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解決済みの質問

創価学会への公開質問です。

 よろしく願います。


 §1 題目について 

 (1) なぜ題目は 南無妙法蓮華経というように インド語〔の漢語における音訳借用語〕と漢語訳語とで成っていますか?

 (2) 法華経・寿量品第十六についての文底・独一なる本門(*1)を 日蓮氏が顕わしたのであるなら 日蓮氏の日常生活にもとづいた言葉で表現したほうが 自然なのではないでしょうか?

 (3) そのほうが 《下種益》(*2)のためにもそしてあらたな《脱益》(*1)のためにも 仏法ないし本尊のチカラが自然に発揮されるようになると思われるのですが それは 下司の勘繰りにすぎませんか?

  *1 文底独一本門・下種益・脱益 次を参照。

   ◆ 創価学会公式サイト・教学基礎情報のうち
    宗教を考える基準・五重の相対のうち(5) 種脱相対
    http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/kijun/05.html


 § 2 仏性について

 (4) ひとは無条件に《一切衆生 悉有仏性》が当てはまり この仏性のハタラキがその人に現われ得る――こう言ってよろしいですか?

 (5) それは 理の一念三千かつ事の一念三千(*2)という見方に立つゆえ――こう捉えてよろしいですか?

  *2 一念三千(理のおよび事の)
   ◆  http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/hori/01.html


 § 3 他の宗派に対する態度について

 (6) 《四箇格言》として《真言亡国 禅天魔 念仏無間 律国賊》といった規定は むろんその信徒たる人そのものはいづれも《うやまっている》のであるし あるいはつまりその人にそなわる仏性の開かれるようにと願っているのである――こう受け取ってよろしいですか?

 (7) それぞれのオシエを批判しているのであるが それはいづれも 仏性については説いているが その発現のための方法を知らないか 間違っているからである――こう受け取ってよろしいですか?


 § 4 仏法の実践とは

 (8) ◆ 成仏のためには自ら謗法(ほうぼう:そしる。悪口を言う)(*3)を犯さないようにするだけでなく、他の謗法を責めていく折伏の実践が、謗法厳誡の肝要となります。

   *3  謗法  
   ◆ http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/13.html

 ☆ とありますが この《折伏》なる実践が これまでの全三章七項目のいづれの事柄にもかかわっているとまづ思われます。

 それらの確認のもとに これまでの歴史において《折伏》をおこなう際に――その例示はしませんが―― 行き過ぎがあったと言えますか?

 (9) 謗法にしろ何にしろ 《三類の強敵》(*4)や《三障四魔》(*5)についてはすべて《変毒為薬》(*6)すればよい。――こう捉えてよろしいですか?

    *4  三類の強敵 http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/04.html
    *5  三障四魔 http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/08.html
    *6  変毒為薬 http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/11.html

 (10) 第六天の魔王(*5)についても むしろそれは《広宣流布》のために出現する――それ自体は 負で言わば悪のだが――《善知識に変身させうる悪知識》である。こう捉えてよろしいですか?

    
 (11) さらに具体的な実践についてお尋ねします。

 ◆ (入会のための条件としての日常の具体的な実践) ~~~~
  (創価学会について / 入会について / 入会するまで)
   http://www.sokanet.jp/info/nyukai/index.html

  3項目の実践
   1.勤行・唱題を実践している
   2.聖教新聞を3ヶ月以上購読している
   3.定例の座談会に2回以上参加している
  ~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり かつては これにもうふたつ加わっていたと思います。

   4.折伏をする
   5.大石寺へ行って真正のご本尊にまみえる

 これが どうなったか? が知りたいのですが?

 (12) 《5》の大石寺参詣うんぬんは 袂を分かったということのようですから くわしい事情やらはうかがいませんが (2)の《文底独一本門》によるなら 日蓮氏の書き表わした本尊ゆえに《下種益》のみなもとたるチカラが得られるのではないですか? つまり理の一念三千としてはよいかも知れませんが 単純にお尋ねして 事の一念三千としては こまったことなのではないですか?

  ◆ (勤行について / 勤行とは) ~~~~
   http://www.sokanet.jp/shinkaiin/gongyo.html

 「御本尊」は、宇宙と生命を貫く根源の法である南無妙法蓮華経を悟られた御本仏・日蓮大聖人が、御自身の仏の生命をあらわされたものです。

 その御本尊を信じ、読経し、題目を唱えていくとき、本来、私たちのなかに内在している仏界という最高の生命が湧きあらわれてきます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (13) 《4》の折伏は あらためて(8)の引用文を参照してください。つまりそれがもとづく文章は 次のようだそうです。

 ◆ (信心の基本 / 折伏) ~~~~

  ・ 唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ
   (立正安国論)
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり この折伏は 仕方などが変わったのですか?
 不当にきびしいやり方はなくなった。とすれば それは どのように説明されていますか?

 (14) つまり 《末法悪世》の時代の中でも 局面が違えば 《他のアヤマリをいましめる》そのやり方が変わってきますか?

 (15) 折伏の仕方にも 《迹門と本門》(*7)の違いがあるのですか? 

   *7 迹門と本門 / 五重の相対(4)本迹相対
    http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/kijun/04.html

 (16) たとえ迹門の局面だという場合にも 同じくたとえ《第六天の魔王》なる敵であっても すべからく変毒為薬して行くのが ふつうなのではないですか?

 《願兼於業》(*8)なのであって その敵対関係は 待ってましたとばかりに喜んで受け留め その相手のオシエを批判し その人をうやまう。こういうこととして受け取ってよろしいですか?

  *8 願兼於業
   http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/tenkan/04.html

 (17) この《§ 4 仏法の実践とは》では その実践の方針が必ずしも定まってはいないのではないかという問いです。
 一方で よき行動方針がありうるにもかかわらず そのように実践され得なくなっていないか?
 他方で 単に行き過ぎと言うには 方針がはっきりしていないことにより 受け容れがたいものがあるように見受けられます。

 これを称するに 要するに《事の一念三千》が その中身として ととのっていないのではないか? また 理としての整合性に欠けるところがあるのではないか?

 この問いは いちいち例示せずに問うて いや そんなことはないですよという答えが返って来るのなら もう何も言わないという姿勢でのものです。

 要するに 反省していますか? どのくらいですか? という問いです。

投稿日時 - 2013-04-27 14:19:19

QNo.8061851

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

No.10です。

>つまり法華経・如来寿量品第十六の文底における独一なる本門を けっきょく真実の神なる法身のブッダとしての日蓮が むろん隠れたかたちでですが 書いた。ならば 日蓮の日常ふつうに使っている言葉があるはずだ。《随方毘尼》(No.2お礼欄に参照箇所を明示)ということもあるはずです。なぜ この独一本門を明かしたとき それは これこれこういう――日本語での――題目なる言葉になるのだと示さなかったのか? という疑問です。

>なぜ 《梵漢共時》のほうに重きを置くのか。それ・つまり南無妙法蓮華経という梵漢共時があってもよいかも知れませんが そのほかに日本語での題目があってもよいのではないか? こういう問いです。

>そうでないと 《文底》を著わしたという意味が さっだるまぶんだりーかすーとらなる梵語や 妙法蓮華経といった漢語に引っ張られて行ってしまった格好で止まってしまっているのではないか。そういう疑問です。


■日蓮が開宗当時、また、研鑽当時、“法”は既に存在していた為、そのまま“一切を変えずに”一切衆生成仏の“法”として使用した。それで、良いではないですか。

※《随方毘尼》(No.2お礼欄に参照箇所を明示)

------------

要するに、正法という根本基準を立てたうえで、成仏・不成仏という仏法の根本原理に関する事柄でなければ、一般の風俗、世間の普通の約束事を尊重し、用いていくことを説いているのが日蓮大聖人の仏法です。

------------
随方毘尼というものは、“法”の説き方であって、法自体ではありません。上記の内容にも“正法という根本基準を立てたうえで”ということわりがあります。



>☆ ひとこと余計でしょうが これゆえにも ブッダター(仏性)は 神の霊ではないかと問うています。

■仏です。如来です。



>☆ これはよく分かりません。《広宣流布のとき》と《法華経を広める事が強盛になるとき》とは 別なのでしょうか?

■同じと捉えていただいて結構です。表現の違いです。


>《平左衛門尉頼綱》として例示されたような場合は 《悪知識から善知識へと変える》ことは出来ないという意味でしょうか?

■相手の機根に因るでしょう。

平左衛門尉頼綱は、二度の日蓮による直接の諌めを受けましたが、改宗するどころか法華に対しての迫害、憎しみは強くなるばかりでした。最後には、嫡男に命を奪われる事になります。



>《4》はですね。 《入会してから》三か月間のあいだに この折伏をするということが 《実践》の必須事項だと言われました。(もう四十年以上昔のことです)。そういう意味です。

■四十年以上前の事ですと、私には良く分かりません。入会もしていませんし、その頃は、小学生ですから。


>>■ ※1~3についても、特に入会基準としてはいらないと思います。時代が、違いますし。世界規模の宗教教団になっているのですから。

>☆ ん? これは 重きをおきませんが そうだとしたら 公式サイトでそのように記したままになっているのは 少しおかしな気もします。

■正式には、そうした《入会基準》があるのです。⇒『創価学会として』という意味。
しかし、入会までにそういった期間を設けることは、もはや必要は無いです。それよりも、本人が“信心をやる”ということでしたら、一日も早く、一刻でも早く、御本尊を安置させ、信心につかせるべきです。『入会』と『体験入会』みたいな事を一緒にするべきではないと思います。

逆に・・・・『やらない』、『できない』なら、無理に入会しなくても良いではないか。

私は、そう思います。


>☆ つまりわたしの素朴な疑問は 昔と今とでは 勤行のときに向き合う本尊が違っています。境智冥合としては ちがったものになりはしないか? です。
 それとも 仮りの本尊はどうでもよい。つまり 仮りは仮りとしての役目を果たせばよいのだ。こういう意味でしょうか?

■『仮りの本尊』・・・・とは?

a.御摸御本尊の事⇒ 各家庭に御安置されている御本尊の事。

b.創価学会配布の処の御本尊の事⇒ 平成3年、破門いらい配布されている御本尊の事。

どちらでしょう?????

投稿日時 - 2013-05-02 18:00:00

お礼

 けいえす5518さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ■ 日蓮が開宗当時、また、研鑽当時、“法”は既に存在していた為、そのまま“一切を変えずに”一切衆生成仏の“法”として使用した。それで、良いではないですか。
 ☆ としますと 題目を何語で表わすかは ほかの(よその)言語を借用したとしてもかまわない。こういうふうに理解しました。


 ■ ※《随方毘尼》
 ☆ この用語をまた誤用したかも分かりません。ただし 題目を日本語で表わしてもよい。この見方は もう問いませんが 持ち続けるつもりです。


 ■ ~~~~
   >☆ ひとこと余計でしょうが これゆえにも ブッダター(仏性)は 神の霊ではないかと問うています。

  ■ 仏です。如来です。
 ~~~~~~~
 ☆ おそらくブッダター(仏性)は 神の霊であり 法身のブッダやタターガタ(如来)は 神(これも 霊ですが)でしょう。
 そのように規定すれば 普遍宗教になれるはずですのに。



 ■ 『入会』と『体験入会』みたいな事を一緒にするべきではないと思います。
 ☆ 昔は 《現証》に重きを置くという理由から 《体験入会》を勧めていたのです。
 もうなくなったということでしたら そのように公式に説明しておくことが 不軽菩薩の精神です。


 ■ 『仮りの本尊』・・・・とは?
 ☆ これは 板マンダラにしても ほかの・紙などによるかたちある本尊にしても すべてはそのもの自体が 本尊の本体ではない。(妙法そのものではない)。とするなら かたちあるものは 仮りの本尊だとなります。
 ゆえに 昔と今とで その《仮りの本尊》が 境として違っていても かまわない。こういう理解になりますか? と問いました。
 

 

投稿日時 - 2013-05-02 19:44:32

ANo.11

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回答(11)

ANo.10

§1 題目について 

 (1) なぜ題目は 南無妙法蓮華経というように インド語〔の漢語における音訳借用語〕と漢語訳語とで成っていますか?

■何故か??というよりは、もともと、鳩摩羅什が漢訳したわけで、中国:天台宗から伝教大師が音声、文字として持ち帰っている為、そのまま使用しているのではないでしょうか。日蓮大聖人も御書の中で梵漢共時を仰っていますし。⇒御書P.708参照


 (2) 法華経・寿量品第十六についての文底・独一なる本門(*1)を 日蓮氏が顕わしたのであるなら 日蓮氏の日常生活にもとづいた言葉で表現したほうが 自然なのではないでしょうか?

■上記参照


 (3) そのほうが 《下種益》(*2)のためにもそしてあらたな《脱益》(*1)のためにも 仏法ないし本尊のチカラが自然に発揮されるようになると思われるのですが それは 下司の勘繰りにすぎませんか?

■上記参照



 § 2 仏性について

 (4) ひとは無条件に《一切衆生 悉有仏性》が当てはまり この仏性のハタラキがその人に現われ得る――こう言ってよろしいですか?

■良いです。ただし、『仏界計り現じ難し』と言われています。⇒P.241


 (5) それは 理の一念三千かつ事の一念三千(*2)という見方に立つゆえ――こう捉えてよろしいですか?

■良いです。しかし、仏性だけがあるのではなくて、十界ないし、百界あるわけですから、そのまま仏界が出るという解釈はなさらないでください。あくまでも、仏性を引き出すための信心であり、御題目であり、学会での活動があります。



 § 3 他の宗派に対する態度について

 (6) 《四箇格言》として《真言亡国 禅天魔 念仏無間 律国賊》といった規定は むろんその信徒たる人そのものはいづれも《うやまっている》のであるし あるいはつまりその人にそなわる仏性の開かれるようにと願っているのである――こう受け取ってよろしいですか?

■その通りです。


 (7) それぞれのオシエを批判しているのであるが それはいづれも 仏性については説いているが その発現のための方法を知らないか 間違っているからである――こう受け取ってよろしいですか?

■良いです。

>>オシエを批判しているのであるが⇒では、誰がどのような解釈で、各々の宗派を立ち上げ、どのような法を、または本尊を定めたのでしょうか?これについて、日蓮は16才~32才まで諸国の経蔵にてあらかたの経典、釈書を研鑽した上で論破しています。また、開宗時だけではなく佐渡の塚原で流罪直後に行なわれた『塚原問答』でも論破されています。おそらく、当時の世間において教学で日蓮大聖人に太刀打ちできる僧はいなかったのではないでしょうか。
もともと、立正安国論提出後から続く、幕府による法難(処刑未遂、流罪等)も日蓮によって『信者がいなくなる』危機感が他宗の僧等を幕府との結託へとしむけた要因があるのです。




 § 4 仏法の実践とは

 (8) ◆ 成仏のためには自ら謗法(ほうぼう:そしる。悪口を言う)(*3)を犯さないようにするだけでなく、他の謗法を責めていく折伏の実践が、謗法厳誡の肝要となります。

   *3  謗法  
   ◆ http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/13.html

 ☆ とありますが この《折伏》なる実践が これまでの全三章七項目のいづれの事柄にもかかわっているとまづ思われます。

 それらの確認のもとに これまでの歴史において《折伏》をおこなう際に――その例示はしませんが―― 行き過ぎがあったと言えますか?

■十分に言えるでしょう。この点については、かなりのご迷惑をおかけしている場合もあるでしょう。


 (9) 謗法にしろ何にしろ 《三類の強敵》(*4)や《三障四魔》(*5)についてはすべて《変毒為薬》(*6)すればよい。――こう捉えてよろしいですか?

■《変毒為薬》については、解釈がキチンとなされていないようです。《三類の強敵》、《三障四魔》とは基本的に関係しません。


 (10) 第六天の魔王(*5)についても むしろそれは《広宣流布》のために出現する――それ自体は 負で言わば悪のだが――《善知識に変身させうる悪知識》である。こう捉えてよろしいですか?

■違います。これは、法華経を広める事が強盛になるとき、それを止める働きとして出てくるもので、それに惑わされて退転をするなということです。たとえば、日蓮大聖人の時代で言えば、平左衛門尉頼綱です。

    
 (11) さらに具体的な実践についてお尋ねします。

 ◆ (入会のための条件としての日常の具体的な実践) ~~~~
  (創価学会について / 入会について / 入会するまで)
   http://www.sokanet.jp/info/nyukai/index.html

  3項目の実践
   1.勤行・唱題を実践している
   2.聖教新聞を3ヶ月以上購読している
   3.定例の座談会に2回以上参加している
  ~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり かつては これにもうふたつ加わっていたと思います。

   4.折伏をする
   5.大石寺へ行って真正のご本尊にまみえる

 これが どうなったか? が知りたいのですが?

4.については、入会してからでよいでしょう。

5.は、今は無いでしょう。

※1~3についても、特に入会基準としてはいらないと思います。時代が、違いますし。世界規模の宗教教団になっているのですから。2.については、『今は、お金がままならない』という方もいらっしゃるようですし。⇒当サイトにも良くある質問ないようです。

 (12) 《5》の大石寺参詣うんぬんは 袂を分かったということのようですから くわしい事情やらはうかがいませんが (2)の《文底独一本門》によるなら 日蓮氏の書き表わした本尊ゆえに《下種益》のみなもとたるチカラが得られるのではないですか? つまり理の一念三千としてはよいかも知れませんが 単純にお尋ねして 事の一念三千としては こまったことなのではないですか?

■全然!!何の為に各家庭に御本尊が安置されているのでしょうか。こちらに祈れば問題ない。

※※日蓮氏の書き表わした本尊ゆえに⇒では、毎日拝んでいると、日顕上人げいかのように狂ってしまうのか??これも、おかしい話ですね。⇒だって、日蓮宗:身延派の高僧は『日蓮正宗さんは、おかしな宗派だ。信者を切り捨ててしまうとは』といっている。




 (13) 《4》の折伏は あらためて(8)の引用文を参照してください。つまりそれがもとづく文章は 次のようだそうです。

 ◆ (信心の基本 / 折伏) ~~~~

  ・ 唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ
   (立正安国論)
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり この折伏は 仕方などが変わったのですか?
 不当にきびしいやり方はなくなった。とすれば それは どのように説明されていますか?

■そんな事はないでしょう。折伏は慈悲を持って行なうものです。特にやり方は変わっていませんよ。
ただ、成果主義に捉われた何が何でも入会的な折伏は改めなければなりません。

※※また、折伏については、命と命の闘争となりますので、お互いの命の傾向性がモロに出てきます。ですから、必要以上に必死に、真剣にならざるをえません。これ、大変なのですよ。


 (14) つまり 《末法悪世》の時代の中でも 局面が違えば 《他のアヤマリをいましめる》そのやり方が変わってきますか?

■折伏のやり方は変わらないでしょう。ただ、時代の変化により、歩いて行くところを電車で行ったり、ネットを通じて事前に情報のやり取りができるとか、そういう手段は変化するでしょう。



 (15) 折伏の仕方にも 《迹門と本門》(*7)の違いがあるのですか?

■あります。一つには“法体”があるということです。ですから、末法本門は折伏になります。迹門ではショウジュです。



 (16) たとえ迹門の局面だという場合にも 同じくたとえ《第六天の魔王》なる敵であっても すべからく変毒為薬して行くのが ふつうなのではないですか?

■?????


 (17) この《§ 4 仏法の実践とは》では その実践の方針が必ずしも定まってはいないのではないかという問いです。
 一方で よき行動方針がありうるにもかかわらず そのように実践され得なくなっていないか?
 他方で 単に行き過ぎと言うには 方針がはっきりしていないことにより 受け容れがたいものがあるように見受けられます。

 これを称するに 要するに《事の一念三千》が その中身として ととのっていないのではないか? また 理としての整合性に欠けるところがあるのではないか?

■人がやっていますからね。指導の取り方にも色々でしょう。
中には、獅子身中の虫といって、内部から破壊を企てる者もおりますし。



 要するに 反省していますか? どのくらいですか?

■教義、教学上の反省はありません。
しかし、組織としての行動は、反省すべき点は多々あるとおもいます。そこには、大きくなりすぎた組織にも、原因はあるとおもいます。迷惑をかけていないつもりでも、相手は迷惑に思っていることは多々あると思います。集団というものは、機微を失わせるものでもあると思います。

投稿日時 - 2013-04-30 21:07:41

お礼

 けいえす5518さん こんばんは。こちらにもご回答をありがとうございます。

 (1)(2)(3)
 ■ 日蓮大聖人も御書の中で梵漢共時を仰っていますし。⇒御書P.708参照

 ◆(御書 p.708) ~~~~
 http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=708&.x=56&.y=19

 御義口伝

 南無妙法蓮華経

 御義口伝に云く 

  南無とは梵語なり 此には帰命と云う、
  人法之れ有り 人とは釈尊に帰命し奉るなり 法とは法華経に帰命し奉るなり
  又 帰と云うは 迹門不変真如の理に帰するなり
  命とは 本門随縁真如の智に命くなり
  帰命とは 南無妙法蓮華経是なり、

  釈に云く
   随縁不変・一念寂照と、
   又 帰とは 我等が色法なり
   命とは 我等が心法なり
   色心不二なるを一極と云うなり、

  釈に云く
   一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、
 
  又云く
   南無妙法蓮華経の南無とは 梵語・
   妙法蓮華経は 漢語なり
   梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、

  又云く
   梵語には 薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧と云う
   此には 妙法蓮華経と云うなり、
   薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、

   九字は 九尊の仏体なり 九界即仏界の表示なり、
   妙とは 法性なり 法とは無明なり 無明法性一体なるを妙法と云うなり
   蓮華とは 因果の二法なり 是又 因果一体なり
   経とは 一切衆生の言語音声を経と云うなり、

  釈に云く
   声仏事を為す 之を名けて経と為すと、
   或は 三世常恒なるを経と云うなり、
   法界は 妙法なり 法界は蓮華なり 法界は経なり 
   蓮華とは 八葉九尊の仏体なり
   能く能く之を思う可し已上。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 確かに説明ですけれど。

 つまり法華経・如来寿量品第十六の文底における独一なる本門を けっきょく真実の神なる法身のブッダとしての日蓮が むろん隠れたかたちでですが 書いた。ならば 日蓮の日常ふつうに使っている言葉があるはずだ。《随方毘尼》(No.2お礼欄に参照箇所を明示)ということもあるはずです。なぜ この独一本門を明かしたとき それは これこれこういう――日本語での――題目なる言葉になるのだと示さなかったのか? という疑問です。

 なぜ 《梵漢共時》のほうに重きを置くのか。それ・つまり南無妙法蓮華経という梵漢共時があってもよいかも知れませんが そのほかに日本語での題目があってもよいのではないか? こういう問いです。

 そうでないと 《文底》を著わしたという意味が さっだるまぶんだりーかすーとらなる梵語や 妙法蓮華経といった漢語に引っ張られて行ってしまった格好で止まってしまっているのではないか。そういう疑問です。

     *

 (4)

 ■ ただし、『仏界計り現じ難し』と言われています。⇒P.241

 ◆ (御書 p.241) ~~~~
 如来滅後五五百歳始観心本尊抄

 問うて曰く 
  六道に於て分明ならずと雖も 粗 之を聞くに之を備うるに似たり、
  四聖は全く見えざるは如何、

 答えて曰く
  前には人界の六道之を疑う、然りと雖も強いて之を言つて相似の言を出だせしなり
  四聖も又爾る可きか 試みに道理を添加して万か一之を宣べん、
  所以に世間の無常は眼前に有り
  豈 人界に二乗界無からんや、
  無顧の悪人も猶 妻子を慈愛す 菩薩界の一分なり、
  但 仏界計り現じ難し
  九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、

  法華経の文に人界を説いて云く
   「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」
  涅槃経に云く
   「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」

  等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ひとこと余計でしょうが これゆえにも ブッダター(仏性)は 神の霊ではないかと問うています。

       *

 (5)
 ・・・ありがとうございます。

        *

 (6)
 ■ その通りです。
 ☆ ありがとうございます。

        *

 (7)
 ・・・ありがとうございます。

          *

 (8)
 ■ ・・・日蓮は16才~32才まで諸国の経蔵にてあらかたの経典、釈書を研鑽した
 ☆ これについてくわしい議論の余地はあろうかと思っています。
 (すでに 【Q:《南無妙法蓮華経》は・・・】のほうで ねむりねこさんとのやり取りで ひとつの論点が出て来ています。無明と明知との対立する二項を言わば前提として その上で《中道》を説いている。そうではなく 初めに二項対立はないというところから出発するのが ブディズムであると)。

 ですが いまは 焦点を広げないでいます。議論を拡散させたくない。と考えます。(一方的にそうするんだという意味ではありませんが)。

           *

 (9)
 ☆☆ これまでの歴史において《折伏》をおこなう際に――その例示はしませんが―― 行き過ぎがあったと言えますか?
 ■ 十分に言えるでしょう。この点については、かなりのご迷惑をおかけしている場合もあるでしょう。
 ☆ 率直なご見解の表明をいただきました。

 
 ■ 《変毒為薬》については、解釈がキチンとなされていないようです。《三類の強敵》、《三障四魔》とは基本的に関係しません。
 ☆ これはじつは 初めから《拡大解釈》によっています。やはり突かれるべき点なのですね。
 そういうたとえば第六天の魔王をも 悪知識から全知識へと変身させることを 何と言うのでしょうか? 折伏のあとのよき状態をも言い含むような用語です。

        *

 (10) 第六天の魔王(*5)についても むしろそれは《広宣流布》のために出現する――それ自体は 負で言わば悪のだが――《善知識に変身させうる悪知識》である。こう捉えてよろしいですか?

 ■ 違います。これは、法華経を広める事が強盛になるとき、それを止める働きとして出てくるもので、それに惑わされて退転をするなということです。たとえば、日蓮大聖人の時代で言えば、平左衛門尉頼綱です。

 ☆ これはよく分かりません。《広宣流布のとき》と《法華経を広める事が強盛になるとき》とは 別なのでしょうか?
 《平左衛門尉頼綱》として例示されたような場合は 《悪知識から善知識へと変える》ことは出来ないという意味でしょうか?

          *

 (11)
 ■ ~~~
  ☆ 4.折伏をする
    5.大石寺へ行って真正のご本尊にまみえる

 これが どうなったか? が知りたいのですが?

  ■ 4.については、入会してからでよいでしょう。

  5.は、今は無いでしょう。
 ~~~~~~
 ☆ 《5》は 特殊な事情が経過していますから それとして理解します。
 《4》はですね。 《入会してから》三か月間のあいだに この折伏をするということが 《実践》の必須事項だと言われました。(もう四十年以上昔のことです)。そういう意味です。

 ■ ※1~3についても、特に入会基準としてはいらないと思います。時代が、違いますし。世界規模の宗教教団になっているのですから。
 ☆ ん? これは 重きをおきませんが そうだとしたら 公式サイトでそのように記したままになっているのは 少しおかしな気もします。

 《4》の折伏の実践上の問題と 《5》は その方針変更の前と後とで境智冥合の《境》が――具体的な本尊のかたちとして――違っていることについての説明とを いまは尋ねたいと思います。

      *

 (12)
 ☆☆ 〔本尊が かたちあるものとして変わったことは〕単純にお尋ねして 事の一念三千としては こまったことなのではないですか?

 ■ 全然!! 何の為に各家庭に御本尊が安置されているのでしょうか。こちらに祈れば問題ない。

 ☆ つまりわたしの素朴な疑問は 昔と今とでは 勤行のときに向き合う本尊が違っています。境智冥合としては ちがったものになりはしないか? です。
 それとも 仮りの本尊はどうでもよい。つまり 仮りは仮りとしての役目を果たせばよいのだ。こういう意味でしょうか?


          *

 (13) 
 ■ ~~~~
 ・・・折伏は慈悲を持って行なうものです。特にやり方は変わっていませんよ。
 ただ、成果主義に捉われた何が何でも入会的な折伏は改めなければなりません。
 ~~~~~
 
 (17)
 ☆☆ 要するに 反省していますか? どのくらいですか?

 ■ ~~~~~~~~
 教義、教学上の反省はありません。
 しかし、組織としての行動は、反省すべき点は多々あるとおもいます。そこには、大きくなりすぎた組織にも、原因はあるとおもいます。迷惑をかけていないつもりでも、相手は迷惑に思っていることは多々あると思います。集団というものは、機微を失わせるものでもあると思います。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ ありがとうございます。
 あとは 注文が多いですが 公式にも学会として 社会に向けてひとこと言って欲しい。こういう思いがあります。

投稿日時 - 2013-04-30 22:39:55

わたしが回答してから
S学会員さんから、な~んも反応もないですね。

─────────
新世紀の歌
           作詞 佐々木政俊
三 獅子王の雄叫びは 大地をゆるがす
  広宣流布の大進軍
  破邪顕正の剣もて
  築かんわれら新世紀
─────────
http://www2.sokanet.jp/download/songs/text/09.pdf


これは、創価学会さんの公式サイトから拝借したのですけれども、これってタダの掛け声なんですかね~。
S学会員の皆さんは、《獅子吼・ししく》しないんですか~。
獅子ならぬネコでさえ鳴いているんですよ~、ミャーミャ~と、うるさいまでに。
ここで歌われている破邪顕正(はじゃけんしょう)の心意気はどこに行ったんでしょう。
破邪顕正の剣(つるぎ)をもっていないんでしょうか~。
それとも、持っていたけれど、すでに折れちゃってる?
あるいは、折れるor折られるのが、怖い?
折れたら、また、つなぎ直せばいいでしょうに。。。。。。

それとも、
法華経誹謗のヤカラである、bragelonneや眠り猫などに聞かせる言葉はないですか~。
このままでは、
bragelonneさんと眠り猫めは、
法華経誹謗の罪で、無間地獄へ真っ逆さまですよ~。
可哀想だと思わないんですか~。
偏った慈悲心だな~。
偏頗な慈悲心だこと。
と、言われちゃいますよ~。

投稿日時 - 2013-04-29 18:51:57

補足

 学会員の方でなくても 誰でも 投稿してもらっていいんですけれどねぇ。

投稿日時 - 2013-04-29 19:25:44

お礼

 まぁ お二人から回答があったわけですから。とりあえず 反応をもらっているとまづは思うことにします。


 ねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 今日あたり 大々的な・本格的な教学の議論がやって来るかなぁと思っていましたが どうも相手をしにくいのでしょうか。
 
 正面から 声をかけて相手のふところへ入って行っていますから 答えやすいと思っていたのですが。・・・


 まぁ もうしばらくは待ちます。そのあとで どうしたものかを考えます。

 といった感じで。

投稿日時 - 2013-04-29 19:23:04

つけたし、付け足し!!
「その内に、bragelonneさんに、ご紹介しよう」と思いつつ、なかなか、その機会がなくて、
いい機会なので、
《三階教》について、御紹介します。

三階教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9A%8E%E6%95%99


この記事には触れられていませんけれども、
中国で起こった《三階教》の信者さんたちは、他のヒト───と言っても、そのヒトの持つ仏性ですが───を拝んでいたらしいですよ~。
分別することなく、身分や貴賎、信者・非信者、仏教徒・非仏教徒の区別なく、礼拝の対象や信仰の対象にしていたらしいです。
すこし《常不軽菩薩》の行いに似ている。。。

まっ、これもどうかと思うのですが、仏性思想の一つの到達点ではありますよね。
でも、その理由がちょっといただけないのですが。。。
───記憶違いをしていると、嫌なので、その理由は書きません───
鎌田茂雄の『中国仏教史』(岩波書店)かなにかに、この《三階教》についての記述があったはずです。

この《三階教》は、阿弥陀さん信仰・念仏宗の一派で、日本の浄土宗と浄土真宗とは、親戚関係にあるオシエです。

投稿日時 - 2013-04-29 16:06:26

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 なるほど。末法という時代を受け留めて オシエや修行の仕方は けっこう大きい影響を受けたようなのですね。

 ▼(ヰキぺ:三階教) ~~~
 第三階(=末法)の人は、末法の濁世に生きる凡夫であるがゆえに、三階教が『大方広十輪経』や『大集経』を所依の経典として独自に説いた、普仏・普法・普敬によらなければ救われないと説いた。すなわち、あらゆる仏、あらゆる経典、あらゆる僧侶に帰依することを求めたのである。その実践は、乞食行であった。

 ただ、その主張は、如来蔵・仏性思想に基づくもので、それ自体は、大乗仏教の思想の延長線上にあるものである。三階教の教義は、仏教が本来もつ汎神論性を更に一歩推し進めたものとも受け取れる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 そうして
 ★ この《三階教》は、阿弥陀さん信仰・念仏宗の一派で、日本の浄土宗と浄土真宗とは、親戚関係にあるオシエです。
 ☆ にかんしては:
 ▼ (同上) ~~~~
 この点で、同時期に曇鸞-道綽-善導によって大成された浄土教、専修念仏を標榜して念仏を唱えるだけで阿弥陀仏の極楽浄土に往生できると説いた浄土教と比較されることとなる。

 浄土教も、三階教同様に、末法思想の影響によって生まれたものであり、末世には念仏によってしか救われないと説くものである。

 ただ、その方向性は対照的であり、浄土教の場合は、仏教の汎神論性を捨て、一神教的な傾向を持つに至るのである。
 ~~~~~~~~~~~

 あるいはさらに 弾圧を受けて衰えて行ったのですね。
 ▼ (同上) ~~~~
 三階教の歴史は、政府による弾圧の歴史であった。既に開祖信行の没後わずか6年の、隋・文帝の開皇20年(600年)には邪教と認められて弾圧を受けている。
 ~~~~~~~~~~~



 《末法》なる思想は いちど人びとに或る種のエポケーを促したかも知れません。

 浄土系が《一神教》的な傾向を持つと言っても 親鸞にあっては《全体としてのひとつ》ですから 《汎神論性》をも含んでいると思います。 
 
 なにしろけっきょく《念仏》を 師匠の法然に義理立てして(または 当時の人びとにとっては 一足飛びにそれを捨てることは叶わぬと見て)保ち続けたようですが じっさいにはまるでどうでもよいとすでに結論づけていたとさえ思われます。

 したがって アミターバ・ブッダでさえどうでもよいと理論づけていたと思われます。もう神は 何と呼ぼうと 決まっているとしたはずです。
 信仰があれば 文句なしという神学であり あとは 経験思想や経験科学ないし生活世界にひとはすすむという世界観であると考えます。
 七八百年ほど出るのが早かった。・・・

投稿日時 - 2013-04-29 17:03:05

こんにちはです。
いや~、
S学会さんやS学会員さんから反応がありませんね~。

実は、眠り猫の実家、
時々、聖教新聞をとっているんですよ。一年のうちで、六ヶ月くらい。
眠り猫の実家、田舎にあるんで、地縁・血縁のシガラミがつよくて、それで。
新聞購読の勧誘にくるヒト(S学会員)のためにです。
とっても読まないんですけれどね~。ゴミ箱直行(わらい)!!
そのヒトは、いつも、申し訳なさそうにやってくるんですよ。
これも折伏活動の一種なんでしょうかね~。
学会員さんの心の平安を乱す組織宗教って、一体、なんなのでしょうかね~。

の一方、これまた、
地縁・血縁のシガラミってやつで、眠り猫の母親は、立正佼成会の名ばかりの信者を長い間やっています。わたしが、子供のころから。中学生の時、時々、立正佼成会の機関誌───名称は何だったかな、『佼成』でしたか───などを読んだこともあります。
───ネコの父親のイトコが熱心な立正佼成会の信者さんなんで───
なので、わたしの法華経理解には、いくらか、立正佼成会的なものが含まれています。その影響をわずかばかり受けているはずです。三つ子のタマシイ、百までってワケで。


というわけで、
立正佼成会さんのホームページから、《常不軽菩薩・じょうふぎょうぼさつ》に関係する一節を借用します。
─────────
真理に基づく仏性礼拝行

常不軽菩薩は、
「あなたは必ず仏になれる人です」と人びとの仏性を礼拝し、また真理を説き続けて、ついには縁あるすべての人の仏性を目覚 めさせました。この仏性を自覚しているこの偉大な菩薩の眼には、他の人の光り輝く仏性がありありと映っていたに違いありません。
「あなた自身の本質である尊い仏性に気づいてほしい」との一念が、飽くなき布教へと菩薩を駆り立てたのです。
常不軽菩薩の生き方が私たちに教えてくれるのは、「菩薩行の根本は相手の仏性を礼拝 することである」ということです。仏性を拝むことなしにその人を救おうというのは、空虚な行ないにおちいる危険性が高いのです。では、相手の仏性を拝むとは、具体的にどのようなことなのでしょうか。
仏性を拝むというと、私たちは相手の長所や美点を見つけ出して認めることと思いがちです。
「あの人には、あのように(固定的な)欠点 もあるけれど、このような(固定的な)長所もある。だから、その長所を褒めていこう」と考えてしまうのです。
このような礼拝行であっても、実践し続ければ、それは立派な行と言えます。しかし、これはあくまでも礼拝行の出発点です。
なぜなら、 長所とか欠点という固定的な見方をしているからです。 固定的に見るその大 本は、自分の我にほかなりません。
ですから、私たちは、さらに真理に依る仏性礼拝行へと進む必要があります。それは、次のような観方に基づく仏性礼拝行です。
「この人の表面 に現われている長所や欠点、善悪などは、すべて仮のすがたであり、因と縁の関係のしかたによって常に変化 している。固定的に見て、とらわれてはならない。 私が見つめるのは、この人のいのちの本質だ。 私と同じように泣き、笑い、怒りながら、仏さまの庇護のもとで 成長・向上の旅を続けている、私とこの人は同じ仏の子であり、きょうだいだ。
この出会いをとおして 私も輝き、この人にも輝いていただこう」
心の底からわき出るこの確信を持って人とふれあうとき、その場、その人に応じた適切なふれあいが自然に生まれます。そして、自他のいのちがさんさんと光を発するのです。
─────────
http://www.kosei-kai.or.jp/images/faith/jyofukyobosappon20.pdf
の一部を編集、引用。

わたしの考えに非常~に近いです。
《常不軽菩薩》について何か書けといわれれば、わたしも似たような内容のものを書くと思います。まっ、おバカなネコに頼むヒトなど、いませんでしょうけれども(笑い)。
誤解をされるのが嫌なのでいっておきますけれども、わたしと立正佼成会とまったく無縁の人間です。立正佼成会の考えから何がしかの影響を受けてではなくて、
わたしのオツム、《理性》がはじき出した結論です。
───この文章にクレームをつけたいところは、いくつかありますが、初心者向けの解説書なので、そこはあえて指摘しません───


創価学会の会員さんで、この文章を読んでどう思われます?
犬猿の仲である「立正佼成会のオシエなどデタラメだ。取るに足らない」とはおっしゃらず、
ここに、
今後の創価学会が歩むべき道の一端が示されているのではないですか?

投稿日時 - 2013-04-29 15:39:17

お礼

 ★ 創価学会の会員さんで、この文章を読んでどう思われます?
 ☆ ええ。こういう問いかけになるとわたしも思います。

 ねこさん きょうも休日ですよね。まづは こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 ただし すでに少し出ていましたね。

 すなわち法華経の読み方には 文上と文底とのふたつがあって このような立正佼成会の不軽菩薩についての解釈は まだ文上のものに過ぎない――こういう見方が持ち出されて来るかも知れません。《メタ法華経》みたいな視点でしょうか。

 あるいはつまり
 ◆ (趣旨説明欄 *1 種脱相対) ~~~~~

 末法の衆生はこの南無妙法蓮華経を信受し唱えることにより、自身の生命に仏種が下され、初めて成仏することができるのです。

 大聖人の下種仏法によって、成仏の種子を衆生の生命に植えることが可能になり、すべての衆生が一生のうちに種熟脱を具えて仏界の生命を現し、成仏していける道が開かれたのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という説明があります。

 仏性の種は 日蓮氏の以前と以後とで 以前のものはご破算で願いましてというふうに一たんデフォルトに設定されると言おうとしているのかも知れません。あたらしいほんとうの仏性の種が植えられるのだと。



 

 わたしは 学生のときかなりの程度で会員関係を持ちました。(学生の身分をフルに活用したと言えばよいでしょうか)。知り合いは別として 会員の友だちがひとりいます。いま コルカタにいます。

投稿日時 - 2013-04-29 16:01:53

こんばんはです。


☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 ☆ はわたしは 受けつけないのですよ。いつぞや 遺伝子が同じ人間はいないとわたしが言ったら 生まれ変わるのではなく 想像の世界で過去世や未来世があるとおっしゃったように記憶しておりますが 今回は
 ★ ~~~
 一応、仏教───Theravadは知らないので除外───では、死んじゃって、別な生き物に生まれ変わった瞬間に、過去の善業、罪業ともに清算される、と考えます。
 少なくとも肉体はそうです。
 ~~~~~
 ☆ というふうに もろに生まれ変わりぢゃないですか。DNA から言って それは無理でしょう。どうですか?
~~~~~~

その話は、
アーラヤ識で一卵性双生児は説明できるか、どうかという話だったじゃないですか。
少し長いですが、唯識学派の百科事典というべき『瑜伽論』から、関係箇所を引用。

─────────
 「彼の中有に住する者が、同類の有情たちを見て、(彼らとともに)遊びたいと欲し、(彼らのいる)生処に行きたいという欲望を起こす。その時、母と父とが交会して出す精血(精子と卵子)に対して彼に間違った見解(顛倒見)が生じる。すなわち、この時、この顛倒者は母と父とが相互に邪行(交会)を行っているのを見るが、しかし、母と父とが邪行を行っているとは見なく、彼は間違った考えを起こし、それを自分が行っていると見る。そしてその邪行を見終って彼に貪欲が生じる。すなわち、もし女になろうと欲せば父に交会しようとする貪愛が生じ、男になろうと欲せば母と交会しようとする貪愛が生じる(中略)。
 この時、恍惚となった母と父とは貪愛が激しい状態に達して精液を出す。その後に各々、一滴の精血を出す。するとこの二滴の精血は母胎において結合し、あたかも熟した牛乳が凝結するように凝結した一つの固まりとなって存在する。そこに一切種子識であり、異熟所摂であり所依を執受する阿頼耶識が結合凝結する(和合依託sammurcchati)。この濃厚な精血の固まりが生じ、同時に、この間違った見解をもつが故に中有が滅する。そしてその中有が滅すると同時に、かの一切種子(識)の功能によって他の微細な根と大種とが結合して生じ、および精血が固まって余の有根の彼同分が生じる。この状態に識が住した結合相続(pratisandhi)といい、また羯羅藍(こんららん)の位という。」

─────────
(横山紘一 『唯識の哲学』より引用)

で、
この時、二つの魂・二つの異なるアーラヤ識みたいものが、一つの受精卵に飛び込めば、一卵性双生児ができる。なので、唯識的には、同じDNAを持つものがいたとしても、問題はないですよ、
と答えたんですよ。

死んじゃうと、衆同分(しゅどうぶん)という、個体の持つ種の同一性・カテゴリーみたいなものが、いったん、失われるんですよ。
で、死の瞬間、次に生まれる衆同分は死ぬ前に行った行為の結果で決定されている、はず。
───中陰の時、身体のおおよその原型、といってもネコかヒトかくらいのものですが、がきまっているらしいので───
DNAは質料因によって決まりますから、そら~変わりますよ。肉体的な親という意味での、お母さんとお父さんから受け継ぐんですから。種のカベだって、乗り越えますよ。仏教の輪廻説というのは、そういうものですから。

でも、唯識はアーラヤ識説だから、その肉体は実際には存在しない、とする。
それは、勘違いで、倒錯した識が生み出したものだというわけです。お母さんのアーラヤ識とお父さんのアーラヤ識の表象みたいなものが影響して、子供になるアーラヤ識にそのようなヴィジョン(虚妄分別)みたいなものを発生させた、というものでした。

投稿日時 - 2013-04-28 22:41:18

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 わっかんない。です。

 ぜんぶ想像の世界の話ぢゃないですか。

 ★ で、死の瞬間、次に生まれる衆同分は死ぬ前に行った行為の結果で決定されている、はず。
 ☆ すでに初めから 《死んだら生まれ変わる》と決めて話をすすめています。


 ★ DNAは質料因によって決まりますから、そら~変わりますよ。
 ☆ 初めに《人は生まれ変わる》という前提を置いてから 話をそのように捉えるかたちに持って行っているとしか思えません。

 検証し得ないお話です。

投稿日時 - 2013-04-28 22:59:27

こんばんは。

No4の付け足しです。
No3のお礼欄にありました、《報障》についての質問に対する、わたしの考えです。



一応、仏教───Theravadは知らないので除外───では、死んじゃって、別な生き物に生まれ変わった瞬間に、過去の善業、罪業ともに清算される、と考えます。
少なくとも肉体はそうです。心はっちょっとグレーなんですけれども。前世の習慣の余臭みたいなものが、残るという考え方もあります。でも、体と表層的な心は、一応、ゼロ(無記)出発。

なのですが、ヒトがネコに生まれ変わったりはするんですよ。機根・能力の差は前世の《行為・カルマ》の結果として出ます。
たとえば、ヒトに生まれ変わったりする場合、目が不自由であったり、耳が不自由であったりして、仏の教えに接する機会の障り、障害のようなものになったりします。。。
───体の不自由な方、ゴメンなさい。私・個人は、体の不自由な方を差別する気持ちは持っていません───
お金持ちの家に生まれたり、貧乏な家に生まれたりの差も生じたりします。
仏の教えのない国に生まれたりもします。つまり、仏教に触れる機会の喪失になったりもします。
これを《報障》というのであれば、《報障》はあるということになります。
悪い境涯。。。。。。

─────────
【境涯】 この世に生きていく上でおかれている立場。身の上。境遇。「不幸な―」
─────────
コトバンク http://kotobank.jp/word/%E5%A2%83%E6%B6%AF

ってことは、いいのか。間違ってはいないのか。
僕のハヤトチリ、マチガイですか(ポリポリ)。

でも、仏道修行がどうたらこうたら言っているから、仏の教えには触れているんだよな~。そして、仏道修行をしているわけですから。であるとすれば、《報障》はなくなっているはず。《報障》の有無は、ここにおいては問題にならないはず。
アタマの良し悪しなどの能力の差は、悟りには直接関係しないので。むしろ、アタマがよいと、分別ばかりして、サトリの障害になったりします。家柄も関係ないので。

って、ところです。

投稿日時 - 2013-04-28 19:58:06

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ○ 輪廻

 ☆ はわたしは 受けつけないのですよ。いつぞや 遺伝子が同じ人間はいないとわたしが言ったら 生まれ変わるのではなく 想像の世界で過去世や未来世があるとおっしゃったように記憶しておりますが 今回は
 ★ ~~~
 一応、仏教───Theravadは知らないので除外───では、死んじゃって、別な生き物に生まれ変わった瞬間に、過去の善業、罪業ともに清算される、と考えます。
 少なくとも肉体はそうです。
 ~~~~~
 ☆ というふうに もろに生まれ変わりぢゃないですか。DNA から言って それは無理でしょう。どうですか?

 ○ 報障

 ☆ についても 学会員のみなさんにも 触れていただけたならさいわいです。

投稿日時 - 2013-04-28 20:13:58

こんばんはです。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 ★ この法身とは、何をさすのか?
 ☆ というように《法身》を言うならそれは すでに初めから《真理》のことであると決まっているのではないのでしょうか? 言いかえると 法身であるのなら それを誰が説いても やはり真理のことであり 学会から見れば《南無妙法蓮華経》なるこの世界の霊だと思われるエネルギーでありチカラであると考えられます。
~~~~~~
でしょ、でしょ。
でも、日蓮は、そのことを言わない。だから、《未了義》のオシエだと言っているんですよ。
これを擬人的に表現すれば、
久遠実成の本仏のハタラキと言ってもいいし、
《自性清浄心》、《如来蔵》、《仏性》などのハタラキと言ってもいいんですよ。
なんで、隠す必要があるんですか。
隠す必要はないんですよ。
隠さなければ、教義が揺らぐってんなら、捨てちゃえばいい、そんなオシエ。
プンプン!!



☆☆☆☆☆☆
仏教で《念・smrti》と言ったら、remebrance、memoryくらいの意味ですかね~。
でも、これも違います。
 心に○○をいだきつづける、保持する(こころのハタラキ)。
 そのイメージを心に明記する、焼き付ける(こころのハタラキ)。
くらいの意味です。

だから、
念仏───称名念仏ではなく、観想念仏です───は、
心に仏さんの姿を思い描き、そのイメージを保持する。それを心にしっかりと焼き付ける、
ので、
「仏を念ずる」→《念仏》
なんです。

仏教で《念・smrti》という言葉は、
英語で言うと、
memolizationとか、
「to fix (a fact) in the mind」という意味での「inpress」、あるいは、その動名詞の「impressing」
くらいの意味で使われます。

《倶舎論》では、
「記憶(念)とは、対象を忘失しないことである」
と定義されています。

これはお約束ごとなので、すこしいやらしい言い方をすると、
この意味で意外に仏教で《念》という言葉を使うと、仏教の基礎的な知識を欠いているってことになります。
何しろ、お約束ごとなんでね~。
やっぱ、
日蓮さんは、仏教の基本知識を欠いていたんでしょうか(ポリポリ)。

で、話を元にもどしまして、
この《念》は、やはり《止・観》という仏教の観法に関係する言葉ということです。
要するに、この《念》+《(禅)定》の状態を心に染み込ませ、定を解いても、その状態を保持し、日常生活の行動の中であらわれるようにしなければ、な~んの意味もない。単なるヨーガ倶楽部での、ヨーガごっこ、《悟り》ごっこで終わってしまう。
そのことを、「瞬間瞬間の生命活動」と言えば、別ですよ。
でも、そんな意味ではないでしょう。
だから、おかしい、と言っているんですよ、わ・た・し。


☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 ★ ~~~~
 文底独一本門〔における〕「下種益」とは:

  日蓮の教を聞かなければ、仏の種は人々に植えられない、

 〔という〕この教えに対して聞く耳を持っていない人に、仏の種はない、と言っている。
 ~~~~~~
~~~~~~
問題は、仏の種、「日蓮の教を聞かなければ、仏の種は人々に植えられない」って言葉なんです。
それは断じて違う!!
おそらく、この発想は、無著の『摂大乗論』の《聞法薫習種子》などから着想を得たものだと思います。
しかし、《聞法薫習種子》とは、(増上)縁であって、親因縁ではない!!
《無漏の種子》は私たちの中に先天的にあるんです。
「正しいオシエ(法)を聞く」ことによって、私たちの中にある先天的にある《仏の種》が芽吹くんです。活動性を発揮するんです。
日蓮のオシエや法華経を聞くことによって、これが植え付けられるわけではない。
断じて、そうではない。
だから、
《常不軽菩薩》は、棒でブタレようが、石を投げつけられようが、罵詈雑言を浴びせかけられようが、相手を軽んじないんです。
「わたしはあえてあなたたちを軽んじたりはいたしません。あなたたちはやがて仏になられるからです」
なんですよ。

投稿日時 - 2013-04-28 17:43:17

お礼

 ねこさん フル回転ですね。こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 
 文底独一本門にかんして つまりは真理そしてそれは南無妙法蓮華経であるといったことにかんして
 ★ でも、日蓮は、そのことを言わない。だから、《未了義》のオシエだと言っているんですよ。
 ☆ つまり《法身》のことなら《真理》を意味するはずだということを 日蓮氏は言わない!?

 いえ つまり問題は

  ○ 法華経・如来寿量品第十六の文上とそして文底とは何ぞや
 
 ここにあるのでしょうか。
 まぁ つまりは ふつうに受け取れば《文底》とは いわゆる《行間を読む》ということになるのだと思うのですが 果たして どうなりましょうか。

 わたしは ここまでです。
 日蓮氏にくわしい方 おしえを乞います。


      *

  ○ 念:非常に短い時間。一念。刹那。

 がありました。

 ● (デジタル大辞泉:念) ~~~~~~~~~
  http://kotobank.jp/word/%E5%BF%B5

 ねん 【念】

 1 思い。気持ち。「感謝の―」
 2 心くばり。注意。「―には及びません」
 3 かねての望み。念願。「―がかなう」
 4 仏語。
  ・心の働き。記憶する働き。
  ・非常に短い時間。一念。刹那。
  ・対象に向かって心を集中し、冥想(めいそう)すること。

 ---------------------------------------------------
 ねん 【念】

 [音]ネン(呉) [訓]おもう

 1 いちずに思いをこめる。「念願・念力/一念・観念・祈念・思念・専念・想念」
 2 いつまでも心にとどめる。「念書/記念」
 3 思い詰めた考えや気持ち。思い。「怨念(おんねん)・疑念・雑念・残念・執念・情念・信念・断念・無念・妄念・理念」
 4 注意。「丹念・入念」
 5 含み声で唱える。「念経・念仏」
 6 きわめて短い時間。「念念/一念」
 7 「廿(二十)」の代用字。「念日・念六日」
 [名のり]むね
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 現代中国語で《念書》と言うと 《本を読む》ですよね。

 確かに ただし サンスクリットには 《瞬間》という意味はないようです。

 ● Monier Williams Sanskrit-English Dictionary (2008 revision)
   http://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/monier/

 ☆ つまり もうひとつの Sanscrit Dictionary for Spoken sanskrit とほぼ同じ説明です。(ことば自体も)。


       *


 ◆ 下種益
 
 まづわたしも:
 ★ ~~~~~
 《無漏の種子》は私たちの中に先天的にあるんです。
 「正しいオシエ(法)を聞く」ことによって、私たちの中にある先天的にある《仏の種》が芽吹くんです。活動性を発揮するんです。
 日蓮のオシエや法華経を聞くことによって、これが植え付けられるわけではない。
 ~~~~~~~~
 ☆ と理解しています。ところが:

 ◆ (趣旨説明欄 *1 種脱相対) ~~~~~
 法華経の本門で、釈尊の久遠の成道が説かれたといっても、それは結果の姿であり、成仏の真実の原因となる法が衆生に対して明確に示されたわけではありません。釈尊自身が修行して成仏した根源の法が何であるかについて、法華経では示されていないのです。

 日蓮大聖人は、成仏の真実の原因となる法が本門寿量品の文底に秘沈されていると仰せです。その法が、釈尊を成仏せしめ、またあらゆる仏を成仏させた仏種です。

 日蓮大聖人はこの根源の仏種を南無妙法蓮華経として顕し、弘められました。末法の衆生はこの南無妙法蓮華経を信受し唱えることにより、≫自身の生命に仏種が下され≪、初めて成仏することができるのです。

 ・・・(中略)・・・
 大聖人の下種仏法によって、≫成仏の種子を衆生の生命に植えることが可能になり≪、すべての衆生が一生のうちに種熟脱を具えて仏界の生命を現し、成仏していける道が開かれたのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と書いてあります。

 そうしますと 《十界互具》というかたちで 誰もに仏性がそなわっているという理論は これも《迹門》に成るんですかねぇ。


 学会員のみなさん おしえてください。趣旨説明欄としては 《§ 2 仏性について》の(4)(5)にかかわっています。

 《常不軽菩薩が 迫害する人びとを軽んじないのは 相手に仏性がそなわっているからだ》という見方についても 触れていただくとさいわいです。
 つまり この場合の《仏性のやどり》も 何だかタトエとして言って 迹門なんですかねぇ。方便として言われているだけなのでしょうか? いっぺんこの仏性のやどりは 末法に入ると ご破算で願いましてといったふうに削除されてしまうんでしょうか。

投稿日時 - 2013-04-28 19:52:14

こんにちはです。


例の私の質問「真言亡国、律国賊 真言と律、悪いのはどちら?」
http://okwave.jp/qa/q8057410.html
に対して、
ks5518さんから心温まるお便りを頂きました。

うっ、機先を制されてしまった。
この教義について辛辣な批判をしようと思っていたのに……、できない。
ですが、《畜生》ですので、わ・た・く・し、眠り猫は。
《ねこ》だから、《ち・く・しょ・う》。
ks5518さんに敬意を払いまして、批判のトーンをかなり弱め、問題指摘の数を思いっきり絞ります。


☆☆☆☆☆☆
─────────
三障の「障」とは、障り、妨げということで、信心修行の実践を、その途上に立ちはだかって妨げる働きをいい、煩悩障、業障、報障の三つがあります。
煩悩障とは、貪り、瞋り、癡などの自身の煩悩が信心修行の妨げとなることをいいます。
業障とは、悪業(悪い行い。仏法では五逆罪や十悪業などが挙げられる)によって生ずる信仰や仏道修行への妨げです。
報障とは、過去世の悪業の報いとして現世に受けた悪い境涯が仏道修行の障りとなることをいいます
─────────
報いとは、業報のこと。これは異熟果であり、個体生命の誕生の瞬間、心身を受けるときに、清算される。
なので、《報障》はありえないのではないか。
それとも、《報障》とは、いまだ発現していない潜在状態の煩悩、《纏綿(てんめん)》のことか?
あるいは、過去世において行った、正法(である法華経)、そしてその修行者への誹謗の報いを別分けにしたものなのか。



☆☆☆☆☆☆
─────────
日蓮大聖人は、『大智度論』の文について「竜樹菩薩・妙法の妙の一字を釈して譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し等云々、毒と云うは何物ぞ我等が煩悩・業・苦の三道なり薬とは何物ぞ法身・般若・解脱なり、能く毒を以て薬と為すとは何物ぞ三道を変じて三徳と為すのみ」(御書984ページ)と仰せられています。
─────────
この法身とは、何をさすのか?
久遠実成の本仏の釈迦牟尼仏は報身の自受用身であり、法華経はその自受用身の教えである。法華経も言葉として説かれた段階で、勝義諦ではなく、(世)俗諦になる。
したがって、法身と久遠実成の本仏とは異なる。そして、法華経も法身───法身(dharma-kaya)はオシエを身体にするものが原意───たりえない。
つまり、法身(=真理?)が明かされていないことになるのではないか。
日蓮の教えは、了義ではない、つまり、未了義の教えということになるのではないか。

三つの毒(煩悩、業、苦)と三つの薬(法身、般若、解脱)との対応関係はあるのか。
意味もなく列挙されているはずはないので、
 煩悩(惑)⇔法身
 業⇔般若
 苦⇔解脱
という対応関係があるのだろう。しかし、解脱は苦から解き放たれることなのでヨシとし、残りの二つの対応関係は、何とも相性が悪い。
そもそも、般若波羅蜜多によって、解脱があり、真理に目覚めるのである。この対治の薬とは、般若波羅蜜多の他にはありえないのではないか。
ならば、S学会員の行うべきことは、六波羅蜜行以外ありえないことになる。
おバカなわたくし、眠り猫は、龍樹の『大智度論』を読んだことがないけれど、
『大智度論』とは、般若経の解説書である。
法華経ではなく、《般若経》こそ釈迦の真説、真意ということになるのではないか。
変毒為薬の薬とは、般若波羅蜜のことではないのか。



☆☆☆☆☆☆
─────────
一念三千とは、法華経に説かれている一切衆生の成仏の原理を、中国の天台大師が『摩訶止観』のなかで、体系化して説明したものです。
「一念」とは、私たちの瞬間瞬間の生命のことです。この一念に、すべての現象、働きを意味する三千の諸法が具わっていることを説いたのが一念三千の法理です。
─────────

一念三千の「念」とは何だい?
念は「瞬間瞬間の生命」のことかい?
違うんじゃないかい?

念・smrtiとは、「remebrance」、「memory」etc
【Sanscrit Dictionary for Spoken sanskrit】より引用
http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=smrti&trans=Translate&direction=AU

なんで、一念三千が、瞑想の書である『摩訶止観』にかかれているのか……。

なので、
─────────
 (12) 《5》の大石寺参詣うんぬんは 袂を分かったということのようですから くわしい事情やらはうかがいませんが (2)の《文底独一本門》によるなら 日蓮氏の書き表わした本尊ゆえに《下種益》のみなもとたるチカラが得られるのではないですか? つまり理の一念三千としてはよいかも知れませんが 単純にお尋ねして 事の一念三千としては こまったことなのではないですか?
─────────
一念三千は、事の一念三千しかありえません。
理の一念三千など、存在し得ない!!
《理念》としての一念三千ならば、存在するでしょうけれども。



─────────
文底独一本門とは、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている真実の成仏の因果を明らかにした日蓮大聖人の仏法のことです。
「種脱」とは「下種益」と「脱益」のことです。これについて、まず説明します。
「下種」とは、仏が衆生に初めて成仏の種子となる法を教えることをいい、その法を聞くことによって衆生の生命に成仏の種子が植えられる利益を「下種益」といいます。
─────────
と書いている時点で、もうダメ。
この文章の言わんとするところは、
日蓮の教を聞かなければ、仏の種は人々に植えられない、です。
この教えに対して聞く耳を持っていない人に、仏の種はない、と言っている。

bragelonneさんと、わたくし・眠り猫なんぞは、
地涌の菩薩さまであられる学会員さまたちとは、姿形は同じだとしても、全然、程度の低い、救われない人間ということです。
この甘たるい、熟れすぎた果物のニオイを漂わすような、ナルシズムが鼻につく!!
《三輪清浄》もなければ、《忍辱(にんんく)》もない。口では《般若》を称えつつ、《般若》の知恵たる無分別智とはまったく遠い世界が、そこには広がっているんです。

しまった、書いているうちに、化けの皮(ヒトの皮)がはがれてしまった。
ケモノの本性が出てきてしまった(ポリポリ)。

投稿日時 - 2013-04-28 14:29:01

お礼

 《機先を制しました》か。この創価学会論あるいは日蓮問題は 考えて行くと 社会にとって意外と大きな部分を占めるという感触を得まして 鋭意 この設問におよびました。

 ねむりねこさん きょうもこんにちは。ご回答をありがとうございます。


 わたしは スサノヲでありクリシュナであって 嵐を起こすことはわけなく 筋金入りの破壊役なのですが なぜだか おとなしくなりました。(相手に合わせて 議論をしようと思ったことからだとは思います)。
 《辛辣な批判をする》のを 畜生と言って卑下する必要はなく それはむしろマチガイだと思いますよ。

        *

 さて まづ
 ★ ~~~~~
  報いとは、業報のこと。これは異熟果であり、個体生命の誕生の瞬間、心身を受けるときに、清算される。
  なので、《報障》はありえないのではないか。
 ~~~~~~~

 ええっと:
 ▼ (ヰキダルマ:異熟) ~~~~
  http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%85%E3%81%8F

 旧訳の「果報」

 過去の善悪によって得た果報の総名。果が因の性質とは異なって成熟することを言う。
 
 善業によって楽果を感じ、悪業によって苦果を感じるように、楽果は善性ではなく無記性である。これによって、善性と無記性とは類を異にしているので、善性の業に対して異類と言うべきである。

 苦果を悪業に対する場合も、苦果は悪性ではなく無記性であるから、因と果との性質を異にしている。これによって異熟果と言う。

 また、因と果とが必ず時間を隔て、異時に於いて熟するから、異熟と言う。
 ~~~~~~~~~~

 ということは:
 ◆ 報障とは、過去世の悪業の報いとして現世に受けた悪い境涯が仏道修行の障りとなることをいいます。
 ☆ 《悪業―→悪い境涯》という因果関係は――異熟ゆえに―― そう捉えるのはマチガイである。――こういう意味でしょうか?

 議論の進展を俟ちます。つまり:
 ★ それとも、《報障》とは、いまだ発現していない潜在状態の煩悩、《纏綿(てんめん)》のことか?
 ★ あるいは、過去世において行った、正法(である法華経)、そしてその修行者への誹謗の報いを別分けにしたものなのか。


      *

 ★ 日蓮の教えは、了義ではない、つまり、未了義の教えということになるのではないか。
 ☆ ええっと:
 ▼ (ヰキダルマ:義) ~~~
  http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%8E

  義   artha (skt.) の訳。

  (1) 意味、わけ。(2) 道理。(3) 意義、価値、利益。などの意味がある。

  (2)の意味で、正しい伝統の道理を「正義(しょうぎ)」と言い、そうでないものを不正義・邪義・異義という。

 究極の道理を完全明了に示しているものを「了義」といい、そうでないものを不了義・未了義という。
 ~~~~~~~~

 ☆ 分かりませんが 法華経・如来寿量品第十六について 文上と文底とを分けているんですよね。→趣旨説明欄 *1 種脱相対。

 つまり 
 ◆ 久遠実成を明かす文上の本門と 南無妙法蓮華経を明かす日蓮大聖人の文底独一本門
 ☆ 久遠実成のブッダは ゴータマのことで そのゴータマが説いたとすればその法華経は 未了義である。なぜなら さらにそこには 《文底》の意味が隠されているから。と。

 でも
 ★ この法身とは、何をさすのか?
 ☆ というように《法身》を言うならそれは すでに初めから《真理》のことであると決まっているのではないのでしょうか? 言いかえると 法身であるのなら それを誰が説いても やはり真理のことであり 学会から見れば《南無妙法蓮華経》なるこの世界の霊だと思われるエネルギーでありチカラであると考えられます。

 学会関係のみなさんにおしえを乞います。


       *

 ★ ~~~~~~
 ・・・
 煩悩(惑)⇔法身
 業⇔般若
 苦⇔解脱

 という対応関係があるのだろう。しかし、解脱は苦から解き放たれることなのでヨシとし、残りの二つの対応関係は、何とも相性が悪い。
 そもそも、般若波羅蜜多によって、解脱があり、真理に目覚めるのである。この対治の薬とは、般若波羅蜜多の他にはありえないのではないか。
 ならば、S 学会員の行うべきことは、六波羅蜜行以外ありえないことになる。
 ~~~~~~~~
 ☆ 学会員のみなさん 明らかにしてください。

 ★ ~~~~
 『大智度論』とは、般若経の解説書である。
 法華経ではなく、《般若経》こそ釈迦の真説、真意ということになるのではないか。
 変毒為薬の薬とは、般若波羅蜜のことではないのか。
 ~~~~~


      *

 ★ ~~~~
 一念三千の「念」とは何だい?
 念は「瞬間瞬間の生命」のことかい?
 違うんじゃないかい?

 念・smrtiとは、「remembrance」、「memory」etc
 ~~~~~~
 ☆ わたしの推測では それらのほかに:

    calling to mind / mindfulness / wish / awareness

 というごとく《意志》における《記憶や思いや願い》の部分であるのではないか? その《一念》には 仏界のそれもあれば地獄界のそれもあるといったふうに分かれていて 仏界の一念であるならば その意志行為の全体が(つまり三千の要素要因のすべてが) 仏界に満たされている。といった解釈になるのではとは思います。

 (このサンスクリットのオンライン辞書は 重宝ですよね。かざみどりさんにカムサハムニダ)。

 これを理と事とに分けるのは たぶん認識論を独立させると
 ★ 《理念》としての一念三千ならば、存在するでしょうけれども。
 ☆ となるのだと思います。

 すなわち 板マンダラを本尊とする場合というのは 日蓮氏が実際に書いたその《事》から離れることは出来ないと思われましたから この(12)の問いとなっています。


      *

 ★ ~~~~
 文底独一本門〔における〕「下種益」とは:

  日蓮の教を聞かなければ、仏の種は人々に植えられない、

 〔という〕この教えに対して聞く耳を持っていない人に、仏の種はない、と言っている。
 ~~~~~~
 ☆ いやまづはここは 精確に行きましょう。

 ◆(十界互具) ~~~~
  http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/hori/05.html

 これら10種の生命境涯は、十界のいずれの衆生にも欠けることなく具わっています。
 すなわち、人界の衆生にも、地獄界の衆生にも、菩薩界の衆生にも、それぞれ十界の生命が具わっています。

 このように、十界のおのおのの生命に十界が具していることを「十界互具」といいます。

 法華経以外の諸経では、十界は相互に隔てられた全く別々の世界として固定化されてとらえられていました。その考え方を根本的に乗り越え、

   十界のいかなる衆生も仏界を顕わし成仏する可能性をもっている

 との変革の可能性を説いたのが、法華経の十界互具です。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ まだ ねこさんも ぶらじゅろんぬクンも すくわれる可能性は いささかも減じていません。


 おあとがよろしいようで。

投稿日時 - 2013-04-28 15:55:53

ANo.2

こんにちは。
私も創価学会2世で、高校まではこの信仰が大嫌いでした。よって知識が十分ではないのですが、前回答者様と認識の違う部分がありましたので書き込ませていただきます。回答になっていない部分も多々ありますが、少しでもお役に立てば幸いです。


(1)他宗教に対して
教義は明確に他宗教を否定しています。それは簡単に言えば「他宗教では幸せになれない」と考えるからです。仏性の項目と被りますが、私達は誰もが「仏の命」(可能性というと弱い言い方になってしまいますが似たような意味かと)を秘めており、それを表に出す事で「仏」(自身も他者も幸福にできる存在)となる事ができます。つまり、どのような存在であってもその人自体が自身で以て幸せになる力を持っていると言えますので、特別な存在(神とかですね)に願いを叶えてもらう・縋る事で個人の可能性を否定する他宗教とはそもそも視点が違い、前者が人類幸福への真の道だと考える以上、他宗教は否定せざるをえません。

(2)仏法の実践<変毒為薬>
変毒為薬は確かに読んで字のごとく「毒を薬に変える」事を指します。そういった意味では、「苦労を糧に変える」というのは間違った表現ではありません。ただ、質問者様の仰る通り、教義における苦労と三類の強敵は違います。苦労とは自身の内部から起こる心理的なものであり、三類の強敵は「信仰を行うにあたり現れる三種の敵」、つまり外部からの迫害を指します。その全てを「自身が成長するために必要なもの」と受け入れた時、またそれによって何らかの学び・結果を得られた時変毒為薬できたと言えます。
折伏に関しても、その過程で上記の壁にぶつかります。しかし、それを「自分がより成長するため」「相手が幸福になるための」糧であるととらえ真摯に向き合っていく事で、変毒為薬を達成できます。
さらに、本迹門間で折伏の仕方が違うというのは聞いた事がありませんが、「第六天の魔王」は三障四魔の内の天子魔「自身の幸福のために他者を犠牲にしようとする」というもので人間の意識であるため、苦難を肯定的に捉える変毒為薬というよりは自身の弱い部分を見つめ変えていこうとする人間革命に近いかと思います。

(3)南無妙法蓮華経について<勤行・唱題>
敢えて日本語で表現するなら「宇宙に流れる波長に自身を合わせるため」です。カタカナを使用するのは、人に伝える際少しでも理解を助けようという考えからだと思います。教義では自身を取り巻く世界を流れる大きな流れ・宇宙の感覚(リズム)を自身の中に取り入れる事で、自身の行動を幸福へつなげていくと考えられています。しかし、教義に触れた事のない人間にはこれは大変表現の仕方が難しいものであり、堅くなりがちな言葉を柔らかく親しみあるものにしようという思いから折伏の際日本語以外の表現を使う人は珍しくありません。また海外の人に伝える際にも役立つかと推察します。

(4)活動について
入会の条件?といったものは、私自身も聞いた事がありませんが知人のケースを考える場合大分改正されたのではないかと思います。ただ1は必須ですね。入会している意味がありませんから(笑)
そして、過去の折伏活動に関して反省があるかという事ですが、これは書類手続きではなく学会員のアプローチの仕方についてという事でよろしいでしょうか?でしたら、何とも言えません。私が二世で実際の様子を知らないという事もありますが、そもそも折伏は精神の方針は一つに定まっていますが行動の方針は細かく定まっていないためです。「相手を幸せにしたい」という強い一念の上に私達は友人を折伏をしますが、人間同士の交流であるので此方の行動自体もその行動が相手にどう受け入れられるかも千差万別です。同じ行動でも不快に思われる方と受け入れられる方がいるので、その行動をした本人達自体がどう考えているかは、全体からでは判断できません。ただ両親の話を聞くと、時代に合わせて少しずつ流れとして変わってきているのかなとは感じます。


レポートか何かを作成されているのでしょうか?
質問が鋭く、回答を考えながら此方もかなり勉強させていただきました。ありがとうございました。

投稿日時 - 2013-04-28 10:58:34

お礼

 sxs2xh さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ レポートか何かを作成されているのでしょうか?
 ☆ 同じブディズムでありながら 正直に申して 学会あるいは日蓮氏のオシエや実践は ほかの宗派と違いがあり それは一般からみれば(誰が一般かは分かりませんが) 特殊だという認識がつよいようです。(と思います)。

 この事情について もう少し同じく一般的に分かりやすいようになるには どうすればよいか? これを考えた結果のひとつの問いになっています。


          *


 ★ ~~~~~~~~~~~
 (3)南無妙法蓮華経について<勤行・唱題>

 ・・・しかし、教義に触れた事のない人間にはこれは大変表現の仕方が難しいものであり、堅くなりがちな言葉を柔らかく親しみあるものにしようという思いから折伏の際日本語以外の表現を使う人は珍しくありません。また海外の人に伝える際にも役立つかと推察します。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ この主題から入ります。かんたんに言えば なぜ南無妙法蓮華経は 日本語ではないのか? です。

 つまり やはり教学基礎情報に次のような規準が見つかりました。

 ◆ (仏法の実践 / 随方毘尼) ~~~~~
 http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/14.html

 仏法は、時代・地域・人種・性別・年齢を問わず、万人に共通の根本法則です。
 そのうえで、仏法は、さまざまな文化の多様性を認め、その在り方を最大限に尊重します。そうした仏法の考え方から出てきた法理の一つに随方毘尼があります。

これは、随方随時毘尼ともいい、仏法の根本の法理に違わないかぎり、各国・各地域の風俗や習慣、時代の風習を尊重し、それに随うべきであるとした教えです。

「随方」とは、地域の風習に随うこと、「毘尼」とは、戒律の意味です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ でしたら 日本人は日本語で題目そのものをとなえてもよいはずです。なぜそうではないのか? という疑問です。
 もっとも《万人に共通の根本法則》からは外れるということなのかも知れません。(つまり だからこそ 題目を日本語に変えてもよいとは思いました)。


     *

 ★ ~~~~ 
 (4)活動について
 ・・・
 そもそも折伏は精神の方針は一つに定まっていますが行動の方針は細かく定まっていないためです。「相手を幸せにしたい」という強い一念の上に私達は友人を折伏をしますが、・・・
 ~~~~~~
 ☆ 前後のご文章を端折って引用していますが 質問者の疑問は 次のような内容です。


 ★ 精神の方針は一つに定まっていますが行動の方針は細かく定まっていない
 ☆ こうだとしますと いくらか肩肘を張った言い方になりますが

  ○ ~~~~~~~~~~~~~
   理の一念三千としては(≒行動方針の精神としては)
  
    ひとをうやまい 相手のオシエのマチガイを指摘し批判する  

  ということでよろしいかと思いますが 事の一念三千としては(≒行動に際しての指針としては) 

    手段をえらばないというかたちもありうる。

  となるのではないでしょうか?
  ~~~~~~~~~~~~~~~

 という物言いです。
 すなわち 事実問題としては この物言いに間違いはないと思っていますので そのことについて ふたつ さらに率直に苦情を述べたいと考えます。

  ( a ) 会員については 過去のおこないにかんして ひとこと ごめんなさいと言って欲しい。

  ( b ) 特に指導者が 公式に考えを明らかにした言葉を表明する。

 です。
 ★ ~~~~~
 同じ行動でも不快に思われる方と受け入れられる方がいるので、その行動をした本人達自体がどう考えているかは、全体からでは判断できません。ただ両親の話を聞くと、時代に合わせて少しずつ流れとして変わってきているのかなとは感じます。
 ~~~~~~~
 ☆ 《流れが変わって来ている》ことについて その基本的な考え方を公式に明らかにするのが 互いの人間どうしとしての和解になるかと考えます。
 相手の意志を無視し踏みにじって 入会させること これが 抽象的ですが 批判の内容です。
 

      *

 ★ ~~~~~
 (1)他宗教に対して

 教義は明確に他宗教を否定しています。それは簡単に言えば「他宗教では幸せになれない」と考えるからです。
 ~~~~~~~
 ☆ これは 互いにオシエをめぐって 対話を重ねて行けばよいことだと理解します。

 ★ ~~~~
 つまり、どのような存在であってもその人自体が自身で以て幸せになる力を持っていると言えますので、特別な存在(神とかですね)に願いを叶えてもらう・縋る事で個人の可能性を否定する他宗教とはそもそも視点が違い、前者が人類幸福への真の道だと考える以上、他宗教は否定せざるをえません。
 ~~~~~~
 ☆ この点を取り上げるのは 要らぬお世話になるかも知れないのですが 素朴な疑問として

   ○ 学会は 日蓮氏のオシエにあって 《信心》ということを第一に
    推し出しているのではなかったですか?

 言いかえると 《仏性》は もっとも究極のかたちで言えば 人間の能力や努力によって発揮されるようになるのではなく そうではなく 本尊(法身のブッダと理解しますが)との――唱題をつうじての――《境智冥合》において得られるチカラのことを言う。のではないのですか?

    * 境智冥合:かんたんに 梵我一如と取ってください。

 《勤行》は 努力行為ですが その過程で仏性なるチカラが得られるかどうかは 《信心》の深さやきよらかさによるのであって どれだけおこなったかの努力そのものによってなのではない。こうではないですか?


       *


 ★ ~~~~~~~
 (2)仏法の実践<変毒為薬>

 ・・・さらに、本迹門間で折伏の仕方が違うというのは聞いた事がありませんが、「第六天の魔王」は三障四魔の内の天子魔「自身の幸福のために他者を犠牲にしようとする」というもので人間の意識であるため、苦難を肯定的に捉える変毒為薬というよりは自身の弱い部分を見つめ変えていこうとする人間革命に近いかと思います。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 《本迹門間で折伏の仕方が違う》というのは わたしが もしそうだとすれば折伏の仕方に変化が生じたことについて分かりやすいと単純に思ったところから 冗談半分に言いました。これは 別としまして:

 ★ 自身の弱い部分を見つめ変えていこうとする人間革命
 ☆ これがわかりにくかったです。

 すなわち わたしが教学基礎を勉強して解釈し総合的に理解したところによりますと:

  (i) 本尊なる神との境智冥合が いちばん大事であり いちばんに来る。すなわち 信心である。

  (ii) その信心の――つまり仏性の――チカラをあたえられて もし言うとすればそこで確かにみづからの身と心とについて変毒為薬をもしつつ《人間革命》をそのつど過程的に得ることが出来る。

  (iii) それは特には 三障四魔などの実際の境遇をつうじての実践においてチカラが発現するのだし 少しづつ成就して行くことができる。

  (iv) つまり《相手のある情況》を特に問題としてその情況において 《第六天の魔王》にしても何にしても 今度は問題である相手にかんしての毒を薬に変え 悪知識を善知識に変身させる。

 といった事態を中身とすると思ったのですが どうでしょう? つまり単なる《人間の意識》の問題では必ずしもなくまた
 ★ 自身の弱い部分を見つめ変えていこうとする人間革命
 ☆ というような反省や内省やそのような省察による自己変革の努力・・・なのではない。こう捉えたのですが どうでしょう? 上の(i)と(ii)が大事であるのだと。





 以上 大胆に勇み足をおそれずに自分の解釈を推し出しました。受け留めていただければさいわいです。
 

投稿日時 - 2013-04-28 14:20:45

よく調べましたね。

そこまで知っている方は学会内部でも少ないです。

なにしろ、2世3世もかなり多いですから。
ぼくも2世です。
生まれた時から入っていました。

さて、答えられる範囲だけ答えます。

哲学的な部分はほとんど知りません。
あまり興味もないし。

堅い言葉は、ぼくキライなので。(笑)

まず、他宗教に対してですが。
否定してはならないという教えです。

ほかの宗教は自分の宗教の真実性を補完するものだと言われています。

が、現実にはほかの宗教の人がいたら、改宗させたくなっちゃう人が
多いみたいです。
つまり、現実は否定はしないけど、いい顔はしないレベルですね。

ぼくはまったく否定しませんけど。

じゃあ、2つ目に仏法の実践ですけど。

要は苦労を糧にしましょうということです。
それが変毒為薬です。

毒を薬にってことですから。

南無妙法蓮華経っていうのは、宇宙のエネルギーと交信するため。

たとえば、「しあわせだなぁ」みたいなポジティブな言葉を使えば、運を引き寄せます。
それと同じで、この言葉は宇宙の壮大なエネルギーを引き寄せる言葉なのでしょう。

最後、具体的な実践ですけど。

はじめて知りました。(笑)

なにしろ、生まれた時から入っていたので。
へぇ、こんな条件があるのだなと。

ちなみに内部でも実践できている人もいれば、ぜんぜんできてない人もいます。

折伏については、「みんなでやろう」と言っているし、
「きょう何人と対話できました・・・わぁ、パチパチ」みたいなことになっていますね。

まっ、ぼくはやってませんけど。

もっと細かい哲学的なことは熱心な学会員に聞いてみてください。

投稿日時 - 2013-04-27 23:42:59

お礼

 ぽえにくすいーう゛るさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~
 まず、他宗教に対してですが。
 否定してはならないという教えです。
 ~~~~~~
 ☆ まだ納得しません。
 (あ) 批判は しかるべき事柄については 自由におこなってよいのではないですか?
 つまりその意味では《否定する》こともありうる。のでは?

 (い) 《否定してはならないというオシエ》だとおっしゃる根拠――理証や文証や現証――は 何でしょう?

 ★ ほかの宗教は自分の宗教の真実性を補完するものだと言われています。
 ☆ この理由というのは 《真理》であるなら その本尊はほかのブッダや神をみづからの内につつみ容れるといったような意味合いで わたしは理解します。(少しニュアンスが違うでしょうか どうでしょうか)。

 (う) ですから 分かりますが・分かるのですが 文証は ありましょうか?


 ★ ~~~~
 じゃあ、2つ目に仏法の実践ですけど。

 要は苦労を糧にしましょうということです。
 それが変毒為薬です。
 ~~~~~~
 ☆ いえ。これも まだ納得し得ません。つまり

 (え) 《苦労》と《三類の強敵》とは違うはずだと思われるからです。

 (お) はっきりと《敵》と呼んでもいる場合というのは 《迫害し罠に落とし入れようとする》わけですよね。つまり この《敵》をも 広宣流布をあゆむ道においては 必然的に現われるものであると見て その人間には仏性を見て捉えこれをうやまい しかもその間違った思想〔の持ち主〕を善知識へと変えることをもおこなう。
 
 (か) こういう実践であると受け取ったからには 《折伏》と一般に呼ばれている《実践》は どうも中身が違っている。のではないか?――こういう物言いです。

 ★ 南無妙法蓮華経っていうのは、宇宙のエネルギーと交信するため。
 ☆ (き) なぜやまと言葉で言い表わさないのでしょう?


 

 ありがとうございました。実感のある感想にも触れていただきました。

投稿日時 - 2013-04-28 00:08:33

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