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解決済みの質問

広辞苑は正しい日本語の辞書ですか?

法律ならば六法全書ですが、正しい日本語(単語)の意味は広辞苑が正しいということで宜しいのでしょうか?正しい日本語がなんであるか?というのは深く難しい疑問ですが、それでも広辞苑に載っている単語の意味や解説が日本において正しい解釈であると捉えてよろしいでしょうか?

投稿日時 - 2012-09-15 12:10:45

QNo.7698679

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

そもそも日本の法律では、日本語は公用語として定められていません。
日本国内では、慣習的に日本語が使われているだけです。

また正しい日本語を定義する書というものは現実的に作成可能なのでしょうか。
ある言語(例:日本語)をそれと同じ言語(日本語)を使って定義するというのは循環定義を含んだ論理的な矛盾が生じると思います。

投稿日時 - 2012-09-16 08:14:56

お礼

日本で育った人はほとんどの人が母国語として日本語を使いますよね。それなのに公用語として認められていないこの現状がそもそもおかしいですね。
循環定義をどうにか回避しながら作ることは可能ではないですか?
循環定義があるから無理だ。とさじを投げるのであれば今使われている辞書はどういう物になるんでしょうか?それはただの放棄じゃないでしょうか?

絶対に無理なのでしょうか?絶対に無理なのであればそのようなケースで具体的に無理なのか知りたいですね。

私は広辞苑や角川の出してるものや小学館のものどれでもいいですがどれか1つを正しい日本語の辞書だと国が定義すればいいだけの話だと思いますが。

投稿日時 - 2012-09-17 04:04:04

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回答(20)

ANo.20

広辞苑とか辞書類とか以前に、日本になぜ国定教科書が存在しないかを調べましょう。
そうすれば、貴方の主張する辞書国定化論の不当性も理解できます。

投稿日時 - 2012-10-07 12:36:33

お礼

ですから検定制にすればいいだけの話じゃないですか。はっきり言えばどちらもメリットデメリットは存在します。なのでどちらがいいということも言えないと思いますが、私は国が一から作るなんて税金のかかるまどろっこしいことをせずに今発行されているものに検定をして認可すればいいだけの話だと思っていますが違うのでしょうか?違うのであればその理由を教えて下さい。

投稿日時 - 2012-10-08 06:58:42

ANo.19

No.17の(お礼)より

国民の動向(言語使用も)お上の規制下にありたいと望んでいらっしゃる様にうけとめられますが、
大半の国民(日本人なら)は、お上の絶大な権力行使は望みません。
--
もし立法府にて(国民の言語使用に関する規制)←と、言う法律が発布されて、←これに違反した者は、矯正施設に収容し、矯正が完了するまで何年でも止め置くと成ったら(本人は、正しい日本語が喋れるように成れるので)日本の国に生まれて本当に幸せと感じる人が多いと思いますか?

私は、お上にがんじがらめで縛られるは(好くないです)

鞭で、びしばし、なら受けて見たいけど…

投稿日時 - 2012-10-04 15:04:29

お礼

投稿日時 - 2012-10-05 11:03:42

ANo.18

質問の結論としては「広辞苑は正しい日本語の辞書ではない」ということになりました。これは私の好き嫌いで言っているわけでもなく、そう考えざるを得ないからです。

上記のあなたの発言を証明するために、あなたが正しい日本語の辞書ではないではないと考える、その実例を広辞苑から相当数あげてください。二つ三つでは話しになりません。少なくとも百例ぐらいは欲しいですね。科学的、実証的に言葉の問題に取り組もうとするとき、避けて通れない基礎的な作業です。

それができなければ今回の質問は根底から崩れることになります。あなたの発言はたわごとにすぎないことになります。逃げやごまかしはもう通用しません。私の要求に真正面からこたえてください。

私の要求は、正しい日本語の辞書ではないではないと考えるその実例を広辞苑からあげること、ただそれだけです。それ以外のことをおっしゃっても、無視なさっても、私はあなたが負けを認めたものとみなします。

実例があげられたら、それが新たな出発点となるでしょう。がんばれ。

投稿日時 - 2012-10-03 21:40:19

お礼

投稿日時 - 2012-10-05 02:38:33

ANo.17

日本語の質問と言つてるけど、語彙の話ですよね。

日本語そのものは、文法に則って決められていますので、毎年改定なんて事は無いです。(文法にも例外的扱いは多いけど)

語彙と言うのは、その時々で(時代)変化して行くので誰も止められませんし、それらを決めるのは、その言語を使用している人達が取捨選択していくものです。

文化庁の(国語世論調査)が発表になりましたが、
大体半数以上←(って、頗る曖昧な判断)が使うように成れば、その言葉に市民権が与えられると、言う判断だから、正しいとか正しく無いなどと言う基準そのものが無い中で、各々の辞書(辞典)が編纂されて行くので、広辞苑だけは絶対正しいという言い方の方が正しく無いのでは?
---

(真逆・半端ない・チョー綺麗だ)等が当たり前のように使われて、広辞苑に載るようになったら、果たして正しい日本語を載せていると言えるのだろうか?

投稿日時 - 2012-10-03 00:51:46

お礼

ですからルールつくりをする上での正しい日本語を国に決めてもらいたいということを言っているわけです。なぜ国に決めてもらいたいのかはそれ以上のものがないからです。

正しいか正しくないかの基準がそもそもないということではなく
少なくとも民主主義である日本において大体半数以上がそういう意味で使うということがわかればそれを決めていいと思います。正しいか正しくないかは最高権力である国がそれを決めた時点で発生すると思います。しかしそれをしていませんし、一企業がそれを決めることはみなさん反対のようです。


広辞苑だけは絶対正しいという言い方のほうが正しくないのでは?>

確かに「広辞苑は正しい日本語の辞書ですか?」と質問しました。

回答を見る限りその質問に対しては
「正しい辞書などそもそも存在しないので広辞苑も正しい辞書ではない」
ということで宜しいですか?


まず質問に答えてからその理由を述べて頂けるとわかりやすくて確認せずにすむので助かります。

ということは「日本には正しい日本語の辞書は存在しない」という事で宜しいですか?同時に日本に存在しないのであれば当然世界のどこにも存在しないでしょうから正しい日本語を使って下さい。ということ自体が間違っているということですね。

では正しい日本語とはなんなのでしょうか?どこにあるのでしょうか?
曖昧な基準だとそれは感じ方に個人差がありますので必ずしも
「正しい日本語」というものはないわけですね。
そうすると全ての人が公の重要な場などでも個人の裁量で喋ってることになります。
個人の勝手な解釈で物事を表現しているわけで、しかしながら仮にそれが間違っていると思ってもそれを間違いだと言い切ることもできないわけですよね?
それが問題だと私は思っているので決めるべきだと主張していますがそれがおかしいのでしょうか?

正しい日本語の意味を学ぼうと思ったらなにを見ればいいのでしょうか?
では学校で教えている国語はなんなのでしょうか?
正しい日本語ではないのでしょうか?

正しいとか正しくないなどがそもそも無いという意見ですが
では市民権とはなんなのでしょうか?
市民権は必ずしも正しいとは限りませんが
正否がそもそも無いということであれば
「正しい日本語」というもの自体が存在しないということですからね。

真逆・半端ない・チョー綺麗だ などは 当然「真逆」は新語として載せるべきですしそうなっていると思います。「半端ない」 などは「半端じゃない」という表記で載っていると思いますがそれでも「半端ない」の需要が高まってくれば載せるべきだと思います。今はまだ若者だけの表現だと思います。
「チョー綺麗」などは「超」と「綺麗」に分けられるわけで特別に表記する必要もないと思いますが。

どちらにせよどの年代にも広く浸透している場合には載せればいいんじゃないですか?

それがどんな言葉であろうと、あなたのようにこんな言葉が正しい日本語を載せていると言えるのだろうか?と思ったとしても、それはあなたの人生の中で日本語とはこうあるべきだという固定概念があるだけで、それが時代の流れですよね。受け入れるしかありません。

ただそういうことがあるので一見普及していてすぐ通用するように感じる言葉でも、世代交代が進みおおよその人間が入れ替わり大多数が許容する範囲まで広がらないとなかなか載らないのはそのためですよね。安心していいです。


ただ私が言っているのは現時点で使われている言葉ですら、正しい日本語としてちゃんと決められていないということです。

頗る曖昧な判断によって市民権が与えられるというのは誰がどう決めたんでしょうか?そんなものは人それぞれ違うと思います。そんな曖昧な基準のツールを使って論争はできないということです。

では逆にどう判断したのか知りませんが、国が大多数が理解しその言葉に市民権が与えられると判断したのであればそれが正しい意味であると発表すればいいだけじゃないですか?

それをしないということは大多数が本当に使っていて通用するのか、やはり自信がない、責任を持てないということだと思います。そんなものなら発表しなくていいと思います。

文化庁が大多数が使っていて市民権があると判断し発表したら、それが正しい日本語の意味ということですか?私はそれでいいと思っていますが現時点ではそうではないわけですよね?

なので広辞苑であれどんな辞書であれ今の日本には正しい日本語が存在しませんし、正しい日本語の辞書も存在しないのでちゃんと作ってもらいたいという意見に変わりはないです。

なので質問の結論としては「広辞苑は正しい日本語の辞書ではない」ということになりました。

これは私の好き嫌いで言っているわけでもなく、そう考えざるを得ないからです。これに誰も反論できないでしょう。

広辞苑が正しい日本語の辞書だと思いたい人は勝手ですが、それは完全な「誤り」であり「勘違い」ですよね。

なので論的に言えば、広辞苑に限らず正しい日本語の辞書というものはこの世に存在しませんし、正しい日本語というものも存在しない。ということで異論はないですよね。

おおよそ正しいであろう日本語は存在すると思います。

ということは特に国語の試験などでは、おおよそ正しいであろうから正解にする。ということで、それは採点者や問題を作った人の解釈に左右されることであり、被験者とのそれに解釈の違いがあった場合に不正解となってしまうということです。

正しい言葉の意味の正解は誰にもわからないわけですから当然です。
これでは問題だと思っています。

文化庁が日本語能力の低下がどうとか言っていますが、
そもそも日本語能力とは?
何を持ってして日本語能力が低下していると言っているのかわかりません。
それは単純に言葉関係なくただのコミュニケーション能力の低下じゃないんですか?
どういう状態が日本語能力が高いというのでしょうか?

正しい日本語というものを提示していないにも関わらず
なぜ日本語の使い方が間違っていると言えるのでしょうかね。

それとも自分達が発表しているものが正しい日本語であると主張しているんでしょうか?

投稿日時 - 2012-10-03 14:27:48

ANo.16

権力に依存する・・・と言うことは、政府に依存する・・・と同意義です。
『日本語を使っているわけですからその最高権力である国にそれをきちんと明確に定義してもらうだけであって、そうでなければ広辞苑でいいです』
貴方の論理は、国民主権の代表者である政府を、権威ある帝王に祭りあげようとするものです。
『最高権威である国に・・・』かっての文部省は、『方言を使うな』と学校で指導させました。
それから見ると、井上ひさし氏の戯曲などは、焚書に付すすべき大罪なのですね?
今では、日本の各地で「方言保存活動」もあります。
多くの国語事典には、日本各地の方言までは収録されていません。
方言を使うのは非国民・・・とでも?
方言の多くは、古代語から転訛したものです。
貴方のような権威主義では、文化は衰退するばかりです。

投稿日時 - 2012-09-22 18:34:55

お礼

>貴方の論理は、国民主権の代表者である政府を、権威ある帝王に祭りあげようとするものです。

あなたも言葉のルールつくりを政府に要求したいということが権威主義者だとか思想弾圧とか言うんでしょうか?あなたが言っていることをまとめると、日本政府に正しい日本語を決めて欲しいと望むことは「権威主義」にあたるから「ダメ」だと言っているわけですか?

何度も言いますがルール作りとして言葉の意味をきちんと決めて欲しいだけです。
それを日本政府に求めることが権威ある帝王に祭り上げる行為なんですか?
あなたは政府以外のもの(企業など)が決めたものに納得できるわけですか?

私はこの質問にきた回答を受けてそうではないということで納得しましたし、そうでなければ国以外にそれを定義づけされても納得いかないから政府に頼みたいと思っているだけです。
他にそれを決められるところがあればそれでもいいです。
ですが現状で国がそれをやることが一番妥当だと考えました。

あなたはこの質問である「広辞苑は正しい日本語の辞書ですか?」
に対しては広辞苑が正しい日本語の辞書だと思っているということでいいんですか?質問の主旨であるそれをまず答えて下さい。

逆になぜ方言を保存したいのですか?私は方言というものは無くなるのならば無くなってもいいと思っています。迷惑なだけだからです。方言を文化だというのならかつてこういう方言を使っていた。と書物に残しておけばいいだけだと思います。

いつまでも「この方言は文化なんだ」「だから残すべきだから使い続けるんだ」
とか言う論を振りかざすような人ばかりだと困ります。
そういうのを老害というんだと思います。
文化というものは残るものは残っていきますし、無理をして過剰に保護する必要はないと思っています。

ほかに広く浸透した方言ならば共通語として話していればいいだけです。ただ標準語はルールとして決めて欲しいだけで、方言を使うのは勝手だけれども公の場や裁判所、政府の声明などで使う標準語はきちんと決めて欲しいということです。多種多様な理解できない言葉を喋られても困るだけだと思うからです。
方言を使っていた人がすぐに覚えられないと思うので、その都度引けるような辞書を国に出してもらいたいと思います。その辞書があればその発言の正しい意味を理解できます。
それによって衰退するような方言ならばそれでいいと思います。

まず標準語を喋る人の中でも言葉の意味をわからない人もたくさんいますので
そういった時に正しい言葉の意味はなんなのかきちんと決めて欲しいと思っているだけです。今は1企業が出す広辞苑が正しいということになっていますがそうではないということなので、それならば国民主権の最高機関である政府にそれを望んだのですが、それを権威主義だと言い出すわけです。

私は他回答でも書いてありますように、国に対してであれ納得できないことがあれば戦います。なので権威主義者ではないと思っていましたが、間違っているんですか?


あなたは権威主義自体を否定しているのか、方言を守りたいから否定しているのか、それとも正しい日本語を決めることを否定しているのかはっきり聞きたいですね。

井上ひさしという人はほとんど知りませんので戯曲と呼ばれる作品などもわかりません。なので>焚書に付すすべき大罪なのですね?
という質問に対してはわかりませんが、

私が調べた限りでは人格破綻者という印象を受けました。
あとは天皇制批判に関して行動が矛盾していることなどもそうですね。あとは猫にガソリンをかけて焼き殺す、高いところから落として殺すなど動物虐待をしていたことや、家庭内暴力をしていたことなどから作品が評価されていたとしても人間的には好きになれないですね。どうでもいいです。

ですが大罪という表現を使うことには違和感を覚えますね。

投稿日時 - 2012-09-26 13:56:32

ANo.15

貴方のような徹底した 拝権威主義者 も珍しいですよ。
つまり、文科省国語審議会の答申程度では物足りない。
答申の承認でなく、法律化しろとでも?
ほとんどの法律に『用語の定義』が記述されている。日本に存在する全ての法律の『用語の定義』を暗記して下さいね。
ついでに、平仮名で普通に記述されている法律と、カタカナで記述された法律の違いも考えてみてね。
どうしても貴方の主張を通したいなら、独裁権力でも樹立して、秦代の焚書・坑儒の様な強制的文字使用制限や思想弾圧するしか無いような・・・・・・?

投稿日時 - 2012-09-19 11:23:36

お礼

正しい言葉の定義をきちんと決めて欲しいということが権威主義者なんですか?

日本国民であり日本で暮らして日本語を使っているわけですからその最高権力である国にそれをきちんと明確に定義してもらうだけであって、そうでなければ広辞苑でいいです。ですが広辞苑が正しい日本語の辞書であるのか。それを質問したらそうではないという意見で私も納得しました。ならばきちんと国に決めてもらいたいと思ったし、そうでなければおかしいと思っているだけです。

私が国やその他の権力に対して納得できないことがあった場合、
その「言葉」を使って対抗しますよ。
それでも権威主義者なんですか?
論争や論議する前に日本においてのルール決めをしてくれと言っているだけす。

まず用語の定義をすることがなぜ思想の弾圧になるんですか?
この言葉をこういう意味で使用する。と決めるだけじゃないですか。
そうすればいちいちつける必要もないし、今も必要があるからつけてるんですよね。
あなたから法律の用語の定義を出すことは私の論を肯定していることになっていますよ。

そして秦代の焚書・坑儒は、言葉をどういう意味で使用するかの弾圧ではなく思想の弾圧です。

投稿日時 - 2012-09-19 12:40:06

ANo.14

 今度は問題のすり替えできましたか。
>ですから法も言葉も時代によって変化してもいいですよ

これは貴方程度の人間が決める性質の問題ではありません。既に事実として確定しています。

>そんなことは言い切れませんよ。自分達が思想の中で作り出した好きな言葉を使えばいいだけです。それを禁止するとは言っていません。ですがきちんとした場所なり裁判所などでは通用しないということになるだけだと思います。

笑えない笑い話の事例ですが、本当に「裁判所」であった話です。
とある訴訟の公判で、被告とされる人物が「赤提灯」で密議を行った、との見た裁判官が「この赤提灯とは何ですか?」との質問を真顔で被告に行った、との記事に出会った記憶があります。
 「赤提灯」といえば居酒屋を指し、サラリーマンが仕事帰りに一杯の酒を交わしながら日頃の憂さ晴らしをする場所の代名詞として一般には理解され普及してもいます。それが裁判所という世間から隔絶された社会では通用しない、この方がよほど問題であると僕は感じます。その閉ざされた社会での常識を広く一般社会に適用するのは如何なものかと。

>新しい言葉が生まれて定着してくればそれを公用語に追記すればいいだけです。

質問者は恐らく「標準語」「共通語」と「公用語」の区別が付いていないだけではないでしょうか。例えば1つの国家なり組織の中に2つ以上の言語を話す民族がいて、組織としての機能を円滑に果たすことに支障を来す場合にはそうしたトラブルを解消する目的として公的機関で「公用語の使用」を喚起するケースはあります。しかしながらこれにも「条件」が付され、「その組織に属する民族が使う言語の種類の数に相当するだけの言語」を公用語として認定するとの「事実上の許容範囲」が示されています。
 これに対し「標準語」は「人為的に整備された規範的な言葉」ともいえます。元々の自然言語である日本語も、時代そして職業階層の別により、明治維新以前には様々な言葉が使われてもいました。公家言葉もあれば武家言葉もあり、そして一方には商人(あきんど)言葉もあれば町人言葉や郭言葉などもありました。そうした多様な言葉が階層によって使い分けられているのでは近代国家としての体裁が良くないとの理由で、明治政府が着手したのがいわゆる「国語改革」です。その極端に振れるのが「漢字廃止論」や「ローマ字表記論」です。この辺は現在の「低年齢児童の英語教育論」にも色濃く反映されているともいえます。
 こうした事例は「言葉の機能」から「言語の役割」を考えるとのオーソドックスな手法であり、質問者の提起する方向とは明らかに異なってもいます。事実を捨象し短絡的に考えることはとてもアブナイともいえます。
 因みにスイスの公用語は「スイスドイツ語・フランス語・イタリア語・ロマンシュ語」であり、スイス全国でこれら全てが通用するとは限りません。アメリカでも合衆国政府としての「公用語」を規定してもいません。この背景にはアメリカが多民族国家としての政治的な問題が色濃く影を落としているとの事実があります。もし数の論理だけで言えば、世界の公用語は中国語になってしまうとの結論になります。がこれとは異なっていることも現実です。

>では正しい日本語が定義されてなければ国語の試験でそれが間違いだと言い切れますか?それは試験を作成する人間の思想によって左右されてしまうことになるんですか?そのほうが問題ではないかと言っているわけです。

 貴方は気付いていないかもしれませんが、国語に限らず試験では「被験者の思想を問う」などは出来ない。また絶対にやってはいけない行為です。実際に国語の試験では「単語の意味を問う」問題は出題されません。「古語を現代語に言い換えるならば、どの様な表現になるか、次の中から選べ」などはあっても「その感覚を問う」のではありません。

>回答でこの言葉の意味の解釈が若干間違っているから×にしたところを、回答者が自分の中ではその意味で理解していたからそう書いたと主張した場合それを完全に間違いだと言い切れますか?あなたの論からすればそれは「言い切れない」ということになりますよね。仮にそれを試験としては不正解にできたとしても論理的にはそれこそ強引であり思想の弾圧ではないですか?

 実際に僕は国語それも現代文の教育に携わっていた経験もあります。学校の「国語」では作品の読み方や文脈のとらえ方に関するトレーニングは行いますが、「作品の解釈」に関する領域には立ち入るべきではなく、許されざるべき行為とされています。
 少なくとも貴方は国語教育での「理解」と「解釈」の違いを知らない、理解してもいない。「理解する」には手掛かりが必要で、その手掛かりは文章に綴られるメタファなどを如何に読み解くか、文と文の接続関係がどの様な構造となっているかなどがそれに匹敵することを「教える」のであって、それは「論理的」と言い換えることもできる。
 これに対し「解釈」は「言葉が持つイメージ」つまり「読者の感性による受け取り方の温度差」に依存する部分も多分にあることから、試験問題として出題することが許されてはいない、のです。ですから出題の事例として「傍線部の意味を別な表現で言い換えている部分を○○文字以内で書き出しなさい」が成り立つことになります。
 もしこれが質問者の主張のように「言葉は杓子定規でなければならない」などとなった場合には、国語の試験問題を作成することもできないとの暴論にもつながります。
 文脈を正確に読み解くことができるなら、それは限りなく筆者の主張に耳を傾けることにつながることと同じです。国語の問題は「出題された文章内容の正邪を問う」ことではありません。それを問うならば、「議論の対象」にはなり得ても試験問題とはなりません。なぜなら「学校の試験は理解力を見て、その深度を測る」ことに目的があることに起因します。ですからそこには「許容幅」は当然のように設けられ、そこには「回答者の論理の一貫性」も評価ポイントとして項目を立ててもいます。決して「鋳型にはめる」ような乱暴な行為を殆どの教師はしておりません、またできません。
 絶対的な指標を求め彷徨う姿は、神や権威に縋って生きていた近代以前と変わりません。神がいったから正しいなどは最早誰も相手にしません。誰それの論文に書かれていたから正しいなどは単なる「権威主義」であり、その論文の内容を吟味していない学問以前の姿であり「信仰や崇拝」と似たり寄ったりです。

 質問者には一冊の書物をおすすめします。三浦しおんさんの『舟を編む』です。お読みになれば「言葉の海を泳ぐこと」の意味を実感として理解する材料にはなります。

投稿日時 - 2012-09-17 17:14:19

補足

PS 裁判ではきちんと把握することが重要です。
「赤提灯」といっても固有の「赤提灯」という店があるかもしれませんし、ガード下の屋台であることもあるでしょう。
固有の「赤提灯」という店であれば住所が特定できますし、必要に応じて何丁目何番の「赤提灯」という店で何月何日何時に密議を行った。と書かなければなりません。

仮にガード下であれば、何駅のガード下の屋台で何月何日何時に密議を行った。と書かなければなりません。

それによって固有のお店であれば聞き取り調査でその店に居たことが本当か判明することもありますし参考資料として重要な点になることもあります。

はっきりさせておく必要があるわけです。
両方のケースが考えられる場合、きちんと確認しておく必要があります。

そもそも裁判所とはそういうことをひとつひとつきちんと確認していく場所です。

投稿日時 - 2012-09-19 09:36:03

お礼

あなたがそう言うのであれば、あなたの言っていること全てがその「あなたが決めることじゃない」に適用されます。 たとえば>「標準語」は「人為的に整備された規範的な言葉」ともいえます。>もあなたが決めることではないですね。あなたが書いたことも事実に基づいたこと以外は全てあなたが決めることではないです。あなたはあなたの意見を述べているだけです。

まず>。「古語を現代語に言い換えるならば、どの様な表現になるか、次の中から選べ」などはあっても「その感覚を問う」のではありません。

それは感覚を問うことと一緒です。正しい感覚で表現しているものを選べと言っているのと一緒です。


>貴方は気付いていないかもしれませんが、国語に限らず試験では「被験者の思想を問う」などは出来ない。また絶対にやってはいけない行為です。

あなたがNO10で >もし「この言葉の意味はこれでなければならないと権力組織が決める」なら、そうした行為は思想統制と呼ばれ、最も悪質な暴力行為に転化することを意味します。と言っているわけですよね。

国語の問題で思想を問うことはしてないでしょうが、言葉の意味を決めることが思想統制と言い出したのはあなたです。
設問があって答えを決めているのですからそれがその言葉の意味を決めているということと同じです。国家試験などは被験者からすれば権力組織です。

「理解」とは前提があってこう述べているわけだからこう理解する。であって解釈などはその人が勝手に思っていればいいことです。

ただ理解するためには言葉の解釈が必要であり、それをきちんと定義づけしなければそれが間違っていたとしても間違いだと言い切れないだろうと言っているわけです。

言葉の意味をきちんと定義づけするのはルール作りです。
ルール作りを求めることがなぜ神の崇拝や信仰に繋がるんですか?
一般社会において暴力で問題を解決することはできません。
ですから全てのことは言葉を用いて争ったり決めたりします。
その言葉というもののルールを作らないのはおかしいと言っているわけです。
個人の解釈に左右されるものを武器に論争しても意味がないでしょう。

言葉の意味を国家に決められたところで思想の弾圧とは思いません。
そのルールに従って論議するだけです。
日常でその言葉をどう使おうが個人の勝手ですが
きちんとした場では通用しないというだけのことです。

思想とは考えであり、言葉はそれを表現するツールにすぎないからです。。

投稿日時 - 2012-09-19 08:14:09

ANo.13

No.8 です。

言葉は生き物ですから、文字通り日進月歩で進化しています。
辞書・事典類は適宜改訂されますが、言葉の生きた変化には追随仕切れないこともあり、

この意味、理解できない人は、辞書を引いても理解できないでしょうね。

投稿日時 - 2012-09-17 14:12:40

お礼

だから国が認めたものを毎年出せばいいじゃないですか?いくら言葉が生き物だとしても1年でころころ変わることはないでしょう。

投稿日時 - 2012-09-19 07:20:14

ANo.12

正しい日本語ってなんですか?と聞かれたらあなたはどう答えますか?答えられませんね。

答えられますよ。
平均的な日本人の大多数が不快感や違和感を持たない日本語、それが正しい日本語ですよ。(洞察力とか常識とかを持ち合わせない愚か者は、平均的とはどんな日本人?とか、大多数とは何パーセント?などと突っ込みを入れる)

その逆が正しくない日本語です。

さて、話題を少し変えましょう。正しい日本語も正しくない日本語も、たとえばこんなサイトでは問題にされません。わかりきっているからです。

問題にされるのは正誤の境界線上にあるような表現です。古い表現から新しい表現へと変化するその過渡的なケースもあるでしょう。とにかく正誤の判断が難しいから問題にされるのです。我々にとって大事なことは、正誤の判断を拙速に行うのではなく、現時点では正誤の境界線上にあるという認識をしっかり持つことでしょう。問題は時間が解決してくれます。

さて、国語辞典です。
「広辞苑」にかぎらず国語辞典というものは、たいてい、多数の日本語学者、専門的な項目についてはその専門家が原稿を執筆し、それらを編集委員(多くは一人ないしは複数の日本語学者)がチェックするという形をとります。もちろん出版社の編集部もさまざまにかかわってきます。一冊の国語辞典が世に出るまでには実に多くの人のチェックの目を通過してきているわけです。たまに妙な語釈があったとしても全般的に見て国語辞典の日本語は正しい日本語と見ていいです。断言します。

最後に、
「なぜ公用語として認められていないのか」
なんですか、こりゃ。

投稿日時 - 2012-09-17 10:46:13

お礼

あなたの正しい日本語とはなにか?についてはわかりました。
ということは私の質問の「広辞苑は正しい日本語の辞書ですか?」に対しての答えは「正しい」と断言する。でいいわけですね。

ですが他の多数の質問者の回答では答えは「NO」ですね。

あなたの正しい日本語の前提は
>平均的な日本人の大多数が不快感や違和感を持たない日本語、それが正しい日本語ですよ。
>実に多くの人のチェックの目を通過してきている

から広辞苑が正しい日本語の辞書だと断言しているわけですね。


ということは広辞苑が正しい日本語の辞書ではないと言っている他の回答者はあなたから見て平均的な一般人の常識を持たない人達ということですね。

最後の>「なぜ公用語として認められていないのか」
なんですか、こりゃ。

というのは正確には何が言いたいのかわかりません。何か言うのであればもう少しちゃんと説明してください。

投稿日時 - 2012-09-19 08:34:35

ANo.11

これまでのやりとりを見ていますと、どうやらあなたは「上から与えられた規範」が欲しいようですね。

自ら正しいか正しくないかを考え、自己の信念に従って行動し、かつ必要とあらばいつでも修正できる柔軟性をも持ち合わせた賢い人、そんなタイプの人ではなさそうです。

さて、いわゆる国語辞典の件ですが、ある辞書の語釈に疑問を感じたら、まず他の複数の辞書の語釈と読み比べてみるのが良いでしょう。正邪を判断する材料を与えてくれるでしょうし、各辞書のクセのようなものもわかって面白いでしょう。そんなことをやっていくうちに信頼できる辞書に出合えればしめたものです。「複数の辞書なんて持ってないし、図書館に行く暇なんてない」なんて逃げ口上を言うズボラ人間は偉そうなことを言う資格がありません。

ちなみに「広辞苑」を国語辞典の権威みたいに感じている人がいらっしゃるようですが、何なんでしょうね、これ。妙な話です。

投稿日時 - 2012-09-16 18:23:58

お礼

そんなことを言っているわけではないです。私はある意味問題提起をしている形になっています。もちろん自分の知識や経験と考えで行動します。ですが言葉を使う場合は相手がいる話です。なぜ公用語として認められていないのか。よく正しい日本語を喋れと言いますがじゃあ正しい日本語ってなんですか?と聞かれたらあなたはどう答えますか?答えられませんね。正しい日本語など存在しないということになりますね。では正しい日本語を喋ることなど無理ですね。私はそこに疑問や問題を感じますがおかしいのでしょうか?

投稿日時 - 2012-09-17 03:28:56

ANo.10

 ♯4です。早々の折り返しありがとうございました。他の回答者の方々にも色々と反論にもならない言い訳をごり押ししている模様ですね。当方には以下の内容でした。曰く
>使う人次第という事は私はそれを適用しないと言ってしまえばいいということになりますよね。それでは言葉に責任がありませんし困ると思うのですが

 「言葉に責任を持つ」。一般にこれは「発言趣旨に責任を持つ」との意味です。試験の答案ならば、自分の書いた解答と説明に相当するとお考えいただければよいでしょう。
 この答案を採点する「基準」に比定されるものが「辞書」であり、その一つの事例として『広辞苑』もあれば『大辞林』もあり『国語大辞典』もあるといった話です。こうした「違い」を「許容範囲」と呼びます。
 「言葉の意味内容に関する説明」に“絶対”はありえません。なぜならば、「言葉は思考の家」と語られるように「思索内容を表現する手段」でしかなく、その思索も人・環境(階級および階層)・時代により変化する性質の行為であることを反映しているからです。この程度は子供でも理解できる話です。
 もし「この言葉の意味はこれでなければならないと権力組織が決める」なら、そうした行為は思想統制と呼ばれ、最も悪質な暴力行為に転化することを意味します。このような危険性を察知していることから他の回答者様(1・2・3・5・7及び当方、♯6及び8の方は少しカテゴリーが異なりますので一先ず除外される)がご指摘されているとの理解をなさらないのでしょうか。
 こうしたご自身の見解と対立する意見が出されたならば、質問者様は「ではメートル原器を基準とする単位」は「世界共通」ではないかなどの対論を出されてくることでしょう。
 しかしながら、これにも「違う基準」が実際にはあります。インチ・ヤード・ポンドも尺貫もあり現実に使用されてもいます。
 丸山眞男が用いる「私(わたくし)」と志賀直哉が記す「私(わたくし)」はそれぞれの文脈の中で「違い」を読み分ける必要があり、読む側にとっても「読み分ける恃しみ方」があり、政治学者の丸山と作家としての志賀では「使い方」も必然的に異なります。このことだけは「事実」であり、それを困った現象と呼ぶ方に僕は一度として出会った経験などありません。

【追記】
『六法全書』も完全無欠な存在ではありません。判例が変更されるケースもあります。実際に「尊属殺人」は刑法のカテゴリーから抹消され、法的根拠を喪失しています。「法」とても絶対的な存在でないことも歴史的に明らかです。

投稿日時 - 2012-09-16 16:12:56

お礼

ですから法も言葉も時代によって変化してもいいですよ。> もし「この言葉の意味はこれでなければならないと権力組織が決める」なら、そうした行為は思想統制と呼ばれ、最も悪質な暴力行為に転化することを意味します。>そんなことは言い切れませんよ。自分達が思想の中で作り出した好きな言葉を使えばいいだけです。それを禁止するとは言っていません。ですがきちんとした場所なり裁判所などでは通用しないということになるだけだと思います。新しい言葉が生まれて定着してくればそれを公用語に追記すればいいだけです。

では正しい日本語が定義されてなければ国語の試験でそれが間違いだと言い切れますか?それは試験を作成する人間の思想によって左右されてしまうことになるんですか?そのほうが問題ではないかと言っているわけです。

回答でこの言葉の意味の解釈が若干間違っているから×にしたところを、回答者が自分の中ではその意味で理解していたからそう書いたと主張した場合それを完全に間違いだと言い切れますか?あなたの論からすればそれは「言い切れない」ということになりますよね。仮にそれを試験としては不正解にできたとしても論理的にはそれこそ強引であり思想の弾圧ではないですか?

ですから正しい日本語の定義というものを探していますし、無いのであれば作成すべきだと思っています。

投稿日時 - 2012-09-17 03:44:30

ANo.9

>それでは言葉に責任がありませんし困ると思うのですが
そんなことありませんよ。
完璧な定義なんてものが無くても言葉にはそれなりの責任を持てますし、よほど教養や常識に欠けるひと以外には話は通じます。

「完全に日本語を規定できる辞書があるべきだ」というような考えに固執される方の対処は困りますけど。

投稿日時 - 2012-09-16 14:53:11

お礼

それなりとかいう曖昧なものでは問題だと言っているわけです。「完全に日本語を規定できる辞書があるべきだ」というような考えの対処になぜ困るのでしょうか?
その考えはそんなにおかしいことですか?自分達がなあなあにしてきていて疑問にも思ったことがないから対処法がわからず困っているだけじゃないですか?冷静に考えればおかしいことはわかりますよね。

投稿日時 - 2012-09-17 03:47:15

ANo.8

完全な辞書・事典は存在しません。
国の機関としては、文科省国語審議会があります。送り仮名の使い方とか、漢字の標準的な読み、接続語尾の『わ→は』、『お→を』等の使用指針、命名漢字の使用可能文字、難読文字等の使用を避けて一般的な使用を推奨する『常用漢字』の指定、外来語のカタカナ表記など、日本語表記の示準を定めますが、指定外・示準外の用法を禁止するものでは有りません。
言葉は生き物ですから、文字通り日進月歩で進化しています。
『鳥肌が立つ』は、元来は恐怖感の概念を示して用い、類義語に『身の毛もよだつ』、『総毛立つ』等の表現もありますが、近年では『感動・感激』の表現として用いられる場合が多くなりました。
辞書・事典類は適宜改訂されますが、言葉の生きた変化には追随仕切れないこともあり、編纂者の言葉への理解度や社会の変化にも左右されます。
『口腔衛生』は、私達の時代には『コウコウ衛生』と習いましたが、今は『コウクウ衛生』と読まされます。語尾の『は』は、奈良時代まで『ハ』の音でしたが、その習慣が書き言葉に残され『ワ』の音の接続語尾には『は』が使用されて続けています。
言語は時として退化します。男の読みは古文では『をとこ』、女は『おみな』または『おんな』と使い分けられていました。ワ行発音の退化が認められます。
『学校』は私達子供の頃には『ぐゎっこう』でしたし、『登竜門』は『とりょうもん』で、『関節』は『くゎんせつ』でした。数え上げれば切りがありません。
広辞苑は信用するに足り得る辞書ではありますが、完全な辞書は存在しないことを念頭に、可能なら複数の辞書を比較しながら利用したり、初版本から最新版まで取り揃えて比較利用することも、国語学習の助けになります。

投稿日時 - 2012-09-16 13:20:03

お礼

ですから無いのであれば無い事が問題だと思っています。作ることはたしかに難しいと思いますが、「出来ない、無理だ」と言って放棄しているだけにしか見えません。絶対に出来ないのであればその理由を知りたいです。

投稿日時 - 2012-09-17 03:48:59

NO,2 です。

>では広辞苑を信じない人とはどう話をしていけばいいのでしょうか?


私が言いたかったのは、日本語の辞書は広辞苑だけではなく、三省堂の新明解もあるし、小学館の国語大辞典もある、他にもいろいろ選ぶことが出来る、広辞苑を嫌って他の辞書を使う人の存在を否定は出来ないということです。
広辞苑だけが日本語を規定しているわけではなく、日本語は日本人全体の知識の中に存在する慣習的なものです。広辞苑の作者はそれらをかれらなりに丹念に採取して辞書をまとめたわけです。他の辞書も良く似た方法で作っていますから、お互いにあまり差はないといってもいいと思います。新明解派と広辞苑派が話し合っても言葉が通じないということはほとんどありません。ただ細かい言葉の解釈でずれが生じることはなくはないと思いますが、どうも不便だというほどのレベルの差ではないのです。


>決まりがないのですから個人の勝手な解釈で論議されると一般市民が明らかに間違っていると思うことでも間違いということは言い切れないことになりますよね。

時にはそういう問題が発生します。ここのサイトでも多くがそういう質問です。


>やはり国がちゃんとなんらかの形で言葉の定義づけをするしかないですね。

国はそういうことには口を出さないと思います。役人の仕事ではなく、言葉を専門に扱っている学者や小説家の出番だと思います。

投稿日時 - 2012-09-16 11:24:39

お礼

>時にはそういう問題が発生します。ここのサイトでも多くがそういう質問です。>

ですから問題の原因がわかっているわけですからそれを解決するべきではないですか?

>役人の仕事ではなく、言葉を専門に扱っている学者や小説家の出番だと思います。

今話してきたことの内容を理解していますか?それでは同じことです。
それでは民間と変わりません。もちろんやる人は学者でもかまいません。
国がそれを日本語を定義する公的なものとして認める必要があります。

投稿日時 - 2012-09-17 03:54:21

ANo.5

広辞苑の電子辞書使っています。理由は字が大きくて見やすい。簡便で、てまがはぶける。
不満は古典を参照にしていたり例文に使っている部分が多い。
最近必ず角川の国語辞典も同時に引きます。
一応信頼できるものではないかと思っています。

投稿日時 - 2012-09-15 18:42:57

お礼

一応信頼できるという程度ということは言い切れないわけですから、広辞苑や角川の国語辞典ですらこれが正しい日本語の辞書だ。ということは言えないという回答ですね。有難うございました。

投稿日時 - 2012-09-16 07:22:20

ANo.4

 ♯1及び3の方に同意します。
「ことば」は「言端」でもありますから、「これが正しい」などとは言えない性質を持っています。モノをどう理解するかの反映であるともいえますので、「参照する材料」ではあっても「適用するか否か」は使う人しだいです。
 「六法全書」とはいってもそれは「法律の条文を掲載している典拠の一つ」であり、実際には「判例」が優先されます。

投稿日時 - 2012-09-15 14:38:43

お礼

使う人次第という事は私はそれを適用しないと言ってしまえばいいということになりますよね。それでは言葉に責任がありませんし困ると思うのですが。

投稿日時 - 2012-09-16 07:19:59

ANo.3

完璧であったり常に正確であったりするわけではありませんからしばしば改訂されます。
しかしながら、とりあえずは日本語の指標としてはかなり信頼のおけるものでしょうね。

>広辞苑に載っている単語の意味や解説が日本において正しい解釈であると捉えてよろしいでしょうか?
その解釈で不都合は無いでしょう。
まあ頭の良いひとならば「正しい解釈である」ではなくて「正しい解釈であろう」というようの考えるでしょう。

投稿日時 - 2012-09-15 14:25:50

お礼

もちろん言葉は変化するものですからその都度改訂するのはわかります。その時点で正しいものを作ればいいと思います。人が作るものですからミスもあるでしょう。企業ですからそれもそこまで批判されないでしょう。ただ正しい解釈であろうという曖昧な感じが非常におかしく感じました。正しい日本語はどこにも定義づけされていないということですね。

投稿日時 - 2012-09-16 07:18:01

貴方が岩波書店を信じれば、貴方にとって正しいものであるといえるでしょう。ひとによっては必ずしもそうでない場合もあると思います。

投稿日時 - 2012-09-15 13:52:08

お礼

では広辞苑を信じない人とはどう話をしていけばいいのでしょうか?決まりがないのですから個人の勝手な解釈で論議されると一般市民が明らかに間違っていると思うことでも間違いということは言い切れないことになりますよね。やはり国がちゃんとなんらかの形で言葉の定義づけをするしかないですね。

投稿日時 - 2012-09-16 07:13:27

なぜそのようなデジタル思考なのでしょうか。

平均的な日本人が考えるであろう「正しい日本語」に近いものが載っているとは思いますが、
一民間企業が編纂した辞書が正しい日本語であるというのは短絡的すぎると思います。

投稿日時 - 2012-09-15 12:38:34

お礼

もちろんなぜ1企業の辞書が日本の代表的なものになっているのか疑問に思います。では正しい日本語とはどこに定義されているのでしょうか?国がそのようなもを出していればいいだけの話だと思うのですが。無い以上1番知名度のある広辞苑が正しい日本語であると考えるしかなかったのです。ですからそう捉えていいのかどうか?を質問したまでです。あなたの意見はNOということですね?

投稿日時 - 2012-09-16 07:09:47

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