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両墓制についての質問

江戸時代は参り墓と埋め墓の二ヶ所にお墓があったそうですが、もしそうですと武士ではないのですか?
私の先祖のもので一つある江戸中期の光明真言供養塔は文字が読め名前もはっきりわかるのですが
お墓6体(内3体のお墓は、分家との借財トラブルで分家の墓石の土台になっている)
あるお墓は文字が元々書いてなかったのか、わかりませんが、文字が消えた状態で読めないです
6体のお墓は参り墓であって、土地没収のため3体のお墓を墓石の土台にしたんじゃないかと、言われました
両墓制は基本的に庶民がやってたらしいです
いい伝えで先祖は郷士の下級武士です
だけどお墓が二ヶ所に別れてるって聞いたことないですが、昔の庶民はみんなやってたのですか?
因みに茨城の真言宗です

投稿日時 - 2018-08-11 16:47:31

QNo.9526648

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質問者が選んだベストアンサー

>江戸時代は参り墓と埋め墓の二ヶ所にお墓があったそうですが、もしそうですと武士ではないのですか?
「両墓制」という言葉は民族学者の柳田邦男が使い始めたものですが、形態は古くからありました。
平安時代の藤原道長が書いた御堂関白日記に、親の遺体が埋められている場所を探したが分からなかったと書かれています。
現在の鎌倉へ行かれると道端に五輪塔をよく見かけますが遺体を埋めた形跡がないことから詣り墓ではないかと言われています。
真言宗の高野山には小田家など大名家のお墓が数多くあり、また石五輪塔と呼ばれる石に線彫りしただけのものが無数に置かれています。あきらかに庶民が奉納したものです。
高野山では現在も受け付けています。
つまり両墓制は江戸時代に限られたものではなかったということです。
「詣り墓と埋め墓の二ヶ所にお墓があった」と言うことだけでは身分はハッキリしません。

>昔の庶民はみんなやってたのですか?
一人の人についてお墓が二か所あるという習慣は全国的にあります。
身分との関係はハッキリしません。

本来は土葬が前提となっていましたが火葬が義務付けられた現代でも近畿地方を中心として残っています。
関東地方では旧武蔵国の埼玉県の新座市に残っています。
茨城県内に残っているかどうかは知りません。
現在ご先祖さまのお墓があるお寺には残っていませんでしょうか。
又分家がおありのようですが分家にはありますでしょうか。

>私の先祖のもので一つある江戸中期の光明真言供養塔は文字が読め名前もはっきりわかるのですが
以前「供養塔」というタイトルでご質問されたものでしょうか。

>6体のお墓は参り墓であって、
以前「江戸時代中期頃、建てられた供養塔」というタイトルでご質問されたものでしょうか
更に以前のご質問で供養塔はお寺の入口の近くにあるとのことですがこの供養塔と6体のお墓とはどのような位置関係でしょうか。
土浦藩は当初2万石だったのが江戸末期には9万5千石まで領地を広げています。
これにともない城下町も拡大していったと考えられます。
お寺というものは建物が広いことから城下町の防塁として城下町の境界付近に建てられました。
従って城下町が拡充されるに従って移転させられていました。
ご先祖の供養塔がお寺の入口近くにあるということはお墓より古い供養塔だけが移設された可能性が考えられます。

>いい伝えで先祖は郷士の下級武士です
以前「武士の収入についてという」タイトルでご質問されたなかに「ご先祖は筑波で土浦藩領内郷士(江戸時代全期郷士)でした」とありましたがこのご先祖と同じでしょうか。

冒頭の武士かどうかというご質問にも関わってきますが、土浦藩のある常陸国というのは親王任国であったこともあり極めて特殊な国でした。
戦国時代に実力本位でのし上がってきた大名などと違う源平所縁の豪族が多数土着していました。
この名門の豪族のなかから頭角を現した佐竹氏が統治していましたが、名門豪族を家臣とせずに郷士としました。
隣接する水戸徳川家も極めて特殊な大名でした。
将軍継承権を持ち参勤交代の義務も無く、江戸常駐を義務付けられていました。
この水戸徳川家は統治に当たって佐竹氏が定めた郷士制度をそのまま継承しました。
結果として水戸徳川家の郷士は武士と同格に扱われていました。
他の大名領の郷士とは根本的に違っていました。
つまり常陸国に関しては一般論は通用しないということです。

投稿日時 - 2018-08-12 19:14:57

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回答(4)

ANo.3

>江戸時代は参り墓と埋め墓の二ヶ所にお墓があったそうです

今でも、瀬戸内海地域では残っていますよ。

>もしそうですと武士ではないのですか?

武士か否かは、関係ありません。
あくまで、その地域の風習です。
仏壇でも、同じ宗派でも地域によって仏壇内の飾りが異なりますからね。

>6体のお墓は参り墓であって、土地没収のため3体のお墓を墓石の土台にしたんじゃないか

通常、死体を埋める墓(捨墓・土饅頭)と拝み(参り)墓がありますよね。
死体が土に返ると、土饅頭が平地になる。
この時点で、拝み墓(墓石)に戒名・法名を刻む。
地域によって異なりますが、たぶん大きくは変わらないと推測します。

>いい伝えで先祖は郷士の下級武士です

と言う事は、郷士ですね。
郷士は、庶民と武士の中間層です。
中間層と言っても、自らの収入を自ら確保する必要があります。
藩士から見ると、郷士は武士ではありません。

>昔の庶民はみんなやってたのですか?

土葬の風習がある地域では、身分に関係なく両墓制が一般的でした。
江戸時代でも、木製の丸桶に遺体を入れて埋葬していましたよ。
余談ですが・・・。
天皇家は、今でも土葬ですよね。
今上(平成)天皇は「火葬を望む」と発言していますがね。
昭和天皇までは、土葬でした。
将軍家も、土葬です。
土葬の上に、石で土台を造って墓石を建てています。
この点でも、身分に関係なく土葬が一般的だった事が分かりますよね。
庶民とか力の無い者は、故人毎に墓を建てる事が出来ないなどの理由で「両墓制」が誕生した様です。
おまけ。
古代出雲地方では、風葬・水葬が一般的でした。
ですから、古墳が少ないのです。^^;

投稿日時 - 2018-08-11 22:41:53

ANo.2

うちも参り墓と土葬用の墓がありました。
江戸時代ではなく、30年ほど前までは土葬になっていましたから。
今は全員火葬になっていますが今だに土葬用の墓の掃除もやっています。

投稿日時 - 2018-08-11 17:40:01

ANo.1

 
我が家の実家もそうでした。
土葬用の墓地と墓碑を立てる墓地とがあります。
土葬用の墓地は何も区分されてない更地のような区画で、土葬するときは適当に穴を掘り埋めたそうです(祖母からの言い伝えです)
そして、別の場所に各故人の墓碑を建ててました。
身分とかは関係なく、町内会の人すべてが同等に扱われてたようですよ。
関西の真言宗ですが、たぶん、宗派に関係なく同じように行われてたようです。
 

投稿日時 - 2018-08-11 16:56:06

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