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江戸時代の文化発展

江戸時代の文化発展

高校で世界史を今学んでいるのですが、世界史の先生が「江戸時代なんて鎖国して引きこもってたどうしようもない日本と比べて18世紀の西欧は~~だった」みたいな事をよくおっしゃってるのですが、
私は日本史の鎌倉時代以降は中学生程度の知識しか無いですが(鎌倉あたりまでは必修でそれ以降は世界史と日本史に分かれたので。)日本が明治維新を成功させたのも、文化だのインフラだの、日本という国の基盤、その後の発展の土台を江戸時代にしっかり築き上げてたからだと認識して、江戸時代は評価されるべき時代だと思っており、先生の意見とは相対しているのですが、皆さんはどう思いますか?
意見をお待ちしております。

投稿日時 - 2015-10-16 17:51:30

QNo.9064935

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

>江戸時代なんて鎖国して引きこもってたどうしようもない日本
どこの大学で世界史を学んだ先生かは存じ上げませんが、日本は鎖国していた訳ではありません。
李朝朝鮮や明、清と混同されています。
歴史学といいますか、言葉の定義上「鎖国」というのはどの範囲を指すのかという問題はあります。
どうしようもないと言われるのは、まぁ~自虐史観の延長線上の発想でしょう。

江戸時代を通じて、オランダは商館(領事館)を設置していました。
一時期オランダという国が消滅した時期がありましたが、その間もオランダ国旗が掲揚されていたのが日本です。
国の再興を信じた館長が頑張り通しそれを保護していました。
この間に館長が作った蘭日辞典が今日も古い日本語を知る上での貴重な資料となっています。
江戸幕府は、オランダ風説書と呼ばれる定期的な報告書でヨーロッパの情勢は当時としては極めて正確に入手していました。
ナポレオン戦争も全て承知していました。
中国船も本国では密貿易扱いでしたが長崎では自由に交易していました。
漢方藥の原料の大半は輸入品でした。
江戸には風説書を提出するために江戸へやってきたオランダ人が宿泊する専用の屋敷もありました。
石町の鐘は阿蘭陀まで聞こえ
石町の鐘は紅毛まで聞こえ
などという川柳もありました。
(石町というのは神田の一画にあり、時の鐘が鳴らされていました)
人々の渡航を禁止し、これ等の情報や交易を幕府が独占して秘匿していただけです。

杉田玄白が著した蘭学事始でもお分かりの通り、医学を志す全国の若者はオランダを通じて西欧の最新の医術を学んでいました。
外科手術が必要な場合には蘭方医として活躍していました。
秋田蘭画と呼ばれる、西洋絵画と日本画を折衷したような絵画も発達しました。
平賀源内のように静電気の装置も入手することができました。

渡航を禁止していたとは言え、大黒屋光太夫のように、ロシアのエカテリーナ女帝に拝謁して帰ってきた人もいました。
幕末にはジョン万次郎も帰ってきています。
その他の漂流民も運よく救助されれば送り返されてきていました。
これ等の人々から全て詳細な聞き取り調査を行っています。
江戸時代を通じて254件の報告書が確認されています。
アヘン戦争の経緯も顛末もこれ等の漂流民からの報告やオランダからの報告で全て了解していました。
ペリーの来航も事前に知っていました。
薩長などの外様大名には知らされていなかっただけです。
ましてや明治政府を樹立した薩長の下級武士が知る由もありませんでした。
鎖国していたと言い張ったのは明治以降の薩長主導の政府です。

日本が明治以降スンナリ近代化を成し遂げたのは文化やインフラよりも、選挙制度に基づく自治組織を高度に発達させて運用していたことが大きな原因です。
入れ札と呼ばれる選挙制度は室町時代からありました。
室町時代から戦国時代にかけて領主が頻繁に変わりましたので、村落や都市の住人達は自衛上自治組織を作りました。
江戸時代には、名主(庄屋)を頂点とする村方三役や町年寄を頂点とする町役人などという制度が定着して高度に発達しました。
江戸幕府というのは軍事組織ですので、民間行政は全てこの自治組織に一任していました。
年貢も個人単位ではなく村落単位でした。
村落内で誰が負担するかはこの自治組織に委ねられていました。
明治政府もこれ等の自治組織を全国的に統一して運営していっただけです。
国民側には受け入れる素地が充分に育っていたということです。
このために現在でもアメリカ型の自由選挙が根付かずに、相変わらずオラが国サの先生様という意識が蔓延しています。
衆参両院の選挙が国政選挙といわれるわりには、地方代表者選挙の色合が強いのはこのことも一つの原因となっています。

特定の価値観に基づいて一国の文化を評価しますと誤解や混乱が生じますのでお含みおき願います。
追いつき追い越せの昭和の時代の評価とクールジャパンなどと持て囃されている平成時代でも評価が違ってきています。

投稿日時 - 2015-10-17 12:56:19

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回答(9)

ANo.8

文化の比較はたいへんに難しいことなので、たったこれだけのスペースでは言い尽くせません。
7番の方以外のご意見には概ね賛成します。
浮世絵等の文化よりも、鉄砲が伝来してから、あっという間に世界最大の銃保有国になったこと、他の方も指摘しておられますが「和算」の高度な発達といった科学技術の面にも注目すべきでしょう。
鉄道は、ヨーロッパの基準のレール幅ではカーブをきるときの回転半径は300メートルが限度です。日本が採用した狭軌では半径100メートルで曲がれるのです。
ヨーロッパの河川を見れば多くはゆったりと流れているのに対し、日本の河川はどこも急流ばかりです(ゆったりと流れていてもヨーロッパ基準では急流です)。
日本の国土を見れば狭軌を採用するしかなかったのです。
近年は江戸ブームということがあり、江戸期の文化を解明した図書はいくらもあります。
三冊や五冊くらいをお読みになれば、その先生のご意見がいかに偏っているか、文明開化のための江戸否定が尾を引いている頃の旧知識しかないことが、よくわかります。

投稿日時 - 2015-10-17 12:17:25

ANo.7

まぁぶっちゃけ先生の言うことが正しいですw

日本も大中華帝国も鎖国みたいなことをしてなかったら、西洋の産業革命に置いてかれてボッコボコにされるなどということも無かったでしょう。まぁ日本はあまり相手にされてなかったので、それほどボコボコにはされてないですが。

文化だの何だのなんて、どんな時代にもそれなりに色々できるものです。

投稿日時 - 2015-10-16 20:59:42

ANo.6

もしその先生が「江戸時代SUGEEEEEE!」という人であったなら世界史ではなく、日本史を専攻していたでしょう。まあどうしても人間というものは自分がやっていることが最も価値があることであると思いたがる生き物なのではあります。
その先生を論破したいなら、このようなことをいえばいいと思います。

・江戸時代初期に起きた明暦の大火のときに老中保科正之の命によって江戸城の備蓄米が窮民(被災者)に対して無償で配られて以来、江戸で火事や洪水、地震などの大型災害が発生すると早ければ「翌日」に江戸城の備蓄米が被災者に炊き出されたのですが、18世紀当時のヨーロッパ諸国で災害発生時に「政府(個人ではなく国家)」が被災者救済をするシステムというのはあったのでしょうか?

・江戸時代では女性の庶民向けの娯楽雑誌があったのですが、18世紀当時のヨーロッパ諸国の「女性の識字率」というのはどの程度だったのでしょうか?

・江戸時代ではしばしば「数学ブーム」というのが起きて、人々は難しい問題を解いたり、新たな公式を発見するとそれを「算額」という絵馬に書いて数学神社として名高い神社に奉納しました。その奉納された算額を見た(誰でも閲覧可能)他の人がその問題に挑戦して証明するとか反証するとかそういうことが「全国」で行われていたのですが、18世紀のヨーロッパ諸国、あるいは他の文明圏でも「知識人ではなく、庶民が現在の大学レベルの数学を研究する」というのはどの程度あったことだったのでしょうか?

・江戸時代ではもちろん士農工商の身分制度があり、そういった身分制度は世界中でありました。しかし江戸時代ではジョン万次郎や最上徳内のように身分が低い者でも能力が認められると武士に取り立てられることはありますた。ぶっちゃけ、武士の養子になっちゃえば吉原の遊女も武家の娘に(形式上の話にしか過ぎなくても)なれたわけ(そうすることで武士が遊女を妾としてもらうことができました。一応身分制度があったので武士が武士の娘ではない遊女をたとえ妾であっても引き取ることはシステム上できなかったのです。「武家の誰かの養子になる」はその救済システムでした)ですが、かような柔軟というかいい加減な身分制度について一言。

・ヨーロッパでは18世紀になってもしばしば魔女狩りが起きましたが、なぜ日本ではそのようなことが起きなかったんですかねえ。

註:内申点が下がっても、当局は一切関知致しません

投稿日時 - 2015-10-16 20:36:27

ANo.5

 そのころ江戸は世界最大の都市でしたけどね。

 ちょっと私見を長々と披露させてください。
 いきなりですが、歴史の本を読むと「江戸は金本位制、大坂は銀本位制」などと書いてあることがあります。歴史と経済の両方に通じている人がいないからこその悲劇ですね。
 江戸時代の経済の基軸は金でも銀でもありません。米です。その証拠に、侍の待遇というのは全部米の量で決められています。
 基軸になるものがバカスカ増えたんじゃ経済がえらいことになります。ですから、江戸時代には新田の開発というのはよっぽどのことがない限り許可されませんでした。闇新田というのがあったりはしたんですけどね。東京に日暮里という駅がありますが、ここはもともと新堀と書いて新しく作った田んぼの符牒でした。
 こんな中で、しかも鎖国していたわけですね。当然のようにモノ不足ヒト余りの状況が続くことになります。新しく生産できるのは、米以外の農作物と、各地にあった金山銀山銅山などから算出される金属ぐらいということになります。つまり第一次産業で儲けられる人は限られていたわけです。
 そういうことのできない人は、生計を立てるためには第一次産業から買ったものに付加価値をつけて売るしかありません。ここに製造業、つまり職人の出てくる余地が発生します。第一次産業からの供給は限られているのですから、材料に対しての加工の技術がどんどん進んでいきます。「職人技」の由来はこういうところだと思うんです。
 そしてそういう職人たちによって高付加価値のつけられたモノを販売する、第三次産業もまた発達しました。こういう職に従事する人は最低限読み書きソロバンはできなければいけない。というわけで識字率や基本的な計算の能力を持つ人が数多くできることになりました。江戸時代の教育機関といえば寺子屋と思いがちですが、商家では学問と言うほどではない字の読み書き、基本的な計算を年長者が年少者に教えるというのも普通に行われていました。
 以上のような背景をもとに、町人の経済はどんどん発展していきます。こうなると、不利なのは第一次産業の産品である米しかもらえない侍たちです。藩を支える侍たちは相対的に貧乏になっていくことになります。だからと言って、米を増やすわけには行かない。そこで考えられたのが米以外の産業を振興することによって藩の経済を発展させる、という方向です。全国各地でそれが行われましたので、日本というのは全国どこへ行っても何か名物があるという珍しい国になったわけです。
 経済発展は人々に余裕をもたらし、高い識字率(開国時で50%程度だったようです)は人々に情報をもたらしました。何々の国には何という名物があるそうな。行ってみたいものだ。この欲求は日本各地の交通網の整備という形に結実します。これはまた、飛脚や早馬というような物流や通信手段の整備ということも意味しました。
 交通網の整備に伴って必要になるのが宿場町です。江戸や大坂が大都市であったことは言を俟ちませんが、人間の徒歩で行き来するには一定区間ごとに宿場町がなければいけません。江戸大坂も含めて、居住地域と農耕地域の別がハッキリするようになります。そしてこの時代はモノがないわけですから徹底的なリサイクル社会。使った紙は漉きなおして再利用する。赤銅は大坂の名物でしたが、緑青がふいたら火を入れて地金になおす。そして最大の再利用は、食べるという行為に伴って出る廃棄物は一定の場所に入れておいて、それを郊外の農耕用地に持っていって肥料として再利用する。この時代に「便所」という概念があったのは驚嘆すべきことです。このころのヨーロッパって、高貴な人でもおまるに便をして窓から捨てるのが当たり前でした。ベルサイユ宮殿にトイレはありませんでした。ヨーロッパ貴婦人のスカートが籠形に膨らんでいたのは、そのまましゃがみ込んで便を垂れる必要性からでした。
 とまあ、主にモノのことだけ考えても、鎖国だからこそ発展したと言えるようなものがかなりあります。閉鎖空間の中で経済活動を行うには秩序が必要で、それを追求した心学者と言われる人たちがいて、非ヨーロッパ世界の中でほぼ唯一資本主義を受け入れる精神的土壌ができていたとかそういうことも含めると鎖国万歳とすら言いたくなります。
 事実上軍備を全廃できたのも鎖国だからこそで、現代でも見習うべき部分は多くあると思います。私も、評価できる時代だと思いますよ。

 これ以降は余談です。
 どうも日本人というのは鎖国状態でこそ真価を発揮するようです。
 明治で開国して鉄道という技術が日本に入ってきます。このとき、日本人が雇ったのはイギリスの鉄道技術者でした。当時イギリスは国内の鉄道を左右のレールの幅が1067mmの狭軌で建設している、珍しい国でした。当時鉄道を持っていたほとんどの国は、1435mm、その名も「標準軌」で作っていました。なぜ日本が1067mmを採用したのか、正確なところはわかっていません。山岳国である日本では鉄道の線路はグニャグニャ曲がった路線にならざるを得ず、当時の技術では幅の広い線路を急カーブで曲げるのは難しかったからという説もあります。また、鉄道車両を作っても輸出する先がなかったイギリスが日本を「鉄道植民地」にしようと企んだからという説もあります。
 いずれにせよ日本人はイギリス人の想像をはるかに超えて勤勉に鉄道技術の習得に励み、優秀な鉄道網を自力で敷設するに至ります。ですが、いかんせん他の国の鉄道と互換性がない。一種の鎖国状態、今風に言えば「ガラパゴス」状態になっていったわけです。こうなると徹底的に国内での技術の改良に改良を重ねるのが日本人の特性のようです。まあ、他から技術を買うということができないのですから仕方ないかも知れません。
 そしてずーっと時代を下り、高速鉄道の時代に入ります。狭軌レールの可能性とともに限界もつくづく認識していた日本人は、高速鉄道をそれまでの鉄道網とは全く違う独自の技術を使い建設することを決めます。これが新幹線です。新幹線とは、それまでの鉄道の幹線に対して新しい幹線という意味もあり、そのための車両という意味もあり、その車両を安全に走らせるためのコントロールシステムの意味もあります。
 ヨーロッパの高速鉄道は、それまでの鉄道網に直線的な短絡線を敷いてそこの部分では速く走る、という技術です。それまでの鉄道から独立してないわけです。それはそれでいい部分もあるんですが、速度と信頼性と便数を日本の新幹線ほど高めることはできません。
 今はいろんな国が高速鉄道の技術を持ち、新興国が高速鉄道を作るとなったら入札競争が激しいですが、高くていいのは日本製、安かろう悪かろうは中国製というのが世界の認識です(その中国だって、日本から買ったんですけどね)。
 いま日本の鉄道界は、1067mmの線路と1435mmの線路を直通できる列車の開発に挑んでいます。実現すれば、これまた世界に売れる技術だと思いますよ。やっぱりガラパゴス状況の方が日本人は力を発揮するようです。

投稿日時 - 2015-10-16 20:07:19

ANo.4

meganesan123 さん、こんばんは。

そうですね。まず、識字率が高かったこと。それと、交通網の整備、あとは城郭建築などで育てられた土木技術などでしょうか?

投稿日時 - 2015-10-16 19:09:43

江戸時代の文化、徹底した鎖国があったから発展したのだと思います。相撲や歌舞伎や浮世絵により文化の片鱗をみることができます。

開国後の明治維新は成功だったのかな?と最近思います。
欧米と同じようにしようと侵略を始めちゃったことが本当に良かったんでしょうか。欧米のものがどんどん入ってきて、日清戦争のあとにバブルがあって「戦争はうまくいったら儲かるぞ」という雰囲気があった時代です。
明治時代に始めた侵略の代償が過信や暴走によって第二次世界大戦終了まで続いちゃって、今でもいろいろなことが続いてしまっています。必ずしも明治維新が成功だとは思っておりません。明治・大正のことを考えると、正直、暗い気持ちになります。

投稿日時 - 2015-10-16 18:21:10

ANo.2

浮世絵はゴッホとかモネが集めてたらしいですね。
文化に関しては、西洋の人には刺激的だったんだろうと思います。

「民主主義」「個人」「自由」っていう西洋の概念が育ってなくて、明治維新があってもなかなかうまくいかなくて、っていう部分はあると思います。

投稿日時 - 2015-10-16 18:06:14

ANo.1

文化について。
江戸時代には戦争らしい戦争がなく、寺子屋で読み書きできる人が多かったことは、よかったみたいですね。江戸には100万人くらい人が住んでいたといわれています。

インフラに関しては戦国時代に秀吉がした検地が良かったんじゃないかと思ってます。

投稿日時 - 2015-10-16 18:00:15

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