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締切り済みの質問

戦国時代にうちこわしはなかった?

江戸時代は百姓一揆に伴った米屋の打ち壊しなどがあったと聞いているんですが、
戦国時代にはこういったことがなかったんでしょうか?
江戸時代の百姓に比べ、戦国時代の百姓は武装していて武力もありましたし、
戦国時代は慢性的な飢餓状態であったと聞きました。
となれば、戦国時代に凶作や不作などが起きると、飢餓状態から
食料を持っている米屋を襲うということもありえたと思うのですが、
そういう文献にあたったことがありません(私の調査不足が大いにありえますが…)
もし米屋などを襲わなかったとしたら、戦国時代の百姓が飢餓状態をどうやって乗り切ったのか、ぜひ知りたいです。

何分、歴史の初心者ですので、なにか色々、こちらの歴史認識に誤りがあるかもしれません。
その点もご指摘くださればありがたいです。

投稿日時 - 2013-10-10 23:06:30

QNo.8300556

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回答(4)

戦国時代は侍と農民の境界は有るような無いような曖昧なものでした。
このお蔭で、秀吉も蜂須賀小六も関白や大名に成れました。
北条早雲もどこのうまの骨なのか未だに解りません。
信長も家康も氏素性が正しいと言い張っていますが、どこまで本当なのかは歴史学者も首を傾げています。
正しいと主張しているのは郷土史家だけです。

戦国時代を御理解頂くには、武将だの領国だのという言葉に惑わされないで下さい。
ヤクザの縄張り争いの大規模なもだったと思われた方が解り易いかと思います。
文句があるからと言ってヤクザに喧嘩を売るようなうっかり者はいません。

更に、江戸時代のような米問屋などというものは存在しません。
経済が安定していてこそ、流通機構が発達して安定します。

>戦国時代の百姓が飢餓状態をどうやって乗り切ったのか、ぜひ知りたいです。
自助努力です。
現在にも続く江戸時代の村落という形式は室町時代に形成されました。
室町時代は足利幕府が全国を統治するなどということには、まったく興味を持っていなかった時代です。
歴史学者さんによっては、室町時代には国家というものが無かったと言われておられる方もいます。
このような状況下で、農民は集団で自衛組織を作り自治を行っていました。
この自治組織はそっくり江戸幕府の統治制度に組み込まれました。

蛇足
この自治体の中で、リーダーや世話役を決める際に入れ札という方法がつかわれました。
現在で言う選挙制度です。
これは江戸時代にも引き継がれました。
江戸時代に自治は無かったと思われている方がおられるようですが全くの間違いです。
幕府や大名といのは、あくまでも武装組織です。
民政はこの自治組織に委託していました。農村の名主(庄屋)と同じものが町名主として都市にもありました。
現在の軍隊と民間会社のような関係とお考えになられれば宜しいかと思います。

明治以降選挙制度がスムーズに導入されたのも、このような制度伝統があったことによります。

投稿日時 - 2013-10-11 13:01:13

補足

様々なご回答を拝見した結果、ようやくわかったのですが、戦国時代に打ち壊しはありえなかったということです。
大名が年貢の取立てで重い年貢を課せば、江戸時代と違って土地や大名に縛られていませんから、百姓は逃散するか、あるいは別の年貢の安いところに行く。大名への反抗もしたでしょう。
たとえ飢餓状態でも、商人も武装している時代ですから、商人の倉を襲うなどとリスクの高いこともしない。
それをやるくらいなら戦場で略奪を行ったほうがいい。
開墾が盛んに行われたことを考えても、
前提に置いていた戦国時代が慢性的飢餓状態にあったという説も怪しく思えてきました。
私の質問自体に疑わしい点が多々あったにもかかわらず、間違いを指摘して回答してくださった回答者の皆様、ありがとうございました。
これにて回答を閉め切りたいと思います。

投稿日時 - 2013-10-11 15:15:17

お礼

ご回答ありがとうございます。

>更に、江戸時代のような米問屋などというものは存在しません。

米商人や米座はあったと思うのですが……。もし「米専門」の商家、江戸時代のような「大きな米屋」という趣旨で仰っているなら、失礼なことを申しました。

>>戦国時代の百姓が飢餓状態をどうやって乗り切ったのか、ぜひ知りたいです。
>自助努力です。

飢餓にあっては、村内で助け合っていたということでしょうか。
江戸幕府による統治下の農村自治組織が、室町時代に形成されていたということは、自治組織とは「惣村」でしょうか。

入れ札制の説明もありがとうございます。
ichikawaseijiさん、ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2013-10-11 14:24:19

ANo.3

ええっとですね、まず皆さんちょっと認識がズレちゃってしまっているところがあると思うのですが、そもそも戦国時代ってのは江戸時代に比べればはるかに自由に主君が選べた時代でした。
例えば質問者さんが上杉家のいち武将で、上杉家からの年貢の取り立てが厳しかったとします。そんなときに武田家からウチに寝返ればウチは年貢はもっと安いよといわれたらどうしますか?世は戦国時代です。そりゃ、武田家に寝返るでしょう。そしたら上杉軍がやってきます。そうなれば今度は武田軍が助けにやってきます。かくして合戦になります。そういうことが毎日どこかで行われていたのが戦国時代です。

戦国時代は慢性的な飢餓状態ってことはないですよ。だって、昔からいうでしょう?「腹が減っては戦さができぬ」ってね。実は戦国時代から江戸時代初期にかけては生産力(GDP)は飛躍的に上がったんですよ。ちょっと今手元に資料がないのですが、GDPは3倍、人口は2倍くらい増加したんじゃなかったかな?
当時は究極の地方分権の時代だったわけですから、基本的に生産すれば生産するほど農民の収入は上がったのです。当時はね、契約社会だったんです。例えばある村から戦国大名へ納める年貢がこれだけだと決まったら、村側はその分だけ大名(領主)へ納めればよかったのです。現代みたいな累進課税ではなかったのですから、もっと生産して儲かった分はまるまる自分達の懐に入れて構わない。年収300万円でも500万円でも税金が変わらないなら頑張って稼ぐでしょう?
だから当時の農民の生産意欲の高さについてはこんなエピソードがあるんです。
織田信長がメインの街道は軍隊が通れるように広く作ったのですが、両側に木を植えたのです。これは一般的に「雨避けと日除けのため」っていわれますが、それだけじゃなくて、両側に木を植えておかないと、道路脇の農民が少しずつ道路を削って開墾しちゃうからです・笑。そのくらい当時の農民の生産意欲は高かったんです。
豊臣秀吉が天下統一した後にいわゆる「太閤検地」ってのをしたと教科書にありますよね。あれはですね、秀吉が天下を統一してそれだけの権力を彼が手に入れたから人の田んぼにずかずか入って調査することができるようになったんです。それまでは武田信玄や上杉謙信といえども、自分の直接統治の土地以外はずかずか入って調査することはできなかったんです。だって、農民といったところで戦さとなったら彼らは立派な「正規兵」になったんですからね。気に食わない領主なら、反乱するか追放するか、現代の首相みたいにコロコロ首をすげかえたっていいわけです。
実際、武田信玄の父の武田信虎は家臣の支持を失って追放されてしまいました。周防の大内義隆は家臣の陶晴賢に殺されました。すると大内義隆の家臣のほとんどは陶晴賢を新しい主君に受け入れ、その陶晴賢が厳島の合戦で毛利元就に敗れて戦死すると、みな毛利元就の家臣になりました。

サル山のボス争いと同じです。戦いに勝てばボスとして君臨できる。敗れればオシマイ。そういう時代だったのです。

投稿日時 - 2013-10-11 11:16:05

補足

>できればどういう資料かご教示願いたいです。
お手元に資料がないということを失念していました。資料を出していただかなくても問題ありません。

投稿日時 - 2013-10-11 13:26:17

お礼

ご回答ありがとうございます。
たしかに、食料に困れば、年貢のより安い領主に寝返りますね。
打ち壊しというのが江戸時代的な発想だったと思い至りました。
戦国時代に、GDPは三倍、人口は二倍というのは驚きました。できればどういう資料かご教示願いたいです。

>例えばある村から戦国大名へ納める年貢がこれだけだと決まったら、村側はその分だけ大名(領主)へ納めればよかったのです。現代みたいな累進課税ではなかったのですから、もっと生産して儲かった分はまるまる自分達の懐に入れて構わない。年収300万円でも500万円でも税金が変わらないなら頑張って稼ぐでしょう?

たしかにその通りです。累進課税制ではなかったですね。
織田信長の街道の話は笑ってしまいました(笑)

戦国時代が慢性的な飢餓状態というのは、「百姓から見た戦国大名」という本をかじって、そう考えたのですが、これは新説なのでしょうか。

投稿日時 - 2013-10-11 12:35:56

ANo.2

打ちこわしはほとんど無かったと思います
と 言うのも百姓が武装したのは戦のときだけで平時は農民です
彼らが武器を取って打ち壊しなどすればたちまち国主の耳に入り弾圧が行われます

ただし 戦で他国を侵略した際に強盗や略奪をするのは一種の恩賞として認められていました
武装した戦闘民であれば可能だったわけです(戦のときに限っては)

ただそれを禁止したのは織田信長です
彼は京都に入った際に全軍に略奪や強盗 強姦などを禁止させ徹底させました
それを破った下人を兵の前で切り捨てたりもしています


戦国時代は言うほどの食糧難でも無かったですよ
北条氏などは四公六民の税制を敷いて民衆のくらしが立ち行くように政策もしています

どうしても食べ物が無いときは「米無心」というのがありました
庄屋さんに米を無心するわけです
で もらった分の米は来期の米でいくらか上乗せして返すって制度で
今で言う借金+利息の米版ですね

投稿日時 - 2013-10-11 07:24:47

お礼

ご回答ありがとうございます。
打ち壊しは百姓にとってもリスクが大きいんですね。
戦闘で強盗や略奪をしたほうが、リスクもあまりなくて、いい方法だったのかもしれませんね。
北条氏の例を挙げられると、たしかに、戦国時代は言うほどの食糧難でもなかったかもしれません。
「米無心」という方法が気になりました。
あとで調べてみたいと思います。
azuki-7さん、早朝にもかかわらず、ご回答くださりありがとうございます。

投稿日時 - 2013-10-11 08:09:57

ANo.1

 こんばんわ。
 戦国時代には様々な階層の人々が武装していました。百姓だけでなく、商人や寺社勢力、漁師や海運業者(これも商人)などがあげられます。 戦国乱世の世の中では治安はよくないし誰かが守ってくれるわけでもないですし、自衛をしなければならない。周りが武装をしていれば小競り合いがあり、自分たちの生命、財産は自分で守らなければならなかったと思います。そこで米屋の例を考えてください。米屋も同様に武装していたといえると思います。飢餓状態だからこそ、他国を侵略し略奪が行われていた。米屋も略奪にあったのかもしれません。
 戦国大名にとって、領内で一揆や打ち壊しが起きるということは、他の戦国大名たちに付け入るスキを見せるようなものです。内政を充実させなければ家臣が離反したり、領民の不満が爆発したことでしょうね。
 いかに領国経営において善政を敷くかが重要な課題だったのでしょう。

 あまり詳しいほうではないので、参考までにしてください。ではでは。

 

投稿日時 - 2013-10-11 01:04:44

お礼

早速のご回答ありがとうございます。
米屋も武装ですか…言われてみればたしかに。
内政の充実は戦国大名が生き残る上でも重要だったのですね。
tokrenfさん、深夜にもかかわらずご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2013-10-11 02:20:24

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