試しで入門書片手に試してみたら、それ手法の瞑想術は一発で成功したよ。
基本はヨガと一緒だね。
型を取ることで、その型を取った他者の特に死者と一体になる体験だよ。
一種の交霊術だが、要するに自我(仏性〉の範疇を拡大して、他者の仏性と交わる知覚拡張で自己の仏性を補強するんだ。
本来の自我規定を超越した他者の過去記憶の追想でもある。
そういうわけで座禅を組み、同じような瞑想をした者同士で一体化した体験を受け継いでいくのが僧職だよ。
私見だが、「無」から「空」へと仏典編纂時代にすでに題目が変容していた仏教だからシャカの記憶まで追想できるかどうかは、座禅の目的を「空」から「無」変更する必要がある。手法は「空」を本来の中心にしている。
お題目の中で、「真理の探究」というのは明治期に渡来した概念でしかなく、仏教にはそうした意味はない。
お題目とは宗教としての性質で、求心力を集めて宗門を束ねるためのものだ。
こうして受け継いでいく行為である座禅と瞑想は「輪廻」と同一の、生命存在についての「永遠」を悟る形となるだろう。
さて、キリスト教徒は聖霊(俗称 天使さま)を触媒にした型の交霊術でもあるんだ。
現代では世俗化がさらに進んで西洋で聖霊の主流は宇宙人様らしいね。
このようにイデア界の存在との間で、何らかの形で「観念認識補強手法」をとった上での交流なんだよ。
自身を丸ごと生きたまま観念に昇華することが解脱であり涅槃に入ることだ。

投稿日時 - 2019-11-01 21:24:34

お礼

ありがとうね。
実は出来上がったテキストと今までの考察から先に転生論の内容を検討するのはこれからだよ。

宗教という形態の本質はシャーマニズムの見地だと交霊術の様式だと判断してもいいだろう。
この交霊術には約束事やしきたりがあって、それをお菊逸脱した我流は問題が多いんだ。

補足文中の「そういうわけで座禅を組み、同じような瞑想をした者同士で一体化した体験を受け継いでいくのが僧職だよ。」こう言う形となるんだ。

投稿日時 - 2019-11-01 21:24:38

ANo.1

…で、

知りたい事は何?

投稿日時 - 2019-10-31 06:29:33

補足

えっと、
座禅で個人の記憶を追想する僧職の行いとは、誰か他者を受け継いでいく生命の継承であり、それ自体が肉体の再生を伴わなくても輪廻の一端だといえる。
内面的な自己の再生を意味しなくても、故人の記憶と一体になればいいんだ。
実際はその記憶は、記憶の宝石という概念を持ち出した通りに生存者は他者の記憶だと解釈するほうが妥当だ。
しかし観念として純化した自己の自我の形態では、それは自分自身でもある(自分自身を含む)という解釈になるだろう。
こうした禅問答的な難解さを理解しやすいように持ち出したのが「記憶の宝石」でもある。

投稿日時 - 2019-11-01 21:42:44

お礼

余白を作ってくれてありがとう。;
お駄賃上げるね。

投稿日時 - 2019-11-01 21:43:26

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