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佐貫藩主柳沢吉保の家臣団

wikipedia 「上総国佐貫城」からの抜き書きです。

元禄元年(1688年)、第五代将軍徳川綱吉の側用人として重用され、旗本から新規に大名に取り
立てられた柳沢保明(柳沢吉保)が一万五千石で新規立藩した。のち二万石。

佐貫藩はそれまで廃藩となっており、城も壊されたままの状態だったそうです。
大名になったばかりの吉保がそんな状況で政事を始めるには、有能な家臣団が必要だったと思います。
江戸府内の吉保邸の管理と佐貫藩を構成するのに必要な家臣をどのようにして集めたのですか。
佐貫藩でなくても一般的に、1.5―2万石程度の藩の組織と必要な人員(武士)はどのようになっているのですか。
よろしくお願いします。

投稿日時 - 2013-04-12 20:10:07

QNo.8040029

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

一般的にというと、研究はあまりないかと。

武士の失業率がどの程度だったかは不明ですが、慶安の変の段階で、数万人の浪人がいたと何かの本で読んだ覚えがあります。
部屋住みの数も入れれば相当数が就職予備軍として存在したわけなので、採用には困らなかったかと。

柳沢家の家老は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E6%B7%87%E5%9C%92
この人の父親
旧姓 曽根 であり、武田家の流れなので、同じく武田家の流れである柳沢家と縁戚関係があり初期からの家臣になったのではないかと推測されます。


一般的でないものとして赤穂浪士は詳しく調べられています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E6%B5%AA%E5%A3%AB

赤穂浪士の例があります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E8%89%AF%E9%9B%84
大石良雄のご親戚を見ると、広島本家に出仕していた叔父さんとか、浅野を名乗ったご親戚とか

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B2%A1%E9%AB%98%E6%88%BF
片岡源五右衛門などは、尾張藩の藩士の長男だったが妾腹だったので浅野家の片岡家に養子に入っている。

堀部は堀口家から浪人になって再雇用

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E8%B2%9E%E8%A1%8C
弟に源右衛門(幕府旗本真田蔵人の家臣)とかある

投稿日時 - 2013-04-13 19:15:24

お礼

ご回答ありがとうございます。

>部屋住みの数も入れれば相当数が就職予備軍として存在したわけなので、採用には困らなかったかと。

そうですね、質量ともに十分あったということ、よく分かりました。
分からないのは、寄せ集めた藩士をまとめたリーダーの名です。
Net で調べたところ、佐貫藩ができた元禄初期、吉保の側近として名が出てきたのは薮田重守だけで、元禄2年、26歳で用人役(50石)となり、元禄10年、家老になっています。
吉保自身が現地に出向いて城下町整備の陣頭指揮をしたのであれば、それで疑問は解消するのですが、側用人は多忙で陣頭指揮はできなかったのではないかと思っています。

>一般的に研究はあまりないかと。

佐貫藩について詳しく書かれた本は、ざっと見ただけですが、地元の図書館にはなかったです。

投稿日時 - 2013-04-14 11:30:01

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回答(2)

ANo.1

確かに佐貫城は破却されていたけど、ブランクはたった4年しか無いんですよ。1684年に松平重治が改易されて、その4年後の1688年に柳沢吉保が佐貫城に封じられた訳で。

柳沢吉保がどうだっか知りませんけど、松平氏の遺臣を採用したり、徳川綱吉から押し付けられたり、武田遺臣の人脈から新規に家臣を採用したと思います。

そもそも柳沢氏も元々は武田遺臣で、武田が滅びた後、徳川氏に採用された家柄ですから。個別の事例を研究した訳ではないが、一般的にはそんなものですって話。そういう混成的な家臣団を指揮できないような器では到底大名など務まらないし、出世もままならないものです。

投稿日時 - 2013-04-12 20:50:38

お礼

ご回答ありがとうございます。
吉保は、せいぜい数人の家来がいたにすぎない小納戸役からいきなり大名に出世したのですから、大変だったろうという想像で質問しました。
小藩ですから城が破却されていても石垣・濠の整備をして、陣屋を建てればよいわけで、それも幕府領時代の代官所があったはずですから、徴税と紛争の調停はなんとかなったでしょう。
武家地、町人地の整備、藩士の住居を用意することなど、城下町のマスタープランを立てて、現地で指揮するリーダーと経験豊かな補佐役が居たのだろうと思います。
「松平氏の遺臣を採用したり、徳川綱吉から押し付けられたり、武田遺臣の人脈から新規に家臣を採用した」とすれば、この混成団を束ねるリーダーは誰でしょう。
ある意味、吉保以上にやり手です。

それとも、城下町など整備せず、代官所を拡充して年貢だけを取り上げるシステムにしたのでしょうか。そうであれば、そこに着眼したことは将にグッドアイデアです。
次から次へと疑問が湧いてきて困ります。

投稿日時 - 2013-04-13 20:29:50

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