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解決済みの質問

神のことばと、そうでないことばの違いは何か?

聖書に詳しい方への質問です。
一般的に聖書に書かれている記述のみが神のことばと認識されていると思いますが、
自分はこれについて疑問に思っています。なぜならば、ヨハネの福音書の最初にもあるように、ことばは万物の始まりであり、これに基づけば私達が普段使っていることばも神に由来すると言え、ことばは全て神のことばになるとも考えられるからです。
また普通のことばが神のことばとなる転機は、ちょうどキリストを信じるように、信仰による神との聖約によって完成するのではないかと推測しています。ですから傍から見て神のことばと思えないものも、信じる者の信仰によって実質的には神のことばとなるのではないかと。すなわち神のことばと、そうでないことばの違いは信仰だと言えるのです。どうでしょうか?
ちなみに自分は、聖書に書かれている御言葉は全て真実と信じる、いわゆる福音主義に立つクリスチャンです。また主の導きにより、現代でも特定の人物に対して神のことばを与える、いわゆる預言があるとも信じています。ですからここで書いていることばも、自分ではなく神の導きによる預言だと信じています。こういう訳で、自分の行っていることは、単に主の考えを反映している以上、第二ペテロの手紙1章20節で記されている、人による聖書預言への私的解釈には該当しないとも思っています。

投稿日時 - 2018-09-21 20:15:57

QNo.9539579

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

三度、失礼します。
>完全に相互理解するのは難しいとは思います
いや、「思考」してはいけません
何故なら「霊の言葉」なので支離滅裂なのは当然です
「感じて」受け取るのです!
それに、自分たち人間の思考は神と似て非なるものですから
理解できないのは当然ですよ。

色々書きましたが、
結局は「自分の出来る範囲は限られている」から
その中で考え、感じ、進めばいいだけです
何故なら主もイエス・キリストも
慈悲深いお方なのですからね。

ちなみに自分は愛知県は岡崎市の
JR岡崎駅の東から一番近い教会へ行っております
ま、別にこの世では会えないかもですが
いずれかは神の国で会えるかもしれませんね。

それとこちらの教団に興味があれば
覗いていただけたら幸いです。↓
シャローム!

参考URL:http://www.ag-j.org/index.jsp

投稿日時 - 2018-09-22 08:25:09

ANo.4

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回答(5)

ANo.5

 No.1です。

 ★ まず一つ確認したいのですが、bragelonneさんはどういった信仰をお持ちなのでしょうか?
 ☆ 12. 確かにこのカテが 哲学から哲学・倫理・宗教学 へと変わったことを失念していました。
 つまり 個人の信仰をそのまま主題としてやり取りしても自由であるとなった。・・・かも知れない。
 ――とすれば もうあまりお話することもないわけです。

 13. ただし 宗教《学》なんですよね。学問の立ち場つまりけっきょく哲学という経験科学の立ち場での質疑応答であり続けている。とは 考えます。

 14. そして 質問者さんも:
 ★ 聖書に詳しい方への質問です。
 ☆ と明記しています。信仰いかんが 回答するにあたっての条件となっているとは捉えられません。

 15. ということで いま少し一回答者としてつづります。




 ★ 神のことばを主観と言えばそれまでですが、それが信仰の本質的な部分なのです。
 ☆ 16. 要は その《信仰の本質的な部分》について 宗教学ないし哲学として問い求めている。という姿勢であり そういう前提なのだと考えます。違いますか?

 17. つまり ご自分の信仰のあり方やその内容に合った見解をのみ 回答として寄せて欲しい・・・というのではないでしょうね。



 ★ また《言葉(ロゴス)》についてですが、専門家の間ではこの表現は元々ヘブライ語からギリシア語に翻訳されたものだという説が有力です。・・・最初は福音書もヘブライ語で書かれ、当時イスラエルはローマ帝国の支配下にありギリシア語が公用語だったことから、世界宣教のためにギリシア語へ翻訳されたと思えます。
 調べてみると、前から世界中の研究者が多数この説を唱えていたようです。
 ☆ 18. そのことが妥当な史実であったとしてもそれによって 人間の用いる言葉が ただちに・誰にとっても 神の言葉となる(その結果 言葉はすべて 神の言葉である)ということにはなりません。
 哲学としての論証が必要です。




 ★ つまり今は神の言葉ではないものが信仰によって神の言葉になるということを意味しているのです。
 ☆ 19. そのことは互いに確認したはずです。
 ☆☆ ~~~~~~~~~
 2. 違いがあるというのは 聖書記者なる人間が表現した言葉を 神の言葉であると見なしたという意味です。

 3. 見なした〔ことを受け容れる〕人は:
 ★ 傍から見て神のことばと思えないものも、信じる者の信仰によって実質的には神のことばとなるのではないかと。
 ☆ いうふうに捉えているのでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~



 ★ それから預言が洗礼者ヨハネで終わっているとのことですが、現代においても聖書を完全に理解し宣べ伝えることができるのは主イエス・キリストだけである以上、今でも預言者が正確に預言し伝道することは必要ではないかと思っています。
 ☆ 20. イエスが十字架じょうに去ったあと まづイエス・キリストのことを伝えるという《宣教というおろかな手段》は必要であったでしょうが キリストの名が世界にゆきわたったなら もう《布教・伝道》は要らなくなります。
 ▲ (ヘブル書8章←エレミヤ書31:31以降の《あたらしい契約》) ~~~
 8:11 彼らは、それぞれ、その同胞に、
 また、それぞれ、その兄弟に、

 ≫主を知れ、と言って教えることはなくなる。≪

 なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、
 彼らはことごとく、
 わたしを知るようになるからである。(=エレミヤ書31:34)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そして キリスト・イエスの登場のあとは:
 ▲ (パウロ:ガラテア書 3:28) ユダヤ人もギリシャ人もなく
 ☆ なります。
 

投稿日時 - 2018-09-22 12:20:54

お礼

bragelonneさん、度々ご丁寧にコメント有難うございます。
どれも非常に貴重な意見ではありますが、内容が多岐にわたるため、こちらからは再びある程度に要約して返答します。

まず確認として、bragelonneさんのように異なる信仰観を持つ方のご意見は大変歓迎しています。これを投稿したのも、聖書を基にした多様な意見を募ることが主な目的だったので、そう言う意味でもこの成果は大きいです。
加えて、キリスト信仰を持っていない方とでは改めて大きな隔たりを覚えました。これはもちろんどちらが良いとかいう問題ではなく、同じものを見ても考え方が違うという事実があるだけの話です。

それから哲学としての論証の必要性を指摘されていましたが、科学の普遍性と同様に、それはおそらく不可能だろうと思います。なぜならキリスト教は、信仰に基づいているからです。つまりキリスト信仰があることを前提にしなければ、何も話は進まないと言えるのです。個人的にはbragelonneさんがいつの日か信仰を持たれることを願っています。

預言と伝道に関するご意見も、了解しました。是非とも今後の参考にしたいと思います。

投稿日時 - 2018-09-22 19:21:10

ANo.3

度々、失礼します。
>すなわち今も預言者が聖書に記されている言葉以外のことばも用いなければ、伝道は完成しないのではないでしょうか?

それはその通りです。
何故にそれが言えるかと言えば
自分はまだ伝道者とかではありませんが
母親の家系が牧師だったので
自分自身も興味がありその道を考えていますが
大型の礼拝のメッセージや
デボーション(朝、起きて礼拝する事)の
参考書などで語られる事は
「現代に合った伝道方法で伝えなければならない」
と言われてます。

前にも書いたように
「主からの言葉」は平たく言えば「伝道」です、
(単に伝道だけでなく、その中に「愛」もあり
「忍耐」もあり「教え」もあり
当然「真理」も含まります)
それ以外は「神の言葉」ではありません。

それとエルサレムのオリーブ山に行けたり
教会へ導かれたりと霊的体験をしたのは
主が貴方を見ておられまさに
「天からのプレゼント」だと感じます、
自分にもはっきりとわかる霊的体験をしてますが
ネットでの書き込みだと
誤解を生む可能性があるし
「証し」に近いのでリアルで合えれば
一部始終をお話ししたいので
ここでは割愛させてください。

それと一番危ないのは
「神の言葉として言うと思って論争する行為そのもの」
です。
つまり、伝道から話しがズレて
論争したり、世間話しをしたり、
フィクションを混ぜたりとかですかね
あまり批判はしたくないですが
質問者さんがこの質問の最初の回答者に対して
お礼をしないのは恐らく
「単に論争だけで終わらせたくない」
からでしょう
そう言う意味からは質問者さんの
想いは正しいと言えます。

最後に
>「聖書を正しく理解し、それを正しく他人に伝える」についてですが、私はそれは人間にはできないと思っています。
言いたい事は理解出来ます
なぜなら、聖書は一種の「伝言ゲーム」の
ようなものですから
伝言ゲームの性質は最初と最後の人の内容が
違う事になりますし、
今の聖書が何故あるのか?と言えば
自分が知っている限りですが
写本(他の本の内容を書き写す事)の数が多い章を
今の正典し聖書としてあり
写本が少ない章を外典としてます
さらには翻訳なども当然しますから
内容は変わっていて当然なのですけど
自分から言わせれば「聖書」は「未完の書」であり
同時に「完成された書」なので
うまくは言えませんが
まあ、エジソンが言っていた
「発明は99%の努力と1%の閃き」のように
人間や自分たちの考えも混ざって
相手に伝えるようなものですけど
逆に「人の言葉も混ざって」でそれで良いのですよ!

さらに余談ですがこの世に物質でも心のありようでも
リアルに「100%」とか「完全」は存在はしてません、
だからこそ、自分たちは完全な神(主)を求めるのです。

講釈は色々言いましたが
まずは主を慕い求めましょう!
God Bless You!

投稿日時 - 2018-09-22 06:46:51

お礼

heyboyさん、度々ご丁寧にありがとうございます。
諸々のコメント了解しました。完全に相互理解するのは難しいとは思いますが、もし主の導きがあれば、どこかでお会いしてお話できるといいですね。基本的に私は現在岡山にいます。また所用で東京などにも時折います。
God Bless You too!

投稿日時 - 2018-09-22 07:08:38

ANo.2

自分はこう思っています。
「言葉」はプロトコルでしかありません
(伝えるだけの方法と言う意味ですが)
ただ、言葉には「真意」と言うのが
あってその真意が主に照らして
合っているか?と言うことでしょう。

それと、聖書の「信仰」とは
イエス・キリストが
リアルに復活したのだ!と
信じきることです!
他の論理付けな信仰は
すべて偽物ですよ。

エレミヤ23章25節~28節には
こう書かれています。

25 「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た。』と言ったのを、わたしは聞いた。

26 いつまで偽りの預言が、あの預言者たちの心にあるのだろうか。いつまで欺きの預言が、彼らの心にあるのだろうか。

27 彼らの先祖がバアルのためにわたしの名を忘れたように、彼らはおのおの自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、たくらんでいるのだろうか。

28 夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。主の御告げ。

自分は何を言いたいかと言えば
「自分は預言者だ」と
質問であってもへたに
言うべきではありません、
自分は主にあって少しばかり
知性はあるかもしれませんが、
主からの声は全然聞こえません!
せめて主との霊的な触れ合いが
あれば、「預言者」と名乗れる
でしょうけど、
そう言う人はクリスチャン生活48年間で
約一人名しか確認しておりません。
(そのような人に会えた自分も
本当の意味でラッキーなのですが。)

閑話休題

問いの答えは簡単です。
「聖書を正しく理解し、
それを正しく他人に伝える」
まさにそれですね、
言葉すると簡単に思えますが
本当に実行するとなると
かなり大変ですよ。
(自分はそれをしようと
修行の身ですがね。)

投稿日時 - 2018-09-22 00:26:10

お礼

heyboyさん、早速お返事ありがとうございます。いただいたコメントについて補足も兼ねて返答しますと、まず私が述べた信仰と言うのは伝統的に聖書で言う信仰とはある種に異なり、新たな定義が必要ではないかと思っています。確かに仰るように本来信仰とは、主イエス・キリストを真に信じることです。それで自分が述べた信仰とは、ある種に主から派生した聖霊のように捉えています。つまり三位一体を真実とするならば、従来示された信仰とは若干に位置付けは違うものの、本質的には同じなのではないかと。

次に預言についてですが、確かに安易に預言者と名乗るべきではないと私も基本的に思います。ただ私の場合最近になって私に洗礼を授けた宣教師の方からそのように言われたので、前々からその傾向があったこともあり、今はかなりの確信を抱いているのです。話が少し長くなりますが、例えば信仰初期の段階で、私はある日突然に教会へ行き始めました。なぜかと言えば、主からの御言葉が私に下り、そう導かれたからです。今になってもなぜ自分がクリスチャンになったのか、自分でもよくわかりません。またある時にはイスラエルへ行くようにとのお告げが下り、実際に行きました。そして主に導かれて、エルサレム・オリーブ山中のイエス様が昇天されたと言われる場所のすぐそばで数ヶ月間過ごしました。このようなことは預言でもなければ、起こりえないのではないでしょうか?

それから「聖書を正しく理解し、それを正しく他人に伝える」についてですが、私はそれは人間にはできないと思っています。なぜならば、それが完全にできるのは主イエス・キリストのみと最初から定められているからです。だからこそ伝道をする際にも、必ず主の導きや預言が必要なのだと思います。つまりこれは、現代においても主の預言を正確に伝える預言者の必要性を示しているのではないかと。すなわち今も預言者が聖書に記されている言葉以外のことばも用いなければ、伝道は完成しないのではないでしょうか?

投稿日時 - 2018-09-22 05:42:40

ANo.1

 こんにちは。

 ★ 神のことばと、そうでないことばの違いは何か?
 ☆ 1. ありません。すべて 人間の語る人間の言葉があるだけです。

 2. 違いがあるというのは 聖書記者なる人間が表現した言葉を 神の言葉であると見なしたという意味です。

 3. 見なした〔ことを受け容れる〕人は:
 ★ 傍から見て神のことばと思えないものも、信じる者の信仰によって実質的には神のことばとなるのではないかと。
 ☆ いうふうに捉えているのでしょう。

 4. ただし:
 ★ すなわち神のことばと、そうでないことばの違いは信仰だと言えるのです。
 ☆ という捉え方が 普遍的に妥当であるかどうかは 分かりません。言い切れません。言い切れたとするのなら すでに《神の言葉》を《人間のふつうの言葉》と――誰が見ても例外なく普遍的に――つねに見分けることが出来る。となります。

 5. つまり 信仰は――信教・良心の自由にもとづき 自由なのですが―― その内容がそのまま人びとのみとめるところと成るとは限りません。




 ★ ヨハネの福音書の最初にもあるように、ことばは万物の始まりであり、
 ☆ 6. この場合の《言葉(ロゴス)》は 神を指し示すためのひとつのシルシです。それだけとして用いられているものと考えられます。

 7. さもなければ 確かに:
 ★ これに基づけば私達が普段使っていることばも神に由来すると言え、ことばは全て神のことばになるとも考えられる 
 ☆ となります。つまり そうなってはおかしいわけです。(言葉はすべて神の言葉であるとなってしまう)。


 ★ また普通のことばが神のことばとなる転機は、ちょうどキリストを信じるように、信仰による神との聖約によって完成するのではないかと推測しています。
 ☆ 8. 複雑に考える必要はないと思います。つまり (2)および(3)に見たように 信仰によっており 信仰としての或るひとりの主観の内において そのことが起きます。

 9. エレミヤ書31:31以降に記された《あたらしい契約》にあっては――そのくだりは 新約でヘブル書(8章)に再掲されています―― すでに《人びとの罪は 神のおぼえるところではなくなり すでに主を知れといっておしえることもなくなる》のですから 律法としての契約といったかたちを採ることはないと思われます。

 ★ また主の導きにより、現代でも特定の人物に対して神のことばを与える、いわゆる預言があるとも信じています。
 ☆ 10. これは わたしの主観ですが〔と特にことわって述べますが〕 すでに預言者は 洗礼者ヨハネで終えられていると思いますし パウロによれば――意味の分からない《異言》を話すよりは―― 聖書の文句の解釈としての《預言》をおこなうことが勧められています。つまり 預言は 別の意味になっていると思います。

 11. これも イエス・キリストが登場したというあたらしい時代における捉え方だとは思います。

投稿日時 - 2018-09-21 21:09:37

お礼

bragelonneさん、お返事ありがとうございます。

まず一つ確認したいのですが、bragelonneさんはどういった信仰をお持ちなのでしょうか?文章を読んだ限りでは、キリスト信仰を持たない聖書研究者のように見受けられました。それはそれで私は全く構いませんが、もしそうだとすると大前提から立ち位置が違うので、相互理解は非常に難しいのではないかと考慮しています。

確かに仰るように、キリスト者でなければ神のことばがあるということ自体も受け入れがたいでしょう。また聖域の問題について科学で言うような普遍性を適応させることにも無理があると思います。神のことばを主観と言えばそれまでですが、それが信仰の本質的な部分なのです。

また《言葉(ロゴス)》についてですが、専門家の間ではこの表現は元々ヘブライ語からギリシア語に翻訳されたものだという説が有力です。ですから本来、別の意味で記された可能性が高いです。一般的に新約聖書は原文がギリシア語で記されたと言うのが定説ですが、作者のヨハネがヘブライ語を母国語とするユダヤ人であった事実等を考慮すると、最初は福音書もヘブライ語で書かれ、当時イスラエルはローマ帝国の支配下にありギリシア語が公用語だったことから、世界宣教のためにギリシア語へ翻訳されたと思えます。
調べてみると、前から世界中の研究者が多数この説を唱えていたようです。

次に言葉はすべて神の言葉であるという点についてですが、そうではなく「言葉はすべて神の言葉になる」です。つまり今は神の言葉ではないものが信仰によって神の言葉になるということを意味しているのです。ヨハネの福音書で初めにことばがあったとあるので、すべての言葉が神から来ており、信仰によってそれらが神の言葉として完成すると信じています。またこれは律法としての形式ではない、新約を意味しています。

それから預言が洗礼者ヨハネで終わっているとのことですが、現代においても聖書を完全に理解し宣べ伝えることができるのは主イエス・キリストだけである以上、今でも預言者が正確に預言し伝道することは必要ではないかと思っています。

以上でひとまず、いただいたコメントへの要約した返答です。内容がかなり多岐にわたるので、必要があればまた別途に改めてお答えします。

投稿日時 - 2018-09-22 06:49:34

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