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ギリシアとローマの関係について

高校レベルの世界史もよく把握していないのですが…
古代ギリシアとローマの関係がよくわからないのです。

・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?
・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

結局この2つはどんな関係で、お互いにどんな相手だと見ていたのでしょうか?

投稿日時 - 2012-11-18 11:45:28

QNo.7803566

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・文化は近隣で発展していたギリシア(とりわけ学問先進国のアテネ)に学んだわけです。

 ギリシアの文明に学び、しかも全域が統一されているローマの国力は急速に伸びて行きました。やがて、国力としては劣り、しかも統一できていないギリシアの都市国家を次々と従わせ、ローマの地方都市として、やがてギリシア全域をローマの領土に組み入れることとなります。

 しかし、ローマはギリシアの文明・文化を超えるような独自なことはできませんでした。巨大な建築はできたけど、基本はギリシアのものです。それだけ、ギリシアの文明・文化は発達していたわけです。宗教も、ローマ独自のものはあったのでしょうが、ギリシアの神々と同じものだとしてしまいました。

 キリスト教が広まり、公認されるようになると、ようやくキリスト教由来を加えて、ローマ独自文明・文化が発達し始めました。ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びても、東ローマ帝国は長く保ち、首都コンスタンティノープルではヨーロッパ有数の文明・文化先進地域であり続けました。

 そういう例は、古代中国にもありました。殷や周は都市国家連合です。一番国力があり、他の都市国家のリーダーととして取りまとめていたのが、殷や周という大きい都市国家でした。その地域を中原(ちゅうげん)と呼んでいて、そこでは早くから文明・文化が発達しました。

 その周の力が衰えていく一方、地方では楚といった文明・文化は遅れていて、中原の都市国家に学んだ国が、早くから領土的にも統一した国家として台頭して行きました。

 周が衰えて、他の国家が力を得て行った春秋時代は、中原ではまだ都市国家連合がひとまとまりとなった国家が多く、非常に多数の小国が乱立していました。小国とはいえ、文明・文化が発達しているので、その周辺地域の領土的に統一された国家から尊敬を受けていました。

 しかし、続く戦国時代となると、ほとんど国家が領土的に統一された国家となります。都市国家は単なる都市となりました。それでも、小国となっても周とその近辺の小国は、秦が中国全土を領土的に統一するまで、長く尊敬を受け続けていました。

投稿日時 - 2012-11-19 07:28:14

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回答(5)

ANo.5

phj

まず一つ目に重要なことは、ギリシャは紀元前の相当前にさかのぼる歴史があるのに対して、ローマはそれより後の時代に成立した、ということが挙げられます。

ギリシャについてはトロイの木馬で有名な「イーリアス」などの叙事詩(または神話)が一部で事実と認められているように、歴史的には紀元前15世紀程度の神話時代までさかのぼることができます。ただしこの時に私たちが「ギリシャ文明」として知っている国はひとつではなく、アテネやスパルタなどの都市国家がそれぞれ独立した形で成立し、各地に散らばった形で「ギリシャ語を使うギリシャ人が居る場所」が、ギリシャ文明と呼ばれているのです。
実際にトロイの木馬で有名なトロイヤはトルコ地方にありますし、ギリシャ人は航海術に長けた海洋民族だったため、紀元前のかなり昔の時点でシチリア島のシラクサやスペインなどにも植民都市をもっていました。

参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%A4%8D%E6%B0%91%E9%83%BD%E5%B8%82

これらの都市は紀元前7世紀から10世紀ぐらいまでさかのぼれることが可能な都市が多いのです。

さて、参考図のようなギリシャ人とフェニキア人の植民都市が勢力を競っている時代(それも都市国家ごとに勢力を競っている時代)、新興国家ローマが誕生します。

現在のローマの場所に元々あった王制ローマが紀元前509年に王制を廃止して共和制になったのが帝政まで続くローマの始まりとされています。

ギリシャとローマの関係で重要なのは、紀元前509年にローマが誕生したときにはすでに周辺にはギリシャの都市国家(そしてフェニキア人の都市国家)がたくさんあったということです。

そのためローマは誕生の最初からギリシャ文明を取り入れることになります。ちょうど日本が日本語という独自の言語を持ちながら、それを記すために漢字を取り入れ、その際にいろいろな文化も取り入れたのと同様に、ローマ地方のラテン語を書き表す為にはギリシャ文字や単語なども導入したのです。
結果としてローマは最初から公用語が二つある国家として発展することになります。

ローマは共和制になっても最初はもちろん地方の小さな都市国家に過ぎませんでしたし、どちらかというと、弱小で土地の勢力も弱い劣った都市国家でしかありませんでした。

しかし、周囲の都市国家と戦争や同盟を繰り返すことで紀元前272年にはイタリア半島を統一できるほどの力を蓄え、半島に同盟国とローマの衛星国家(自分の市民を配置した植民地)が相当数存在することになったのです。

そしてこの時代までの各都市と本国ローマの関係のあり方が、その後ギリシャ的な都市国家と様相を異にすることになっていくのです。

この時にギリシャ人とローマ人には大きな違いがありました。それはギリシャ人は海洋民族だったのに対して、どちらかというとローマ人は航海術が未熟な大陸民族だった、ということです。
そのため、ローマは各衛星都市と同盟国を結ぶように現在に至るローマ街道を整備し始めます。
最初はまだ統一戦争が続いている間の紀元前312年に完成したアッピア街道です。最初は当時ローマ本国に次ぐ大きな都市であり、戦略上重要拠点であったカプアに軍隊を迅速に送れる様に整備され、その後、当時の大国であったギリシャの諸都市に対して通商が容易なアドリア海に面したブリンディジまで延長されたものです。

このローマ街道の整備によって各都市と本国ローマが容易につながる様な方法とまたそれを支えた制度によって、ローマは大帝国になる基礎を築いていったのです。

ここまでが大体のあらすじでがこれによって個々の質問に答えることができると思います。
・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?
もちろん出自も民族も文字もまったく違う民族です。ただしギリシャ人のほうが早く文明を築きました。

・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
日本が外国に使節を送れる程度まで統一国家に発展した後、当時の大文明国である中国から文字だけでなく文化や神まで輸入したのと同様、ローマも文化的な発展や文明の発展にギリシャ文明を大いに利用しています。特に日本と違いローマのすぐ近くにはギリシャ人が作った都市国家もありましたので(港湾都市のナポリはギリシャ人の都市国家が元であり、すぐ近くのカプアはナポリの監視と通商のための重要拠点だった)発展にはラテン語だけでなくギリシャ語も使用しましたし、その他の優れた民族の力は何でも利用したのです。

・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

ローマ人はギリシャ人と違って「政治の民・法律の民」と呼ばれています。日本人や中国人・朝鮮人などと同様民族が違えば、重要視するスタイルも違い、ローマ人は最初から法律の重要性・政治体制の重要性、そして国家の発展の重要性を意識していたように思います。
そのため、ギリシャのように「各都市国家がそれぞれ発展する」という方式ではなく、すべてローマとして発展する、という方式で帝国まで発展したといえます。

そのため征服したり服従したり、または発展的に同化した民族に対して非常に寛大に処遇し、ギリシャ人もフェキニア人もラテン人も関係なくローマ市民として扱うようになっていきました。特に建築においては共和制のごく初期にエトルリア人を同化させたため、ローマの建築レベルはぐんと上がったといわれています。
現代に残る水道橋などの建築技術は元はエトルリア人のものだったのです。

このようにローマは基本的に拡張した地位に住む文化や文明を同化させながら地中海世界の覇者となったのです。
またキリスト教が国教になる以前のローマは多神教でしたので、文化としての神々も様々なものを受け入れ、最初はギリシャ的な神々、次にゲルマン人やガリア人の神々もほぼ受け入れ(ただし政治的な側面があったドルイド教は廃止した)エジプトの神々なども受け入れて、ローマではいろいろな神様が乱立し神殿もたくさんの神様の神殿があったようです。

このあたりの文化的側面はローマの子孫であるヨーロッパ人よりもいまだに多神教である日本人のほうが理解しやすいと思います。

ローマが偉大だったのは、異民族は排除するのが当たり前の時代に征服した異民族も同化を願い出た異民族もすべて受け入れて国家を発展させたことです。
ローマはSenatus Populusque Romanus:元老院とローマ市民、という標語を国家全域に使い、属州民であってもローマ市民になることを拒むことはしませんでした(もちろん資格審査はあります)
その点では世界中の人がアメリカのグリーンカードを欲しがり、それがアメリカの発展につながっているように、ローマも様々な文化と民族を受けれていったのです。

当時は征服した異民族は「勝者の権利」として皆殺しにして民族抹殺をしても普通の時代であったため、ローマの同化政策は当時としてはかなり特殊なものでした。

ギリシャは当時の多民族と同様、異民族は受け入れずまた都市国家それぞれの違いはあるものの都市国家の子孫でなければ市民の資格を得ることができない所も多数あったのが普通だったのです。

ギリシャは紀元前のかなり古い時代から地中海を動き回る偉大な民族であったことはたしかです。そしてかれらのライバルはフェニキア人でした。しかし、新興国家ローマが発展し始めると、飲み込まれる都市国家が出たり、征服される地域が出たりして、ついにはマケドニア戦争でギリシャ文明と衝突します。

つまりギリシャ人としては、大陸的な民族としてあまり敵視していなかったローマ人が段々に地中海世界を支配するようになると敵対せざるをえなくなり、結果負けて地中海の覇者という称号がローマに移り、やがて帝政ローマの一部に組み込まれていく、という大きな流れだったのでしょう。

実際にローマがイタリア半島を出て、ガリアなどに進出していく時代になると何人ものギリシャ人が軍に随行して戦史などを書いています。

投稿日時 - 2012-11-19 16:53:21

ANo.3

2つ目の点ですが, アルファベットについてはローマがギリシャから輸入しています. もちろんそのまま輸入したわけではなくローマの言語 (ラテン語) にあわせて変更していますし, 輸入してからもラテン語の変化に応じで修正を加えたところもあります.

神については.... ラテンの神をギリシャの神と同じと「みなした」だけだったはず. なので, 厳密には一致しなかったんじゃないかな. 1つの神を複数の神と同一視することもあったはずだと思うんだけど....

投稿日時 - 2012-11-18 23:52:05

ANo.2

・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?

じわじわと ローマがギリシャを支配した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%88%B6%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E

東方への進出というところ

・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています

※ 日本も中国も干支で12支とか使っていますし、使用する漢字も似ています、のようなもの。

・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと


ローマとギリシャが対立的に別個の存在したわけでなく、広く地中海世界というものがあり、その中で現在のギリシャを中心したところに都市国家がイロイロあったギリシャという地方がありました。また現在のイタリア半島の真ん中のあたりに ローマという集団がいました。

ギリシャの思想家と言われている、アルキメデスは、現在のイタリアのシラクサにおりました。
だから、アルキメデスはイタリアの思想家といってもいいような気もするが、通常古代ギリシャの思想家と切り分けている。

ちなみに、ギリシャという政治的な単一集団ができたのは、19世紀になってからであり(1830年)、その前には国家としてはの「ギリシャ」はありません。現在のギリシャにつながる政治単位が生まれるまでは、基本的に現在のギリシャ人は、(オスマン帝国内における)キリスト教徒として自己認識しておりました。

投稿日時 - 2012-11-18 21:07:27

ANo.1

1 古代ギリシャは都市国家群で、アテネとスパルタを中心とする勢力群での争いが絶えず、一国に纏められる偉人や国家が出来なかったので、勢力的には小さなままの「都市国家群」から抜け出られませんでした。ただし、プラトンやソクラテス、アリストテレスなど、いまだに名を残す「文化人」を輩出した文明の発達した地域でありました。ですから、言論や数学、幾何学を基とする文明は発達し、天文学や土木も周辺地域に比べると群をぬいていました。
2 古代イタリアは群小部族があちこちに散らばっている弱小地域でしたが、所謂「ローマの7つの丘」周辺に住んでいた部族が、7つの丘の谷間の溜り水を低地に排水して病気を画期的に少なくし、ティレーべ川を水上交通可能に改修することにより、栄え始めました。言語も土木も「ギリシャからのパクリ」で、パクリが早かった分、軍事力も強大となり、次第に周辺部族をまとめて「国家」の態をなしてきました。ですから、12神を崇めるなどは当然一緒です。
3 古代ローマ帝国は民族問題にはおおらかな国家で、「帝国に貢献する者、した者」には惜しみなく市民権を与えました。国家元首は市民から選ばれますから、アフリカ人までが元首になったこともあります。こうなるとローマへの帰属意識が高まり、ガリア地方(今のフランス、スペインなど)や、北アフリカなどもローマ帝国となります。
4 結局、ギリシャは「頭はいいが、その分纏まりが悪い」小国家のままとなり、大帝国・古代ローマに臣従するだけで、張り合える国家にはなりませんでした。頭はいいが自己主張が強く、国家として纏めていくだけの度量も実力もない集団は「文化を提供しただけで、その文化を吸収、活用して大きくなった国家に臣従する」との結果を甘受せねばなりませんでした。
5 古代ギリシャの都市国家群の抗争を記録した書物に、当時の文筆家:トウキュディデスによる「歴史」(京都大学学術出版会)(岩波では「戦史」と題して出版されたことがあります)がありますが、都市国家群の抗争時のプロパガンダ合戦のすさまじさには辟易するほどです。古来、中国もそうですが抗争時には「我はいかに正しく、相手はいかに悪か」を声を大にして怒鳴るようにして主張してきました。今の世界も変わりありません。日本も言論闘争に強くならねばなりませんね。

投稿日時 - 2012-11-18 14:12:16

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