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解決済みの質問

木下藤吉郎の身分について

一般的には「秀吉は農民の出」ということになっています。しかしふと思ったのですが、ただの農民で苗字ってあったのかなという点です。

Wikipediaをみると、親が足軽だった(つまり武士の家柄?)とか、妻ねねの姓を名乗っただけ等の説がありますが、結論としては「真相は不明である」とのことのようです。他のサイトでも真相はよくわからないとあったのでそうののかと思いました。

私の浅い知識では、「当時は農民の身分では苗字などない」と思っていたのですが、教科書や一般的な説では当たり前のように「信長に仕官する前は木下藤吉郎だった」ということになっていると思います。

だとするとどういうことなのかなと言うと
・戦国時代は農民など低い身分のものにも苗字があった
・秀吉は苗字を持っていて身分は低くは無かった
のどちらかなのではないかと思いました。

で、もともと武家なので苗字はあったが、何らかの理由で一時農民になった。しかし見返してやるという思いで信長に拾ってくれと頼みに行った、そういうことなのではないかと思うようになりました。本当に完全な農民が、いきなり拾ってくれとはむしろありえないのではないかと。

結論としては「よくわからない」ということなのかもしれませんが、上記の件について
・戦国時代は農民など低い身分のものにも苗字があった
・秀吉は苗字を持っていて身分は低くは無かった
のどちらかなのかなどについて教えていただきたいです。

もしも前者だった場合、少なくとも明治時代の初めにみんなで苗字を作ったので、江戸時代末期には多くの農民は苗字は無かったはずで、どこかの時点で苗字が奪われるという政策とかがあったのではないかと思うのですが、そういう話ももしあれば教えていただきたいです。

よろしくお願いします。


豊臣秀吉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

投稿日時 - 2014-10-22 02:39:47

QNo.8798898

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

・古代の庶民は主に、豪族の所有民たる部曲の「○○部」という姓を持っていた。例えば「大伴部」「藤原部」というようなものである。しかし部曲の廃止や支配者の流動とともにその大半は忘れられ、勝手に氏を名乗ることもあった。
 名字(苗字)は、姓(本姓)と違って天皇から下賜される公的なものではなく、近代まで誰でも自由に名乗る事が出来た。家人も自分の住む土地を名字として名乗ったり、ある者は恩賞として主人から名字を賜ったりもした。
 江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、庄屋や名主など特に許された旧家の者だけが名字(苗字)を名乗ることを許されるようになった。これをもって「江戸時代の庶民には名字が無かった」という具合に語られることがある。だが庶民といえども血縁共同体としての家があり、それを表す名もある。また先祖が武家で後に平民になった場合に先祖伝来の名字が受け継がれる場合もあった。ただそれを名字として公的な場で名乗ることはできなかった。そうした私称の名字は寺の過去帳や農村の古文書などで確認することができる。また商人がしばしば屋号をそのような私称として使った。魚や野菜などの食べ物、土地にちなんだ名字が多く見られるのもこのためで、「○○の人」と分かりやすくするため、用いられていたと言われている
(ウイキィペディアより)
※しかし、明治維新後、すべての国民が苗字持つよう定めれた時、これ幸いと藤原だの豊臣だの、先祖と無関係に名乗ったのも多い\(^^;)...マァマァ

色々な説はあるが、通説は
尾張中村の農家木下家の藤吉郎(父は一時織田の足軽までなったが、負傷して帰農)
が一時、駿河の松下家(今川の家臣)に仕えて、最低限の武士のノウハウを身につけたのちに、リストラされ\(^^;)
尾張に戻り、今度は信長に仕官したとされている。

投稿日時 - 2014-10-22 04:07:29

お礼

あ、そうなんですか。江戸時代になってから幕府の政策で苗字を奪われたのですね。で、その前までは何かしらの苗字を持つ人が多かったのですね。だから、別に苗字があったからといって武士の家系だったかどうかは判らないということですね。

それから秀吉はいきなり信長のところに行ったのではなく、別のところで仕えていたという説もあるのですか。そういう話の方が筋は通りますよね。

なるほど。参考になりました。
ありがとうございました

投稿日時 - 2014-10-22 10:53:39

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回答(8)

ANo.8

秀吉のとーちゃんは木下弥右衛門と言う人で 秀吉が木下姓なのは当然です
ねねの実家が木下なのはたまたま同じだったと言うだけ
当時の尾張は他人同士だけど同じ苗字の人が多かった
加藤清正と加藤善明とかね

ただ秀吉の父は織田信秀に仕えていた農民足軽だったと言う説もあります
今で言う即応予備自衛官みたいなもので戦になると非常召集される農民です
ただの農民百姓の男性は戦に借り出されなかったんですよね尾張では
もし農民足軽だとしたら苗字ぐらいはあったでしょう


秀吉の母と加藤清正の母は従姉妹同士ですが
清正も農民で加藤と名乗ってました

尾張では苗字制度があったのでは?
当時は分国法で国によって制度は違います
ですから全国で○○だった とは言い切れないのです

投稿日時 - 2014-10-22 17:50:00

お礼

国によって違ったのですか?これは初耳です。
ありがとうございました

投稿日時 - 2014-10-22 18:48:36

ANo.7

>江戸時代末期には多くの農民は苗字は無かったはずで

さあてどうでしょうか。近藤勇も土方歳三も身分としては農民です。しかし彼らは新撰組をやる前に多摩で剣道場をやっていたときから各々近藤勇、土方歳三と名乗っていたわけです。
最上徳内なんて完全に名字のない貧しい農家の息子でした。ジョン万次郎もそうでしょうね。

案外にそこらへんの線引きって曖昧だったと思うのですよ。江戸時代も身分制度とはいうけれど、結構ルーズで「養子」という形式になればお女郎さんが武士の妾になること(制度上妾といえど武士の妾は武士階級でないとなれない建前になっていました)も、最上徳内のような身分の低い者が武士に取り立てられることもできました。
システムが出来上がっていた江戸時代でさえそうなんだから、なんでもありの時代だった戦国時代では農民だ武士だなんていうのは「こだわるのはごくごく一部の身分の高い人だけ」みたいなものだったのではないでしょうか。
現代でも、代々続くお殿様の末裔なんて家ではやっぱり家柄とか血筋なんてのにこだわるわけですし、インテリ一族で本人が一流大学出であるのはもちろん家族も一流大学を出ていないと結婚は認めないなんて家もありますし、歌舞伎役者のような伝統的な縛りがある世界もあります。裏千家家元の嫁に田舎のヤンキー高校中退の娘なんて認められないわけです。
それと同じように、お殿様の一族とか、代々続く名家ともなれば武士だなんだというのは重要になるでしょうが、その家臣くらいの身分ともなると「そんなのいちいちどうでもいい」と考えていたんじゃないかなと思います。
タイムスクープハンターが当時の人にインタビューしたら、「武士か農民か?そんなの、一部のお殿様だけだよ、こだわるのは」っていわれても不思議ではないと思います。

名字は必要となれば与えられ、不要の立場の人には与えられなかった。それだけのような気もしますね。まあ公けに認めることで名字に権威をつけるというのはあったと思いますがね。
最上徳内は最初は下男から始まった人で、そのときは「青島家の下男の徳内」で充分だったと思います。下男でしたから、公けの場所に出るようなこともなかったわけです。勤めていた家中では「徳内」だけでいいですし、ヨソの家の人が彼を指すときは「青島家の下男の徳内さん」でよかったわけです。
だけど彼が出世して公けに仕事をする立場になれば、単に「徳内さん」だけだと色々と不便なので、じゃあお前最上と名乗れとなったのでしょう。土方歳三さんも、地元なら「歳三さん」だけでだいたい通じたでしょうが、ヨソに出るならどこの歳三さんか分からないと困りますから「土方一族の歳三」、つまり土方歳三と名乗ったのでしょう。今は「ご本家の人」になっているそうですが、絶対違うと思います・笑。

投稿日時 - 2014-10-22 11:36:52

お礼

ありがとうございました

投稿日時 - 2014-10-22 18:50:14

ANo.6

江戸時代の農民は名字をもっていなかったと言われますが誤りです。
持ってはいたものの公的な場で使えなかったのです。例えば売買証文とか領主への請願書など公文書には名字付きでの署名はできなかったのです。公的には「なかった」わけですから変更も自由でした。
持っていた証拠のひとつとして墓があります。地域や宗派にもよるでしょうが俗名は名字付きで記してあることが多いですね。「俗名 山田太郎」となっていることもありますが「俗名 太郎 (改行して)山田姓」となっていることもあります。名字御免でないことをはばかった書き方でしょう。

名字が使えたのは武士のほかいわゆる名字御免の人だけでした。領主に多大な貢献をした場合など特別に許された人たちです。貢献の程度により本人の一代限りとか、息子の代まで、あるいは永代などといったランクがありました。原則として主人だけで家族全員が御免ではありません。
名主・庄屋は一般に名字御免ですがそれに就任したからといって自動的に名字御免になるのではなく家格や本人の人格などが考慮されたようです。名字なしで勤める庄屋もいました。
誰が名字御免だったかということは当時の宗門帳で確認できます。名字御免の人は「山田太郎」のように名字付きで書いてあります。
商人は名前だけではやりにくかったのでしょう一般に「越後屋」いったような屋号を使います。のちには屋号が名字のようになり堂々と「越後屋太郎」のように使われることもありました。屋号は名字ではないので自由に使えたようです。中には名字にの末尾に「屋」を付けて屋号にした人もいました。
明治の必称令で誰もが名字を名乗ることになりますが、中には長い間に忘れてしまい慌てて創作したこともあったでしょう。

木下藤吉郎のことは調べたことがないのでよくわかりません。江戸時代は上記のような状況ですからこれから推定すれば名字は(公的には使えないものの)持っていたと思われます。
戦国時代は下剋上の時代。力があれば何でもあり。勝てば官軍。名字も然り。オレの先祖は藤原氏だとか天皇だとか言っていた武士もいますが明確な証拠がないこととも相まって詐称の可能性が高いように思います。

投稿日時 - 2014-10-22 11:27:13

お礼

なるほど江戸時代のことは少しわかりました。
もし、質問の主対象の戦国時代の話もお分かりになれば教えてください。
ありがとうございました

投稿日時 - 2014-10-22 18:47:03

ANo.5

木下藤吉郎の父の木下弥右衛門は足軽頭であったが負傷して引退し、藤吉郎が7歳の時に死んでいます。母は竹阿弥と再婚し、義弟や義妹を産んでいます。足軽頭は下級であって武士として召抱えられた身分であった。義弟が小一郎と名付けられたことから、藤吉郎は長男としての扱いを受けずに家を出たのだと思います。

秀吉は苗字を持っていて身分は低くなかったと思います。本当の農民が天下人になったのではない。

投稿日時 - 2014-10-22 10:28:15

お礼

「義弟が小一郎と名付けられたことから、藤吉郎は長男としての扱いを受けずに家を出たのだと思います。」これは興味深いお話ですね。

「本当の農民が天下人になったのではない」ここはそうっぽいですね。

なるほど、いろいろな説があるのですね。
参考になりました。ありがとうございました

投稿日時 - 2014-10-22 11:00:06

ANo.4

戦国時代はの足軽は、事変の無いときは(普段)は農民でした。

有事の際、足軽として働きました。

だから、苗字を持っていたのだと思います。

ちなみに、農民でなく常備兵として足軽を持ったのは、後日の織田信長です。

木下藤吉郎の具申かもしれませんね。

それからは、足軽にも苗字がついています。

投稿日時 - 2014-10-22 09:46:18

お礼

ありがとうございました

投稿日時 - 2014-10-22 10:55:09

ANo.3

階級が導入され苗字が名乗れなくなったのは江戸時代の話だということで、日本人のほとんどは江戸時代を日本人のちょんまげ文化としてとらえているので、じつはほかの時代の文化に対して驚くほど疎いということですよね。

投稿日時 - 2014-10-22 06:21:29

お礼

?ありがとうございました

投稿日時 - 2014-10-22 10:54:45

ANo.2

通称かもしれませんが、一応苗字はあったみたいですよ。
ただ、何処何処の与作とかの方が通じるから名乗ってなかったみたいですよ。

投稿日時 - 2014-10-22 05:31:31

お礼

そうなんですか。ありがとうございました

投稿日時 - 2014-10-22 10:53:58

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