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戦争について(第二次世界大戦?)

私の祖父(他界)は戦時中、中国からロシアとシベリアを渡って帰ってきた日本兵だったと知りました。

この戦争についてどれくらいの激戦だったのかなど詳しく分かりやすく教えてください、日本兵の戦死者数も知りたいです。  

宜しくお願い致します。

投稿日時 - 2019-01-26 09:58:29

QNo.9581497

困ってます

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回答(8)

ANo.8

>この戦争についてどれくらいの激戦だったのか
この戦争というのをソ連との戦争としますと、ソ連と日本軍が戦闘状態に突入したのが極めて短期間だったことから戦闘らしい戦闘は行われませんでした。
むしろ敗戦直後に行われたシベリア抑留の方が悲惨な状態でした。
御質問で「中国からロシアとシベリアを渡って帰ってきた日本兵だった」とありますが恐らく日本側の意志でシベリアへ渡ったのではなくソ連軍によって抑留されておられたのかと思います。
極寒の地で劣悪な食糧事情のまま強制労働をさせられて次次と死んでいきました。
参考
5分でわかるシベリア抑留!過酷な労働内容や生活の様子、生存者など ...
http://honcierge.jp/articles/shelf_story/5829
抜粋
マイナス30度にもなる極寒地で、彼らは十分な食事を与えられず栄養失調に陥る者が続出しました。固い黒パンやわずかに塩味のついたお粥、スープなど粗末なもので、過酷な労働を強いられている人にとってはとても足りません。
1尾の魚を数人で分けたり、木の皮を煮て食べたり、時には食料の奪いあいも起こるなど、筆舌に尽くしがたい状況を体験した人も少なくなかったのだそうです。

このような物理的な過酷さだけではなく赤化教育というものが行われ抑留者に深い精神的な傷を負わせました。
参考
「奴隷のままでは死ねない」シベリア抑留後を闘い続けた男たち(栗原 ...
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50500

【戦後70年~昭和20年夏(6)】なぜシベリア抑留者は口を閉ざしたのか ...
http://www.sankei.com/premium/news/150811/prm1508110013-n1.html

尚このシベリア抑留というのは現在行われている北方領土返還問題にも影響を及ぼしています。
参考
【主張】北方領土交渉 「56年宣言」基礎は危うい 四島返還の原則を ...
http;//www.sankei.com/column/news/181116/clm1811160001-n1.html

投稿日時 - 2019-01-27 18:52:39

ANo.7

 私の父は独立重砲兵第五大隊で終戦時吉林省の阿城に居ました。士官は家族連れで赴任するような呑気な軍隊でした。父も大坂の学校を卒業後に徴兵され少尉に任官して新婚でいわゆる満州に渡りました。ソ連に備えるばかりで戦闘もなく、精鋭はすでに南方に引き抜かれて弱兵ばかりになっていたのか、中国人の子供から煙草と交換にミミズを手に入れて魚釣りをしたなどという思い出話を聞いています。母は現地で長男と長女を生みましたが敗戦で父が捕虜になり母だけ難民になった時に二児とも死にました。国境の虎頭要塞などは玉音放送後も独自の判断で先頭を継続してほとんど全滅したという例もありますが、父の部隊は戦闘を経験せずそのまま武装解除、国境を越えてコムソモリスク第十八収容所第六分所に収容されました。父の部隊は戦闘を経験せず栄養状態もよく統率も取れ、互いに助け合ってほとんど犠牲者が無かったと父の戦友会向けの手記に書いてあります。一方、父と大隊長がソ連の要請で1ヵ月出張した第三分所では東部国境方面の激戦を経験した寄せ集め兵士が収容されており、毎日作業隊の出て行った後に裸の屍体が積み重ねられていたと父の手記にはあります。つまりひとくちにシベリア抑留と言っても運命もまたさまざまだったという訳です。父は昭和24年10月に、あの有名な信濃丸でナホトカから舞鶴に復員しました。2010年8月になって、どういう意味かは知りませんが独立行政法人平和祈念事業特別基金という組織がシベリアに抑留されたことに対して父に35万円くれました。生存者にしか分配が無く、父はその9月3日に94歳で亡くなりましたからぎりぎりでした。独立行政法人平和祈念事業特別基金というのは詳しい名簿を持っていて誰がどこに何年いたかだいたい把握していると言っていました。

投稿日時 - 2019-01-26 17:09:50

ANo.6

第二次世界大戦
日本兵の戦死者数 2,120,000
ついでに
民間人 500,000~ 1,000,000
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%AE%E7%8A%A0%E7%89%B2%E8%80%85

第二次世界大戦に関しては多くの書物が発刊されています。
ネット上にも
とりあえず
YouTubeで
NHKのドキュメンタリー
https://www.youtube.com/watch?v=n0Q9eGpbz-A

https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%9
お薦め 映画
硫黄島からの手紙
https://www.youtube.com/watch?v=0x54bOTdJA0
父親たちの星条旗
https://www.youtube.com/watch?v=KKl9OSdO72s
サンダカン八番娼館_望郷
https://www.youtube.com/watch?v=oG1PLEFu0vY
火垂るの墓
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93+%E4%BA%88%E5%91%8A

ロシアで捕虜になっていたとしたらかなり悲惨な経験をされたようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99
悲しいことですが日本軍も捕虜に対し過酷な労働を強いていたようです。
http://www.powresearch.jp/jp/archive/camplist/

親父は戦争に関してあまり語りませんでしたが
「赤ん坊の泣き声が好きだ、戦場では子供の声は聞こえない、平和の証だ。」
と言っていました。

口を閉ざしていた戦争体験者も高齢になり語り始めていますね。

投稿日時 - 2019-01-26 12:07:37

ANo.5

日本は昭和初期に満州(中国東北部)を占領し、溥儀を皇帝にして傀儡政権を
作りました。
満州は日露戦争当時、日本軍がロシア軍を追撃して押しやった土地ですが
ポーツマス条約により戦争賠償金は得られず、荒涼とした痩せた土地だけ
が残った。ということです。
そして、ノモンハン事件が起こり革命後のソビエト連邦が機械化部隊を
投入して、歩兵中心の日本軍を蹴散らした。という経緯があります。
日本兵は残らず戦車の砲撃と銃撃で全滅。帰って来る者はいなかったそう
です。
そして、ソ連がモンゴルの一部占有権を主張し、日本は満州に留まって
日ソ不可侵条約が結ばれたのです。
そして、太平洋戦争が始まり、日本はアメリカ、イギリスに対する戦争に
躍起になっている最中、満州は民間人と陸軍の関東軍が占領することに
なったのです。民間人は地元の中国人を安い労働力として雇い、痩せた
土地に合わせた農作業で開拓していたのです。
しかし、太平洋戦争が日本の敗戦となり、満州の日本人は帰ってくること
になったのですが、ソ連がいきなり参戦してきて日本人狩りをしてくる
ようになりました。日本の軍人はシベリアへ民間人は捕らえて殺されるか
強姦されて荒野に捨てられていったのです。
それは、列車の中でも行われ、赤ん坊の鳴き声が聞こえると母親が引き離
されて強姦されるという無法なことが行われていました。
その時の関東軍の撤退は早かったそうです。一部の兵士が撤退戦を行った
そうですが、叶わずに殺されたか捕らえられシベリアに行かされた。
とあります。

撤退戦などは疲弊するだけで、負けているのに生き延びるための戦いです。
関東軍の司令部は「戦うな。逃げろ」という命令をしていたそうですが。

投稿日時 - 2019-01-26 11:35:42

ANo.4

お爺さんはおそらく満州(現在の中国東北部)に駐留していて、終戦後にソ連軍によってシベリアに抑留されていたと思われます。それについては後述します。

第二次世界大戦前から日本は中国と日中戦争を続けていましたから、日中戦争の犠牲者と第二次世界大戦の犠牲者を明確に区分けするのは困難です。また、人類史上稀に見る大変な犠牲を出した戦争でもあったので、関係者が亡くなったり資料が焼失したりしてほとんどの国では正確な数字は分からなくなっているという前提で読んでください。
第二次世界大戦で、日本は軍人が陸海軍合わせて212万人が戦死したとされています。空襲などによる民間人の犠牲者は50万~100万人規模で、合計300万人前後が亡くなったのではないかと推測されています。

ドイツは軍民合わせて900万人が犠牲になり、イギリスが45万人くらい、アメリカは40万人くらい(アメリカはほぼ全員が軍人の死者で、民間人はほとんどいません)、ロシア(当時のソ連)は少なくとも2000万人、多いと3000万人くらいではなかったかといわれています。中国は当時は国家の体をなしていなかったので実態が全く不明なのですが、おそらく1000万人から2000万人くらいが犠牲になったのではないかと推測されています。
自然災害と比較するものではありませんが、阪神淡路大震災が5000人、東日本大震災が約2万人の犠牲者だったことを思えば、どれだけ怖ろしいことであったかの想像ができるかと思います。ちなみにこの数字には医薬品が不足して病気が治らなくて死んだ人や、戦争による物資不足で栄養不足で死んだ子供なんかはカウントされていませんから、そういう関連死を含めると更にすごい数になります。

お爺さんがいたと思われる満州は、終戦直前の1945年8月にソ連が攻め込んで来たので戦闘による死者はあまりいませんでした。しかし武装解除された日本兵はソ連によってシベリアに送られ、そこで強制労働をさせられました。一体どれだけの日本兵や日本人がシベリアに送られたのかの実数は不明ですが、ロシア側の資料には70万人の名簿があるらしいので少なくとも70万人以上ではあるようです。そして確認が取れている犠牲者は約34万人といいますから、乱暴にいえば2人に1人は死んだであろうということが分かります。実際は抑留された人はもっと多かったと思われるので、3人か4人に1人が死ぬという感じだったでしょうか。
しかしどちらにしても3人に1人は死ぬのだとしたらとんでもない死亡率なわけで、お爺さんがどれだけ地獄を見てきたのかということが想像できます。それはそれは想像を絶するものであったと思われます。お爺さんは生前そのことを話すことはほとんどなかったでしょうが、それは思い出すのもつらいことだったでしょう。

お爺さんは戦争中は何歳だったでしょうか。おそらくは二十歳前後くらいではなかったかと思います。人生においてもっとも楽しい時代であるはずのその年齢のときに、シベリアの過酷な強制労働をさせられていたと思うと、お爺さんの青春は丸ごと戦争に奪われたことが分かるかなと思います。

投稿日時 - 2019-01-26 11:35:33

ANo.3

戦死者は約300万人(80万人が民間)と
言われています。

終戦に伴い、
軍人は
中国から100万人
ソ連、アジアから100万人

民間人は
満州から100万人
中国、朝鮮、台湾、樺太等から200万人

が引き揚げました。
特にソ連占領地区からが悲惨とのこと(満州や
北朝鮮)。

まずソ連関係をしらべたらどうでしょうか。

投稿日時 - 2019-01-26 11:23:52

ANo.2

ソ連が参戦してきたときは、既に日本の敗戦は時間の問題になっていて、ほとんど抵抗はできませんでした。戦死者の数も把握できていないでしょうね。

投稿日時 - 2019-01-26 10:22:39

ANo.1

   こんにちは
  自分の父は中国だった。そうです。
 馬の飼育を担当していたと聞いたことがあります。
   参考まで

投稿日時 - 2019-01-26 10:02:02

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