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解決済みの質問

哲学ってなに?

宗教は、迷える子羊を救うこと。
哲学は、迷える自分を救うこと。
では、ないでしょうか?

しかし、宗教は現実には、迷える子羊を更に迷わし、集め、子羊たちの血を搾り取っている。

哲学は過去の哲学者も、現在の哲学者も、殆どが自分独特の哲学的思想を持っている。

自分だけに合った哲学が特に現在は多いのではないでしょうか?

ですから、巷の哲学者が何を言っているのか理解できないことが多いのではないでしょうか?

哲学って何かの答えも哲学者ごとに違うのではないでしょうか?

私のこの考え間違っていますか?


これを読んでいる宗教関係者、哲学関係者の方は例外ですので、該当しません、悪しからず。

投稿日時 - 2014-07-14 23:34:05

QNo.8678583

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

>しかし、多くの混乱は精神作用によってもたらされます、この混乱、勘違い、誤解も「真理」の一環でしょうか?
もし、そうならば、戦争、悪政、犯罪、詐欺等、全ての出来事を認める(肯定つまり間違いではない)しかないということでしょうか?

其の通りです。

全て「それ」(本来は「名」で表せないので)が無ければ、存在出来ません。

戦争も犯罪も不幸も死も・・・・

それは見る「方向」によって、いる「立場」によって、全ての価値は担保を失い、また、生じます。


「混乱」とは何と比べて「混乱」なのでしょう。

「混乱」は「混乱」だけでは、存在出来ないのです。

あくまで自身の命(生存)において、望ましくないだけであり、命を奪われる方(食べられる食材等)からすれば、逆の評価になります。



例えどんなに崇高で、社会的に博愛で正しい行いであっても、それは「自己の判断」を交え、まだ現出していない望ましい姿を求めてしまっているので、「迷い」の中から抜け出ている行動ではありません。

そしてそれは恐らく周りの支持者にとっては望ましい行動なのでしょうが、他の存在に対する思いやりから出る行動ではありません。(どんなに其の範囲を広げようとも、人間の身には限界があるので)


現世での行動は常に「決定」しなければならず、それは「結果」を生じます。

何もしなければ、自身の存在が消えてしまいます。(端的に言えば「死」です)


迷いと共に歩み行き、真理の中に生きている


中々語れる相手もいないので、楽しいです。

投稿日時 - 2014-07-23 01:26:33

お礼

なるほど、相対的に混乱が存在するということで、こだわることが、一方向からの、偏見になるということですか。
ウーン!
しかし、これは非常に難しいです、自分自身に当てはめなければ意味が無いからです。
至難の業のように思えます。
相当に、深い理解が確かに必要なようです。
理屈は少し分かったような気がします、大変ありがとうございます。

投稿日時 - 2014-07-23 21:47:38

ANo.35

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回答(37)

ANo.37

あなたが直感的にそう思うのは、他の人も同様正直なことだと思います。

しかし、本来宗教は哲学でもあり分断されるものではありません。
宗教は迷える人を助けるというより、何者にも揺るがない強い自己を築きあげ、また他人をも幸福にしていくことが目的と言えるでしょう。

ただ、祈るだけ、建物に籠ってよく分からない儀式をやってるだけで、実社会に何も貢献できなければ宗教の意味がありません。
その意味では世の中の新興宗教は宗教ではなく、ただのお祈り集団ということですよね。

宗教は目的もなくただ呆然としている意志の弱い人間にはやりとおすことはできません。
宗教を貫くということは命懸けの強い決意が必要です。

投稿日時 - 2014-07-24 09:06:44

お礼

回答ありがとうございます。

哲学は宗教も含め、すべての知識を考察すると思いますが、
宗教は哲学を考慮していないというよりは、自らの宗教が、最高に位置すると考えているように思います。

イスラム、ヒンズー、神道、は良く知りませんが、キリスト教、仏教、新興宗教の使命は布教です。
名目は布教によって人を救うですが、結果は別なものになっているように見えます。

確かに命がけで、信仰を貫いた人たちは過去に沢山いらっしゃいます。
では、一生をその宗教にささげた宗教は正しかったのか?

過去に捧げた人たちには、過ぎてしまったことですが、現在の私たち、未来の子供たちに残せるのか?
ニーチェの有名な言葉は神は死んだです。

投稿日時 - 2014-07-24 21:03:07

ANo.36

補足です。

言葉を多くすると、却って眼を晦ましますので、コツの一つを一言だけ。


『己を離れた眼』

投稿日時 - 2014-07-23 22:45:04

お礼

回答ありがとうございます。

少し、言われたことを整理して、考えます。

いろいろ。ありがとうございました。

投稿日時 - 2014-07-24 20:31:14

ANo.34

>自分一人では迷走に陥り、時間が無駄になりそうなので何かいい方法はと?

貴方は常に「真理」と共に歩んでいますよ。

其の事に気付いていないだけです。

投稿日時 - 2014-07-22 23:00:33

お礼

回答ありがとうございます。
>貴方は常に「真理」と共に歩んでいますよ。
?????
この意味は、すべての生命は、真理の中でしか存在できないという意味でしょうか?
と、いうことは真理=自然の法則となると思います。
しかし、多くの混乱は精神作用によってもたらされます、この混乱、勘違い、誤解も「真理」の一環でしょうか?
もし、そうならば、戦争、悪政、犯罪、詐欺等、全ての出来事を認める(肯定つまり間違いではない)しかないということでしょうか?

何度もすいません。

投稿日時 - 2014-07-23 00:14:04

ANo.33

>真理とは仏教で教える悟りと同じものでしょうか?

さて、私も都合によって、此れ等の語を使い分けたりしますし、気分次第と言ってもいいでしょうかw

ただ、悟りとは段階が幾つもあり、一つ一つの事象に於いても用いたりするので、イコールとは言わない方が適しているかもしれません。

ですので語としては「大悟」という言葉が相応しいかもしれませんが、それも定義次第ですから、まぁ、どうでもいい事ですね。

>理解を深める、なんか、いい方法ないでしょうか

お勧めの方法は無いというか、全てと言うか、何が引き出しを開く切っ掛けになるかは人次第なので、判りません。

人は一人一人認識が全く違うので、同じ月を見ても感じ方が違う様に、理解が変わります。

ですので、教える事が出来ません。

アドバイスとしては結局は、雲を掴む様な内容にならざるを得ません。

掴めるかどうかは、自分次第という所でしょうか。

投稿日時 - 2014-07-22 21:48:01

お礼

ご返事、ありがとうございます。
悟りに段階があるとは、思ってもみませんでした。
自分一人では迷走に陥り、時間が無駄になりそうなので何かいい方法はと?
考えていましたが、やはりないですか。
望み薄ですが、色々努力しようと思います。
ありがとうございます。

投稿日時 - 2014-07-22 22:48:54

ANo.32

>世の中、哲学、宗教も含め難しすぎませんか?
もっと、簡単になってほしいと思うのです。

簡単ですよ。

見えないだけです。

見えない物を見えないままの目で見ようとするから、「解釈」を加えるので、見える「形」が人によって変わってしまいます、

真理は「複雑」ではなく「単純」です。

在るのは「理解」の深さのみです。

投稿日時 - 2014-07-21 00:42:45

お礼

回答ありがとうございます。

真理とは仏教で教える悟りと同じものでしょうか?

簡単なものを、故意に難解にする習性、人間には有りますよね?
この習性により、どんなに偉い学者も間違っている可能性があります、真理とか悟りを勘違いしている、お坊さんも多いのではないでしょうか?
理解を深める、なんか、いい方法ないでしょうか。

投稿日時 - 2014-07-22 20:32:15

ANo.31

No.28の事です。

ぐるぐるぐるぐる考えました。

そして思ったのは、世界に一人しかいないのに相手がいる状態…それは世界の、自然のルールかな?
世界中に一人しかいなければ、法律の意味合いが変わるような気がします。

ん~?そうなると世界中に一人しかいないとかえって哲学が必要になるタイプの人はいるでしょうね。
他の動物はなんだか2種類いて小さいものが増えてくみたいなのに、なぜ自分にはそれが無いんだろう?とか始まると、宗教にも発展するかも~。

でも全部自分でするから、豊かな所以外では生きるのに精いっぱいでそんな事を考える暇がないかも知れないなぁ…

あ!ペット的・家畜的なものがいれば、ルールは存在する可能性がある、か、も?(だんだん自信がなくなってきた)

投稿日時 - 2014-07-20 00:25:38

お礼

その通りだと思います。
1人しか居ないのであれば、世界は自分対自然、動物になります。
そして、その自然と動物に対して、ルールを作るとすれば、自分自身が望む規律とか、ルールのはずです。
(例え、山猿のために猿を保護して増やすルールを作ったとしても、それは自分の都合です、自己満足です、家畜を飼うのもペットを飼うのも同じです。)

大事なのは法というのは、人間体人間が条件です。

神との規律は信仰です。
自然との規律(自然の法則を発見してそれに従う決まりを自分で作った場合)は、自然科学です
動物との規律(自分以外の動物にも生きる権利があると思い尊重するルール)道徳。哲学

と私は思うのです。

ご考察感謝いたします。

投稿日時 - 2014-07-20 01:08:08

ANo.30

2014japan様、こんばんは。


>「世界にたった一人しかいなければ、権利も主張も有りません、したがって法も必要ないのです。」

なるほどです。


>「しかし、宗教、哲学は無人島でたった一人でも必要な物ですよね、
もちろん必要ない人もいますが。」

んー。
あ!、それじゃあ、「一人でも「科学」も必要」ということで。

投稿日時 - 2014-07-19 01:19:17

お礼

回答ありがとうございます。
科学も必要ですね。

例えば、雲を見て雨が降るとかのように、
科学は自然の現象とかの研究ですから、相手がいなくても自然界に住む以上は必要になると思います。

投稿日時 - 2014-07-19 20:26:59

ANo.29

何やら迷走しているように見受けられたので、横から嘴を失礼します。

法学・哲学・宗教、其の他森羅万象全てに於いて、適応条件が違えば形・結果は自ずと変化します。

前提の定義が定まらなければ、共通の答えは出ませんし、定義次第で変わる物に心を任るのも如何な物かと思います。

・・まぁ、それを楽しんでいらっしゃるのならば、其れは其れで立派な娯楽ですが。

投稿日時 - 2014-07-18 09:43:46

お礼

アドバイスありがとうございます。
実際、物事は大変複雑で絶対正しいということは、不可能に近いかと思います。

しかし、これは混乱、誤解の原因になるように思えます。
私は欠点と言えば欠点だと思いますが、物事を全てに、白黒つけたい性格をしています。
世の中、哲学、宗教も含め難しすぎませんか?
もっと、簡単になってほしいと思うのです。
心配して頂き、ありがとうございます、お気づかい感謝します。

投稿日時 - 2014-07-18 21:04:41

ANo.28

No.11,21です。

横レス失礼いたします。

>世界に自分一人しか、いなくてルール、規則は更に罰則は必要ですか?

これね、必要になる事も考えられます。生きる為に。
世界中に自分しかいなければ、すべて自分で行わなければなりません。
すごく恵まれてるところならいいけど、経験から自分の中でルールが出来てくるんじゃないかな?

罰則は必要になるかはやっぱり個人によると思う。
守らないと危険であるなら…死んだり大けがをした可能性が高いなら…自分を律する為に自分で自分に罰を与える人もいるだろうから。
(今日は水汲みを怠ったので、水の使う量を減らすとか…辛いから今度からさぼらないぞ!!と決意する為 的な)

投稿日時 - 2014-07-18 01:13:56

お礼

横レス、歓迎です。

ひとりでも生活し、生活をより良くする為には確かに言われる通り、規律、罰則、ルールは多分必要になると、思います。

しかし、今回は法学、法律のお話です。

自分一人の、自分自身の為の、規律、罰則は、自分一人にだけ適用する規律です、罰則です。
これは自律(自己コントロール)です。

法律とは、あなたが相手に、相手があなたに求める規律、罰則です。
どうでしょうか?
もし違えばお願いします。

投稿日時 - 2014-07-18 21:51:00

ANo.27

2014japan様、こんばんは。


>「世界に自分一人しか、いなくてルール、規則は更に罰則は必要ですか?」

「主張」は、あるのですか?

投稿日時 - 2014-07-17 23:13:41

お礼

>「世界に自分一人しか、いなくてルール、規則は更に罰則は必要ですか?」

>「主張」は、あるのですか?
主張はありません。

何度も言いますが「主張」とはなんですか?

あなたが、親に対して、友達に対して、学校、社会に対して考えを言うことですよね。

主張は自分自身にはしませんよね。
おこずかい上げてくれと自分に言いますか?

主張も権利も、相手に自分の考え、権利を求めることです。


なんか、少しも先に進んでないような気がしますが、ご理解いただけましたか?

投稿日時 - 2014-07-17 23:47:47

ANo.26

>「世界にたった一人しかいなければ、権利も主張も有りません」


「失言」でしょう。

投稿日時 - 2014-07-17 22:13:03

お礼

回答ありがとうございます。


学生様でしょうか?

まさか大学生か社会人ということは無いと思いますが、社会の先生に確認されたら、どうでしょう?

私は無学ですから、よほどあなたの納得できる答えが得られますよ。

投稿日時 - 2014-07-17 22:41:47

ANo.25

>「しかし、宗教、哲学は無人島でたった一人でも必要な物ですよね、
もちろん必要ない人もいますが。」

法学や福祉が、それを基礎として居ますよ。

投稿日時 - 2014-07-17 21:16:01

お礼

回答ありがとうございます。

>法学や福祉がそれを基礎としていますよ。

それとは何ですか?

基本的人権のことですよね?
個人の権利というものは相手に対しての権利なのです。

世界にたった一人しかいなければ、権利も主張も有りません、したがって法も必要ないのです。

もう少し簡単に言うと法とはルール、規則です。

世界に自分一人しか、いなくてルール、規則は更に罰則は必要ですか?

投稿日時 - 2014-07-17 21:53:52

ANo.24

>「哲学、宗教は、まず個人が基本になります。」


法学も、そうですよ。
ついでに言えば、福祉も、そうです。

投稿日時 - 2014-07-17 20:48:43

お礼

法律は一番小さい単位であなたと私の関係で成り立ちます。

無人島にあなた一人で暮していれば法律は必要ありません、あなたを命令する者も、される者もいませんから。
何をしようとも自由なのです。

しかし、宗教、哲学は無人島でたった一人でも必要な物ですよね、
もちろん必要ない人もいますが。

投稿日時 - 2014-07-17 20:55:25

ANo.23

法学って、何?

投稿日時 - 2014-07-17 17:23:51

お礼

回答ありがとうございます。
質問とは違うかなと思いますが、答えます。

法学とは、法律を学ぶことだと思います。

法律は社会をルールによって、律することだと思います。
社会生活における、人間関係、対もの関係その他決まりごとについての研究、学びであると思います。

哲学、宗教は、まず個人が基本になります。
法学は集団が有って初めて機能する学問かなと思います。

投稿日時 - 2014-07-17 20:39:23

ANo.22

 なおもお邪魔します。長くなりましたが。

 少なくとも 聖書のつたえるキリスト・イエスについては 
 (α) 信仰は どこまでも個人のものである。
 と言っていると思います。
 (β) 個人の主観内面における信仰がその信仰のままで共同化することはない。つまりオシエは要らないし
 (γ) 集団を成して規範をかかげる宗教は要らない。

 こう語ったと見ます。次の質問の趣旨説明のごとく捉えています。



 ○【Q:神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31】~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8604161.html

 聖書の伝えるヤハヱーなる神は

 みづからによるみづからの揚棄をおこなった。

 つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。


 旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に
 その内容を明らかにして予告し
 それがパウロをつうじて
 かれの著わしたと伝えられるヘブル書で

 けっきょくイエスによって
 〔そのイエスが神の子キリストとして世に
 現われたという想定のもとに〕
 成就した

 と語った。

 すなわち:
 ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~~~~~
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

    見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

    それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

    それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである
    ――と、主は言われる。

    すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。
        (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は 次の内容であると捉えます。これを問います。

 (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。

 ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。
 ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。

 (α‐1)
 ▼ 文字はころし 霊は生かす。
 ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。


 (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。

  すなわち
 (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。
  ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。

 (β‐2) オシエは要らなくなったということ。
  ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。


 (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。

 (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。

 (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。

 (γ‐3)
 ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。

 (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神もその名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。
 ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ちょっとごちゃごちゃした内容になりましたが。

 (民族ごとにまとまって・しばしば外に対して閉鎖的に生きる社会つまりそういった時代には それとして集団にとっての・つまり民族にとっての神が 必要であったのかも知れません。まとまりを持って秩序をまもろうとします。
 あの島は おれたちに固有のものだと言って 自分たちにとっての一つの神のもとにまとまることが必要であったのかも知れないのだと思います。
 そういうかたちの世界的な〔負の〕共生の時代もあったということで。)

投稿日時 - 2014-07-17 05:46:58

お礼

回答ありがとうございます。
宗教自体が、時代と背景により、宗教自体の意味も受け取り方も変わってくるということですか。

たったひとつの例ですが、イスラム過激派の場合は婦女子でも、天国を約束され、自爆テロをされました、この点を見れば宗教に罪があるように思えましたが、教義ではなく、その時の信仰をする者により、宗教が悪用をされたということですね。

投稿日時 - 2014-07-17 21:40:12

ANo.21

No.11です。

宗教についても、ほんのちょびっと、思ってる事を。

哲学はとってもとっても考える。

宗教の大元になるのは体験かなぁ?と。
自分の体験だと、これを大事にするのは普通じゃない?

個人の体験で、感覚的に感じ取った事って、説明するの難しいよね。
それを今は神秘体験とか言うのかも知れないけど。

そいて、それを周りの人に言う人達もいれば、自分の中だけで大切にする人もいるのね。

周りに説いてまわって、賛同者が多くなれば宗教化すると思うんだよね。
で、元々なんかしらの宗教に属してた人達は、どちらを選ぶにしろ、宗教心が強くなると思うんだ。


元々お金目当てで、適当なこと言って騙すのは宗教じゃなくて詐欺だと思う。
本人は多くの人を助けようと思っていても、周りに頭が回る悪い人がいたら利用されたりすると思うんだ。

こういうのは分けて考えた方がいいよ。


あと、嘘も方便。
誰かを救うのに、これが一番いいと思うと嘘を言って助けようと思う事もあると思うんだ。
ここで曲がっちゃうこともあるだろうね。
でもその人は嘘を言ってる事は知ってるけど、助けたいのが本心だったりするんだよね。
これは一概にいいとも悪いともいえない気がする。


追加
感覚的に得たものを説明するのは難しいは、
歩けなく、歩いた事がないひとに、自分が歩いてるのをどうやって歩いてるの?と訊かれたと考えてみたら分かりやすいかな?
歩けるように出来てる体のシステムと、脳での命令系統とか、そもそも意志とは何かまで発展すると、専門の学者でも難しいんじゃないかと思うんだ。

投稿日時 - 2014-07-17 00:46:43

お礼

たびたび、回答ありがとうございます。
哲学はとても範囲が広く、物凄い大変なことで、私の哲学観は微かだと思い知った次第です。

宗教もいろいろな宗教があり、別けて分析しないと判断が誤ってしまうということですね、私は少し単純だったようです。

分かりやすい説明ありがとうございます。

投稿日時 - 2014-07-17 01:04:43

ANo.20

 こんばんは。

 2014ぢゃぱんさん 心配ありません。まったくありません。

 次の質問は わたしのおこなったもののうち まだ一部分です。

 【Q:信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html

 【Q:組織宗教を 弾劾する。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8087365.html

 【Q:宗教は 百害あって一利なし。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8372936.html

 【Q:やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7552652.html

 【Q:創価学会への公開質問です。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8061851.html

 【Q:《スマナサーラ》は 一体全体 いかなる思想か?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8624415.html



 元気出して!

投稿日時 - 2014-07-16 22:17:39

お礼

ご協力ありがとうございます。

確かに、すさまじい質問です。
すごい、しかしそれなりの知識、理論がしっかりとしているところが、私とは違いますので、やはり、もっと勉強し、レベルを上げなくてはと思います。
頑張ります、応援ありがとうございます。

投稿日時 - 2014-07-16 23:47:16

ANo.19

>決め付けは有ったように思いますので、反省しました

難しいですね。

既に言っていますが、別に間違った内容では無いと私は思いますよ。

むしろ思い込みだけで発言している方ばかりに、私には見えますから。(別にこのカテの話ではなく、世界中でです)

ただ自分を出す行動は、攻撃を招き易いとは思います。

真理を見つける事と、真理を広める事は違います。

しかし今回の質問者様の傷ついた理由は、自身の考えに自身の価値を乗せてしまったから起きた事です。

「理を見つけた事」そのものを自分の存在理由に重ねてしまったので、否定が痛いのです。

真理を見つける事は、様々な要因があるでしょうが、単に「運がいい」だけです。

思考力の強さ・深さも、白雉に生まれていれば出来はしません。

ただのラッキーなのです。

ですから「理を得た」事等は、それほどに自慢する事でも無いのですよ。

努力を認める以上の価値は在りません。


正直、発言される方の多くは真理を見つけたから発言しているのではなく、私を始め自分を発露したいからしているだけの方です。

第一、通常ならば真理を得た者は、本来、わざわざ其れを触れ回る様な行動は取りません。

質問者様の発言内容は問題ありませんよ。

また、仮に間違っていたとしても、其れは発言内容や考えが間違っているのであって、質問者様の人格が間違っているのではないです。

此処を混同しないようにしましょう。

投稿日時 - 2014-07-16 21:16:23

お礼

本当に、何度も気を使っていただき、ありがとうございます。

ネットに書き込みを始めて2カ月もたっていませんので、打たれ弱かったかもしてません、
沢山叩かれて、自分の考えがより良く、進歩するのかも知れません。

あなたのように未熟な者を助けてくれる方もいますので、まだ、勇気を持って質問回答をしていこうと思います。

投稿日時 - 2014-07-16 21:31:15

ANo.18

何度もお邪魔します。
私は誰もダメとかいってないですよ。
完璧な人も完璧な世界も
世界の外側から判断できる人っていませんから。

哲学は内(家)なる宇宙の探検です。
暗闇が普遍なら自分が光って照らせばいい。
情報に溢れていても、静寂であっても自分の心は伝えているのか?
囲まれてるもの、着せられてるものを外してみたりすることです。

http://www.youtube.com/watch?v=WnG0EvEds5c

投稿日時 - 2014-07-16 20:56:19

お礼

わざわざ、ご連絡ありがとうございます。
わたしは、あなたに否定されたように思いました。
しかし、今は確かに、私に傲慢な点が有ったかと思いますし、内容は兎に角、私の質問を考え、答えて頂いたことに感謝をしています。
考えれば、哲学カテにいる方は真剣に宗教、哲学を良い方向で探究している方だと思います。
言い合いに、なったとしても悪意を持って攻撃してはいないと気付きました。
また、質問はさせていただきますので、間違っていたりしましたら、遠慮なく貶して頂いて結構です、そうして、進歩できれば、自分の為になりますので。
また、よろしくお願いします。

投稿日時 - 2014-07-16 21:50:04

ANo.17

なるほど、他の方への回答を読んで見ましたが、騙されたと言う経緯がある訳ですね。

確かに妄信はしない方がいいと思います。


宗教は団体を作ってしまうと、もう駄目です。

団体の為の教義が出来てしまいます。

矛盾を包括して生きていく方向性が出来てしまいますので、時間と共に腐敗が進行します。


哲学は・・、宗教と不可分のところが多いのですが、違いは団体(永続的な教団)を構成していない所と、「神」を持ち出さない事です。

神を持ち出した場合は「神学」になります。

>哲学って何かの答えも哲学者ごとに違うのではないでしょうか?

其の通りですw

ただし此れは西洋哲学での話ですが。

一つ一つの事象に対する分析の積み重ねと対応ですから、「都合」によって答えは変わってしまいます。

この「都合」は唱える人の人生によって違います。


質問者様の発言は至極全うですから、何の問題も無いです。

是非、其の先を求めて下さい。楽しいですよ。


ちなみに無知は罪でも非でも無いです。

それを振り回す「行動」が「迷惑行為」なだけです。

投稿日時 - 2014-07-16 10:02:00

お礼

回答ありがとう画材ます。
今回の質問で、私は、人格を疑われたり、嘘つき呼ばわりしました、これには非常にショックでした。
質問も回答もする気が無くなりました、というよりできないですよね。
私は、宗教にしても、哲学にしても真剣に学ぼうとしているものです、そのため途中の障害、幻滅が混乱をきたし強引な質問になってしまったように感じます。
確かに、知らないことに私の個人的な想像、決め付けは有ったように思いますので、反省しました。

今回の回答をいただき、救われました。
ありがとうございます。

投稿日時 - 2014-07-16 20:17:37

ANo.16

お礼、ありがとうございます。

>わたしは、信じやすい人間です、馬鹿と言えばそれまでですが、宗教にも、他にも騙されました。
>常ずね、何故人は騙すのか?騙す人は許せないと思うのです。

私も騙されたことは、何度もあります。
同じように許せない思いを、私はとても強く持っていました。

騙すつもりはなく、結果騙すことをやっている人もいます。
盲目的は、見えていませんからね。

私にとって大切なのは、人を騙さないことであり
騙されたことで騙す・騙されることが明確になったことです。

相手の過ちより自らの失敗を認めることで、学べたこともあったし
繰り返さないためにも対応を考えられるようになりました。

一番良かったと思う自分で得たものは、人を許すことです。
恨みを延々と一生持ち続けるという荷物を降ろすことができました。

騙されたことで身を滅ぼすほどのことはありませんでしたが
恨みで身を滅ぼす可能性の方が、はるかに高いことも知りました。
恨みは、自らを戦いに駆り出すか人を遠ざけるに至ります。

いずれにせよ戦いは孤独になって行きます。
孤独より騙された方がいい。
騙されるより、それを見極められる自分になった方がいい。

求めるものを得る力も、明確にするということで
自分のものとなっていくと思います。

哲学によって明らかにできることが、自分の生きていく力となり得ると思うところです。

騙されるより騙す方が、後で大きなツケを払うでしょう。
ご自分を馬鹿と責めるより、勉強代を先払いした自分を許していいのではないでしょうか。

自分を許せばもっと楽に歩けるのと、より対応力は上がりますから。
人を責めるより、事の対応に力を注ぐことが未来は向上させることができる。
そんな考えもあるということで終わりにします。

ネガティブな体験で、ご自分の目を曇らせないことを願います。

投稿日時 - 2014-07-16 08:28:44

お礼

回答ありがとうございます。
今回の質問で、回答していた方々には、納得できないのも有りましたが、無知な私の為に答えてくれたことには感謝しています。

回答者の方の考えがそれぞれ違うということも、良く分かりました。
アドバイス、ありがとうございます、くじけずに努力いたします。

投稿日時 - 2014-07-16 20:39:53

ANo.15

 No.8です。ご返答をいただきました。


 ★ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
   >「信じる つまり わが心なる非思考の庭ーそれは動態ー」

 宗教には、オシエを、刷り込み、洗脳するということを、当たり前にやります、毎日、毎日、集会、会合、教義の勉強をさせて、単なる思考の感覚のオシエを、信じ、寄付と布教をし、挙句に他宗教と殺し合いしている、これは動態ですよね。
 これは、オシエによって思考も、無思考の庭も全て影響を受けている、ということではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええっと まづ《信仰――非思考の庭なる動態――》について 不案内のまま出していますので これの説明をおこないます。次の図式で 捉えていただきたいのですが どうでしょう。


  ○ 信仰とは わが心なる《非思考の庭》なり ~~~~~

    信仰:非思考の庭:ヒラメキ(直観)
    ----------------
    宗教:思考の緑野:思考・想像
    知覚:感性の原野:直感

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 1. 神は 《非経験の場》です。ナゾです。そういう想定であり 仮りの理解としては 絶対・無限という概念が補助線になります。二で割っても三で割っても商がやはり無限であるというナゾです。

 2. この神は 有る神と無い神とに分かれます。ナゾですから 人間が有ると言っても無いと言っても 神そのものに変化はありません。有る神について ヤハヱーと言おうが アッラーフと言おうが あるいは ブラフマンにしろアミターバ・ブッダにしろ 神に変わりはなく その呼び名が違うのみとなります。名前で神のチカラに変わりが出るのなら それは神ではないとなるわけですから。

 3. この神をおのが心にいだくとき――という意味は その名を心に受け容れるとき―― わが心に《非思考の庭》が成ります。受け容れたという意志行為の実績が成ります。キリストの神ならキリストの神としての名を受け容れるとき その対象たる神は《非経験の場》であり それを受け容れるというのは 人間の経験行為です。

 4. この非思考の庭が わたしの生きる道にあって動態であるというのは たとえば次の事例で理解されます。アブラハムがわが子を神にいけにえをして捧げよという命題を受け取ったとき 精神が錯乱するかに迷いに迷った挙句 かれは ヒラメキを得ました。《ひとは おのれをにしろ他人(ひと)をにしろ ひとをころすことはないものだ》と。生きるという動態にあって このこたえを得ました。

 5. ところが モーセについては かれも個人としては同じ信仰を得ていたのですが 民衆のあいだの(社会としての)秩序を考慮したとき アブラハムの命題を 《なんぢ ころすなかれ》というオシエとして持つようになりました。これが 宗教の始めです。

 6. アブラハムにあっても ヒラメキないし直観は すでに知覚としての直感でもあって それは 大きく言えば 思考の緑野と同じ経験世界に属しているではないか? おそらくそうだと思われます。
 
 7. しかも ひとりの人間の主観内面における信仰の命題と 人びとの集団にとってのその文化(文章化・規範化)なるオシエとは 別だと考えられます。

 8. 社会にとってその秩序のためには 《思考の緑野》なる次元に即した規範が必要ではないかという向きには おのづからと言うかのごとく 人びとのあいだの――思考をつうじての――《取り決め》があります。法律です。

 9. つまり 信仰と法律があればよいのであって 宗教としてのオシエは とどのつまり 要らない。こう成ると考えられます。
 

 10. シュウキョウも オシエをあたかも神としていただき 聖性を帯びさせた権限の体系としてのヒエラルキアなる組織として活動するなら 《動態》であるかも分かりませんが これは 経験世界(思考の緑野)にあって 何を思ったか 非思考の庭へとわが手を伸ばし その手で観念の神を自由自在に扱おうかという精神錯乱に落ち入っています。この世に 神の代理がいるというオシエの基礎があります。妄想です。

 11. シュウキョウは オシエによって 哲学としての《思考の緑野》を省みずむしろ思考停止に落ち入り 信仰としての《非思考の庭》を懐柔し得たとうそぶく《人間停止なる状態》に落ち入っています。


 こんな感じだと思います。

投稿日時 - 2014-07-15 23:43:44

お礼

回答ありがとうございます。

私の無知、無学を痛感いたしました。

勉強になりました。

投稿日時 - 2014-07-15 23:58:35

ANo.14

宗教について、質問者さんはあまりにも偏見にみちているようであるから、ひとつ社会的に善である宗教教義の例を出しますよ:

つぎのような教義だけをもつ宗教を考える
教義:自分の所有物で、余った物を、それが必要な他人に分け与えたら、神様は喜び分け与えた人が天国にいける可能性をふやしてくれる

交換経済において(つまり生産活動は既に終わって、その配分の段階のこと)、このこの宗教が信じられることは社会的に善であることの証明:
この教義を真剣に信じる物は、余った財を、必要な人に配分する可能性が高まる。よってパレート改善の可能性を高めるのであるから、ある人によってこの宗教が信じられることは社会的に善である。

投稿日時 - 2014-07-15 23:43:15

お礼

回答ありがとうございます。

確かに、私は一部の宗教だけで、殆どの宗教、哲学さえも、勝手な妄想を加え、否定してしまいました。

恐ろしいことをしました。

間違いに気づかせていただきました。

投稿日時 - 2014-07-16 00:05:10

ANo.13

少し、質問者さんの回答を考えてみましょう:

>宗教には、オシエを、刷り込み、洗脳するということを、当たり前にやります、

またでたらめを書いていますな。日本だけでも30万あるという宗教組織ですべて洗脳がおこなわれているのかな?
自分の経験から言えば自分の祖先のお墓を管理するお寺から、洗脳されたことは一度もないですな。


>挙句に他宗教と殺し合いしている

宗教信者とそうでない人の、殺人を含む騒動での犯罪率の統計比較に基付いているの?


>キリスト教は教義を信じれば天国に行くと教えています。
>嘘であるなら、信者は誰も救われることは、有りません。
>であるなら、宗教の存在自体が悪であると思います。

これって、まったく論理的ではないですね。
「教義を信じれば天国に行く」の否定は「教義を信じても天国に行かない人がいる」
でしょ。

>嘘であるなら宗教の存在自体が悪

これは正しいが、嘘である証明はできないのであるから、表現しても無駄。
ある宗教を信じて、他人を迷惑をかけず自分がより幸せになるなら、信じることは、パレートの意味で善ですよ。
つまり、宗教を信じることは社会的に善でありうるんだよ。


>哲学においても、個人個人自分の思想を主張して、間違えている可能性は無いのか?
>間違えていればどんなに高等なことを言っても価値は有りません

自然科学では一般に反証可能性が問題にされるが、哲学オンリーでは問題にされることないでしょ。
反証可能性が問題にされれば、科学の分野になるんだから。


>宗教は神とか、仏を説いているのです、これはどんな出鱈目を言っても、誰も反論も証明も、できないのです。
ですから、次から次へと如何わしい宗教ができるのです。

そうだろうか? 君は「如何わしい」と判断できているではないのかね?その根拠は、オウムの悪を警察が証明したと表現している。反社会的かどうかは、犯罪と結びつくかどうか、人に迷惑をかけるかどうかで、判断できるじゃん。
反社会的出ない限り、何を信じようと、自由なんだよ。
 

投稿日時 - 2014-07-15 23:17:23

お礼

回答ありがとうございます。

私の表現の仕方に問題が有ることが分かりました。
まだ、まだ宗教、哲学を語るには無学すぎました。

また疑問が出てきたら質問させていただきます。

投稿日時 - 2014-07-15 23:46:16

ANo.12

No.9です。
お礼、ありがとうございます。

>例えば、キリスト教は教義を信じれば天国に行くと教えています。
>宗教が嘘であるなら、信者は誰も救われることは、有りません。
>であるなら、宗教の存在自体が悪であると思います。

自己解釈で教義を歪める可能性は、どの宗教にもあり
それは、どの哲学・どの思想でも、たとえそれ以外のことでも
あらゆることに言えると思います。

解釈を自己都合に合わせるのは、一般庶民の日常でも十分にあり得ます。

ですから、何に対しても盲目的にならず簡単に騙されず
自分であることを維持し自分の足で立って自分の足で歩く人生を
送りたいと思うのであれば、自分で見る目を養う必要がありますよね。

考えずについて行くだけで、幸せになりたいと望むなら
笛吹きに踊らされても、レミングの群れよろしく沈もうとも
他者が止めるのは至難の技です。

自分の思いを深く汲み取らなければ、簡単に踊らされても
不思議ではないように思います。

自身の真意を汲み取って行かなければ、教義やそれ以外のことも
精査して、どのように対応して行くのかは導き出すことは困難でしょう。

自分の根底が自分としての基準であり考えと判断の元ですから
自分という基準値がなければ、なすがまま・流されるままに
他者の基準で翻弄されます。

自分がどうありたいのか。
行き先を見て歩く道を決めないと、自己都合の美味しい話しや
我や欲のつっぱりの先は、日常誰しも落とし穴の連続ですよね。

自己責任といえばそうでもあり、たやすく片付けられそうですが
自分の人生の責任は、最終誰でも自分しか背負えない自覚だと思います。

蒔いた種を刈り取るのは、いつの世も変わることではないでしょう。

日本の今の状況責任も、1/大人人口は私にもあると思います。
そういう自覚で、日々どう生きてかかわって行くのか。

そのような自分なりの何かを持って生きれば
間違いは気がつけば訂正し、大きく逸れず
巻き込まれないように気をつけることも可能のように思います。

間違えない人は見たことがないですし、誰でもいつでも
自分でも間違える可能性は十分にある。
なおかつ万全は無くても、それなりにできる範囲はある。

そのような事ではないかと、考えています。

投稿日時 - 2014-07-15 22:57:55

お礼

回答ありがとうございます。
わたしは、信じやすい人間です、馬鹿と言えばそれまでですが、宗教にも、他にも騙されました。
常ずね、何故人は騙すのか?騙す人は許せないと思うのです。
しかし、おっしゃる通り、自分でよく精査して、判断しないと、良い結果は出ないということですね。

馬鹿を治す努力をしたいと思います。

投稿日時 - 2014-07-16 00:30:00

ANo.11

宗教についてはよく判らないんで置いといて。
なんとなく、ぽやぽやと思ってる事ですが、

「考えて、いろいろ知って、更に考えて、自分なりの答えを探す」

のが哲学じゃないかなぁ?と。


ここで重要なのは、自分なりだから、時代や環境が変われば変わるよ。その自分がいる社会がどんなものかでも。

西洋哲学と東洋哲学が違う事で、哲学そのものを糾弾する人って滅多にいないと思う。時代と環境と社会が違うんだから。


自分内部で考えて、わしはこー思う。と言い合ってる。
それを聞いて更に考えて、わしはそれをこー思う。と続いてくのが哲学なのかな?


Aの意見とBの意見は違う。
でも、Bが生まれてからずっとAと全く同じ環境にいたらAの意見になって、AもずっとBと同じ環境で生きてたらBの意見になったんじゃないかなぁ、と思わなくもないんですよ、私。
意見がかみ合わないのは普通にある事で、その環境等を考慮しないと相手が言ってる事が判らんのも当然かなぁ…って。
昔は、同じコミュニティや、似た世界観の人同士で、哲学を話し合ってたけど、現代はいろんな環境や世界観の人がいて話してるから、現代は自分だけにあったものが多いと感じるのかな?と思いました。

投稿日時 - 2014-07-15 19:03:41

お礼

回答ありがとうございます。
私も全くあなた様と同じに考えています。

私が感じたことは
宗教は神とか、仏を説いているのです、これはどんな出鱈目を言っても、誰も反論も証明も、できないのです。
ですから、次から次へと如何わしい宗教ができるのです。

哲学においても、錯覚、勘違い、妄想、こういうものがはいる可能性がとても多いです、宗教ほどは他人の人生を左右しませんから、もっと軽い気持ちで哲学論を主張できるのではないでしょうか?

そこに大きな疑問を感じました。

投稿日時 - 2014-07-15 21:39:20

ANo.10

宗教は寄付金を集めるビジネス。
哲学は授業料を集めるビジネス。

似て非なるものですね。

投稿日時 - 2014-07-15 15:37:30

お礼

回答ありがとうございます。
 
宗教は 寄付金(これは殆ど強制)を集めるビジネス。
哲学は    授業料金     を集めるビジネス。

どう考えても同じに思えるんですが?

投稿日時 - 2014-07-15 21:27:27

ANo.9

宗教の教義は、本来は思想であり
思想は、哲学になると思います。
哲学は、明確にするためにあると個人的には考えています。

明確にするために手法や、明確にして考えてみたことに思想と言う名があり
哲学全体に明確にする(した)・明らかにする(した)ことが主眼となっていると
私には見えます。

そのために哲学は科学にも採用されているのではないでしょうか。


ただ、今の日本で宗教と言う言葉は一人歩きして
盲目的に信じる対象を持つものとしてのイメージがあるように思えます。

科学信奉や個人信奉や団体信奉が
熱心な信者を満足させるために存在しているような
そんな状況が時流としてなってきているように感じますね。

数学者が、一つの公式で一つの法則性を表すように
哲学者もまた、一つの論文や一つの本で一つの物事を深く
掘り下げて表してあるのかと思います。

一つの切り口で、全体をすべて表せるほど世の中の仕組みは単純ではなく
全体を表そうとすれば、細部の明確さは犠牲になると思います。

大見出し、小見出し、記事みたいに
何段階か踏んで、理解していかないと
人間の頭はついてこないのかもしれません。

学問の学びも、いきなり詳細をやらずに
小・中・高・大・院とだんだんと詳細になって行きます。
人間は徐々に高めていくしかないのかもと思う次第です。

投稿日時 - 2014-07-15 13:51:38

お礼

回答ありがようございます。
例えば、キリスト教は教義を信じれば天国に行くと教えています。
宗教が嘘であるなら、信者は誰も救われることは、有りません。
であるなら、宗教の存在自体が悪であると思います。

哲学においても、個人個人自分の思想を主張して、間違えている可能性は無いのか?
もし、間違えていればどんなに高等なことを言っても価値は有りませんし、信じた誰かが被害をこうむります。

もちろん私の無知が原因の質問かもしれません。

投稿日時 - 2014-07-15 21:18:09

ANo.8

 こんにちは。

 宗教と哲学とは 同じ次元にありますよ。

 宗教は オシエですから。たとえ 信じなさいと言ったとしても それ(その発言)は ただの人間の思考や想像および感覚の世界のことです。

 つまり 《信じる》というのは 個人の内面におけるそれとしての行為ないし状態ですが それは オシエではありませんし オシエによってああだこうだとか どうせよこうせよとかと言われても 何の関係もありませんから。

 つまりわれわれ人間にとって 信じるを 他人がいかに強要したとしても 強制されることはありません。

 仮りにその強要に屈したとすれば そのオシエの押しつけに従っただけのことです。《信じる つまりは わが心なる非思考の庭――それは動態――》は 何の影響も受けません。受け得ません。

 その信じる対象は かたちあるものではないからです。神は 理念における概念としてのかたちすらありません。もし何らかの意味やイメージのある観念を神として信じるの対象にしているのならば それは 人間の想像によってつくった神でしかありません。観念の神であり その意味での偶像崇拝です。



 オシエは 信じるの対象にはなり得ません。想像の産物であり思考の対象です。つまり このオシエということがらを扱うぶんには 宗教と哲学とは同じ次元にあります。

 いまおこなっているように宗教とは何かを明らかにするかたちで オシエにも哲学はかかわります。

 オシエは信じるものではなく それにもかかわらず信じる(つまり 心に神として受け容れる)なら おのれの想像した神を信じ込むに過ぎない。偶像つまりアイドルを後生大事に胸にいだいている。

 すなわち もしこのことを知らず オシエを信じなさいと言い続けるのなら シュウキョウは 人間にとってよろしくない心的および社会的な現象である。というところまで 哲学は食い込みます。

 これは
 ★ しかし、宗教は現実には、迷える子羊を更に迷わし、集め、子羊たちの血を搾り取っている。
 ☆ と分析なさったところですね。





 ★ ~~~~~~~~~~~~
 宗教は、迷える子羊を救うこと。
 哲学は、迷える自分を救うこと。

 では、ないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ シュウキョウについては そのように看板をかかげているということでしょうね。イツハリの看板を。

 哲学は 《迷える自分をすくう》のは いかなるチカラであるか? これを明らかにする問い求めでしょうね。
 哲学だけで自分を救い得たならば それに越したことはないとは思います。もう言うことはありません。





 ★ 哲学って何かの答えも哲学者ごとに違うのではないでしょうか?
 ☆ 神とは何かについては 普遍なる共通の理解があると考えます。名前がさまざまに違っていても・あるいは有る神のほかに無い神を――想定として――立てていたとしても すべて神は 同じひとつなるナゾであると考えられます。そうでないというのは 神ではないことになるはずです。から。

 同じひとつの神を それぞれがいだきながら・あるいはそれに反抗をさまざまに企てながら・あるいはさらにそこから離反しえたと思い込みながら 人は生きているものと思われます。

 その一端は
 ★ 自分だけに合った哲学が特に現在は多いのではないでしょうか?
 ☆ に現われているように思われます。




 ちょっとカッコウつけすぎたでしょうか。

投稿日時 - 2014-07-15 08:11:16

お礼

回答ありがとうございます。
せっかくですが、反論させてください。

>「信じる つまり わが心なる非思考の庭ーそれは動態ー」

宗教には、オシエを、刷り込み、洗脳するということを、当たり前にやります、毎日、毎日、集会、会合、教義の勉強をさせて、単なる思考の感覚のオシエを、信じ、寄付と布教をし、挙句に他宗教と殺し合いしている、これは動態ですよね。
これは、オシエによって思考も、無思考の庭も全て影響を受けている、ということではないでしょうか?

わたしは、哲学をこれから学ぼうとする者ですので、理解不足かもしれませんが、ここが引っかかります。

>ちょっとカッコウをつけすぎたでしょうか?
いいえ、とても考えさせられ、勉強になります。

投稿日時 - 2014-07-15 22:28:04

ANo.7

哲学を論じることに大して、宗教を対極におくことはおかしいと思います。昔のアンチ巨人でしかないことをにわす、むなしさがあります。

しかも宗教をひっくるめて

主張A:
>宗教は現実には、迷える子羊を更に迷わし、集め、子羊たちの血を搾り取っている。

って、証明可能な命題なの? 証明可能であるとしたら、どのようにして証明できたの? オウムをあげているけど、それは宗教の一部分ではないですか?

無宗教は世界人口の12.7%パーセントしかいないと言われています。
主張Aが正しいとしたら、残りの87.3パーセントの人々は、騙されていることになりますが、証明もないそのような主張の信憑性はどこにあるのでしょうか?

投稿日時 - 2014-07-15 08:02:26

お礼

回答ありがとうございます。
厳密に分ければ、違いが有るのかもしれませんが、哲学は宗教の源の神も扱っていますよね、つまり、哲学の中には宗教は含まれると私は考えました。

私に、証明はできませんよ、あなたに正しい証明はできるのですか?
オームの証明は警察がしたのですよ。

現実社会を一般的にみて、私が感じた質問なんですがね

創価学会は選挙利用しているじゃないですか?
キリスト教も、寄付集めしていますよ、大本は莫大な資金が潤っていますよね?

最後に全てではないと但し書きしています。

投稿日時 - 2014-07-15 20:59:39

ANo.6

今はアレフですね?
どういう教えや救いがあるか全く知りません。
逆に知ってたら教えて下さい。

投稿日時 - 2014-07-15 02:53:42

お礼

回答ありがとうございます。
アレフに変えないと存続できないので、中身は同じだろうと思います。
同じ指導者が指導しているわけですから、どう考えても信じることはできません。

投稿日時 - 2014-07-15 20:39:10

ANo.5

あなたは、目をあけているか?
目をあけて、環境を見ているか?
「目をあけて見ている」からといって、誰もが同じものを
見ていると思うか?
哲学は世界観であり、見えているものをより明らかに
感じさせるものだ。
生きていく先を見通し、出来事を洞察し、達成を深く喜ぶ。
世界は1つであり、哲学が多数あるといえど、その道の
至る頂は1つである。

いや、哲学に限らず、物理学も化学も生物学も社会学も、
あらゆる分・科学は、人の能力の限界によって分担され
ているだけであり、この世界を構成する情報に、物理だの
生物学だのといった分かれ目がある訳ではない。
それらは「1つの世界」を理解するジグソーパズルの
1ピースに他ならない。

投稿日時 - 2014-07-15 02:28:52

お礼

回答ありがとうございます。
おっしゃる通りだと思います、個人個人見るものは違っても、本質には共通するものが有るからこそ哲学という学問が有ると思います。
ただ、私には最近の哲学者はその本質がバラバラのように見えました、私の勉強不足には違いありません。

投稿日時 - 2014-07-15 20:28:59

ANo.4

「信じてやったのに~された」これは誰権限ですかね?信者の?


宗教を信じてる人に聞かないと答えられないです。
神が絶対救ってくれると信じた本人にしか。
でも神にしろ「人のせいにするな」と困ってるかも。

投稿日時 - 2014-07-15 02:02:43

お礼

再度回答ありがとうございます。

でしたら、あなたのお子さんがオームにはいっても引き留めないということですね?

投稿日時 - 2014-07-15 02:15:41

ANo.3

哲学とは、知の探究であると思います。人を救ったり、迷わせたり、或いは社会を転換させたり、何の用も為さなかったりというのは副産物で、主眼は常に知の探究にあると思います。だから、万学の祖と言われるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2014-07-15 01:54:44

お礼

回答ありがとうございます。

哲学の知とは、人間の現実を知ることだと思います。

その理解しがたい人間の現実を理解するために、見えない力を想像し仮定して現象、現実をより深く理解するのではないでしょうか?

私は、つまり、あなたが言われる副産物が目的だと思います。

投稿日時 - 2014-07-15 02:26:49

ANo.2

「救う」というより「よりよい人生とは?」と
現在の自分に一般常識に改良を求めること。

各人のより良い生き方に定義はありませんから
各人で勝手に納得しうる定義を持つしかない。
「よりよい生き方」が実践されたから迷いから救われたことになった。

しかし理解しずらい文章や、内容がない長文の説は
常識の改良とか人に話す以前の問題があるのでしょう。
私の頭にも問題があるのでわかりますけど。

「その論理カッケー」と共感するなら、
既に自分も感化され責任の一部を担う覚悟を持っておれるけど、
鈍臭い他人の頭の中まで詮索する権利は哲学にもないし。

宗教は信じることで救われます。
哲学は採用するかしないかを判断するためのもの。
もっと改良して便利にならないか?適応能力を高められないか?
試行錯誤、常識も疑ってます。

けど信じていい救いはいつか死ねること。
だから哲学は「死の演習」なんていう。

投稿日時 - 2014-07-15 01:19:06

お礼

回答ありがとうございます。

ドンくさいのは、分かりますが、人間として問題があるとは思っても見ませんでした。

>宗教は信じることで救われます。
では、オームを信じて人殺しの道具にされた人は救われたのでしょうか?

投稿日時 - 2014-07-15 01:45:43

ANo.1

大筋で、大多数の各機関に携わる人間が、この範疇に含まれると思いますので、間違い無いでしょう。

至極、正しいのではないでしょうか?

>これを読んでいる宗教関係者、哲学関係者の方は例外ですので、該当しません、悪しからず。

しかし当方の理解力ではこれが判りませんでした。

投稿日時 - 2014-07-15 00:05:20

お礼

回答ありがとうございます。

関係者の中には、信じている人、気付かない人、いますよね。
そういう方を傷つけないようにと、
真面目な本当の宗教、哲学が私の知らないとこで有るかもしれないからです。

投稿日時 - 2014-07-15 00:42:35

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