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ニーチェの「永遠回帰」とは?

ニーチェはスイスの保養地、シルスマーリアの近郊の山々を散策している時、突然、人類と地上を遥か超える3000フィート!と叫んで「永遠回帰の思想」を懐胎した、と、「悦ばしき知識」の中で言っています。
「永遠回帰の思想」はニーチェにとって、キリスト教の「福音」に代わる、新しい「福音」でした。
どういう意味で、それが「福音」なのかといえば、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学に代わって、自分の「力への意志」が、これからの哲学でなければならない、と言ったものでした。
ニーチェは言っています、存在に対して生成の優位を唱えること、それが「力への意志」であると。
存在に対して生成の優位を唱えることは、アリストテレスの目的論と、キリスト教の終末論に対して、古代ギリシャの円環的な時間の考えを対抗させること。
直線的な時間の考えに対して、円環的な時間の考えを対抗させること。
時間が直線的と言ったのは、キリスト教とその終末論です。
最後の審判に向かって、時間は直線的に進行する、という。
アリストテレスの目的論も、有機体をモデルに、歴史には、その目的がある、という。
ニーチェは、このアリストテレスとキリスト教の「目的論」を否定するために「永遠回帰」の思想を唱えました。
すでに、ニーチェの前のショーペンハウワーは、世界の根源は「生きんとする意志」で、「生きんとする意志」は目的を持たない、盲目である、と言っていました。
だから人間が救われるためには、この「生きんとする意志」を否定しなければならない、と言っていました。
ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。
それはこれまでの、最高価値であったキリスト教の価値観、人類は終末に向かって、最後の審判で人々が天国に迎えられるために、人生は意味のあるものでなければならないと言ったことへの否定でもありました。
ニーチェはそのようなキリスト教の価値観を「ニヒリズム」と言って、断罪します。
それは存在を優位に考える思想であり、それは「ニヒリズム」である、と。
(この場合「ニヒリズム」とは日本で「虚無主義」と訳しているのとは逆の「存在主義」という意味で)
ニーチェはキリスト教のみならず、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学は「ニヒリズム」であり、西洋の哲学の歴史は「ニヒリズムの歴史」であり、キリスト教は「ニヒリズムの宗教」と言って断罪します。
彼らは、存在だけを論じ、無を無視してきた、それが西洋の哲学の歴史であり、キリスト教なのだ、と。
この「存在を無視する」というのが「ニヒリズム」です。
事実、西欧世界に仏教の「無の思想」が知られたのは、19世紀の半ばでした。
それを知って西欧の人々はびっくりし、そして畏怖しました。
「なんと、東洋には無を唱える宗教がある!」というわけです。
ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。
天に超越的な存在としての神があり、地上に私たちの世界がある、そして天の世界こそ、ホンモノの世界であり、地上の世界はニセモノの世界とキリスト教は言ってきましたが、その「二元論」、有と無の対立を否定し、生成の世界を対抗させなければならない、とニーチェは言います。
ニーチェの「同一物の永遠回帰」を、無が回帰する、無意味が繰り返す、と解釈する人がいますが、それは誤解です。
「存在に対して生成へ!」を唱えるものです。
直線的な時間に、円環的な時間を対置することです。
直線的な時間はキリスト教の終末論と、アリストテレスの目的論につながり、歴史の「進歩発展」につながりますが、ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。
そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。
目的よりも「力へ!」です。
それこそが、ニーチェにとって、「永遠回帰」の思想が、新しい「福音」であるゆえんです。

どうですか?

投稿日時 - 2016-09-10 20:57:35

QNo.9227249

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

 論点ごとに問い返すかたちになります。

 
 ★ ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 / そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。
 ☆ 1. 《目的》を持つのか 持たないのか?

 2. 《力への意志》の《強化と増大》とは いったい何を言うのか?

 3. 人間にとって猿を超えた人間にたとえられる《超人》は 或る種の《目的》ではないのか?

 4. 超人への《生成》とは 《直線的な時間における目的論》ではないのか?

 5. あるいは けっきょくむしろプラトンの《イデア》理論=かつ宗教――つまり それとして目的論――と同工異曲ではないのか?

 
 ★ ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。
 ☆ 6. ショーペンハウアーの《世界の根源としての「生きんとする意志」》は 人間およびこの経験世界を超えているのではないか? 

 7. つまりこの《意志》は 人間が肯定する・否定するという《人間の理解およびその意志》にはなじまないはずだ。つまり ニーチェの捉え方は ショーペンハウアーを出すならそれはお門違いだ。


 ★ ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。
 ☆ 8. 《神、すなわち超越的な存在》と言っても もしそれが《生きていた そして 死んだ(あるいは 人間が殺した)》と言うのなら やはりプラトン流の観念論における神(物自体ないし世界精神)のことでしかない。それでは 経験世界を超えたという《超越的な存在》でも何でもない。

 8. あたまの中で観念としてこの世界を超えた存在をつくり それをいじくっているに過ぎない。

 9. 多くの人間が――たとえば先ほどのショーペンハウアーとは違って―― 神をただの概念として しばしば持て余しつつ 弄んでいたに過ぎず ニーチェがその例に漏れるということはない。

 10. 神はいやしくも神であるなら 人間に《死んだ》と言われようが《死ね》と言われようが 痛くも痒くもない。

 11. その神と人間との関係は 終末論という物語をつうじても人間によって語られたが 問題は 《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 《未来でも過去でもなく しかもそれらをあたかも収めるところの〈永遠の現在〉》だということは アウグスティヌス以来 相場が決まっている。

 12. 《永遠の現在》は神学っぽいから 言いかえれば 現実存在のことです。実存志向 これが《直線的な時間観と円環的な時間観》を包括し 《イデア説から自由で 生成説を包み入れるかたち》である。


 
 ★ 永劫回帰
 ☆ 13. というのは――その思想としての可能性を好意的に解釈するのならば―― 《観念の神と そして普遍神としての(非知なる)神とは違う》ということに人はつねに機会あるごとに 突き当たる。はずだ。そこでしかるべき道をえらべと言っている。

 14. あるいは言いかえるなら 《あたまの中のオシヘとしての神(キリスト教)と 個人としてのわれにとって固有の時であり非思考の庭なる神(キリスト信仰)とは 月とスッポンとの違いがある》という《なんならチカラへの意志》に遭遇する。何度でもその機会はやって来ると言っている。



 こんな感じでしょうか。

投稿日時 - 2016-09-13 06:47:10

補足

ありがとうございます。

あなたからの回答を読ませていただきましたが、その前半はともかく、後半は私にはまったく意味不明でした。
読解力がないせいで、私の不明のなすところです。

投稿日時 - 2016-09-13 11:28:19

お礼

なお、申し添えますが、あなたの回答に対し、補足回答しようとしましたが、OKウェイブの担当者から、注意喚起があり、すべて削除されました。
だから、これ以上の返信ができません。
ご了承ください。

投稿日時 - 2016-09-13 13:34:21

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