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公教育の英語教育は不要では?

公教育の英語教育は不要では?

このままいくと将来、旅行のための英語、訪日外国人のための英語、片言レベルで問題のない多くのビジネスマン英語、これらの人々へ行った英語教育とそこにつぎ込まれた資金はすべて無駄になる見込みだそうです。

昨今、人工知能がだいぶ発達してきました。有名なのはチェス勝負でチェスのチャンピオンにコンピュータが勝利、チューリングテストに「13歳」の人工知能が合格したり、クイズ王とクイズ対戦でIBMの人工知能Watsonが勝利するなどしています。

10年ほどで携帯電話での音声リアルタイム翻訳が可能になると言われています。おそらくは人が話すようにはならないでしょうが、旅行などでの片言英語レベルには十分すぎる機能になると思われます(現在でもリアルタイムでなければ可能とのこと)。

将来、旅行者、訪日外国人、片言レベルで問題のない多くのビジネス、これらの人へ行った英語教育はすべて無駄になります。また個人個人の誤った英語に対応するより、コンピュータの統一した英語の誤りの方が多くの人が間違いに対応しやすくなります。

このような状況である現在、公教育としての英語教育って必要ですか?
公教育としての英語教育は最小限にして、流暢な中国語、流暢なドイツ語、流暢な英語、あるいは数学、科学、体育などへ個人の選択で教育を拡大して受けられるようにすべきではないでしょうか(ちなみにアメリカでは将来の中国の経済発展を見据えて、国防総省が旗振り役となり中国語教育を拡大させているそうです。無駄な争いを避け、相互理解を深めるためだそうです)。

しかも日本では英語教育への予算がどんどん拡大されています。
公教育としての英語教育って必要ですか?最小化すべきでは?

投稿日時 - 2014-06-11 17:38:45

QNo.8633228

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

私のIDのDeepblueは、チェスチャンプに勝ったIBMの人工知能から取ったものですよ(笑)

私は貴方の意見に同意です。発想が似ていますね。さすがチューリングテストなんて言葉を使うだけあります。国の教育方針は、完全に間違っていると私には思えますね。英語に力を入れるのではなく、多様化に力を入れるべきなのです。別に数学しか出来ない奴がいても問題ないですから(笑)それこそ『英語しか出来ない奴』がいるのだから、彼らを十二分に活用できる仕組みを作ったほうがマシですね。

私が危惧するのは、英語学習に傾斜することによって、馬鹿になるってことです(笑)例えば、センター試験の英語なんて、米国の小学校3~4年生の教科書程度の内容です。そんな力を獲得することに必死になってどうする?ってことです。中身空っぽじゃないですか。おまけに、英米では、他言語を日本ほど必死に勉強している訳でもなく、学習時間が別の方向へ向けられる為に、結果的に『英語が出来る中身空っぽの人間』と、『教養あふれる人間』という厳しい差が生まれます。

あくまで英語力にこだわるのであれば!覚悟を決めて母国語として取り入れるべきですね(笑)実は、明治時代に、ひらがなと漢字・カタカナをやめて英語にしようという動きはあったのですよ。西洋文化が洪水のように流れてきて、日本語では対応できなくなったからですね。その時に英語にしていたら!インド英語のようなものが日本にも出来上がっていたかもしれません。

ただバイリンガルでも分かるように、思考レベルが高くなる、抽象度が高くなると、やっぱり母国語でないと考えられないものですよね。早稲田理工の大学教授に、『アンタ、英語できるって言ってるけれど、英語で本当に論理的なことを考えられるの?』って嫌がらせの質問をして問題を出してみたら、すぐにギブアップしてきて(笑)やっぱり日本語ではないと抽象度の高い世界は思考できないじゃん!ってことが分かった訳です。

結局、思想というものは、母国語で紡ぎあげるものです。英語一辺倒にしたら、文化も滅びますが、具合の悪いことに、英米のような英語力には至らないでしょうから、どっちつかずになり、下等民族に成り下がってしまいます。センター試験の英語って言っても、米国の小学校4年生の教科書くらいの文章ですよ。その程度の『中身』です。浅い思考の民族に成り下がってしまうのではないか?と思っちゃいますよね。

明治時代に、日本の綿が英国市場を席巻しましたが、日本人が英語が堪能だったから貿易に成功した訳では全くないですよね?。製品が良かったからです。英語ができるけれど何も持ってない国だったら相手にされない訳でして(笑)エリート層に徹底した英語教育を課すのは良いですが、一般的には、英語力なんて必要ないでしょ?。もっと別の力が必要ですよね。豊かさとは多様性を意味するのだからね。

なんか日本人は勘違いしているよね(笑)

投稿日時 - 2014-06-28 07:10:46

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回答(9)

ANo.9

 No.8の方に一部同感できます。一部といったのは、この国がかつて行ってきた「多様な形」の中身が改めて問われるべきであるからです。
 「多様な価値観の共存」「多様な働き方」との言葉を弄んだ結果がどの様な問題を引き起こしたか。それと同様の結果をこの国はまた繰り返しはしまいか。
 日本の教育制度がいわゆる「単線型」であることは多くの方々が既にお聞きになってもいるはずですが、その中身が現実とは乖離している部分があることも一方の現実です。選り好みさえしなければ、大学にほぼ全員が入れる、こんな国家は他にありもしません。
 大学教育と職業教育それぞれの住み分けができているのが「複線型」の発想であり、必要に応じて選択肢を途中でも自由に組み替えることができる。これが複線型教育制度の持つ最大のメリットであり、単線型ではこうもいきません。専ら共通カリキュラムの下で一斉方式の授業を受けてきた生徒が、大学に入り初めての講義で面食らうのはこの点です。
 一つの論題に対し様々なアプローチ方法を採り、論証過程と仮説の検証を行うとのスタイルに殆どの学生が面くらい、試験を課そうものならば「先生、このテストには漢字書き取りなどがないのですが」と質問してくる始末です。論述による吟味を問うことが目的であることすら理解できない学生を大学に押し込まれても困ります。
 そして入学後に改めて振り分けをするのは「文献を原語で難なく読むだけの能力資質」があるかどうかとの要求以外の要素はありません。
 その資質も高校までの文法知識を前提とする基礎的なものであって、何もネイティブスピーカーとのコミュニケーション能力を育成するなどとの要素は全くの別問題です。理系ならば尚更に海外の古典的な研究から最新の成果までに関する知識も求められ、それゆえに英語能力が必要ともされる。
 蓋し、これは大学教育に関するものであって、それを国民全てを対象とするべきものではないことも踏まえねばなりません。
 教育に携わる者側からすれば、発音よりもむしろ「辞書を読んで言葉の意味を理解すること」の方に重心を置くべきではなかろうかと感ずる次第です。

 追記
人工知能の問題が引用されていますが、人工知能の枝葉を削ぎ落としていって残るのは「想定内のもの」の範囲を超えるものではないでしょう。自らが思考回路を持つには後少なくとも半世紀以上は必要と僕は考えもします。
 アリストテレスに始まり現代の現象学に至る「思索の森」を全てデータ化するのは大凡不可能、或いは学問に対する挑発行為とも受け取られるでしょう。喩えるならば『バベルの塔』や『御釈迦様の掌でうろちょろしていた孫悟空』と同じですよ。
 何となれば、思索は常にアクティブに変化し続け、野球に喩えるならばブラッシュボールの類すらもあります。相撲ならば「猫だまし」などの極めて珍しい技が使われることにも似ていて、それが絶対にあり得ないとの確たる証拠もない限り、全ての可能性をインプットすることは不可能ですから。

投稿日時 - 2014-06-28 12:11:05

ANo.7

 とても面白そうなご質問ですね。少なからず教育に携わる者としてお話しさせていただけたらと存じます。
さてこの問題を検証していくならば幾つかの論点を前提とすることになりますので、そうした点を整理しながらお話ししていきたいと存じます。
(1)「必修教科」としての英語がいつ生まれたのか?
(2)その目的がどこに置かれていたのか
(3)それによって日本の学童や学生が受けるメリットがどこにあるのか
を論点とするならば、(1)の問題では幾つかの時期区分が行われます。
(A)戦前
(B)1945~1952(占領期)
(C)1952~1970年代前半(高度経済成長期)
(D)1970年代後半以降
先ず、Aですが、戦前は小学校までが義務教育だと知っている方は難なく除外できるでしょう。ただ、戦後のどの時期がとなると、殆どの方がイメージできないはずです。インターネット上では時としてまことしやかに「終戦直後、日本を占領していたGHQが日本をアメリカ化するために英語を必修にした」との珍説も論じられているので、Bだと答える方もいるかもしれません。或いはそうでなくとも、「何となく」Cと答える方も多いのではないでしょうか。
 正解はDの1970年代後半以後、になります。実際に中学校で「英語(外国語)」が必修科目となったのは21世紀に入ってのことで、2002年以後になります。ということは1990年以後に生まれた若い方でない限り、みんな「選択教科」として英語を学んでいたとの話になります。
 そんなことあるわけないだろ!とのご意見も当然寄せられるでしょうが、2001年までは確かに「制度上では、学んでも学ばなくてもどちらでもよい教科」だったことは事実です。
 無論、殆どの人に選択の余地がなかったわけですから、「事実上の」必修教科目だったことに疑いの余地はありません。ただ「事実上の」ということは、ある時に突然「明日から必修だよ」と言って決まったわけではない、ということです。
 ではこの「日本の中学生全員」が英語を学ぶことが、なんとなく当然の様になっていって、いつの間にか北から南に至る全国の全ての中学生が英語を学ぶとの状況が出現したとの話が改めて問題となるはずです。事実上の必修化が、いつ、どの様に、そしてなぜ生まれたのか、を考えるにはこうした前提が必要となります。

 無論、全員が全員、英語を必要とするわけでもありません。英語の文化圏で生活したり、職業として英語を使うならば、学校英語だけでは十分とはいえませんね?。
 実際に日本の英語教育では、文法に重心が置かれることから、それを無駄だの無意味だのと非難する傾向も見られがちですが、単に名詞の数やネイティブスピーカーとのコミュニケーションをスムーズにするとはいっても、基本的な部分を捨象しては相手との意思疎通を果たす「手段としての言語」を身に付けることとはなりません。この点を多くの人、殊に実業界の方々は誤解もしています。
 実務の世界であっても、例えば契約行為などの場合では、英語ができても「法律上の言葉」を理解出来ない限り、契約締結にあたっては支障を来すことも多く、そうした場合ではTOEICのスコアがどうのこうのといって自慢する方に限って、仕事をしていないことと同じ結果にもなります。
 以前に比べて、学校で英語の授業を受け持つネイティブの講師の「日本語能力」も向上改善され、英語を学ぶことで自らの母国語をより的確に理解する事を彼等は何よりも大切にもします。こうした部分には日本で教育に携わる方々は、まだまだ学ぶべき余地もあると存じます。
 英語は語順と文型で全ての要素を扱いもしますが、適切な日本語に訳すならば、どうしても「助詞」の力を借りる必要もあり、日本語特有の「文末まで読まねば」それが肯定文であるか否定文であるか、或いは疑問文であるか、反語文であるかを判断することも困難です。こうした事象が物語るのは、彼等が「言葉の意味」を何よりも重視しているからであって、それを他国語を学ぶことで自国語の豊かさに反映させたいとの「言語教育の本質」を理解している以外のなにものでもありません。それは「公共教育機関としての学校」だから可能なことであって、街中にある語学教室ならば、そんなことは全くお構いなしです。スラングには強いがクイーンズ・イングリッシュを理解できないインチキ講師もごろごろしています 笑
 こうした部分にこそ、外国人講師の方々は着目しているわけであって、何も英語が話せれば格好イイ!との見かけだけを求めているわけではありません。
 文科省や実業界のお偉いさん達がこぞって「英語、英語!」と連呼する背景には、御自身の日本語能力の貧困や言葉の意味を軽視しているとの姿が僕には見えてもしまいます。
 国際会議などでは同時通訳のシステムもあって、そうした場に出席する方々ならば、リアルタイムでのレスポンスを求められもしますが、殆どの人が日常的に日本語で話していて不便もありません。むしろ日本語を使う世代間でのギャップの幅が年々深くそして広くなっていることの方が気になっているとの意見を外国人講師の方からは聞くことも増えています。
 仮に世界中の人口比からすれば、最も多く使われる言語が中国語であり、続いてはアラビア語やスペイン語・ポルトガル語といった事実もあります。南米ならば殆どがこのスペイン語やポルトガル語であり、アフリカに行けばアラビア語やその地域での言語です。こうした地域で「英語」を使うならば、それは原語との間にワン・クッションを入れる形ともなり、こうした点でも「英語=オールラウンドな言葉」とするには些かの無理もあるでしょう。

 とはいえ、僕らが何がしかの論文を発表するには、日本語と英語双方で提出せねばならないとのルールもあり、苦慮していますが 笑

投稿日時 - 2014-06-25 18:12:21

ぼくもあってもいいけど、個人の自由にすべきだと思っています。
それぞれが好きな勉強をとことん集中できれば、平均的にできるが、役に立たない人材はいなくなる。

つまり、英語教育どころか5教科もいらないと思っています。

英語ねぇ。
その前に日本語を勉強すべきでしょう。

投稿日時 - 2014-06-16 17:30:33

ANo.5

公教育として英語教育が必要か否か?国民全員に必要か否かという質問なのでしょうか?

もしかりに国民全員に必要か否かということであれば、現状の教育で十分ではないでしょうか。国内だけで仕事・生活をしている多くの国民には、英語はそんなに必要ではないと思います。

一方で、外国人や国外出張が多い仕事に就いている国民には、現在の英語教育では不十分ではないでしょうか?徹底的に英語な英語教育をしないと、外国人と対等に議論できるレベルに達しません。
例として相応しいか否か分かりませんが日本の柔道界の指導者が国際会議に参加して英語で意見を主張できない場面を多くみかけます。彼らの多くは、小学校から柔道の技術を磨いて一流の選手になっています。しかし柔道以外の教育を十分受けていない人が多いのか、国際会議で外国の指導者と英語で議論ができません。そのため、ルール変更などに関しても日本の意見が全く通らないように思います。世界大会に出場するようなスポーツに関わる人は、語学を磨くことは必須だと思います。

特にグローバル化を標榜している大学関係者や政府関係者等については、現在の公教育では不十分です。外国人の教員や研究者を招聘してシステムをグローバル化するためには、英語教育の改善をすることは必須だと思います。また政治家、特に総理大臣や財務大臣など英語力は必須だと思います。

英語教育とは別に、日本国内の教育システムの根本的な改善が必要ではないかと思います。義務教育においては、原則として落第という制度は存在しないと思います。学力不足のまま出席日数だけで進級させたり、問題児は一日も早く学校から追い出すような風潮が強いのか、学力不足のまま進級・卒業させていると聞きます。

このような進級システムが高校にも影響し、学力不足のまま進級・卒業ということになっているように思います。大学入試に関しは、比較的厳しいように思えますが、入学者数が減少して経営難に陥るという理由で安易な入試制度を利用していると聞きます。入学した後は、大学においても一部で学力不足のまま進級・卒業しているように思います。

小学校・中学校・高校・大学の各レベルで、卒業に相応しい学力があるかどうかを確認する「卒業試験」がないので、学歴に相応しい学力がないまま卒業しているように思います。学問の自由などを理由に、このような意見には反対も多いと思いますが、「卒業試験」に相当するような学力確認試験を行って卒業認定を行えば。大卒の英語力は飛躍的に向上するように思います。

大学院に関しても、文科省が大学院の重点化という方針を打ち出してから、各大学の大学院生は飛躍的に増えたと思います。しかし我が国の学位審査は主査(指導教官)・副査の制度を採用しております。アメリカなどの欧米諸国では、指導教官は学位審査には関与できないシステムを採用しております。また我が国の奨学金給付制度は、修士課程(2年)、博士課程(3年、医薬は4年)と決まっており、この年限内に学位が取得できなければ奨学金の給付は受けられなくなります。欧米では学位取得に相応しい研究結果が得られるまで奨学金を給付が受けられます。このような教育制度の差異を改善しなと、グローバル化は難しいように思います。また大学院における英語教育(会話を含めて)はまだまだ不足しているように思います。

表面的な改善では英語力は向上しないと思います。英語力・会話力をつけないと困るという必要性があり、個人の努力があれば、短期間に飛躍的に向上するように思います。公教育だけに頼る必要はないと思います。

投稿日時 - 2014-06-16 11:06:17

ANo.4

日本語が絶滅しても、英語は残るでしょう。教育では効率はあまり問題ではありません。無駄でないかどうか必要かどうかです。
日本語をしゃべれなくても英語がしゃべれたら他国で生きていけます。言語は人間の必須のツールです。そして、自国語以外に異なった体系の外国語を学ぶのは、言語の本質を知る意味からも重要です。

よって
>公教育としての英語教育って必要ですか?

必要です。

日本人が英語に堪能でないのは、特に必要としないからです。どんな他国の古典でも近著でも即座に日本語で発刊されます。大学で自国語だけで学べるのは日本くらいのものだといわれています。

しかし、高校で物理や微積分が必須になっているように、いやそれ以上に英語は学ばねばならない学問だと思います。実用英会話も含めて。

投稿日時 - 2014-06-15 13:24:56

どこかで聞いたのは、イギリスと日本は同じく海に囲まれていて、イギリスは海洋国家で日本はただ囲まれているだけだそうです。

不確かですが、イギリス人も外国語が不得意とも。ただ世界で英語が通じます。

最近でいえば、ニューヨークタイムズを買わなくてもサイトで外国のニュースを知れます。

積極的に英語など駆使して、外国のニュースも読んでほしいように思えます。

まず、外国語が難しいと日本人がおもいすぎているように思えます。

http://www.nissay.co.jp/enjoy/keizai/33.html (nissay)
EUではバイリンガルが多いのだとか。

英語と日本語の体系が多く違っていて、かつイギリスの植民地になったわけでもないので、全体として不得意だそうです。

英語を外国語と思うことが外国語が難しいと思う原因かと思います。
http://worldtravel.blog51.fc2.com/blog-entry-10.html (世界一周を目指すみかんの日常日記)

問題は英語の教育の仕方であって、しなくてはいいとはなりません。

グローバルに経済が拡大して、やはり世界の情勢は知らないといけませんし、仕事などいろいろ必要かと思います。

効率が悪くても残さないといけませんし、選択科目としてほかの言語も学ぶ機会を作って難しいイメージの払しょくもいいと思います。

人工的知能がかりに発達しても、逆に進んだ時代に基礎の教養として外国語を知らないのは少しどうかなと思います。

投稿日時 - 2014-06-14 18:51:58

ANo.2

「公教育」という言葉は、義務教育はもちろん含みますが、入試で合格すれば誰でも入学できる学校を全て指すことになります。人脈や思想などを選考基準にして選ばれる学生を対象にする「私塾」の逆の言葉です。

そのような公教育では英語を第一外国語として教えることには何ら反対意見はありません。大学であれば第二外国語を選択できますので、その機会を待つことに不合理はないと思います。

公教育ができない部分を街中の「○○語教室」が担っているのです。質問者さんのように英語以外を学びたい人は、そちらにいくという選択肢があります。しかし公教育の場(特には公立の小中高)で、英語以外の外国語を教えることには反対です。

アメリカは日本のように義務教育でも校区がなく、自由に学校を選べます。日本語教育で成果を上げている学校には、同じように日本語を学びたい生徒が集まります。日本とは比べ物にならないほじ自由が認められています。

第一外国語が「英語」に限定されたのは、戦後の占領政策の結果です。日清戦争に負けていたら今の日本は中国の一領土として中国語を話していたでしょうし、日露戦争に負けていたらロシア語を話していたはずです。幸いに第二次大戦後は植民地の独立が進んだので、日本がアメリカの植民地にはならずにすみました。英語教育でとどまったのは時代の流れの中での幸運だったと思います。

というわけで、幸か不幸か日本では英語教育が進みましたので、他の外国語を学ぶ機会は大学以外にはほとんど皆無に近いです。現在の英語教師と同じだけの中国語やドイツ語教師が集まるとは思えません。

高校以上であれば、専門的な科目を集中して受けることは可能ですし、現在そのようになっています。理数科、工業科、体育科などです。高校の全てが普通科ではありません。ましてや大学は学部に分かれています。

小中学校ではその基礎になる知識が必要ですので、専門分野に分かれることは無理です。まさに「ゆとり教育」がそれを目指して始まり、実施前に破綻してしまいました。今では基礎的な学力を取り返そうとして必死になっています。

投稿日時 - 2014-06-13 00:37:42

補足

> そのような公教育では英語を第一外国語として教えることには何ら反対意見は
> ありません。大学であれば第二外国語を選択できますので、その機会を待つこ
> とに不合理はないと思います。
>しかし公教育の場(特には公立の小中高)で、英語以外の外国語を教えることには反対です。


不合理が多く問題です。第一外国語が英語である必要性がない以上不合理以外のなにものでもありません。
何か大きな勘違いをしているようですが、英語を習得するのに現在の日本の小中高大という教育ルートを辿らなければ英語が学べないということはありません。そんなのはトンデモ教育論の中でしか通用しない話です。


> 幸か不幸か日本では英語教育が進みましたので、他の外国語を学ぶ機会は大学以外に
>はほとんど皆無に近いです。現在の英語教師と同じだけの中国語やドイツ語教師が集
>まるとは思えません。

英語教育を行っている人の半分以上が英語圏以外の外国人である日本で、そのような現実味のない話はおかしな話です。またITインフラも進み、書物も豊富で、物流も発達している現在で全くのナンセンスです。


> 高校以上であれば、専門的な科目を集中して受けることは可能ですし、現在そのように
> なっています。理数科、工業科、体育科などです。高校の全てが普通科ではありません。
> ましてや大学は学部に分かれています。
> 小中学校ではその基礎になる知識が必要ですので、専門分野に分かれることは無理
> です。

princelilacさんの話は偏重しすぎていますね。敷かれたレールの上だけを歩いたごく一部の人をモデルケースにした現実味のない話が多すぎます。通常、基礎学力とは読み書き計算程度の話です。モデルケースを作り、すべての人がその順序どおりに動く必要性がないものが殆どで、語学などはその典型で型どおりに行わないと学べないというものではありません。何か偏差値至上主義の極めて偏りの大きい人話のようです。


> まさに「ゆとり教育」がそれを目指して始まり、実施前に破綻してしまいまし
> た。今では基礎的な学力を取り返そうとして必死になっています。

だとするといわゆる ゆとり世代 は高校大学には進学できないはずです。
ゆとり教育批判は単なるイデオロギー対立から出てきた一部の人の噂話程度の話なので、ゆとりだなんだというのは無視して差し支えないものでしょう。

投稿日時 - 2014-06-13 18:12:05

ANo.1

英語教育は今のままで十分だと思います。国立大学を卒業しいる程度の若者なら、長文のレポートを読むことも出来ますし、自分の考えを英文で表すことも出来ます。
 問題は喋れないことですが、英会話なんてアメリカに1年もいたら嫌でも覚えるのです。
 現実に欧米で活躍している日本人はみんな堂々と話しております。
 大切なことは英語で何を伝えるかです、最低日本文学に対して自分の意見も述べられないではバカにされるだけなのです。
 我々日本にいる、凡人は簡単な英会話などハローサンキューぐらいが言えれば充分なのです。
 それで通じなければ日本語を勉強しない外人が悪いのです。
そんなときな「スタデイ ジャパニーズ」と言えばいいのです。

投稿日時 - 2014-06-11 19:13:03

補足

書き込みありがとうございます。

多様性が重要ですね。
技術革新で変わるもの変わらないもの、普遍的価値など将来を見据えた教育改革が必要ですね。

1980年代に将来を見据えてもっとIT教育にも熱心であったら日本はITでこれほど遅れをとることも無かったでしょう。(一部では行われていたようですが、政界、財界、官界の大多数がそれを理解できなかったようですね。)

投稿日時 - 2014-06-13 18:25:19

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