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解決済みの質問

宗教の倒錯

年末渡航の折に上村静というクリスチャンの方が著した「宗教の倒錯」(岩波書店)「旧約聖書と新約聖書──「聖書とは何か」」(新教出版社)を持参し読みました。

〈いのち〉を生かし肯定するはずの宗教。
その宗教がなぜ自らの〈いのち〉を他者に依存し或いは他者の〈いのち〉を奪うことになるのか。
古の神話論的表象に満ちたユダヤ教キリスト教の聖典──聖書。
古代であれ現代であれ、人は死すべきものとして生まれ死するがゆえに生きようとする。
独りで生まれてきた者はおらず独りで生きられる者もまたいない。
他者とのかかわり合いのなかで、喜び、怒り、悲しみ、楽しみつつ、与えられた〈いのち〉を全うするのである。
神話を通じて人間の悲哀や希望を学ぶにあたり「信仰のキリスト」と「歴史のイエス(史的イエス)」とを区別する等といったキリスト教に対する批判をも厭わない同著は、キリスト教を信じぜぬままに理解を深めたい私にとって大いに考えさせられるものがありました。
(私のかかりつけの病院は終末期医療に注力しておりその理念を理解したいとも考えています)

例えば、イエスの「罪人」に対する思想活動。
当時民衆が抱いていた終末待望とは、この世で〈いのち〉を活かしている神に対する宗教的敬虔という名の不信仰であり、それは民族主義、律法主義の根源に他ならない。
洗礼者ヨハネの悔い改める活動もまた終末の裁きを逃れる二元論的世界観であった。
ところがイエスの思想はそれとは異なる。
律法遵守の度合いが人間存在の評価基準にはならず、いかなる者も創造主たる神によって「等しく生かされて在る」ことを訴える一元論的人間観である。
イエスが「罪人」に「罪の赦し」を宣言し会食をともにすること──これは特定の律法違反の罪の赦しという字義通りの意味では無い。
「罪人」と民衆からレッテルを貼られ、共同体から疎外され、相対的に蔑まれている人々の〈いのち〉を肯定し、また、他者とのかかわり合いの中でこそ〈いのち〉は十全に生き生かされることを提示する象徴行動なのである。
「悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を上らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さる」(マタ5 45)


以上、同著をお読みになった方で何かご感想やお気づきの方がいらっしゃいましたら、後の参考にさせていただきたいと願います。
ご教示のほどどうぞよろしくお願い致します。

投稿日時 - 2014-01-28 14:10:37

QNo.8450608

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

 資料をおそわりました。さらに問い求めをいただきました。

 何の資格もない者の見解を尋ねてくださって感謝いたします。

 次のように考えています。

 (1) 《終末論的回答》とそれだけに終わらないのだという見方――ユダイズムを広く世界に開くということ――

 たぶんユダヤ民族の命運といった観点からは 一たんひとつの段階の歴史が終わる――つまりは それまでの歴史の清算が成される――という《とき》を迎えた。こう思われるようになって行ったことでしょう。

 話を端折りますが 問題は イエスはできるだけユダイズムの枠内でコトをはこぼうとしたけれど 言おうとしたメッセージは とうぜんのごとくその枠をはみ出していた。したがって この終末をむかえるといったひとつの歴史的視点は そのまま霞んで行く。ものと見ます。

 たとえば カナンの女が 娘を助けてくださいとイエスにたのんだとき
 ▼ (マタイ福音 15:21-28:カナンの女の信仰) ~~~~~~
 24: イエスは、
   「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」
  とお答えになった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とあります。そしてこのときにも その女の信仰がりっぱだと言って願いに応じています。つまりすでにユダヤの枠を破っています。そうなのですが 一般に発言の基調は 旧約聖書の枠を守るようにして・しかもあたらしくは突拍子もなく自身が神の独り子だとまで明らかにしたという恰好だと思われます。

 枠を超えることは 弟子たちあるいは 異邦人への使徒と呼ばれるようになったパウロにゆだねられました。(ペテロでさえ 或る日いろんな動物の入った風呂敷のまぼろしを見ました。異邦人も 清いのだという神の声だったわけです。=使徒行伝10:9-33)。


 (2) パウロを擁護します。

 ▼ (上村) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・パウロの望む「永遠の生命」とは、「自分の生命」が永遠であることである。それは、自我の認識する「生命」の永続への欲求、すなわち「神のようになること」への欲求であり、究極のエゴイズムである。それが自我(エゴ)に発する欲求であるがゆえに、パウロの神はその欲求を満たしてくれる因果応報の神となる。罪を罰し、義に報いる神、聖性を要求する神である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ パウロと律法について かんたんにその姿勢を確認します。《律法〔を守ること〕 あるいは 因果応報説》からは自由だということを 誰よりも深く告げました。

 ▲ (ローマ書 《正しい者は一人もいない〔と要約されるくだり〕》)~~~
 3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。
   律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 ▲ (同書 《信仰による義》) ~~~~~~~~~~~~~
 3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
   22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。
    そこには何の差別もありません。

 3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。
    決してそうではない。
    むしろ、律法を確立するのです。

 ▲ (同書 《隣人愛》) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。
   人を愛する者は、律法を全うしているのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (3) つづいてもパウロ擁護論です。

 ▼(上村) 非キリスト教信者はたんに非信者ということだけで「非倫理的」(=偶像礼拝者)と見なされ、信者であっても「非倫理的」と見なされれば断罪される(1コリ五─六章)。
 ☆ まづ 《律法》主義ではないということは 《倫理規範や道徳》をあたかも人をさばくための基準にするということはあり得ないと受け取っています。(人をさばくことそのものがないと見ます。行為について批判をすることがあります)。
 
 ただし倫理の問題が 色濃く議論されていることはあります。これは ちょっと筋が違うと思われるかも知れませんが
 ▲ (コリント前書 1:21) 宣教というおろかな手段
 ☆ を用いているあいだは 仲間内の規律やまた内外における秩序がそれとして優先されてまもるべきだと考えられている。こう単純に受け取ります。

 基本の理論としてではなく 社会生活上の波風を立たせないための措置としてではないか。

 ▼ (上村) ・・・それは、もともとエゴイズムに発する「救済」への欲求なのだから、暴力に帰結するのは当然なのである。キリスト教は、パウロよりも少し後の時代からその文字どおりの暴力を行使して今日にいたるが、それはそもそも「永遠の生命」の獲得というキリスト教の救済論に内在する暴力性(エゴイズム)の顕在化なのである。
 ☆ とにもかくにもヒエラルキアなる権限関係にもとづく場合には・つまり組織宗教にあっては その階層秩序がオシエそのものと見なされるならば 非人道的な支配はあり得ると考えます。起こり得ていると見ます。

 ただし
 ▼ パウロはそれを倫理主義という形に確立したと言える。
 ☆ これは あり得ません。《信仰による義》とは 無根拠による義のことです。義無きを義とする信仰の庭です。
 
 ▼ (上村) ~~~~~~~~~~~~~~
 パウロの倫理的完全主義は、パウロ自身の作り上げた「律法の終わり」という神学にかかわる(後述)。パウロは律法を否定するが、その律法がパウロの倫理基盤のもとである。律法を否定し、律法(書かれた法律)なしで、しかし(律法の観点から)倫理的に正しく生きることを求める。それゆえ心を縛る完全主義に傾いてしまうのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。たしかに先のローマ書13:8では隣人愛をつうじて律法を全うするとも言っていましたが たとえば:

 ▲(パウロ:ピリピ書1:21-22) ~~~~~~~~~
 21:わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

 22:けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん 生きる基礎がちがっているものと見ます。言いかえると 信仰に拠って愛をつうじて律法を満たすことは けっきょく恩恵によるものです。人間のチカラによって――と言っても努力はするのですが その努力や能力によって―― 律法の精神をまっとうするものではないわけです。次元が違って来ていると見ます。

 (4) さらにつづきます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 でも、今現在私たちの直面している諸問題をふまえ《〈いのち〉の尊さとそれを侵す権威主義やご都合主義、人が人を裁き差別するなどの暴力性に主眼を置いて》解釈すれば、そのようになるのも致し方ないことかと思われます。
 上述のパウロについても同様です。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 一般に世の中というものについては 理論どおりには行かないわけです。そもそも個人の人生が おのれの思うようには成らない。(これを 《苦 duhkha 》と言うそうです)。

 言いかえると たとえ有効で有益な考えやまた行動を示そうとしても 社会的な力学――単なるチカラ関係――の有力と無力とですべてが決められて行く場合が多いようです。

 このことが それでは クリスチアニズムのエゴイズムや暴力指向から来るものかと言えば どうなんですかねぇ。

 現実は現実ですので くつがえすまでの議論を用意できませんが ひとつ思うことは クリスチアニズムの倫理を その推進力がエゴであるのだから エゴイスティックに推し進めるといった見方よりは そうではなく 次のような事情があるとも考えます。
 すなわち たとえばすでに出て来ている《隣人愛》 これなどは 《自分と同じように愛する》というふうに条件づけられていて 自分が出来る範囲でというふうにも採れます。採れますが それでも この愛の実践は むつかしい。
 つまり クリスチアニズムの倫理をそのまま推し進めているから エゴイズムと暴力という結果が出て来るというよりは その倫理が 律法の場合と同じく それを守りおこない切る人はいないというところから 世の中の《苦》は現われて来ているのではないか? ――少なくともそういった一面をも考慮して欲しいように感じました。

 倫理主義の完全主義を実行するというのなら すべてが偽善で覆われていたとしても そうとうりっぱな世の中になるのではないでしょうか?

投稿日時 - 2014-01-30 23:09:50

補足

>言いかえると たとえ有効で有益な考えやまた行動を示そうとしても 社会的な力学――単なるチカラ関係――の有力と無力とですべてが決められて行く場合が多いようです。
>このことが それでは クリスチアニズムのエゴイズムや暴力指向から来るものかと言えば どうなんですかねぇ。

そうですね。
これについて、例えばカルヴァンなどはどうでしょうか。
またあらためて別の機会にこっそりお尋ねしようと思います。

このたびは本当にどうも有難うございました。

投稿日時 - 2014-02-02 13:21:41

お礼

bragelonneさん、重ねてのご回答どうも有難うございます。

>何の資格もない者の見解

前回も申し上げましたがbragelonneさんのお説は参考にさせていただいております。
ただ、お読みになっていない(著書がお手元に無い)以上は、誤解が生じぬよう著書から適宜転載せざるを得ませんし、あまり大量に抜粋するのは控えたいと思っております。

>たぶんユダヤ民族の命運といった観点からは 一たんひとつの段階の歴史が終わる――つまりは それまでの歴史の清算が成される――という《とき》を迎えた。こう思われるようになって行ったことでしょう。

そのような意味でおっしゃっていたのですね。
ご教示有難うございます。
その「歴史の清算」について筆者は次のように述べています。
──キリスト教の反ユダヤ主義の淵源は、聖書解釈の相違に由来すると言える。イエスの弟子たちは、イエスの死と復活──キリストの出来事──を聖書預言の成就と解釈し、ユダヤ教の中にキリスト教を形成した。セクトの乱立していた一世紀のパレスティナにおいて、聖書解釈の相違はごく普通のことであり、それだけならば対立は生じたとしても「反ユダヤ主義」という事態にはいたらないはずであった。ところが、パウロはさらに独特な聖書解釈を提示した。キリストの出来事によってユダヤ教の選民と律法という契約は、「新しい契約」に取って代わられた「旧い契約」になったという──これを「交替主義神学」または「置換神学」という──。そしてこのパウロの語る「福音」を受け入れないユダヤ人は、「神の敵」だと断ずる(ロマ一一28)。パウロ本人は、キリスト教というユダヤ教とは別の宗教の正当性を主張しているのではなく、あくまでもユダヤ教はキリストの出来事をとおして神によって更新されたのであり、その更新されたユダヤ教こそが聖書に記された神の意志なのだと主張しているのであるが、「新しい契約」を「旧い契約」と二者択一の問いにしたこと、「信仰」か「律法」かという問いを立てたことは、「旧い契約」とされた「律法」をなお有効と考えるユダヤ人を断罪することに繋がった。

 キリスト教は、ユダヤ教から分離した結果、ローマ社会から新奇な邪教として迫害されるようになったが、そこでローマ社会に対する弁明として「聖書」を利用しようとする。古いことはよいこと、新しいことはうさんくさいことと見なすローマ社会に対し、ユダヤ人の「聖書」をキリスト教の「旧約聖書」であると主張することで、自らの「古さ」の証明にしようとしたのである。モーセや預言者はホメロスよりも古く、その聖書にイエス・キリストの出来事は預言されていたのだ、聖書はキリストの預言であり、イエス・キリストはその成就なのだ、と。このローマに対する弁明は、ユダヤ教に対する言いがかりをもたらした。聖書がキリストの預言なのだから、それはユダヤ人の聖書ではなくキリスト教徒の聖書である、ユダヤ人ではなく、キリスト教徒こそが「真のイスラエル」なのだ、と。こうして、「旧約聖書」と「新約聖書」は、二つで一つのキリスト教聖書とされた。ここにおいてキリスト教は、ユダヤ人(イスラエル)の抱える二重のアイデンティティを信仰共同体に純化した。「旧約聖書」という呼称は、二重の仕方でユダヤ教を否定している。ユダヤ教の契約はすでに終わった「旧い契約」だと言いながら、その聖書はユダヤ教の遺産ではなく、キリスト教のものだというのである。こうしてキリスト教は神学的にユダヤ教を否定すると同時にその遺産である聖書をキリスト教の「旧約聖書」として簒奪した。「旧約聖書」とは、キリスト教による反ユダヤ主義を象徴する呼称なのである。

 二世紀から三世紀半ばまでは断続的なキリスト教への迫害があったが、それはローマ帝国の主導というより一般民衆の訴えによるものであり、また一斉に全キリスト教徒を対象にしたのでもなく、教会指導者を見せしめとして処刑するものであった。しかし、三世紀半ばから四世紀初頭にかけて、大規模な迫害が帝国主導で行われ、キリスト教徒の数は激減した。ところが、キリスト教徒の母を持ち、キリスト教徒の支持を得ていたコンスタンティヌス一世が皇帝の座に着くと、キリスト教は公認され、やがて帝国の保護を受けるようになる。そしてテオドシウス一世の時代に、キリスト教はローマ帝国の国教になる。

 するとキリスト教徒は、ただちにユダヤ教への攻撃を始める。シナゴーグ(ユダヤ教会堂)とユダヤ人住居への放火、理由なき殺害が繰り返された。こうした暴力に対し、ローマ皇帝はしばしば法令を発布し、宗教の権威を悪用してむやみな暴力を振るわないようキリスト教徒に警告している。しかし、こうした暴力を正当化し煽ったのは教父たちであった。ミラノの司教アンブロシウスは、シナゴーグに放火したキリスト教徒の減刑を皇帝に請願し、「しかも、燃えたのはシナゴーグに過ぎません。そこは不信心な者の居場所、不敬虔な者の家、神自身が有罪を宣告した愚か者の避難所です」と記している。コンスタンティノープルの大司教ヨアンネス・クリュソストモスは『ユダヤ人駁論』を著し、ユダヤ人への罵詈雑言を繰り返す。彼はシナゴーグを「売春宿、悪党たちの巣窟、野獣たちの休息所、悪魔たちの住処」(I三1)と呼び、そこに聖書があるがゆえにシナゴーグを憎み嫌うという。なぜなら彼らは預言書を持っているが信じず、聖なる書物を読むがその証言を拒むから、と(I五2)。ユダヤ人はモーセや預言者はキリストを知らないしその到来について何も語っていないと侮辱している、なによりもこれら聖者たちに対する彼らの無礼な扱いゆえにキリスト教徒はユダヤ人とシナゴーグを憎まねばならない、と(I五4)。つまり、聖書解釈が異なるがゆえに、ユダヤ人は虐げられるべきだというのである。帝国側も徐々にユダヤ人の権利を制限し始める。五世紀初頭にはシナゴーグの建造が禁じられ、また地位ある職に就くことも禁じられた。以後はよく知られているように、古代末期から中世を通じてキリスト教によるユダヤ人迫害、さらに十字軍による虐殺が続く。

 カトリック教会の権威と伝統を否定し、「聖書のみ」を標榜して始められた宗教改革──これをきっかけにプロテスタント教会が生まれる──も、ユダヤ人の扱いという点ではなんら変わらなかった。マルティン・ルターは、はじめはユダヤ人のキリスト教への改宗を期待して彼らを親切に扱うように主張したが、二十年後には『ユダヤ人と彼らの虚偽について』という文書で、改宗しないユダヤ人への激しい憎悪をむき出しにしている。「悪魔の子ら」「悪魔の巣窟」「呪われた民」などの決まり文句を用いつつ延々とユダヤ人に対する罵詈雑言を並べたあげく、「このいまいましい拒絶されたユダヤ人の輩をどうしたらいいのか。…(中略)…奴らには我慢ならない…(中略)…。われわれは祈りと敬意をもって慈悲深い苛酷さを実行せねばならない」と記す。そしてユダヤ人に対してドイツ諸侯が取るべき態度として、シナゴーグないし学校に火をつけること、ユダヤ人の家を破壊すること、祈祷書とタルムードを没収すること、死をもってラビの教育を禁じること、ユダヤ人の街道通行の保護を取り消すこと、高利貸しを禁じ財貨を没収して別に保管すること、若くて強い者は肉体労働に従事させることを挙げた上で、ユダヤ人を国外に追放することが最善であるという。ルターの提言は、当時は快く受け容れられたわけではないし、その後のドイツに広まったわけでもない。これに目をつけ、実行に移したのはおよそ400年後のナチス・ドイツであった。

 宗教改革に伴って起こった度重なる宗教戦争は社会の世俗化をももたらした。それは教会支配からの解放をもたらし、啓蒙思想を生む。啓蒙主義が活発になると、ユダヤ人にもこれに同調し、差別から解放されるためにはユダヤ人自身が古い慣習から解放され、他の西欧人と同じ教養を身につけるべきことを主張するハスカラー(啓蒙主義)運動が起こる。1789年のフランス革命を契機に西欧のユダヤ人は徐々に解放へと向かい、同化も進行する。しかし、世俗化によってキリスト教というアイデンティティが崩れていく中、近代国民国家を人民の新しい紐帯とするため民族の神話や国家の神話が生み出されていき、19世紀後半には近代ナショナリズムが西欧各国に台頭してくる。そうした中、ユダヤ人は国民国家内の異分子と見られるようになる。従来のラビ・ユダヤ教に留まる者はもちろん、すでに同化したはずの者も「ユダヤ人」として疎まれるようになる。こうして反ユダイズムというキリスト教世界の土壌に近代国民国家のナショナリズムが重なり、それに近代特有の合理主義精神にもとづく疑似科学的な「人種」という概念が加わる形で反セミティズムが生まれ、ホロコーストの悲劇を生んだ。──(p328-335)「旧約聖書と新約聖書──聖書とはなにか」より

>クリスチアニズムの倫理をそのまま推し進めているからエゴイズムと暴力という結果が出て来るというよりは

bragelonneさんのこのような視座もとても参考になります。
そのような見方ももちろんあろうかと拝察します。
ちなみに筆者はあとがきにて日本の歴史、とりわけ近代国家としての日本にも批判の眼を向けています。

そしてまた──これは私の個人的な感想なのですが──世界的に国家的・民族的なナショナリズムが高まりつつある状況において、私たちは、ある意味、かつてのユダヤ人のように疎まれつつあるのではないか、などとも思うのです。

投稿日時 - 2014-01-31 12:19:08

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回答(8)

ANo.8

 ★(No.6補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >▲ (ローマ書11:28-32) ~~~~~~~~~~~~~~
  >28: 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
  >29: 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
  >30: あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
  >31: それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
  >32: 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、>それは、すべての人を憐れむためだったのです。
  > ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ・・・・・
  で、もし上記(28~32)を一言でまとめるとするなら、
  bragelonneさんならいったいどのように述べますか。

  また、いったい何のために「福音について言えば イスラエル人は あなたがたのために神に敵対していますが云々」と著したとお考えになられますか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 何だかむつかしそうですね。
 と思っていたら その直前のくだりに説明が書いてありました。

 ともかくパウロの考えでは こうであるようです。

 ▲ (ローマ書11:25-27) ~~~~~~~~~~
 25: 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、
 26: こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。

     「救う方がシオンから来て、
      ヤコブから不信心を遠ざける。
 27:   これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、
      彼らと結ぶわたしの契約である。」
          (イザヤ書59:2-21)

 28: 福音との関連からすれば イスラエル人は・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 あるいは さらにもうちょっと前のくだりに こういう記事があります。

 ▲(同上 11:11-12) ~~~~~~~~~
 11: では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。

 12: 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。


 

 13: では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。

 14: 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
 ・・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ でも何だか どうなんですかねぇ。自分たちのつまづきは 異邦人のすくいとなり そこで ねたみを起こして欲しいというのも 何だかつくったような話に聞こえます。


 うむ。どう捉えますかねぇ。
 やっぱり ユダイズムを その神が神みづからを止揚したごとく ほかの民族の存在する世界へと開いたということ。これが 一にも二にも 重大であるということのように まづ思いますね。

 律法によって社会秩序をたもつという行き方――ユダヤ人はまだそれを守っていますが―― これが 終わって行く。宗教が おしまいとなる。

 ▲(ローマ書11:28) 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
 ☆ とでも言って あたたかく受け容れてあげなきゃあ仕方ないでしょうね。
 つまりですから もういっさいが自由なわけなのだと思います。世界に全体として 神はひとつ。名が違うだけ。とまで成れば かなり障害は消えたでしょうし 消えて行くでしょうと思います。

 つまりいまでは もうそういうことしか考えなくなって来ています。そして 日本としては 復興です。(その時その人にとって そういった主題や課題があってよいのだと思います)。



 しゃれたことを言えなかったですね。個人の見解を述べるときと場なのですが。

 どうですかねぇ。

投稿日時 - 2014-02-01 18:43:42

お礼

bragelonneさん、聖書の転載も含めてご教示有難うございました。

何度も読み直してみたのですが、私にはこの聖書のくだりが理解できませんでした。すみません。

あるいはキリスト教徒の方々ならおわかりになるのかもしれないとも思いました。

投稿日時 - 2014-02-02 13:11:45

ANo.7

 これまでの資料の教示をふくめて このやり取りをありがとうございました。


 感想ていどに思うところです。


 1.
 イエスは ユダイズムを その枠をできるだけ保ちつつ 突き抜けようとした。去ったあとにこの突き抜けは パウロらに託した。
 この点は 特に違和感はなかったでしょうか?


 2.
 ★ ・・・上村氏の神の救済行為についての誤認というよりも、氏の主張するパウロの律法主義つまり倫理的完全主義に対する批判の延長として「不完全な者を不完全なままで…」と述べたに過ぎないのかなと受け取りました。
 ☆ そうですか。そうですよね。聖書学の専門家ですから たとえばカルワンのごとく《予定説》のような固定した救済の方程式を主張するわけではないでしょうね。

 (つまり すくわれる・すくわれないが 予定されているとすれば この世で精を出して仕事をするしかないと結論づけたり その仕事で成果を出すことが それでもすくいの証しになりうると言ったりするのは 救済の仕方が あたかも自分が神であるかのように分かっていると言ったことになるおそれがあります。

 聖書では 神の座の右と左に羊と山羊とが捌かれるといった記事もありますが これもすべてタトエとして受け取ります。いま・ここなる現在のわれに対するコトバだとして。つまり すくいは 予定されているかいないかさえ 分からないと言わなければならないと考えます)。



 3.
 ★ 私はフロイドの「モーセと一神教」を思い出しましたよ。
 ☆ いまはすでに この書もそしてフロイトという思想そのものも 歴史上なかったとさえ捉えています。
 ニーチェしかりです。先ほどのカルワンしかりです。ゴータマ・ブッダその人の思想もしかりです。

 こういう高ぶりの心を持った人間と話をしていること自体 世間に対しては マイナスとなるかと思います。すみません。


 4.
 ★ 信徒ではない私の場合、キリスト教の原罪を拙いながらも理解しようと試みるのであるなら、ゆりかごから墓場まで、いえ、あまねく胎児のいのちから生まれ出でいのちが尽きるまで広く神がかかわっているとまず前提します。
 ☆ そうですね。その《神がかかわっているという前提》 これを持ったあとわたしは その《かかわり》の現実性はすべて《ひらめき》において捉えようとしています。そしてこれを ふつうの経験合理性で理解する思想として表現する。というようにです。

 つまり何のことはなく ふつう一般に社会の中で仕事をする人たちがおこなっている人生観や人生設計あるいはもろもろの社会政策を互いに問い求めて行くという姿勢です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 古代の人々が色々考えてみたのではないでしょうかね。
 なぜこの世に生まれ出たのかとか、なぜいのちにかぎりがあるのだろうか、などと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ となると 死生観のようなところまでおよぶのですね。わたしは いまは 復興のみをかかげています。


 ★ 胎児や乳幼児、病人や介護を必要とする人々をいったいどのようにとらえればよいのだろうと思ったのでした。
 ☆ 《胎児や乳幼児》については すみません。特に考えたことはなかったです。すくすくと育って欲しいです。

 《病人や被介護者》につきましては ひとつにその時その場で 全存在で向き合い話をする。もうひとつに これからの歴史において どこかで――何の根拠もありませんが――社会のどんでん返しが起きると思っています。そのとき いまの病人など弱者の半分は 起き上がり立ち上がるのではないかと思っています。病気が直るという意味でです。

 たぶんいろんなかたちの弱者の市民権の獲得運動 これについては ましょまろさんのほうが よく考えておられるだろうと思います。単純にそう思います。その件で上村氏のうったえるところをよく把握して出しておられるようですから。


 こんな感じです。

投稿日時 - 2014-02-01 18:09:18

お礼

bragelonneさん、このたびもご教示有難うございます。

>イエスは ユダイズムを その枠をできるだけ保ちつつ 突き抜けようとした。去ったあとにこの突き抜けは パウロらに託した。
>この点は 特に違和感はなかったでしょうか?

はい、有難うございます。
そしてそれは以下のような捉え方でよろしかったでしょうか。
「民族宗教であったユダヤ教から民族という枠を飛び越え、ユダヤの戒律と決別し、普遍宗教としてあまねく人びとを救済していった」

ところでbragelonneさん、これは素朴な疑問なのですが、
イエスその人本人は、後を託したパウロの行いや教え、死後自分が三位一体云々と祀り上げられたことについて、いったいどのように思っているのでしょうね。ちょっと気になりました。

イエスの思想とパウロの思想では相反するものも少なくありません。
キリスト教の本質としては、はたしていったいどちらなのでしょう。
それとも、このようなことを考えること自体意味の無いことなのでしょうか。

>☆ カルワンのごとく《予定説》
>つまり すくわれる・すくわれないが 予定されているとすれば この世で精を出して仕事をするしかないと結論づけたり その仕事で成果を出すことが それでもすくいの証しになりうる

bragelonneさんがおっしゃりたい意味、私にもわかります。
当時は善かれと確信して熱心に説いたのでしょう。きっと。

>☆ そうですね。その《神がかかわっているという前提》 これを持ったあとわたしは その《かかわり》の現実性はすべて《ひらめき》において捉えようとしています。そしてこれを ふつうの経験合理性で理解する思想として表現する。というようにです。

もしかすると、古代の落日に生きたアウグスティヌスもまた、《ひらめき》によって捉え思想として表現したのかもしれませんね。

ところで近年ドラマ実写化されたようですが、ご存じでしたか?
http://www.youtube.com/watch?v=lIu5UYa_c2E

>《病人や被介護者》につきましては ひとつにその時その場で 全存在で向き合い話をする。もうひとつに これからの歴史において どこかで――何の根拠もありませんが――社会のどんでん返しが起きると思っています。そのとき いまの病人など弱者の半分は 起き上がり立ち上がるのではないかと思っています。病気が直るという意味でです。

bragelonneさんの
「《病人や被介護者》につきましては ひとつにその時その場で 全存在で向き合い話をする。」
は、多少なりともイエスの教えを念頭においていらっしゃるのでしょうか。などとも思いました。

>わたしは いまは 復興のみをかかげています。

承知しました。

>上村氏のうったえるところ

上村氏はこうも述べています。
「人間ひとりひとりに内包される普遍的な〈宗教心〉を他宗教や他の諸文化と共有しているがゆえに、かえってキリスト教には絶対的価値、他宗教との優劣の比較なしにそれ自体が有する自立した価値があるのである。」
また、
「自説を数あるうちの一つに過ぎない、手引きは手引きとして、読者に聖書を自ら読み解いてもらいたい」と。

bragelonneさんの「パウロの信仰」を念頭におきつつ、追々手にしていこうと思っている次第です。

投稿日時 - 2014-02-02 12:54:31

ANo.6

 今回は 自分が読んでいない前に大胆にも書評を寄せるという越権行為を 平気でおこないました。(まぁ いつも 自由勝手な批判をかたっぱしからおこなっていますが)。


       *


 ▼ 「人間は独りでは生きられない。他者とのかかわりあいの中でしか生きられない相対的な存在である。」
 ▼ 「〈生きる〉とは〈いのち〉とは、関係の中で生かされてあるものだ。」
 ☆ この命題に対してなら 次のように考えます。対抗命題です。

 ○ ~~~~~~~~~~~
 1. 人間は 孤独である。しかも やがて孤独とは 孤独関係であると知る。

 2. 言いかえると 人間は 社会的な独立した存在である。孤独でないとは言えない。しかも同時に 社会的な関係存在である。孤独がいっさい他者と無関係だとは言えない。

 3. 独立性は 自由意志のそれである。二人や三人があつまってやっと意志が固まり その独立性が保証されるというものではない。《わたし》が 独りで 独立している。

 4. 関係性は やはり自由意志の問題である。自由とは 他者との関係においてしかあり得ない。 他者との無関係・無関心の状態にあっては ほしいままに振る舞えるかも知れないが もう《自由》という主題は なくなっている。

 5. よって《人間は 互いに相対的な存在である》が 《他者とのかかわりあいの中でしか生きられない》というのは 言い過ぎである。片寄っている。もしそれを言うのなら 《他者とのかかわりあいの中で 意志自由という独立性においてしか生きられない》とも 同時に言っていなければならない。

 6. 人間にとって 関係性は絶対的なことであるが 独立性をも同時に捉えこれら両面をともに自覚して生きるとき 人にとっての共生が成ると思われる。

 7. この社会的な存在どうしの共生が成るとき そこには《いのち》が生きていると言えるかも知れない。
 
 8. いのちとは このような人びとの――思考を超えたところの・という意味での霊的な――共同性(ネットワーク)だと考えられる。

 9. 人間のあいだには しばしばこの《霊における共生性》をおれは把握したのだ そのおれについて来いという人が現われる。《いのち》の不思議さ・それに対する畏れに驚きを隠せなかったのでしょう。(よく採れば)。

 10. いのちを霊なるナゾとして受け容れるのは 信仰(非思考の庭)である。霊をこの手で掴んだ 操作できるんだぞと唱えるのは オシエを説く宗教である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ゆえに 《いまはもう原罪も贖罪も言わなくともよい》と結論づけます。いわゆる民主制が実現しつつあると見られるからです。キリストも ほかの名の神もすべて背景へしりぞきます。(一人ひとりの信仰は 自由です)。


          *

 

 ▼(上村) アダムをとおして罪が入り込み、「すべての者」が罪を犯した。だが、キリストの義をとおして「すべての人(間)」に義がもたらされる。ここでは「すべての人」の救済について語られているように見える。しかし、実際にはパウロはキリスト信者のみの救済について語る。
 ☆ これはですね。キリスト・イエスが その・どう言いますか タテマエとしてはあくまでユダイズムの内側で発言し行動しているというその形式にかかわっています。

 つまりは アダムらからの《原罪》をあがなったというのも ユダイズムの枠内でのことです。
 少なくとも 一たんその枠内での認識に落ち着いてから さらにはユダヤ人にとっては異邦人・つまり要するに世界の人びとに向けて開くという二段階になっていると捉えます。
 すなわち ここで《すべての人》と言っているのは まづユダヤ人のことであり 次の段階で世界中の人のことです。

 なぜなら 贖罪は 決して――タテマエとしては――異邦人のことは相手にしていないからです。もしユダヤ人の枠を超えて 人びとよ おまえたちの罪を 自分の命に代えてあがなってやったぞと言ったとしたら そんな恥知らずで高慢ちきな人間はいないとなります。

 あくまでイエスは 同胞のために行動しました。

 そのあと 世界に開かれます。それも パウロが勝手に開いたと見えるかも知れませんが やはりエレミヤ書のあたらしい契約説によれば おのづからユダヤ民族の枠組みが開かれて行くものと思います。

 《神は人びとの罪を覚えず 神を知れと言っておしえることもなくなる》のなら 言わば神を〔神みづからが〕揚棄したわけですから そのような自由な神は ごく自然に人びとによって・人びとにとって絶対普遍であると捉えられるようになる。からです。そのような神なら なるほど 信じられるなぁと思うはずです。(おまけに 《無い神》つまり 無神論という信仰であってもひとしく同じだとなるのですから)。


         *


 ▼(上村) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 彼らは「あらゆる民族」(マコ三10)、「全世界」(ロマ一8)に福音を宣べ伝える(マコ一三27、マタ二八19、使一8等参照)。なぜなら、「すべての人」は罪人であるが、キリストをとおして義とされるからである。パウロの「宣教」とは、世界中の人を「義人」とするために、すべての人をユダヤ教キリスト派へと帰依させる改宗運動なのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは ユダヤという枠組みは 突き破らないと捉えたのでしょうね。上村氏は。ユダヤという枠組みを 全世界に覆いかぶせると受け留めたのでしょうね。すなわち:

 ▼(上村) 「ユダヤ人もギリシャ人もなく」と言いながら、パウロは徹頭徹尾ユダヤ人であり、ユダヤ主義者である。それゆえ、イスラエルの神以外の神々を奉じる異教徒は最初から偶像崇拝者であり、「罪人」である。


       *


 ▼(上村) 奴隷についてパウロは、キリスト信者になったときに奴隷であったなら、たとえ自由人になることができるとしても奴隷のままでいるようにと諭している(Iコリ七21。田川 2007、該当箇所参照)。パウロは信者になった後に社会生活における状態の変化を望まない。
 ☆ これはですね。そのいまの奴隷の状態でいることが――社会制度であってその制度が容易には変革されがたいかぎりでは―― 特別にどうしてもダメだ ただちに抜け出しなさいというわけではないと言っているに過ぎないと思います。
 (終末に近づいたいまの時期だからという意味合いもあるとは思います。あっても それはどうでもよいと 今からは考えられます)。

 パウロの《女性蔑視》は ほんとうのようです。それは 当時の社会における・おもに低俗な人びとのあいだでの《常識》に従っているようです。なぜそうしたかは 分かりません。そのいま そこから――男女平等という問題から――出発しようとは思わなかったのでしょう。なぜか? 分かりません。身分制を改革し廃棄するウゴキとして 信仰のことを伝えたくなかったのでしょうか。
 よく受け取るなら 一人ひとりが信仰によって立つならば 社会のわるい制度についても改革をおこなって行くであろうと踏んでいたかも知れません。そういう 
 ▼ パウロの社会倫理の欠如
 ☆ です。

 
     *


 次の考えは マチガイだと思います。
 ▼(上村) だが、そもそもキリスト派にとってキリストの死とは、律法規定であれ──仮にパウロの悪徳表に数えられている行為を「悪徳」と見なすとしても──倫理規定であれ、不完全な者を不完全なままで受け入れる神の救済行為ではなかったか?
 ☆ そもそも神の愛・神によるすくい・神による信仰の授けは 神がおこなうものであって 人間はそれを受け容れるだけのことになります。

 つまり 《不完全な者を不完全なままで受け入れる神の救済行為ではなかったか?》というように予断をゆるさないのが 神の愛である。と言わなければならないからです。いつ・どのような状態において神はその人を受け容れるかは 分からないからです。

 《不完全な者を不完全なままで受け入れる神の救済行為》というのは 上村氏の憶測です。あるいはそうあって欲しいという願望です。
 神は 人間の願いや望みをかなえてくれるかも知れないし くれないかも知れません。分かりません。すべては《信仰――非思考の庭――》におけるウゴキとして現われます。勝手に決めるわけには行きません。というのが 信仰です。とパウロは 言っています。

 それはおそらく ダマスコ街道でのキリスト体験に要約されるものと思います。サウロ(当時のパウロの本名)よ サウロ なぜわたしを迫害するのか? というすでに去って行った状態にあるイエスの声を聞いたという体験です。自分からキリスト者になったわけではない。というのが 信仰だと思いますから。
 (なりたいと思っていて成る人・成れる人もいるはずですが)。


 およそ上村氏は この信仰という大前提を抜きにして パウロ論を展開している。こう思われます。
 ▼ パウロの倫理的完全主義
 ☆ これは 信仰とは明らかに別です。(それゆえ そのことを論証する細かい論点での議論は 省くことにしました)。


 
 さらに何かありましたら ともに問い求めてまいりたいと思います。この質問はひとまづお開きでしたら もうじゅうぶん書き込みをさせてもらったと思います。こちらからも ありがとうございました。

投稿日時 - 2014-02-01 00:09:57

補足

>以下の文脈の中にぽつんと《イエス・キリストを受け容れないユダヤ人は 神の敵である》という意味のフレーズがあります。
>▲ (ローマ書11:28-32) ~~~~~~~~~~~~
>28: 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
>29: 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
>30: あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
>31: それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
>32: 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、>それは、すべての人を憐れむためだったのです。
>~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>☆ ここにかぎっては 明らかに上村静の議論は 勇み足ではないかと思います。

大切な事をご教示下さりどうも有難うございます。
やはり聖書を手にしないと、ですね。
上村氏も勇み足というか強引なところがあるのかもしれません。

で、もし上記(28~32)を一言でまとめるとするなら、
bragelonneさんならいったいどのように述べますか。

また、いったい何のために「福音について言えば イスラエル人は あなたがたのために神に敵対していますが云々」と著したとお考えになられますか。

よろしければこれらも後の参考のためにお聞かせください。

投稿日時 - 2014-02-01 17:57:53

お礼

bragelonneさん、何度もご教示有難うございます。

>自由勝手な批判をかたっぱしからおこなっていますが。

私はクリスチャンではないですし、bragelonneさんの批判はとても参考になりました。
私には気付かないことだらけですから。
本当に有難いことだと思っております。

>およそ上村氏は この信仰という大前提を抜きにして パウロ論を展開している。こう思われます。
>▼ パウロの倫理的完全主義
>☆ これは 信仰とは明らかに別です。

はい、そうですね。
著者もこのように述べています。
「…読者諸氏は、必要に応じて自ら聖書をひもといていただきたい。解説書ばかり読んで、聖書そのものは読んだことがないという人も珍しくない。しかし、解説はしょせん解説にすぎないし、聖書にはまだまだ不明なことが多い。本書に展開する議論もたかが仮説にすぎない。唯一絶対の正しい解釈などありはしないのだ。手引きは手引きとして、読者諸氏には、聖書そのものを自ら読み解いていただきたい。」

>次の考えは マチガイだと思います。
>▼(上村) だが、そもそもキリスト派にとってキリストの死とは、律法規定であれ──仮にパウロの悪徳表に数えられている行為を「悪徳」と見なすとしても──倫理規定であれ、不完全な者を不完全なままで受け入れる神の救済行為ではなかったか?
>☆ そもそも神の愛・神によるすくい・神による信仰の授けは 神がおこなうものであって 人間はそれを受け容れるだけのことになります。
>神は 人間の願いや望みをかなえてくれるかも知れないし くれないかも知れません。分かりません。すべては《信仰――非思考の庭――》におけるウゴキとして現われます。勝手に決めるわけには行きません。というのが 信仰です。とパウロは 言っています。

このbragelonneさんの神に対するお説は、確かにその通りだろうと私は思います。

ただ、これは私が読んだかぎりなのですが、その箇所においては、上村氏の神の救済行為についての誤認というよりも、氏の主張するパウロの律法主義つまり倫理的完全主義に対する批判の延長として「不完全な者を不完全なままで…」と述べたに過ぎないのかなと受け取りました。

>☆ ここまで来ますと もう《ユダイズム・キリスト派》あるいはパウロのキリスト信仰を どうしてもマチガイであると決めつけているように見えてしまいます。

そうですね。
著者はユダヤ学専門とのことですし。
このような視座もあるということで。

>その後の《国教化》のあとの逆迫害 と言いますか ユダヤ人をイケニエにした迫害のウゴキ については 歴史事実ですから特に何かを申し上げることも出来ません。
>恨み辛みは そんなに強いものかという感想くらいです。

そうなのですか。あっさりとしたご感想なのですね。
性欲が感性が云々…と先の回答を拝見した際、私はフロイドの「モーセと一神教」を思い出しましたよ。

>▼ 「人間は独りでは生きられない。他者とのかかわりあいの中でしか生きられない相対的な存在である。」
>▼ 「〈生きる〉とは〈いのち〉とは、関係の中で生かされてあるものだ。」
>☆ この命題に対してなら 次のように考えます。対抗命題です。
>自由意思、共同体、民主制
>☆ ゆえに 《いまはもう原罪も贖罪も言わなくともよい》と結論づけます。いわゆる民主制が実現しつつあると見られるからです。キリストも ほかの名の神もすべて背景へしりぞきます。(一人ひとりの信仰は 自由です)。

ご教示有難うございます。
そういうことだったのですね。承りました。
そのようなお考えもありではないかと私は思います。

信徒ではない私の場合、キリスト教の原罪を拙いながらも理解しようと試みるのであるなら、ゆりかごから墓場まで、いえ、あまねく胎児のいのちから生まれ出でいのちが尽きるまで広く神がかかわっているとまず前提します。
古代の人々が色々考えてみたのではないでしょうかね。
なぜこの世に生まれ出たのかとか、なぜいのちにかぎりがあるのだろうか、などと。

そして、bragelonneさんのお説を拝見して、胎児や乳幼児、病人や介護を必要とする人々をいったいどのようにとらえればよいのだろうと思ったのでした。
自由意思や民主制は、原罪やら贖罪を不要のものとするにおいてです。

以上、お手数をおかけ致しますが、お気付きの点も含めて再度ご教示のほどお願いします。

投稿日時 - 2014-02-01 15:06:52

ANo.5

 上村静は 社会という視点を導入しているかに思われます。
 ただ いまのところ 今度はその社会の理論が 現実の社会力学という側面に集中し ふつうに言う政治学・国際関係論に移行しているかにも感じられます。

 その政治学が ダメだという意味ではなく 聖書の徒ならもう少し人間観や存在論からのアプローチが 遠回りながら あってよいようにも思いました。



 ▼ (上村 / No.3お礼欄)そしてこのパウロの語る「福音」を受け入れないユダヤ人は、「神の敵」だと断ずる(ロマ一一28)。
 ☆ このパウロの解釈については 誤解のないようにと願います。

 以下の文脈の中にぽつんと《イエス・キリストを受け容れないユダヤ人は 神の敵である》という意味のフレーズがあります。

 ▲ (ローマ書11:28-32) ~~~~~~~~~~~~
 28: 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
 29: 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。

 30: あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
 31: それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。

 32: 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここにかぎっては 明らかに上村静の議論は 勇み足ではないかと思います。



 ▼ (上村) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  「新しい契約」を「旧い契約」と二者択一の問いにしたこと、「信仰」か「律法」かという問いを立てたことは、「旧い契約」とされた「律法」をなお有効と考えるユダヤ人を断罪することに繋がった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この点はすべて パウロの述べることが 旧約聖書にも書いてあると言わねばなりません。

 ▲ (伝パウロ:ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (旧約・エレミヤ書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《石の板に書かれた律法ではなく 心の胸の板にかかれた律法――すなわち 信仰――》というあたらしい契約です。

 そこでは 《神を知れと言っておしえることはなくなる》のですし 《神は人びとの罪をもう覚えていない》。

 あるいは やはり旧約の中から 《律法よりも信仰》を述べたくだりです。:
 ▲ (ハバクク書2:4) ~~~~~~~~~~~~

 〔ギリシャ語〕 もし神なるわが霊が
   そのひとにおいて縮こまってしまい
   そこにやどりつづけることが無くなったとしても
   こころのまっすぐなひとは
   われを思うまこと(非思考の庭)の中から立ちあがり生きる。

         *

  〔ヘブル語〕 見よ かのひとのたましいは
  みづからの内に這いつくばって まっすぐに立つことができない
  しかも
  そのひとのまこと(非思考の庭)にあってすなおなる者は 生きる。

 ▲ (共同訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  見よ、高慢な者を。
  彼の心は正しくありえない。
  しかし、神に従う人は信仰によって生きる。

 ▲ (口語訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  見よ、その魂の正しくない者は 衰える。
  しかし義人はその信仰によって 生きる。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ▼(上村) 古いことはよいこと、新しいことはうさんくさいことと見なすローマ社会に対し、ユダヤ人の「聖書」をキリスト教の「旧約聖書」であると主張することで、自らの「古さ」の証明にしようとしたのである。
 ☆ ここまで来ますと もう《ユダイズム・キリスト派》あるいはパウロのキリスト信仰を どうしてもマチガイであると決めつけているように見えてしまいます。ヤハヱーという名の場合でも ひとしく神だと言っているのにです。
 問い求めを 現実の社会力学のほうに重心を載せたかたちで進めようとしているのではないかと。


 ▼(上村) 「旧約聖書」とは、キリスト教による反ユダヤ主義を象徴する呼称なのである。
 ☆ エレミヤ書に《ふるい契約》と書いてあるのですから これは ただの言いがかりです。







 その後の《国教化》のあとの逆迫害 と言いますか ユダヤ人をイケニエにした迫害のウゴキ については 歴史事実ですから 特に何かを申し上げることも出来ません。

 恨み辛みは そんなに強いものかという感想くらいです。
 その点 われらがヒバクシャとわれらそのハラカラは 弱いと言いますか 人間としてじゅうぶん強いようです。これは ひと安心です。



 それゆえでしょうか 昨今のお隣の二国を中心とする日本への風当たりの強さ・つまり:
 ★ そしてまた──これは私の個人的な感想なのですが──世界的に国家的・民族的なナショナリズムが高まりつつある状況において、私たちは、ある意味、かつてのユダヤ人のように疎まれつつあるのではないか、などとも思うのです。
 ☆ つまり 社会的な共生としての生活共同は おおむねうまく行っていて 過去の敗北や屈辱に対して じゅうぶん人間的に余裕のある態度をしめしている。《歴史の清算》をあまりにも上手に済ませてしまった。これに対するやっかみが 世界中を駆けまわっているのでしょうか。

投稿日時 - 2014-01-31 14:15:19

補足

(続きです)「すべての人」の救いについて語るパウロは、「[もはや]ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない」(ガラ三28)と言う。この言葉をパウロが社会差別を無化するために語ったと取るのは間違いである。そうではなく、ここで言われているのは、キリスト派に入信するのには民族や地位や性別は関係ないというだけのことである。逆に言うと、キリスト派の信者にならなければ、どの民族、どういう社会的地位、どういう性別であろうと滅びるのである。「ユダヤ人もギリシャ人もなく」と言いながら、パウロは徹頭徹尾ユダヤ人であり、ユダヤ主義者である。それゆえ、イスラエルの神以外の神々を奉じる異教徒は最初から偶像崇拝者であり、「罪人」である。ただ、キリスト派に入らないユダヤ人も「罪人」だとするセクト主義だからこそ、逆に「ユダヤ人もギリシャ人もなく」キリスト派に入信できるというのである。それは民族間差別の克服などと言えるものではなく、イスラエルの神が世界の神であるという強烈なユダヤ民族主義に極端なセクト主義が結合しただけのことに過ぎない。

 奴隷についてパウロは、キリスト信者になったときに奴隷であったなら、たとえ自由人になることができるとしても奴隷のままでいるようにと諭している(Iコリ七21。田川 2007、該当箇所参照)。パウロは信者になった後に社会生活における状態の変化を望まない。なぜなら、今は「切迫した危機」の時(Iコリ七26)、すなわち、終末が間近に迫っているからである。終末の時にキリスト以外の余計なこと──社会生活──に心奪われるようなことがあってはいけない。奴隷が自由人になってこの世の生を謳歌したりしてはいけないのだ。むしろ奴隷に留まって、ひたすら神のことを思いつつ週末を待ち望むことが好ましい、と。それゆえ女性に対しても当時の差別的な状態をそのまま肯定すべき秩序と考えている。「女性の頭は男性であり、…女性が男性のために創造された」(二3-9)、「女性たちは教会においては黙りなさい。というのも彼女たちには語ることがゆるされていないからである…女性にとって教会において語ることは恥ずべきことだからである」(一四34-35)。パウロは当時の社会秩序(と彼が思っているもの)をそのまま肯定し、それを教会のなかに持ち込もうとしている。それゆえパウロは信者に、売春婦と交わるな、それは不品行だと言う(六12-20)。なぜ一人の女性が売春婦にならざるを得なかったのか、そういうことはパウロには何の関心もない。パウロには社会問題への視座、社会倫理が欠落している。パウロが自分の宣教の苦難を逆説的に語るとき、イエスの言葉伝承を暗示していると思われる箇所がある。「私たちは…悲しんでいる者でいて、しかし常に喜んでいる者であり、貧しい者でいて、しかし多くの人を富ませる者であり…」(IIコリ六7-10)。ここにはイエス伝承として知られている「貧しい者は幸いだ」(ルカ六20参照)などの言葉が念頭にあった可能性がある。しかし、イエスは社会状況ゆえに経済的に貧しい状態を強いられていた者たちを念頭において語ったのだが、パウロはここで宣教の苦労のなかにいる自分たちを「貧しい者」と呼ぶ。パウロも貧しかったかもしれないが、明らかに金持ちの搾取によって貧乏を強いられている人と、自ら宣教という道を歩んだ結果、なにほどか貧しいというのではまったく次元が異なる。パウロはイエスの社会倫理を手前勝手に骨抜きにしてしまっている。それは人と人との関係がキリストを媒介としてのみ繋がる彼の人間観の結果である。

 パウロの社会倫理の欠如は、その人間観とともに彼の終末論的時代意識に由来する。パウロ(および原始キリスト教会)の終末意識は、当時のユダヤ人一般の終末意識とは微妙に異なる。後一世紀の少なからぬユダヤ人も終末直前の時代を生きていると信じていたが、それは近い未来の終末を待望しているのであって、彼ら自身はこの世の現実に属している。ところがキリスト派は、イエスの復活によってすでに終末は始まったと信じ、その完成を待望している。すなわち彼らは終末の始めと終わりの中間時を、現在終末論と未来終末論の緊張状態のなかを生きているのである。それはもはやこの世でもなく、すでに救済が完成した状態でもなく、完成までの猶予期間、現実から乖離した宙に浮いたような時代である──似たような時代意識を生きていたセクトにクムラン共同体があり、彼らもまた終末の完成を待ち望みつつ共同体における救済の先取りされた状態を人里離れた荒野で過ごしていた。それゆえパウロは、キリストを受け入れない「現在の悪の世」(ガラ一4)とは断絶してしまう。この世の社会生活などどうでもいい。へたに社会生活における向上心などをもって神のことを蔑ろにしてはいけない、社会秩序はそのままにひたすら信仰熱心であることが望ましい。永遠の生命に与れなくなっては元も子もない。だから、未婚の人は結婚しないほうがいいのだ。ただ、性欲が抑えられずに「不品行」に走るといけないので、そういう人は結婚してもよいと「譲歩」はするが(Iコリ七1-9)。

 パウロが問題にする倫理は中間時の倫理であり、それは信者個々人の倫理と教会の和のための共同体倫理に限定される。パウロによると、「男娼、偶像崇拝者、姦通者、軟弱な者(=男らしくない男)、男と寝る男、盗人、貪欲な者、酔っぱらい、侮辱する者、略奪者」は神の国を受け嗣ぐことはできない(Iコリ六9-10)。これは悪徳表と呼ばれるものでパウロの手紙やその他の新約諸文書にしばしば現れる非倫理的と思われた行為のリストである。これらの「悪徳」は、ヘレニズム世界の倫理観にユダヤ教の倫理観を加えたものであるが、ユダヤ人パウロにとってそれらは異教徒の典型的な振舞いであった。それゆえ「偶像崇拝者」──神々を奉ずる者──が当然のごとくこのリストに挙げられている。パウロは「律法の業による義」を否定しているので、割礼や安息日規定や食物規定は否定するのだが、律法に含まれている倫理規定については、それを律法なしに遵守することを要求する。異教徒からキリスト派に入会した者は、ヘレニズム世界の社会通念上の倫理とユダヤ教の倫理規定を律法とは無関係に守らねばならず、「悪徳」と見なされた行為を行う者は教会から取り除かれる(五13)。それは、倫理的な完璧主義であり、しかもその倫理とは当時のヘレニズムおよびユダヤの文化規範なのである。何が倫理的であるか、非倫理的であるかに絶対的な基準があるわけではない。それは時代により地域により異なる文化規範であり、社会通念に過ぎない。パウロが「悪徳」としているものが、本当に「悪徳」「非倫理的行為」「罪」であるとは言えない──「『男らしくない男』は罪ではない」。それにもかかわらず、キリスト者はそうした社会通念に従って完璧に倫理的に生きることが求められてしまう。

 パウロは「義人」たるキリスト信者と「罪人」たる非信者を「信による義」を基準に二元論的に区別するのだが、「義人」とされた信者には社会通念上の倫理における完璧を要求する。「義人」の集団が教会なのであり、たとえキリスト信者になっても倫理的に不完全なものは「罪人」として教会から取り除かれてしまう。こうして個々人に要求される倫理が教会の和という共同体倫理を構築するのである。それは、「外」に対して排他的な〈セクト主義〉だけでなく、「内」からも異質な者を排除していく〈エリート主義〉の集団であり、それがパウロの目指す教会であった。こうして、非キリスト信者はそもそも救われないのだが、キリスト信者であっても完璧な倫理的生活──パウロが倫理的だと思いこんでいる文化規範──を送らない者は排除されてしまう。かつての「律法主義者」パウロは、「キリストの信」に出合って自己義認という〈エゴイズム〉を克服したかに見える。だが、義認を欲するパウロは結局のところ〈エゴ〉を克服しきれない。それゆえ彼の「信による義」という神学は〈信仰主義〉に陥ってしまうし、克服したはずの「律法主義」は倫理的〈完全主義〉に姿を変えて信徒を縛り始める。だが、そもそもキリスト派にとってキリストの死とは、律法規定であれ──仮にパウロの悪徳表に数えられている行為を「悪徳」と見なすとしても──倫理規定であれ、不完全な者を不完全なままで受け入れる神の救済行為ではなかったか?

(こうしたパウロの倫理的完全主義は、宗教改革を経ていわゆる「プロテスタンティズムの倫理」(=禁欲主義)を生むが、それは今なおプロテスタント教会に神学的にも教会内倫理においてもさまざまな問題を引き起こしている。それは、同性愛者差別、性同一障害者差別などの露骨な差別だけでなく、信者になっても絶えず「罪意識」に怯えて生きていかねばならないという不幸な状態を強制している。(p248-257)「宗教の倒錯」より

※多少中身が既に転載した箇所と重複すると思われます。
ご容赦願い上げます。

投稿日時 - 2014-01-31 22:39:00

お礼

丁寧なご回答をどうも有難うございます。
先に「原罪」についてお尋ねしておりますので、そのご回答を頂き次第いったん締める予定です。
よろしくお願いします。

>上村静は 社会という視点を導入しているかに思われます。
>ふつうに言う政治学・国際関係論に移行しているかにも感じられます。

はい、今このようにbragelonneさんがあらためてお書きになっていることを拝見して、問い立ての問題もさることながら、多くの抜粋の連続をもってしても、やはり私の説明そのものに不足があったのかななどと考えているところです。

>その政治学が ダメだという意味ではなく 聖書の徒ならもう少し人間観や存在論からのアプローチが 遠回りながら あってよいようにも思いました。

このようなbragelonneさんのご意見もやはり参考になります。
また同時に、著書の部分抜粋のみのやり取りが氏の「勇み足」ぶりに多少は関係しているのかもしれませんし、あるいはそのままなのかもしれません。

たしかに氏は、パウロに問題を見出しているように映りますね。
最後に長くなりますが、氏のパウロ神学の諸問題について載せてみることにします。

──異邦人もユダヤ人も「罪人」であるとするパウロは、人類の罪と救済について次のように語る。
  かくして、一人の人間(=アダム)をとおして罪がこの世界に入り込んだように、そしてその罪をとおして死が[この世界に入り込んだように]、そのようにすべての人間の中に死が入り込んだのである。[しかし]その際、すべての者が罪を犯したので[も]ある。…このようにして、一人の人の罪過をとおして、すべての人間に有罪判決へ[の道が降し置かれた」ように、そのようにやはり一人の人(=キリスト)の義をとおして、生命の義へ[の道]もすべての人間に[もたららされるのである]。(ロマ五12、18)

 アダムをとおして罪が入り込み、「すべての者」が罪を犯した。だが、キリストの義をとおして「すべての人(間)」に義がもたらされる。ここでは「すべての人」の救済について語られているように見える。しかし、実際にはパウロはキリスト信者のみの救済について語る。

   なぜならば、もしもあなたがあなたの口で主イエスを告白し、あなたの心のうちで、神はイエスを死者たち[の中]から起こした、と信じるなら、あなたは救われるであろうから。心によって信じられて義へと[至る]のであり、口によって告白されて救いへと[至る]のである。(ロマ一〇9-10)

 ここでは、「もしも…なら」という言葉が明示しているように、信仰は救済の条件とされている。前半部(9節)には、パウロ以前の最初期キリスト派の信仰告白伝承があると考えられるが、後半部(10節)でパウロはそれを自ら確認している。パウロにとっても信仰は救済の条件である(ロマ一16、三22、四5、11、24、八30、一〇4、Iコリ一21参照)。さらにパウロは、信者の救済だけでなく非信者の滅びにも言及する。

   磔柱の言葉は亡びる者たちにとっては愚かさ[そのもの]であるが、救われる者たち、[すなわち]私たちにとっては、神の力だからである。(Iコリ一18)

 このように一見「すべての人」の救済について語っているかのようでありながら、実際には信者だけが「義とされる」のであって、非信者は「罪人」として滅びるのである(ロマ二6-10、Iコリ一23-24、六9参照)。

 パウロは、律法遵守にきわめて熱心であったが、キリストとの出合いを通して、実は自分で行う律法の業によっては義とされず、かえってキリストの死にいたる信によって自らが救済されたと確信するにいたった。パウロは、自分が信じたから救われたのだとは思っていなかっただろう。むしろ、何ひとつ自己義認のための手だてがないなかで救済を確信し、それに対する〈応答〉として自らも〈信仰〉をもったのである。したがって、その段階においては、パウロの自我は確かに克服されていたと言えるだろう。しかしながら、パウロは救済を「義とされる」と語る。すなわち、罪あるありのままの自分を受け入れることができず、義認を「欲する」(ガラ二17)のである。ここには、パウロの超克しきれないエゴがある。「義」について語ることによって、パウロは「罪」にとどまっている(と見える)人びと(他者)から自らを切り離してしまう。パウロは、自分自身何もできずにいたときに、信仰もなかったときに、キリストの信によって救済されたはずなのに、その救済を「義認」と語ることによって、罪の下にある他者に「信仰」を要求することになる。すなわち「義認」を求めるパウロにおいては、自我を超越した内省的〈自己〉認識が、〈他者〉認識へと通底しない。パウロにとっては、「自」と「他」は個別的に理解され、人と人はキリストを媒介とする縦の関係をとおしてのみ繋がる。こうしてパウロは、「義認」への欲求ゆえに自他を個別化し、救われる信者と滅びる非信者という差別を神学的に正当化する。それはまた、応答であったはずの信仰を救済の条件、救済の手段にしてしまう。これは〈信仰主義〉と呼ばれるべきエゴイズムの一形態である。こうしてパウロはキリストの出来事に対する「信仰」の有無によって人間を「義人」と「罪人」に分け、自らを「義人」の側に位置付ける──それこそはパウロがまだファリサイ派だったときから望んで止まなかったことである。

 パウロの実存理解と神学理論のあいだには、義認への欲求ゆえにズレが生じている。その結果パウロは二元論的人間観に行き着いてしまった。そしてその救済論は宇宙論的終末論、すなわち二元論的歴史観に基づいている。パウロの神学もまた典型的に〈セクト主義〉なのである。それは、位相が異なるとはいえ、パウロ自身、イエスが批判した相手の側に立つことを意味する。イエスは「義人」を批判し、「罪人」との連帯を志向したのだった。

 パウロの宇宙論的終末論は、「死」をも含めた全世界がキリストの支配下になることである(Iコリ一五23-26)。そして、そのときにはキリスト信者が世界を裁くことになる(六2)。パウロは明らかにキリストおよびキリスト信者による週末論的世界支配を夢想している。しかし、パウロは(および他のキリスト信者も)、ただ終末時の救済を持して待っていたわけではない。彼らは「あらゆる民族」(マコ三10)、「全世界」(ロマ一8)に福音を宣べ伝える(マコ一三27、マタ二八19、使一8等参照)。なぜなら、「すべての人」は罪人であるが、キリストをとおして義とされるからである。パウロの「宣教」とは、世界中の人を「義人」とするために、すべての人をユダヤ教キリスト派へと帰依させる改宗運動なのである。それはもはや終末時の神の救済行動への夢想にとどまらず、現実にこの世で世界をキリスト信者で覆い尽くすことを実践課題とする。

(続きます)

投稿日時 - 2014-01-31 21:39:00

ANo.4

 ★ 「神のようになること」についての上村静氏の解釈(失楽園について)
 ☆ これをめぐって 次のように考えます。

 すでに簡単に触れましたが 今回この簡単で単純なあらましで 足りるのではないかと思いました。

 ☆☆(回答No.2)  4. 言いかえると 善と悪を知る木から採って食べてはいけないという禁止法をアダムらが持ったということは そのこと自体が 《人はウソをついた これを恥ぢた しかもそのようにおのが心にさからう自由をも人間は持つと理解した》ことを意味するはずです。

 ☆ すなわち 神を介在させないで捉えた場合です。

 言いかえると 《自由意志》のことを物語として扱い言わば定義づけている。こういう見方です。

 《食べてはいけない》という戒めのかたちになっているのは よい・わるいが 人間にとっては個人の感覚および理性によって判断されることであり しかも《わるい》という判断をもった場合にはいわゆる良心の呵責を感じるということを表わしている。

 神は背後にいても 登場しなくてもよいし ましてや蛇は 理論じょうお呼びでないと考えます。良心による心の悩み惑いを示すために 蛇を登場させているのみだという見方です。

      *

 以下は 議論を端折っているまとめです。

 ◆ 《へび》の問題


 § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味

 次の文献によって わたしなりの分類をします。

  △ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
  http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html

   ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~

    (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂

    (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として人びとの治水や防風雨の努力を
            しのぐあらぶる者:悪魔::荒魂
    (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。

    (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。

    (ε) ゆえに エロスを象徴。

    ~~~~~~~~~~~~~~    


 § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。

 併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。


 § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。

 言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。
 こういう見方を持ちます。

 § 4 この場合のムイシキは 

    (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)
       =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ

 のことです。

 § 5 ムイシキの逆襲(?)

 リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。

 その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。

 すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。

 § 6 ムイシキとは 亡霊なり。

 ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。
 その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。

 § 7 聖書におけるヘビの克服物語

 イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。

 いちおう理屈をつければ こうです。

 悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。

 イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間(イエス)は 死地に就くところまで蛇を嫌った。ほかのナゾの何ものか(神)に従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。
 ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。
 ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。

 § 8 聖書の関係個所を引きます。

 ▲(創世記3:14-15) ~~~~
 主なる神は、蛇に向かって言われた。

  「このようなことをしたお前は
  あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
  呪われるものとなった。

  お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

  お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
  わたしは敵意を置く。

  彼はお前の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この部分すなわち

  ▲ ~~~~~~~~~~
  彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
  ~~~~~~~~~~~~~

 という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。

 § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――

 ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~
 〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。

 民はモーセのもとに来て言った。

  「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、
  わたしたちから蛇を取り除いてください。」

 モーセは民のために主に祈った。
 主はモーセに言われた。

  「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ
  を見上げれば、命を得る。」

 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
 ~~~~~~~~~~~~~

 § 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――

 ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~

 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。

 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 § 11 いかなる事態であるか?

 もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?

 感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。
 理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。
 ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。
 

投稿日時 - 2014-01-31 00:05:02

お礼

bragelonneさん、このたびは失楽園についてのご回答ですね。
どうも有難うございます。

>神を介在させないで捉えた場合です。
>《自由意志》のことを物語として扱い言わば定義づけている。こういう見方です。

このお説は、いまbragelonneさんがご質問なさっている「原罪がいまだにその贖罪とともにだが言われるのは」とかかわりがあると拝察致します。
質疑を拝見したかぎりでは、bragelonneさんは「いまはもう原罪も贖罪も言わなくともよい」とのご意見と察しました。
でも、なぜそうお考えになるのか、その質疑のやり取りからはよくわかりませんでした。
もしお手数でなければ、ご教示お願い致します。

ちなみに、私は上村氏の失楽園の箇所の解釈は比較的わかりやすかったです。
「人間は独りでは生きられない。他者とのかかわりあいの中でしか生きられない相対的な存在である。」「〈生きる〉とは〈いのち〉とは、関係の中で生かされてあるものだ。」ということを長子を出産した際、我が身の非力さとしてつくづく痛感したので。

>《食べてはいけない》という戒めのかたちになっているのは よい・わるいが 人間にとっては個人の感覚および理性によって判断されることであり しかも《わるい》という判断をもった場合にはいわゆる良心の呵責を感じるということを表わしている。

おそらくその良心の呵責に耐えきれなくなると自己正当化に走ってしまうのではないでしょうか。

>神は背後にいても 登場しなくてもよいし ましてや蛇は 理論じょうお呼びでないと考えます。良心による心の悩み惑いを示すために 蛇を登場させているのみだという見方です。

もしbragelonneさんのように神は背後にいても登場しても…とお考えであれば、理論上蛇はお呼びではなくなりそうですね、たしかに。

投稿日時 - 2014-01-31 20:30:37

ANo.2

 No.1です。ましゅまろさん つづけておじゃまします。

 上村静のキリスト論について 出しゃばって批判します。

 1. 《死者の中から起こされて 遺された弟子たちの前にあたかも姿を現わした》ことが ただちに《復活》だと言うのは ちょっと乱暴だと考えます(*)。

 ▲ (上村静:「旧約聖書と新約聖書──聖書とは何か」p211-214:No.1補足欄の掲載より) まず、神が死者を復活させたということは、神がついに歴史に介入したのだと信じられた。・・・イエスの復活は、神義論的問いに対する終末論的回答(*)となった。

 2. これは 言いかえるとユダヤ民族(ないしモーセの律法体制という仕組み)の中での出来事であり それは 一たんそういう認識を持つなら持つで持つことはあり得たと思いますが この枠組みを突き抜けなさいというのが イエス・キリストの復活の意味(**)だと受け取ります。

 3. たとえば 原罪とその贖罪 これも―― 一たんは言わば《イエスのキリスト物語》としてそういう人間と歴史とについての理解が行なわれてとうぜんだとさえ考えられますが―― それはあくまで創世記にエデンの園でのアダムらとヘビの物語を描いてしまっていたからそれにかんする答えを出したまでだと見ます。

 4. 言いかえると 善と悪を知る木から採って食べてはいけないという禁止法をアダムらが持ったということは そのこと自体が 《人はウソをついた これを恥ぢた しかもそのようにおのが心にさからう自由をも人間は持つと理解した》ことを意味するはずです。

 5. つまりそれだけのことだとキリスト・イエスは言いたかった。聖書記者たちは これを《キリスト・イエスが 人びとの罪をあがなった》という話として伝えた。そのメッセージを 磔の物語はとうぜんのごとく含んでいますが 原罪関係の話はそれだけであり そこまでのことだと見ます。

 6. なぜなら エレミヤ書31:31以降をヘブル書8が引いて説くように 《あたらしい天と地の世界では――モーセとは扱い方が違っているあたらしい契約のもとでは―― 神は人びとの罪をもう覚えない。忘れる》とそして《その世の中では 神を知れと言っておしえることはない》と伝えているからです。これが 十字架の物語によって成就しました。





 ここまで書いて 一たん そちらのコートにボールは入ったと捉えて どう反応されるかを俟ちたいと思います。

 もっともっと原典を引き議論をくわしくしなければいけませんし ほかの論点もいくつかあるしするのですが かえって煩雑になるのをおそれて このように考えました。


 * (1)に引いた《終末論的回答》は 決して否定されることはない解釈です。パウロでさえ やがて近い内にこの世の終末が来ると思い 緊迫した状態でいたようですから。この見方に キリスト・イエスのメッセージが終わるものではない。こう言いたいのです。

 ** 《ふっかつ》は イエスのというよりはキリストがからむのであるなら むしろすべての人間の 身と心とにおけるそれです。ただし 自然の生まれた姿とは限らない。わたしは 平均寿命が二百歳になれば 永遠のいのちだなどと言っていますが パウロによれば 自然の身と心のほかに 霊としての身と心とがあるらしいです。そのことが かかわっているものと思われます。

 *** 上村の言う《キリスト神話》の話がほんとうであるなら そんな悲惨なあさましい話はないでしょう。そんな自己の弁明に走る人間にするために弟子としたわけではないでしょう。

 すなわち
 ▲(上村 ibid. ) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 キリスト神話には、人間はそのままで赦されて在るという洞察が含まれている。それは、人間存在を功績とは無関係に生かされているものとするイエスの思想と通底する。しかし、弟子たちには自己正当化という隠れた欲求があったため、キリスト神話を絶対化してしまう。それを絶対化する根拠は「聖書」であった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては パウロの次の命題を引き合いに出せば 反駁できるでしょう。

 ▼ (パウロ:コリント後書 3:6) ~~~~~~~~
 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、
 文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。
 文字は殺しますが、霊は生かします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 **** ▼ (上村) ユダヤ教内に二元論的世界観を持つもう一つのセクト、「キリスト派」が誕生した。イエスはセクト的価値観に抗って殺されたのだが、弟子たちは自らセクトを形成した。
 ☆ こういう組織宗教が出来て行ったというもうひとつの側面 これも 事実だと見ます。オシエ(ないし《文字》)を それはただ罪の意識をおこさせるだけのものなのに 大事にするなら そういうあやまった信仰の徒の集まりを形成するでしょう。

投稿日時 - 2014-01-30 07:21:46

補足

──創世記三章は有名な失楽園の物語である。女は蛇の「決して死ぬことはない。それを食べる日、あなたたちの目が開け、神のように善悪を知る者となると神は知っているのだ」(三4-5)という言葉に唆されて、禁断の実を食べてしまう。女は「神のように」なることへの欲求に負けたのである。「神のようになる」とは、人間による人間支配(ここでは自分が自分の支配者であること)への欲求であり、自我の目覚めである。「自我」とは、私が自分であること、自分という者が独立した存在であるという自己認識のことである。それは、自分の支配者は自分だという思いを生む。それゆえに女は木の実を取って食べた(男は女の言いなりに食べた)。その結果、自分が無防備な存在、「裸」であることを知る。

 ところで、神はなぜ人が「善悪を知る」ことを望まなかったのだろうか。「善悪」とは「よい、わるい」のことであり、それは比較による優劣の価値判断である。比較には基準が必要である。一つの基準にもとづいて、ひとつの事柄を比較する。複数の基準を用いて同時に価値判断することはできない。人間には物事の全体を認識することはできないのである。にもかかわらず、「よい、わるい」を価値判断し、それをあたかも全体であるかのように錯覚する。すると、その価値判断は固定化され、序列を生み、差別をもたらすということが起きる。それは、人間間に地位や身分をもたらす。古代における最上位は王であり、最下位は奴隷であった。王が「よい」人間であり、奴隷が「わるい」人間であるなどということはないはずなのに、人間の「善悪の知識」は人間間差別を正当化してしまうのである。人間が「よい、わるい」を知ったのは、自我の目覚めの結果であった。自我は私が自分であるという認識であるが、それは他者という認識に伴う。自分と他者という存在が個別のものと認識される。そこに比較が生じ、「よい、わるい」という価値判断が産まれるのである。自分は自分、他者は他者、それぞれ違いはあるが、違いを受け容れて共生していこうと思うならば、比較は不要である。比較が生じるのは、自他を自分の思い通りにしようとする欲求に由来する。ありのままの自分、裸の自分ではなく、他者よりも優位な自分を見せかけようとする。それは「神のようになること」、人間による人間支配への欲求なのである。

 「よい、わるい」を知った人間は、裸の自分に耐えられず、腰を覆う(三7)。裸であって恥ずかしがることのなかった二人(二25)は、今や隠しあう関係になってしまった。二人はもはや一体(二24)ではない。神に詰問された男は女に責任転嫁してしまう。神は罰として、女に産みの苦しみを与えて言う。「お前は男を求め、彼はお前を支配する」と。「神のようになること」、自分が自分の支配者であることを望んだ女は、逆に男に支配されるようになってしまった。また、人間のゆえに、大地が呪われてしまった。人間の(倫理的)秩序と自然界の秩序は連動しているのである。その結果、男の労働は労苦になってしまった。

 神は「善悪を知る木、これから取って食べてはならない。これから取って食べる日、あなたは必ず死ぬであろう」(二17)と禁令を与えたが、人はその日に死なず、むしろ蛇の言った通り(三4-5)になった。神は嘘をつき、蛇が真実を告げたのだろうか。しかし、語り手が神を嘘つきとして描いている可能性は低い。とするならば、どちらも本当のことを告げているのである。人が禁令を破った日に起きたことは、男と女に支配関係が生じ、自然が呪われ、人がエデンの園から追放されるということだった。つまり、裸であって恥じることのない人間関係(二25)、地を従わせ(一28)地に仕える(二15)人間と自然の関係、人間と神が共生する関係、こうした理想的なあり方が「死」んでしまったということである。神の言う「死」とはあるべき本来的な関係性の破綻のことだったのだ。それを蛇と女は、生物的な「死」の意に狭小化してしまったのである。

 「人はその妻をエバ(生命)と名づけた。彼女が生命あるものすべての母となったからである」(三20)と言われる。女への罰に「はらみの苦しみを大きくする」(三16)とあったので、女が子どもを産むことは初めからの前提であった。ということは、人間は最初から死ぬ運命にあったのである(永遠に生きるなら子どもは要らない)。「生命の木」から取って食べない限り、いずれは死ぬことになっていた(三22)。

 人間は独りでは生きられない。他者とのかかわりあいの中でしか生きられない相対的な存在である。だが、自我はその関係性の中から自分だけを切り取って認識する。それゆえ関係性を見失い、他者の上位に立とうとする。だが、それは「死」んでいる状態なのである。〈生きる〉とは、〈いのち〉とは、関係の中で生かされて在るものなのだ。その〈いのち〉を生物学的な「私の生命」に狭小化したとき、人は「永遠に生きる」こと、すなわち「神のようになること」を欲するのである。しかし、人はエデンの園から追放されてしまった。「永遠に生きること」「神になること」は人間にはかなわぬ欲求なのである。

 神は二人をエデンの園から追い出すとき、皮衣を造って着せている(三21)。つまり、神は禁令を破った二人を全否定はしない。こうして人間は罪ある存在でありながら、生きること、命を受け継いでいくことを許されている。すなわち、相対にして肯定されて在るのである。──(p70-74)「旧約聖書と新約聖書──聖書とは何か」より


※これ以上開けて置いても既読の方のご感想を得られない感じがします。
明日にて、いったん締め切ります。
ご了承のほどよろしくお願いします。

投稿日時 - 2014-01-30 19:40:57

お礼

bragelonneさん、お気付きの点につき、多くのご教示有難うございます。

>上村静のキリスト論について 出しゃばって批判します。

おそらく上村氏も歓迎することでしょう。
キリスト教批判というと、訝しく思う向きもあるかもしれないが、批判は誹謗中傷、否定・断罪とは違う(p9)と著書にて述べていますから。

>* (1)に引いた《終末論的回答》は 決して否定されることはない解釈です。パウロでさえ やがて近い内にこの世の終末が来ると思い 緊迫した状態でいたようですから。この見方に キリスト・イエスのメッセージが終わるものではない。こう言いたいのです。

すみません、誤解があるといけないので、これについてもう一度お願いします。
おっしゃる内容を確認したいのです。

>** 《ふっかつ》・・・パウロによれば 自然の身と心のほかに 霊としての身と心とがあるらしいです。そのことが かかわっているものと思われます。

上村氏はそのパウロについてこのように述べています。
──パウロの「福音」の根幹には、死──罪に対する罰としての朽ちゆく死──への恐れがある。なんとしても永遠に生きたいのだ。パウロの望む「永遠の生命」とは、「自分の生命」が永遠であることである。それは、自我の認識する「生命」の永続への欲求、すなわち「神のようになること」への欲求であり、究極のエゴイズムである。それが自我(エゴ)に発する欲求であるがゆえに、パウロの神はその欲求を満たしてくれる因果応報の神となる。罪を罰し、義に報いる神、聖性を要求する神である。罪なき人間はいないが、イエスが人間の身代わりとなって罰を受けたとすることで罪を罰する神という神義論は貫徹され、このキリストの出来事を受け入れること(キリスト信者になること)で義とされ、聖なる生活を送ることで救われる。現実社会にはいろいろな悪があるが、それらはどうでもよくなってしまう。まもなくこの世は終わり、この世の悪は一掃されてしまうのだから。この世の現実には無関心でありながら、(パウロの目から見て倫理的に)「聖なる」生活を送ることが救済の条件とされる。こうして終末論的救済論に倫理的完全主義が結合する。一方で「罪の赦し」を「福音」としながら、倫理的に不完全と見なされると断罪される。こうして信者の心が縛られていく。「正しい倫理」など存在しないはずなのに、一般的に「倫理的」と見なされている振舞いが絶対的な規範とされ、そこから逸脱する者は断罪される──非キリスト教信者はたんに非信者ということだけで「非倫理的」(=偶像礼拝者)と見なされ、信者であっても「非倫理的」と見なされれば断罪される(1コリ五─六章)。こうして神による「罪の赦し」を伝えるはずの「福音」は、神の名のもとに自他を抑圧する暴力となる。それは、もともとエゴイズムに発する「救済」への欲求なのだから、暴力に帰結するのは当然なのである。キリスト教は、パウロよりも少し後の時代からその文字どおりの暴力を行使して今日にいたるが、それはそもそも「永遠の生命」の獲得というキリスト教の救済論に内在する暴力性(エゴイズム)の顕在化なのである。

 四世紀のキリスト教のローマ帝国国教化以来今日にいたるまでのキリスト教の露骨な暴力は、たまたまクリスチャンの中にも暴力的な人がいるということに由来するのではなく、キリスト教の根幹たる救済論そのものに内在する暴力(エゴイズム)の顕在化である。その暴力は、イエスの弟子たちが作り上げたキリスト神話にすでに内包されていたものであるが、パウロはそれを倫理主義という形に確立したと言える。ローマ・カトリック教会は中世を通じて倫理的に堕落していくが、宗教改革をとおしてパウロの倫理主義はプロテスタントによって再確立される──宗教改革の中心人物であるルターはパウロ主義者であった。アメリカ合衆国を作ったのはプロテスタントのピューリタンであるが、ピューリタニズムとは倫理的完全主義(あるいは禁欲主義)である。アメリカ建国の精神こそが、アメリカという国に常について回る目に余る暴力をもたらしているのであり、その淵源はパウロのエゴイズムにある。一世紀のパウロと現代のアメリカをつないでいるもの、それが(パウロの手紙を含む)「聖書」である。

 注:パウロの終末論的救済論は、ユダヤ教の黙示思想に遡る。黙示思想に内包されるエゴイズムの問題については、本書第二章「コラム 黙示思想」および同「黙示思想批判──コヘレトの言葉」参照。アメリカの暴力にはもう一つの起源があり、それはアレクサンドロス大王以来の、さらには預言者に由来する文化的覇権主義である(第二章 「コラム 文化的覇権主義の系譜」参照)。なお、パウロの倫理的完全主義は、パウロ自身の作り上げた「律法の終わり」という神学にかかわる(後述)。パウロは律法を否定するが、その律法がパウロの倫理基盤のもとである。律法を否定し、律法(書かれた法律)なしで、しかし(律法の観点から)倫理的に正しく生きることを求める。それゆえ心を縛る完全主義に傾いてしまうのである。──(p233-236)「旧約聖書と新約聖書」より

>*** 上村の言う《キリスト神話》の話がほんとうであるなら そんな悲惨なあさましい話はないでしょう。そんな自己の弁明に走る人間にするために弟子としたわけではないでしょう。

はい、たしかに悲惨であさましい話ですよね。
自己正当化という隠れた欲求のために、だなんて。
私もそう思います。

でも、今現在私たちの直面している諸問題をふまえ《〈いのち〉の尊さとそれを侵す権威主義やご都合主義、人が人を裁き差別するなどの暴力性に主眼を置いて》解釈すれば、そのようになるのも致し方ないことかと思われます。
上述のパウロについても同様です。


※補足欄に「神のようになること」についての氏の解釈(失楽園について)を後ほど転載します。よろしければどうぞ。

投稿日時 - 2014-01-30 19:02:31

ANo.1

 こんばんは。おじゃまします。

 上村静は知りませんで 次のインタビューを聞き 間接的に批評します。それも《クリスチアニズムは ユダヤイズムなる本家から出た分家である》という命題をめぐってのみの評言です。

 ◆ 2013/12/25 キリスト教の「神話」のベールを取り去り、「史的イエス」の実像に迫る――岩上安身による上村静氏インタビュー
  http://iwj.co.jp/wj/open/archives/117865#more-117865

 (あ) 《史的イエス》と《信仰のキリスト》とに分かれることは とうぜんです。人間と神とですから。

 (い) クリスチアニズムは オシエとして捉えるならいわゆるキリスト教であり 組織宗教です。
 ルーテルのように《信仰のみ・聖書のみ》をかかげるなら 個人にとってのまさに信仰のみです。《群れない》という意味です。

 (う) ユダヤイズムから出たことに間違いないわけです。そして イエスは かたちとしてはあくまでなるべくその枠組みを出ないようにして神を指し示すための話をしています。その中身はおのづから ユダヤイズムないしその民族という枠を取り払ったものでした。絶対普遍なる神を指し示したからにはという意味です。

 次の言わば《キリスト史観》は おもに(う)の論点に絞って議論したものです。


       *

 (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。

 ▲ (ヨハネによる福音1:1~5) ~~~~ 
 はじめに ことばがあった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。
 このことばは はじめにかみとともにあった。
 すべてのものは ことばによって成った。
 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
 ことばの内に いのちがあった。
 いのちは 人を照らすひかりであった。
 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 
 これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。
 (すべては想定ないし表現の問題になります)。



 (2) イエス・キリストを慕いつづけた歴史。

 アブラハム(そのとき アブラム)は 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。

 その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき

   《〈わたしはある〉 それが わたしである》
           (出エジプト記3:14)

 という答えを得たと言います。
 さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は 

   《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)

 という言葉を その神から聞いたそうです。
 イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。

   これは主がわたしに油を注いで 
   貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね 
   わたしを遣わして心の傷める者をいやし 
   捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。
            (イザヤ書 61:1-3)

 (3) 慕われ求められたキリスト・イエスの登場。

 その後 時はさらに飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たと言うわけです。
 イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。
   
   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
  る箇所が目に留まった。

     主の霊がわたしに臨み
     油をわたしに塗った。
     主がわたしを遣わしたのは
     貧しい人に福音を伝え
     捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。
         (つまり イザヤ書61:1-2)

   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
  は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは
 
     ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
      実現した。

  と話し始めた。
        (ルカによる福音4:17-21)



 (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成しました。

 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。
 まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。


 (5) 理論としては 存在論である。

 《存在》をめぐる理論としては この《わたしは ある(エフイェー)》なる命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。


 (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?

 それは むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。
 
  (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。わしにはお呼びでばいと思ってします。

  (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。

  (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。

  (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。

  (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。

  (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。

  (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。

  (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。

  (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。



 (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。

 生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。

 ▼ (出エジプト記33) ~~~~~~~~~
 21: 更に、主は言われた。

   「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。
   あなたはその岩のそばに立ちなさい。
 22: わが栄光が通り過ぎるとき、
   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、
   わたしが通り過ぎるまで、
   わたしの手であなたを覆う。
 23: わたしが手を離すとき、
   あなたはわたしの後ろを見るが、
   わたしの顔は見えない。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。
 
 
 (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。
 
 この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。

 (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?

 ・ たぶん 辻褄は合っている。か。

 ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。

 (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?

 おそらくこの史観を受け容れた人なら ペテロら弟子たちやそしてパウロらとともに――聖霊を受けたその心なる非思考の庭にあっては―― まったく同じかたちで受け留めていると思われる。特別の差異はないと見るべきだと思われる。

 そのほかに 世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?
 ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。これだけである。

投稿日時 - 2014-01-28 23:18:59

補足

>(7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。

これについて筆者は以下のように解釈しています。
何かお気づきの点がございましたらご教示下さい。
(もう1~2日ほど質問を締め切らずにおります)

──イエスの死後、弟子たちは絶望感の中にいた。それと同時に、イエスを見棄てた負い目と処刑された者の弟子という二重の負い目をも抱えていたはずである。そうした中、彼らは死んだはずのイエスを見るという体験をした。キリスト教の最古の信仰告白定式の一つに、次のような文がある。
 「キリストは、聖書に従って、私たちのもろもろの罪のために死んだこと、そして埋葬されたこと、そして聖書に従って三日目に[死者たちの中から]起こされたこと、そしてケファに現れ、次に12人に[現れた]。」(一コリ一五3-5)

 ここで「現れた」と訳されている単語は、「見る」という動詞の受動態である。弟子たちの「見る」という体験が、ここでは主語が入れ替えられて「キリストが現れた」と表現されている。弟子たちの見たものはおそらく幻であろうが、それは彼らにとって赦しの出来事として体験された。彼らはこの主観的な体験を、「神がイエスを死者たちの中から起こした」(ロマ一〇9)と客観的な出来事として言語化した。こうしてイエスの「復活」という表象が作られた。イエスの復活が神の行為として説明されたからには、イエスの「死」も神の行動として説明される。彼らはイザヤ書の「苦難の僕の詩」(イザ五二13-五三12)を、神が預言者イザヤをとおしてイエスについて語った預言と解釈し、その預言がついに実現したのだと信じ込んだ。イエスの死は、「私たちのもろもろの罪」を購うための代贖(身代わり)の死だったのだ、と──これを贖罪論という。こうしてイエスの死と復活が神のあらかじめの計画とその実現として説明された。

 弟子たちの主観的な体験がイエスに起こった客観的な出来事として認識され、神の行動として理解されると、そこからさらに神の意図が当時のユダヤ人の期待に即して解釈されていく。まず、神が死者を復活させたということは、神がついに歴史に介入したのだと信じられた。ローマ支配下にあったユダヤ人は、神の直接的な介入を期待していた(本書第二章)。イエスの復活は、神義論的問いに対する終末論的回答となった。「義なる神」はついに歴史に介入し、「義人」には報酬を、「罪人」には罰を与えるのだ、と。次に、では代贖の死を遂げ復活させられたイエスとは何者だったのかという問いに対して、イエスこそ神に遣わされた者、当時のユダヤ人が待望していたメシア(=キリスト)だったのだ、と信じられた。そして死者が復活しメシアが遣わされたからには、ついに終末の時が来たのだと信じられた。すなわち、イエスの死と復活──これを「キリストの出来事」という──は、当時のユダヤ人の待望していた終末論的事態の実現として説明されるようになったのである。生身の人間だったイエスは、今や神の救済行動の体現者として神話化された。キリスト神話の成立である。

 弟子たちがイエスを神話化したのには、先に述べた二重の負い目が関係していた。彼らは死んだはずのイエスを見た時に、赦しを体験したはずだった。しかしそれは、イエスを見棄てた負い目をきれいさっぱり払拭してくれはしなかった。その負い目を隠蔽するために、彼らはイエスの死を代贖死として、神の行動として意味づけ、イエスをキリストとして栄光化した。この説明は、処刑された者の弟子という負い目をも隠蔽してくれた。今や彼らは処刑された犯罪者の弟子などではなく、メシアの弟子、神の秘儀を啓示された者、ユダヤ人の中でも特別に選ばれた者となった。だが、負い目は隠蔽されているだけで払拭されてはいない。それは隠蔽され続けなければ、それを隠蔽している自己と向き合わねばならなくなる。弟子たちは、自己と向き合うことよりも自己正当化の道を選んだ。彼らは自分たちの作り上げたキリスト神話を他の人たちにも共有してもらうことを熱望するようになる。こうして彼らは、イエスの活動を受け継ぐのではなく、キリスト神話の宣教者となった。

 キリスト神話には、人間はそのままで赦されて在るという洞察が含まれている。それは、人間存在を功績とは無関係に生かされているものとするイエスの思想と通底する。しかし、弟子たちには自己正当化という隠れた欲求があったため、キリスト神話を絶対化してしまう。それを絶対化する根拠は「聖書」であった。キリストの出来事は聖書預言の成就とされた。それは「聖書」(=神の言葉)の実現であるから真実なのだ、と。それゆえそれを真実のものとして受け入れる者は救済されるが、それを拒む者は滅ぼされる。こうしてキリスト神話の受容は救済の条件とされ、人間は救われる「義人」と滅びる「罪人」に二分される。彼らはイエスをとおして神と「新しい契約」を結んだ「選ばれた者たち」(マコ一三22、27他)を自称するようになる。ユダヤ教内に二元論的世界観を持つもう一つのセクト、「キリスト派」が誕生した。イエスはセクト的価値観に抗って殺されたのだが、弟子たちは自らセクトを形成した。──(p211-214)「旧約聖書と新約聖書──聖書とは何か」より

※急ぎ転載しておりますので誤字脱字の点につきましてお詫び致します。

投稿日時 - 2014-01-30 00:50:42

お礼

bragelonneさん、こんにちは。
ご回答どうも有難うございます。
bragelonneさんのお説、とても参考になります。

筆者の主題は、世界的宗教であるキリスト教の聖書と成立史を通じ、聖書の孕む暴力性をそして人のいのちの尊さに対する智慧を見い出そうとするものです。

以下、序章を載せてみます。よろしければどうぞ。
──「聖書」とは「聖なる書物」のことである。それは一冊の書物のように思われていることもあるが、キリスト教の聖書は二つの書物群からなる。「旧約聖書」と「新約聖書」と呼ばれているものである。「旧約聖書」は、もとはユダヤ教の聖典である。書物群と記したのは、「旧約聖書」「新約聖書」ともに複数の書物の集成だからである。数え方はいろいろであるが、今日の数え方では一般的に、「旧約聖書」は46(カトリック)ないし39(プロテスタント)、「新約聖書」は27の書物からそれぞれ構成されている。だが、特定のいくつかの書物が「聖なる書物」であるとはどういうことであろうか。「聖」とは「神聖」ということであり、要するに神の属性である。つまり、「聖書」とは神に由来するものだという主張がこの表現に含まれている。聖書は「神の言葉」であると言われる由縁である。それが「神の言葉」であるがゆえに、規範的なもの、拘束力を持つものとされる。ところで、現在「旧約聖書」に入れられている書物と相前後して、「神の言葉」として書かれた多くの書物が存在していたことが知られている。また、初期キリスト教徒の著した書物は27よりもはるかに多い。それはつまり、古代ユダヤ人も初期キリスト教徒も、現在聖書に収められているものよりもはるかに多くの書物を生み出していたのである。では、なぜ多くの書物群の中から、一部の書物だけが「聖書」とされたのか。そこには、きわめて政治的な力が働いている。ある特定の書物を「聖なる書物」と定めたのはあるグループに属する人間である。そこには、ある特定の書物に「神」の権威を与えることで、自分たちを正当化しようという動機が働いているのである。

 一度ある書物(群)が「聖書」とされると、それは絶対化される。「聖書」は「神の言葉」であるから絶対だ、と。そして「聖書の教えに反するとされた者は断罪され、抹殺されるということが起こる。それは「聖書」の権威を傘に、自らを絶対化・正当化する暴力である。あるいはまた、その規範性ゆえに、自分自身を不当に抑圧するという事態も繰り返される。「聖書」の規範性・拘束性とは、こうした暴力を正当化する詭弁に過ぎない。この暴力は、聖書が「聖書」とされたときから延々と繰り返され、今日にいたっている。「聖書」には、その「聖なる書物」「神の言葉」という主張とは裏腹に、その権威を傘に自他を抑圧しようとする人間の暴力が内包されているのである。・・・

・・・聖書にはたくさんの著者・編集者がいる。それぞれは、特定の時代に特定の場所で、それぞれの思いをもって各書物を生み出した。各書物の間には、あるいは同一文書の中でさえ、互いに矛盾し合い、対立する考えが多く存在する。一貫した神学や中心的な思想なるものはない。それは、異なる時代に異なる場所で異なる人間が書いたのだから、当たり前である。それでいいのだ。「聖書」はまったくもって「聖なる書物」ではないし、「神の言葉」でもない。それは人間の言葉に過ぎない。しかし、それが人間の言葉であるからこそわれわれは理解できるし、学ぶことができるのだ。
 
 聖書は、それが「聖なる書物」とされる限り、それを「聖書」とする人間の暴力を生み出し続けてしまう。だが、その「聖性」を外してみるならば、人間についての洞察を語る人間の言葉として読まれるならば、そこからわれわれは〈いのち〉の神秘に、すなわち〈神〉に、出会うことができる。──(p4-7)「旧約聖書と新約聖書──聖書とは何か」より

投稿日時 - 2014-01-30 00:02:55

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