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歴史と地政学

歴史と地政学のことについて教えて下さい。

Wikipediaでは、「地政学は、地理的な位置関係が政治、国際関係に与える影響を研究する学問である。」と、またその概要では「地政学とは地理的な環境が国家に与える政治的、軍事的、経済的な影響を巨視的な視点で研究するものである。イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国等で国家戦略に科学的根拠と正当性を与えることを目的とした。」と解説されています。

このことは漠然と理解できるのですが、「国際関係に与える影響」とか「巨視的な視点」という言葉が出てきます。このことは、日本の国内で完結する(国際的な交流が少なかった時代)ような歴史的事実については、「地政学」とか「地政学的」というような用語は使わないということでしょうか?

例えば、群雄割拠の戦国時代の諸大名のうち、誰が天下を統一するかといったような場合、戦国大名としての才能もさりながら、その地理的な位置関係や領地の地形は重要だったと思うのですが、このようなことを考える場合、あるいは研究者が研究する場合に「地政学」とか「地政学的」というような用語は使わないのでしょうか?

それと、例えば、細かいことですが、「関ヶ原の合戦や川中島の戦いなどの戦において、どのような場所に陣を構えるかとか、どのような戦法を用いるか」というようなことは、地理的な位置関係とか、地形とか関係すると思うのですが、このようなことの研究・検討は地政学とは全く関係ないということなのでしょうか?

投稿日時 - 2015-03-23 06:42:01

QNo.8941190

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

No.2です
わざわざお礼を記入頂きありがとうございます
お礼の中に関ヶ原の戦で家康が何を考えていたか、というご質問がありますが、
下記のサイトに布陣と薀蓄が書かれています。

この薀蓄の中でも触れられていますように、すでに事前の外交戦で優位に立っています。
これだけ手を打った上で、西軍の裏をかいて、関ヶ原に突進しています。
布陣図を見ていただければお分かりの通り、西軍の総大将の毛利には目もくれずに石田三成を攻めたてています。
この点からも六分四分あるいは七分三分で勝てると予測はしていたでしょう。
残りの四分や三分は時の運と腹をくくっていたと思います。
命がけの権力闘争ですから、負けたらどうしようなどということは考えなかったでしょう。
おそらくこの辺が命の遣り取りに疎い官僚上がりの石田三成との違いでしょう
総大将の毛利が相手にされずに無視されるとは考えなかったのでしょう。
いかにも官僚的発想です。

この辺は現代のサラリーマンにも通じます。
現場経験のない御本社経験だけの経営者と現場たたき上げの経営者の違いに出てきます。
東電やJR西日本やJR北海道のゴタゴタにもよく出ています。
常に後追い後追いのその場限りの対応を繰り返して問題を複雑化させています。

回答になりませんでしたが、このように考えています。

何かあれば追加でご質問願います

参考
関ヶ原合戦-軍勢配置図(1)
bit.sakura.ne.jp/tuwamono/kassen1/sekigahara1p/sekigahara1.h...

(わかりやすい)関ヶ原の戦い
kamurai.itspy.com/nobunaga/sekigahara.htm
いろいろ経緯やら薀蓄が書かれています。

蛇足
世界地図といいますのは、どこの国でも自国が中心になるように配置します。
日本で使われている世界地図をご覧になられて、そもそも経度の基準の英国が端にあって日付変更線が中央にあるというのを不思議におもわれませんか
日本と同じものを使っているのは第七艦隊と島嶼国だけです。
ユーロッパやアメリカでは大西洋が中央付近にくるようになっています
南半球のオーストラリアでは南北が逆になっています
下記のサイトで見れます。

南半球の国ならでは、逆さ世界地図 - オーストラリアおみやげならJTB ...
www.mybus-asia.com/australia/souvenir_product.php?souvenir_i...

オーストラリア シドニー 本屋 世界地図 上下逆
www.magosido.com/shopping/sub3/sub2.htm

投稿日時 - 2015-03-23 19:00:52

お礼

再度のご回答ございました。

関ヶ原合戦-軍勢配置図(2)を読み、結果的には東軍勝利でしたが、あくまでも結果であって、西軍が勝ってもおかしくない要素も途中経過の中にはあったと思います。やはり、家康と三成の行動を知ると「貫禄の差」を感じさせます。
それと、島津軍の動き……今読みかけの幕末・維新に関する新書に記述されている薩摩のややこしい動きを連想してしまいました。……的はずれでしょうか、それとも薩摩の藩風なのですかねぇ。興味が尽きないですね。

「(わかりやすい)関ヶ原の戦い 」、とりあえずは流す程度でしたが、興味深く読ませていただきました。ネットを上手に活用すれば、良い資料が見つかるのですね。<(_ _)>

「関ヶ原の戦い」で戦った二人は、おそらく共に、日本の今後の事を思って戦っていたのでしょう。……印象的な締めくくりだと思いました。私のような歴史に無知な人間はどうしても、これまでの聞きかじりで、先入観が頭を支配している上に、さらに色眼鏡をかけて、読んでしまうので、歴史がゆがんでしまいます。歴史を読み解く、もう一つの「視点」のような気がしました。もっとも、先入観があった方が「歴史」は楽しめるのかも知れないとも感じますが。(*^_^*)

地図の話は、考えてみると当たり前と言えば当たり前かも知れませんね。広い宇宙に北と南があるわけでもないでしょうから。

投稿日時 - 2015-03-24 07:21:34

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回答(3)

地政学というのは地理的な条件が政治や経済に及ぼす影響を研究する学問です。
古来政治的な権益は軍事力に大きく依存していました。
結果として軍事研究の際に多用された学問でした。
軍事研究に多用されたことから、用語として日本の歴史学などの学者さんが嫌って使わなかっただけです。
現在は防衛大学校以外の一般の大学では地理学とか地図学とう学問分野で議論されています。
政治地理学とか歴史地理学とか軍事地理学などと呼ばれています。

日本と西欧とではその地形による影響が異なっていました。
平坦で広大な大陸と地中海という外洋に比較して穏やかな海を控えていた西欧と、狭隘な島嶼国で、山岳地帯や河川や湿潤な沼沢地を数多く控えた陸地と、太平洋という広大な外洋に面した日本とでは、自ずと軍事的な要素が違ってきました。
特に車両や船舶による移動法や戦闘方法が違ってきました。
日本の地形では車両による移動というのは極めて効率の悪い移動方法でした。
地政学用語でいえば車軸抵抗が大きかったということです。
登坂には馬に直接荷物を搭載させたほうが、馬に重い車両を引かせてそれに荷物を搭載させるよりはるかに簡便で地形への順応性にも富んでいました。
河川を渡河するにも、車両では都度積み替える必要がありますが、馬であれば浅瀬があればその必要はありません
日本の河川は急峻で河原には石が無数にあり車両の移動には不向きです。

西欧では地中海に面して異民族国家が櫛比していましたが、日本は日本海側にあるだけでした。
大陸に位置していた中国は農業国家で、狭隘な島嶼には興味を持ちませんでした。
広大で肥沃な大地を有していましたので、農作物を産出しない海洋への関心は皆無でした。
日本側からの渡海が主体でした。
結果として歴史的にも海上での覇権争いというのが起きませんでした。
倭寇にせよ何にせよ海岸地帯すなわち陸上での戦闘です。

日本で地政学が学問として導入されたのも内燃機関が発達した以降の明治時代に入ってからです。
ただし、ご質問にもあります、個々の戦闘や国づくりに際しては地政学的な考え方は取り入れられていました。
明治以前は徒歩による白兵戦が主体ですので傾斜地の上から下へ突入する方が有利でした。
このために、傾斜地の上部を確保するということには注力しました。
歴史的な戦闘の記録でも傾斜地の上部に位置した方が勝利を得ています。
この常識に基づいて検討すれば、関ヶ原の戦いでの布陣は西軍側の勝利と予想されました。
これは明治時代に来日した軍事顧問団は異口同音に指摘していました。
御承知の通り東軍が勝利したのは、家康の政治的な切り崩しで西軍側に内応や寝返りがあった結果です。
壇ノ浦の戦いでは義経は潮流の変化を利用しました。
新田義貞は鎌倉攻略に際して潮汐の変化を利用しました。
これもある意味では地政学的な考え方の一部とも言えます。

江戸城を築城した際にもこの考え方は踏襲されました。
品川以東の東海道は、元来は現在の増上寺の背後を通って桜田門へ抜ける高台を通っていました。
これを海岸線にそった低地に移動させて現在の東海道のルートに変更しました。
西側から進軍してきた敵軍を高台から迎え撃つという考え方です。
武家屋敷を全て高台(山手)に設け町人街を埋めたてた低地(下町)に配備したのもこの考えに基づいています。

現在のように移動手段に不自由しなくなった情勢下でも朝鮮半島は太平洋側から大陸を攻略するのには打って付けの位置にあります。
いわゆる天然の橋頭堡です。
沖縄はこの橋頭堡を確保するの不可欠な兵站です。
クリミヤ半島も黒海において同じ役割を果たします。
ロシアがNATOの軍事行動を牽制するために取り戻したのも地政学の面からすれば当然の行為ということになります。

日本列島は大陸からの太平洋への侵出の防塁の役目を果たします。
アメリカが日本に大陸間弾道弾の迎撃能力の補強を喧しくせまるのも地政学的には当然です
逆に大陸側からすれば太平洋からの進攻を防ぐ天然の防塁ということになります。
中国が日本を屈服させるのに躍起なのも地政学的には当然です。

日本付近の地図90度回してを東側を上にして眺めてみて下さい。

以上ですが何かあれば補足質問をお願いします。

投稿日時 - 2015-03-23 13:56:53

お礼

軍事研究に多用されたことから、用語として日本の歴史学などの学者さんが嫌って使わなかっただけです。……「○○政学」というのは、いろいろな学問分野にあるのではないかと想像します。その面では、個人的な印象ですが、政治地理学とか歴史地理学とか軍事地理学という用語よりも、「地政学」のほうが包括的でわかりやすいような気がしました。個人的な感想ですが。

「倭寇」というのは、「陸上での戦闘」だったのですか?すっかり海上での戦闘とばかり、勝手に思い込んでいました。

学問としての「地政学」というのは、ご回答にあるように、明治時代に入ってからだと想像しますが、「個々の戦闘や国づくりに際しては地政学的な考え方は取り入れられていました。」と、後段の「これもある意味では地政学的な考え方の一部とも言えます。」については、納得です。

傾斜地の上から下へ突入する方が有利でした。……山城が普遍的であったのもうなづけます。

Harry721さんからのご回答にあった「地勢学」というのを、いくつかネットで調べたのですが、
ご指摘の「東を上に持っていった地図」が出ておりまして、「ロシアも中国も太平洋に出るのに日本が邪魔」という解説が付いていました。(*^_^*)「東を上に持っていく」という発想は浮かびませんが、南半球の国々ではどんな地図を使っているのですかねぇ。南極が上でしょうかねぇ。(*^_^*)

「朝鮮半島は太平洋側から大陸を攻略するのには打って付けの位置にあります」ということは、逆に脅威にもなり得ると理解してもよいですよね。

本質問とは、直接関係しませんが、もし、よろしければ、1点だけお考えを教えて下さい。「関ヶ原の戦いでの布陣」については、全く承知していませんが、どの専門家から見ても、「西軍側の勝利」と予想されるような、逆に言えば、「東軍、圧倒的不利」ということは、家康自身も、あれほどの人物ですから、当然承知した上での布陣ですよね?それでも、家康は勝利に自信を持っていたとお考えですか?それとも、家康自身にとっても、勝敗の行方は分からない、一か八かの賭だったのでしょうか?家康にも、負け戦を覚悟出来るほどの余裕はなかったと考えるのですが。それと、「東軍、圧倒的不利」という状況は、秀忠が、確か参戦できなかったと記憶しているのですが、秀忠が参戦できていれば、東軍の布陣において、「東軍不利」というのは、解消できたとお考えですか?

投稿日時 - 2015-03-23 15:51:43

ANo.1

地政学と地勢学を混同されているのではないかと思います。

地政学はWikipediaの記述にあるように、国際関係を地理的な観点から論じたもので、自然地理学的な発想はありません。あくまでも地域間の関係ということです。

合戦(これは日本に限らず欧州のいろいろなバトルの場合も適用されますが)の場合、非常に地形が重要な要素になります。三国志にも地形を行かした戦法というのが頻繁に出てきます。
これは「地勢」です。地勢学とはあまりいいませんが、地勢を利用した戦術、戦法といういいかたはします。

投稿日時 - 2015-03-23 11:39:23

お礼

「地勢学」という用語があるのですね。昨日の質問で、はじめて目にした「地政学」という用語に関心を持ち、歴史を理解する上で、重要な視点でないのかな?と思い、調べてみたのですが、思いを巡らせているうちに、質問のような疑問が生じました。「地政学」のことも「地勢学」のことも全く知りませんでした。ありがとうございました。

投稿日時 - 2015-03-23 15:45:17

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