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締切り済みの質問

哲学と死の恐怖の克服について

私は小さなころから死が怖いです。
死について考えると、世界が何の根拠もないものに思えて、
日常生活というのは全て無意味な勘違いで、私にわかることなんて世界にひとつもなく
私に与えられる意味や価値なんてなにもなく、ただいつか消えてしまうのだと思うと恐ろしくてなりません。

そのような思いがあり、哲学は何かその恐怖を克服するヒントになるのではないかと考えて
大学では哲学をしようかと思ったのですが、一回生次の授業で教授が何をいってるのか全くわからず
(ギリシャの人達は魂をどうの、というような話をしていたとおぼろげに覚えています)
諦めてしまいました。

しかし、このまま生きていって「社会人としての充実した生活」のようなものを送っても
その先に死の恐怖の克服がある気が全くせず、やはり自分は何かをしなければならないとおもい、
再び哲学に関心をもっています。

そこで質問なのですが、
(1)哲学と死の恐怖はどのような関係にあるのでしょうか。
大学での授業はギリシャからはじまったのですが、ギリシャ人の思考は私が死の恐怖を克服するために役にたつのでしょうか。どのように役にたつのでしょうか。
もしそれが死の恐怖の克服に役に立つのであれば、今度はちゃんと取り組んでみたいと思います。
はじめから死の恐怖を克服するという目的をもって取り組むことは真実を探求する学問とは相いれないような気もして
それなら潔く哲学ではなく宗教に取り組んだ方がいい気もしています。

(2)死の恐怖を克服した哲学者はいますか
若い時は死の恐怖で発狂しそうになったけれども晩年は安らかに死んだ
そういう哲学者としてはどんな人がいますか。

(3)今死の恐怖と取り組んでいる人としてはどんな人がいますか
中島義道という人や森岡正博という人の本にははっきりと、自分は死が怖くてその克服のために哲学をしていると書いてあったように思います
他に、そういうことを言っている哲学者はいますか。

(4)最後に、こういう私にお勧めの書籍などあれば教えていただければと思います。
よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2012-05-25 21:02:16

QNo.7495948

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ANo.17

 私は大学で西洋史学が専門でしたので哲学や宗教も散々勉強しました。
 でも死の恐怖を理解し克服しようと思うのでしたら、生物や細胞、自我を脳科学的に研究するような分野を選んだほうがいいと思います。
 なぜなら、その恐怖を本当に克服するには、死後も意識があることが保証されるまで、あなたは安心する事は絶対に出来ないからです。

 哲学や宗教はその時代の政治や生活水準、貧困などにより生まれた新しい人の主張を研究する分野です。いくらそれを研究しても、今現在死や自我が解明されてないのでしたら答えはそこにありません。
 あなたはAという惑星を研究するために、マヤ文明の天文学を勉強するのと、現代の物理学を勉強するのと、どちらが真実に近づけると思いますか?そういう違いです。

 ただ恐怖を克服するだけなら、なんでもいいので天国があると主張するような宗教を、信じよう信じようと、自分でマインドコントロールするか、ひたすら怯えて恐怖し疲れきるまで調べ、するといずれ人はワラにもすがる気持ちになって、自然と生まれ変わりや天国といったものを信じやすくなります。
 信じてしまえば克服とも言えるので解決するのではないでしょうか。

 

投稿日時 - 2013-05-08 03:47:48

ANo.16

死を恐怖する原因を書いて、その原因を取り除く手立てを書いて、その後の人生を安楽に生きる方策を書いてみます。

死を怖がる人と怖がらない人がいますのでその違いを先に書いてみます。

死を怖がる場合はその人の個性がそうさせています。その個性とは『自分自身に敏感』と言う意味です。言葉を替えて言うなら『神経質な性格』と言う意味になります。従って死を怖がらない人の場合では『自分自身に対して、余り感じない人』という言い方が合っている様に感じます。

死の恐怖を解消する原理を書く前に、死の恐怖の原因を書いてみます。それには人間の心の構造を先に知っておく必要がありますので、感情が湧き上がるシステムを先に書いてみます。

人間は生まれる前から、不安や安心や恐怖を知っています。生まれたばかりの赤ん坊でさえ、安心する事も、不安である事も、習わないにも拘らず、全てを知っています。人間には学ぶ以前から備わっている機構が存在しています。この機構が関係しています。

桜の花がその種によって、独特の形や色や匂いまでも備えて生まれて育っています。昆虫でも動物でも全ての命あるものには、その種としての記憶が細胞に刷り込まれて生まれています。この事に関係しています。

牛や馬でも生まれた後の行動が決まっています。直ぐに歩き出したりしています。是は備わった働きが存在しているからです。この働きをお釈迦様の場合では『仏性』と名前を付けています。キリスト教の場合では『神』と名前を付けています。

全ての命在るものを働かせている『働き』を神や仏と呼んでいます。

聖書に書いてある、人間が知恵が付いたと言う理由は、脳の機能分化の事です。脳の機能分化の研究成果を載せてから説明します。科学的な証拠です、ウイキペデアからです。


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。

この二つ有る『意識が失楽園と関係しています。』

子供時代には、疑問や悩みが無かったはずです。この状態を天国と『聖書では形容しています。』その理由は、心に矛盾が生じていないからです。自分の心が争う事がなかったからです。何故なら『二つの意識が一つのものとして働いていたからです。心が争う事をしない状態を『天国』と聖書に書いてあります。

中二病と言われる頃、つまり思春期頃に人間の脳の機能分化が完成に近くなります、その頃から疑問や悩みが始まっています。原因は、左脳に存在する意識『自我意識』がしっかりとその機能の分化によって『意識するようになるからです。』

他方『右脳の意識は』すっかりと、無意識の底に姿を隠して、姿が見えなくなってしまうからです。ですがウイキペデアの記事に書いて有る通り、右脳にも違う人格が存在しています。この人格の存在に気付く人の事を『神経質な性格や、自分自身に敏感な人』と書いています。

右脳の人格が『命を働かさせている意識』です。心臓から肺から腸から全てのの臓器も、ホルモンの分泌から、発汗や、血管の収縮までも全てに渡って、生まれてから死ぬまで休みなく働き続けています。命を守る機能そのものです。

この者は他にも機能しています、それは行動する人間を助ける機能です。口を開く時にも、字を書く時にも働いています。人間の行動を通して命を守る機能として働いています。

その他にも機能しています。それは必要に応じて『感情を湧き上がらせる働きとして、或いは考えを湧きあがらせる働きとして』です。

この消息を自我意識たる『顕在意識は知らないでいます。』この事に『違和感を抱かない人の事が』死の恐怖が湧きあがりにくい人、つまり自分自身に鈍感な人、と言う言い方に成ります。

この『自我意識に送られて来る情報に敏感な人を』神経質な性格と呼んでいます。

分かり易い話をするなら、寒い所にいます。この時には、血管を収縮させて、暖かいところや、温かい飲物などを探すように『指示さえ出しています。』ですが自我意識たる自分は知らないでいます。

自我意識は『命の働きに出された指示を』なんとも感じないで従っています。命の働きはその時その時の必要な事を、脳梁を介して絶えず送っています。この情報に『違和感を抱く場合があります。』

この違和感が、人によって、その個性によって様々な内容になって表われてきます。

自我意識の機能は『過去と未来を見つめる機能』で出来ています。そうして言葉を情報の伝達手段として考えを進める事になります。そうして全てを計算によって導き出そうとする機能で計っています。

命の働きは、言葉を持っていない事によって、言葉以外の情報伝達手段を使っています。腹が減った事を教えてくれる機能です、或いは高い所にいる事を教えてくれる機能です、或いは狭い所にいる事を体感させている機能です。寒い所では暖かいところが欲しくさせています、逆に暑い所では涼しいところが欲しくさせている情報です。全て言葉以外の情報によっています。

恐怖症には様々なものがあります、死の恐怖症もその中の一つです。恐怖症の原因は『右脳からの情報の受取りを拒否しているために』起きています。右脳の人格としては、送った筈の情報が届いていない事が分る事によっています、もう一度その情報をもう少し大きくして送るように成ります。またしても、情報の受渡しがうまく行かない事によって、段々とその情報が拡大されてゆく事によっています。

始めの小さな、不安と言う情報であっても、拡大された場合では、恐怖と言う大きなものに変化して行きます。恐怖感が頭の中で膨らんでゆく原理です。

字数の関係から、省略して書いてゆきますが、恐怖症の原因は、二つの意識の情報交換の際に起きる情報の受け取り方の齟齬によっています。言い換えるなら情報の受け渡しの際の誤解です。違う表現をするなら、送られてくる情報に対する良し悪しによる自我意識の態度です。

好き嫌いで判断する自我意識の分別作用です。『良い情報のみを受け取りたい心です、悪い情報は受取りを拒否する事』です。意識の根底での情報交換のやり取りの際の出来事です。

高所恐怖症であれば、高いと言う情報とその情報を送る者を共に認めたくない『自我意識の分別作用のために』高いと言う情報の受取りを拒否する事を意味します。感情を湧き上がらせている者は、その情報が伝わっていない事によって、更に拡大してその情報を再送しています。

パニック障害の場合も同じです、始めの『小さな不安』の受取りを拒否するために、拡大された情報が送られています。

是は心の奥底の話です、意識の根底の話です。意識として発生する際の話です。従って恐怖症は『意識する場合全て苦しく感じています。』『一切皆苦』と云う事になります。

この苦しさは『意識性によっています。』或いは意識する事によっています。この苦しさを『心の矛盾』として人類は昔から、宗教文化の発展として後押しをしてきた訳です。ここに宗教における『魂の救いが存在します。』

心の矛盾は、自我意識と『命の働き』の二つの意識の主導権争いです。自我意識が『自分の命の働き』の前に折れる時『心の矛盾が解消されます。』それが魂の救いです。

その為に学ぶ事は、自分自身です。自分自身を学ぶ事は、自分自身を忘れる事を学ぶ事です。

(1)哲学と死の恐怖はどのような関係にあるのでしょうか。
哲学者の中では、ソクラテスが『汝自身を知れ』と喝破しています。

(2)死の恐怖を克服した哲学者はいますか
沢山存在しています、「キルケゴールは、人間の実在を美的実在・論理的実在・宗教的実在の三つの段階に展開させ、人間は、宗教的実在の段階において初めて単独者として真の自己を回復するとした」となっています。西田幾太郎氏等も、鈴木大拙博士と共に鎌倉の円覚寺において『禅』を学ぶ事によって、悟りを得たようです。

(3)に付いては、分りません。

(4)最後に、こういう私にお勧めの書籍などあれば教えていただければと思います。
この事に付いて言うなら、鈴木大拙博士の著作集がお奨めです。14歳に『死の恐怖症』にかかって32歳で『自分自身の命の働き』に出会う体験をして、恐怖症が完治した経験があります。

禅における師匠達は、若い頃不安が多い人達と推察出来ます。その不安解消の歴史が禅の歴史になっていると感じています。もっと言うなら、お釈迦そのものが『一切皆苦』と感じたと言う事から、『お釈迦の教え』そのものが『心の癒しの心理学』とも言えます。

禅における見性とは、心の矛盾の解消の究極のものとも言えます、見性する事を『一生の大事を了畢する、或いは生死の問題が解決する』と表現しています。


脳科学者が脳の障害によって、左脳の意識が出ている場面と、左脳の意識が薄れてゆく様を表現しています。

URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM

右脳の意識が書かせた言葉が『禅問答』と思います。言葉を使う脳では理解不能です。言葉を使わない思考方法を学ぶ中に貴方の答えは存在します。

自分の『我』が、自分自身の働きの前にでしゃばらなくなる時とは、キリスト教的な言い方をするなら『神と和解して、神の僕』となる生き方です。

投稿日時 - 2012-05-30 07:12:31

ANo.15

やり尽くした感。感無量。
後のことは全部お任せしますという境地だと思います。

あと「極み」が来てしまったとき。
極みとは、「絶対幸福」
絶対幸福とは「どんな時でも価値がずっとかわらないのは、あなた」By宇多田ヒカル

投稿日時 - 2012-05-29 17:45:21

ANo.14

   「恐怖」というものは「どうなるのか分からない」ゆえに生じるのではないでしょうか。keisuke19840301さんの場合、死んだ後、どうなるのかが分からないので恐怖を感じているということですよね。であれば、やはり「死んだらどうなるのか」についての真相を知る必要があると思います。また、それに付随して、「人間はなぜ死ぬのか」、さらには、「そもそも人間は何のために生まれてきたのか」といった疑問に関する答えを知る必要も生じてくるでしょう。

   私の場合、これらの疑問の答えを聖書から見出したと考えています。聖書によると、創造者である神がすべてのものを造りました。したがって人間も神によって造られたというわけですが、神はその人間を目的をもって造りました。ということは、神は人間が生きる目的、何のために生まれ、何をして生きるべきかに関する答えを教えることができるということです。

   また、最初の人間アダムが神に反逆してエデンの園から追放されて以来、人間は命の源である神から隔離された状態になり、それゆえに死ぬべき存在となりました。しかし、神はご自分の元に戻ってくるよう人間に呼びかけており、将来神の子となる人々には永遠の命を与えると宣言しています。

   また、今まで死んでいった人々も神は将来再度復活させて神の子となれるように再教育を施します。

   確かに、いろんな宗教や哲学が死に関する様々な説を挙げているのは事実です。しかし、死に関する真相は一つしかないはずです。それを確かめるにあたり、それぞれの説が本当に正しいとどうして言えるのかを追求する必要があります。関心があればですが、上で説明した聖書的な(キリスト教も諸説あるので、飽くまで私の場合ですが)説の正当性を別途回答できます。

投稿日時 - 2012-05-29 14:11:06

ANo.13

お尋ねのギリシャ哲学者については、「ギリシャ哲学者列伝」(岩波文庫)に多数の例が示されています。自分の意志で呼吸を止めて死んだとされる例です。特にディオゲネス(アレキサンダー大王に”そこをどけ!”と文句を言った人)について詳しいです。
本題です。宗教は別です。「死を理解する」ことは不可能のようです。「死を受容する」タイプが幾つかあるのみと見ております。ギリシャでは「生きることと大差のないもの」のようです。東洋では「生について未だ良く判っていない。まして死を気にかけることはない。」「死んだら判ること」のようです。貴方のご懸念に応えるならば「死を怖れる理由が薄らいでいく」となるでしょう。「葉隠」では死へのイメトレが有効とされているようです。

投稿日時 - 2012-05-27 05:49:53

ANo.12

>>(1)哲学と死の恐怖はどのような関係にあるのでしょうか。

死の恐怖はどこから出ているかが最大の問題となります。
それは、人間は死によって無になる。という唯物論的な考えから起きていると思います。
仏教もキリスト教も、死後の世界を容認する哲学だといえます。


>>(2)死の恐怖を克服した哲学者はいますか

深く仏典や聖書を研究し、それらの真理(法則)を信じた者に死の恐怖を克服した者だといえます。ただし、仏教学者やキリスト教学者は仏典や聖書を正しく解釈していないので、彼らから真理を得ることはできないと思います。


>>(3)今死の恐怖と取り組んでいる人としてはどんな人がいますか

仏教の経典、聖書そのものが死の恐怖と取り組んだ教えだと考えても過言ではないと思います。したがって、死の恐怖を超越したいのであれば、ご自身で直接仏典や聖書を解釈する必要があります。
僧侶や神父などに教わったらアウトです。


>>(4)最後に、こういう私にお勧めの書籍などあれば教えていただければと思います。

私もある程度は学者や僧侶の書籍を読みましたが、いずれも真理が説かれたものは見たことがありません。まず、碑肆からないと思います。
むしろ、新興宗教に真理を発見することがあります。

投稿日時 - 2012-05-26 16:06:20

ANo.11

>私は小さなころから死が怖いです。

素晴らしいことだと思います。
多くの人は怖いものから目をそむけてその日暮らしの楽しい人生を過ごして、晩年になってから、アレ? もう、自分の人生はおしまいかい? そんなバカな。これはなんかの芝居で、芝居が終わった後にも、反省会とか打ち上げとか、別の場面が待っているんでしょ?ね、そうでしょ? ってな具合に狼狽するのです。

その点、小さいころから死を見つめ、その恐怖を人生の友として生きる少数の哲学者は、人生の大半の時間をつかって、もちろん、糊塗をしのぐための仕事もしますが、思索を続けることで、小さなころには想像できなかった認識の境地を経験し、腹が据わってくるのです。

あなたの興味(=死への関心)は正しい。しかし、若いうちに答が見つかるだろうとか、他人が答を教えてくれるだろう、などという期待はもたないことです。

大学の哲学の講義ってのは、哲学では無くて、「哲学学」とでも言いましょうか、哲学者達の歴史を知識として伝授するところでしょう。私は、無学ですけど、たぶん、先達の哲学を勉強しても駄目で、結局、自ら哲学する以外に自分の事実認識を大きく変貌させることは無いと思っています。

まず、ご自分で哲学することです。学習ではなく、思索です。
10年か20年ぐらいやっていると、どうしてもミッシング・ピースってやつがあって、なにがミッシング・ピースか判ってから先達の哲学の歴史を学ぶのは悪くないと思います。自らの人生観、世界観、自然観の全貌が出来あがる前に、ジグソー・パズルの一片を示されたとしても、その意味が判らないからです。

気づくのが遅すぎずによかった。おめでとう。
50年もかからないうちに全く違った境地に立つことができると信じております。

投稿日時 - 2012-05-26 12:51:34

ANo.10

 お勧めの書籍の冒頭部分を紹介しますので、まずはここで哲学してみてください。
 宗教に取り組んだ方がいいのかも、と迷っているようですが、既成の教団に「答え」を見いだせるような問いではなさそうに思います。

 佛心は大慈悲
 如来は大慈愛の化現、全体愛にまします。経に佛身を観る者は亦(また)佛心を見る。佛心とは大慈悲是(これ)なりと。
 佛身の相好円満、無尽の光明全く愛ならざるはなし。故に大愛の権化たる佛(ほとけ)の相好を瞻(みあげ)る時は満腔(まんこう)の慈愛にうたれて佛心の大慈悲なることも思はざるをえぬ。如来が全体愛を以て光明常に我等に注ぎて愛化し玉(たま)ふ。此の慈愛に育まれたる我等は満腔の愛を以て如来を憶念せざるをえぬ。
 親愛
 如来心光の三霊能の中に於いて親縁(しんねん)とは大なる愛、即ち大慈悲心と衆生の感情的信念との感応融合によりて心情を美化するの霊能なり。即ち太陽の熱線に比例すべきものとす。
 斯(こ)の大慈悲の霊熱に感応する人の心情は平和、歓喜、妙楽、安穏、感佩(かんばい←感謝の意)等のすべての心理上の最も優美なる高尚なる微妙(みみょう)なる甚深なる言ふべからざる不可思議的感情の状態なり。譬(たと)えば若(も)し太陽の能力より起こす所の温熱なからんか、地上の有機物が生存し能(あた)はざると同じく、如来大慈悲の霊力に依らざれば人の清き生命は生存すべきものにあらず。

 大なる愛の光は温和柔軟にして能(よ)く人の心霊を生息せしむ。新鮮なる活気は聖きに呼吸せしめ、三昧の妙味に霊の生命は保存せらる。無限の妙楽と自然の歓喜とは如来の泉より湧く。
 されば人は如何なる嶮しき艱難の坂、困苦の峠に臨んでもまたは失敗の谷に陥(お)ち失意の抗(あな)に陥ちいるも、暖かなる慈愛の光は照らさぬ隈(くま)なく平和と慰藉(いしゃ)とは何れの時にか与え給はざらむ。

 如来の慈愛の温熱(あたたかみ)は人をして寒慄(みぶるい)せしむる畏怖(おそれ)にも憂悲苦悩(しんぱいなやみ)のなかにもその心情を融和(とか)して、而(しか)して安穏と歓喜とに美化せしむ。

 麗らかなる春の和(やはらか)き温(あたたか)き霊気に霊酔せば、いつしか憤怒(いかり)恨戻(うらみ)嫉忌(ねたみ)復讎(あたがえし)などのすべて害他的の悪しき動機は麻痺して而して温和、同情、博愛、同喜などのすべても愛他の心情起こるならむ。

 若し人、一たび此の大なる慈愛の浩気に呼吸せる霊(きよ)き生活を経験せんか。この霊気を離れたる妖霧魔塵の萬丈【非常に高く、あるいは深く】なる大気の生息は実に耐えざる所なり。吾人は謂(おも)ふ、如来の慈愛なる親縁を離れて肉のみの生活はいかに長き壽(いのち)も欲せざる所なり。

 親縁(しんねん)とは如来の無限なる慈愛より衆生の感情等の内容に加被し給ふ勢力(ちから)にして、人の方よりは如来を深く愛楽(あいぎょう)し奉る信念に相応し融合する本質なり。如来は大慈愛の親縁を以て衆生に加へ給ひ人は愛楽をもって之を念持し、衆生佛を憶念すれば佛も亦、衆生を憶念し給ふ。如来を愛し上(たてまつ)れば如来も亦、衆生を愛寵(あいちょう)し給う。相愛親和の相互する所に不可思議的神秘の融合を感ず。

 吾人が感情の信念に霊的愛慕し上(たてまつ)る如来の恩容を観じ奉れば、いと麗しく妙に、いと勝れて美に、威厳殊に魏(たか)く相好独(ひと)り勝れさせ給ひて、信念のある所に表現し給うは何ぞや。如来の勝応身が相好円満にしていと美しきを示し給うは、衆生に対する大なる愛の権化にましまさずや。是、大慈悲の表現にましまさずや。之に対する衆生の宗教衝動は霊的憧憬とし、神的恋愛とし之を葵仰(きこう)し之を憶念して止(や)まず。斯(か)かるを感情の信念とす。

 如来は唯、無縁の慈悲を以て遍(あまね)く法界に充満し、而して衆生の精神の内容なる心情に融合し、而して神秘的に融合し、神人合一の妙機に歓天喜地の感応を人の心情に与え給ひて、世に吹き荒(すさ)む八風の為にも心を動揺せず、いかなる境遇(ばあい)に臨んでも泰然として心廣く體肝(たいゆたか)に自然に幸福ならしむるは、人の情操に与えらるる恩寵なり。【山崎弁栄(やまざきべんねい)著・光明の生活】 


 ☆ もしこの文章から「佛心=慈愛の心」を感じ取れたなら、keisukeさんには“適書”と言えるかもしれません。

投稿日時 - 2012-05-26 10:48:53

ANo.9

哲学は、生物学や物理学といった個別の対象について
の知見の間を埋め、世界観や価値観といった総合的な
認識を深めます。
それは、あなたが生きている上で感じている“意識”を
より鮮明なものとし、意志の充足を刹那的・一過性の
衝動的な快楽から、遠い先や広い対象による幸福感
へと深めます。

さらに、その意志の起点となる“自己”いついても、
認識の深まりによって、分業化による社会性の発達に
応じた社会生命性の自覚化により、自己の生の延長
としての他我化(自律的社会行動=助け合いとしての
労働=愛によって生きる)が可能になり、自己の肉体を
超越した意志により、肉体的限界によらず、永遠の未来、
無限の宇宙において(「他」への信頼の限りにおいて)、
あらかじめ意志は充たされる事が可能になる。

投稿日時 - 2012-05-26 07:31:44

ANo.8

哲学を勉強して、それで死への恐怖が緩和
されるんですか。
確かに、プラトンはそんなことを言っていま
したが。
そもそも死への恐怖があるから哲学が出来た
のかも知れないし。
で、哲学を勉強したら死への恐怖が緩和
されるとしましょう。

哲学を勉強しても、それが血肉にならないと
本当に解ったとは言えません。
血肉とするのは、生半可なことでは出来ません。
本をいくら読んでも無理じゃないですかね。
私もだいぶ読みましたが、理屈が面白いと
いうレベルに止まっています。

簡単に血肉にするには宗教が一番です。
心の底から信仰できるようになれば、死への
恐怖は緩和されるはずです。
その代わり副作用も沢山ありますが。

かつて武士は、子供の頃から真夜中に刑場へ一人で
行き、さらされている首を持ち帰るとか、
墓から掘り起こして、死体を斬るとかの鍛錬をして
死への恐怖を麻痺させてきました。
警察官の知人がいるのですが、死にはしょっちゅう
向き合うそうです。
医者や警察官になる、という方法もあるかも知れませんね。
私だったら傭兵を志願します。

死体の写真やビデオを繰り返し観て、麻痺させる
という方法もあるそうです。

あと、これは私が実際に試した方法ですが。
夜、一人で床につきます。
仰向けになって両手をお腹に置きます。
そして、自己暗示をかけます。
「俺は死ぬ、俺は死ぬ」
そうすると本当にその気になってきます。
私は怖いので一回しかやっていませんが
疑似体験ということで意味があるかも
しれません。
 
  
 

投稿日時 - 2012-05-26 07:04:40

体は死ぬことを怖がっていないようです。体の哲学には死の恐怖はないのかと思っています。

投稿日時 - 2012-05-26 01:31:51

ANo.6

ちょっとだけお邪魔します。σ(・・*)はジョークみたいなもんですから、

本気で取らないように^^; 元代数学の非常勤講師です。

「死」が生きていくことへの恐怖に変わるのなら、それは多分

大きな間違いだと思います。

星 新一 が 面白いこと書いています。

『もしかしたら自分だけは死なないのではないかという恐怖』

σ(・・*)の知るうちに、これ以上の恐怖はないように思っています。

今を生きることは、つまりは死への旅のはず。

その旅を如何に有用に進めるか? そういうことを考える方が、

あなたにとっても、また他人様にとっても、有意義ではないでしょうか。


σ(・・*)たちのような数学屋は、300年かけても解けない問題を

バトンを渡すように、後世に残していくことで、いずれ解ける!と信じます。

σ(・・*)は本物の武士の子孫ですが、それこそ「武士道」なのかもしれません。

「解くのは自分でなくてもいい。後世にヒントが残ればそれでいい」

そう考えれば、ね。


哲学の本はワカリマセン。が、より好い生き方となると

「般若心経」を、薦めます。 漢文ですからね、意味は分かりますし。

変な邪教と違いますから、仏教徒じゃなくても、充分に役に立ちうるかと。


最後に、うちの母親の一言で。

「人間は生まれた瞬間から、老化現象が始まるのよ」

(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)

投稿日時 - 2012-05-26 01:18:52

ANo.5

「死」に直接取り憑かれるのはお勧めできません。
死は、存在とは何か、時間とは何か、自分とは何かという問い全てに繋がっています。
そういった正攻法の哲学からあなた自身が答えを導くことをお勧めします。


私は、「死」ってのは、生きている人間の中にしか存在しないってことに気づいたような気がしてます。

結局、動物や他人の死を見て感じて、自分の死に置き換えてしまう愚行なんですよ。

投稿日時 - 2012-05-26 00:15:25

ANo.4

1)哲学と死の恐怖はどのような関係にあるのでしょうか。
  
  ストア学派はギリシャの哲学の一派ですが
  徳と平静を重んじています
  この学派は理性が一番重要だと考えて
  あらゆる感情から解放された状態を魂の安定とし、
  最善の状態として希求します
  当然、死に際しての恐怖や不安も克服の対象と考えます

  ストア学派ほど死を間近に見て死と対峙した哲学は無いです
  理性重視ですから、宗教的な慰めでなく、あくまで哲学として
  不可避の死を正面から見据え、それを粛然と受容する道を選びました
  ストア学派は死を人間の運命であり自然の摂理として受け止めた
  そして死の恐怖に打ち勝つことが死に対する克服と考えていた
  この学派は死の恐怖に打ち勝つ理性的な考え方や方法を説いています

  この哲学は武士道のような感じであり強い人でないと実践できないと思います
  死を恐れないようにするために常に死を思えとか説いてます
  ちなみに、ストイックという言葉がありますがストア学派から来ています
  日々思考の訓練をして心を整えるという感じですかね

投稿日時 - 2012-05-25 23:43:19

お礼

ご回答ありがとうございました。
参考になりました。

投稿日時 - 2012-05-26 09:08:36

ANo.3

哲学とは直接関係ないのですが、死の恐怖ときいて、思い当たることがありました。

http://ds-hrdaya.com/blog/?p=1921

こちらのインド占星術師の先生のブログの記事です。

8室に土星を持っている人が、死の恐怖をもっていると書かれています。
(12室のところに明記されています)

あなたの占星チャート8室に土星があるかどうかは不明ですが、
もしそうだったら、それはあなたの宿命であり、克服しなければいけないと焦りすぎるよりも、
むしろそういう自分を開き直って受け止めてあげていいと思います。


わたしは逆に12室に土星があります。

12室のところを読めばわかりますが、わたしはむしろ、生への恐怖、厭生感がつよく
できれば隠者のように、浮き世から離れ静かにくらしたいと子供のころから思っています。

そんな自分ではいけない、なんとか克服しなければ、と思っていたし、
周囲からもあれこれ言われたものです。

12室土星のことを知り、
また人にはそれぞれ別の宿命が与えられており、それに沿うことで幸せになれると聞き、
なーんだそれでよかったんだ、と楽になりました。


現代の人間社会で、人々に認められやすいタイプというのはありますが、
そんな人間視点の都合とは無関係に、
私たちはそれぞれ、違う役割、違うキャラ、違う宿命を与えられて生きています。

その宿命に、よりそうように生きることで、本人なりに落ち着いて、幸せになれるようですよ。

投稿日時 - 2012-05-25 22:35:14

お礼

ご回答ありがとうございます。
申し訳ございませんが、私のさせていただいた質問への回答ではないように感じました。

投稿日時 - 2012-05-25 22:46:48

「死の哲学」で検索するとたくさん出てきますよ。

確かに、死は恐怖の対象です。怖いものを怖くなくするには、そのものの正体を突き詰めていくという方法があることは確かです。
そこで
死とは何か?これを形而上学的に考え抜いて、それで死の恐怖がなくなる場合があるのだろうか?と私も考えてみました。

これは真であるのか、そうでないのか。

というより、あなたは、なぜ死がそれほど怖いのか?そういう観点からかんがえていかれたほうがより効率的かもしれない、とも思いました。もちろん、これも哲学になりますが、そうならないかもしれません。
死がわけのわからないものだから怖い?
ちょっと違うような気もします。
それ以外にもたくさん答えはありそうです。
私が怖いのは、いちに死の際の苦しみです。そしてこの世界との別れの悲しみを味わわねばならないという怖さです。それらは単に生理的なもの、感情的なもの、そしてものを失う、生きる楽しみが失われるという損得勘定というか、ちょっと情けない気持ちです。

生理的なものはどうしようもありませんが、ひょっとすると回避できるかもしれないという気持ちもあります。
この世界との別れ、これを分析すれば、自分がいなくなったあと、自分が生者(家族を含めて)から忘れられてしまうというやりきれない悲しさ、恐怖のようなものがあるような気がします。自身の喪失。
これは何なのか?回避はできないのか?
私は過去の人間たちのこのような気持ちが自分が死んだ後も自分を思い出させるように大きな墓を作らせたり、永遠を象徴する芸術の創造に励んだりしたのではないか、と思ったりしています。

くだらないことを書いてしまいました。
まったく回答にはなっていないようです。
死の哲学は有用だと思います。頑張って考えていってください。そして死の恐怖を克服してください。

投稿日時 - 2012-05-25 22:12:18

お礼

ご回答ありがとうございました。

「死とは何か?これを形而上学的に考え抜いて、それで死の恐怖がなくなる場合があるのだろうか?」
まさにその点がきになり、哲学者の実例などに詳しい方がいないかなあと思ってこのような質問をさせていただきました。

私の死の恐怖は身近な人や社会とのわかれ・肉体的苦痛などではなく
死がとにかく不条理で不可知であることによるようです。
死が怖いのは世界が怖いということでもいま生きていることが怖いということでもあるようにおもいます。

投稿日時 - 2012-05-25 22:45:47

ANo.1

哲学は、人が何のためにどう生きるのかを研究する学問であり、死の恐怖を克服するための学問ではないと思います。
死の恐怖は、生物が生きるために必要なものであり、無理に、克服してはいけないものではないでしょうか。

投稿日時 - 2012-05-25 21:12:36

お礼

ご回答ありがとうございました。
「哲学は、人が何のためにどう生きるのかを研究する学問であり、死の恐怖を克服するための学問ではない」ものなのでしょうか。
克服するための学問であるかないはさておき、克服に役立つならば取り組みたいです。

生きるために必要なものだから克服してはいけないというのは、なぜだかよくわかりません。

投稿日時 - 2012-05-25 22:41:02

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