こんにちはゲストさん。会員登録(無料)して質問・回答してみよう!

締切り済みの質問

アルケーの神は偉大なり

 
宇宙の法則、万物の根源であるアルケーの神を除いて神は存在しない

アルケーの神は唯一絶対である、
アルケーの神は全知全能である、
アルケーの神は永遠無限である、
アルケーの神は永遠不変である、
アルケーの神は永遠不滅である、
アルケーの神は偉大である

これを否定できる者などおるまい。
 

投稿日時 - 2011-04-15 22:02:15

QNo.6670852

暇なときに回答ください

このQ&Aは役に立ちましたか?

3人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

回答(55)

アルケー歩けェ~私は元気ヰ~…
歩くの大好きヰ~どんどんゆこ~

投稿日時 - 2011-07-14 14:52:20

「モノ」と「コト」との齟齬の不在証明が可能になっているのでしょうか?

投稿日時 - 2011-04-24 04:22:16

ANo.53

>>baka-hage さん、あなたはアルケーの神に何か不満があるんですか。
>>アルケーの神は神ではないとか、アルケーの神は存在してはならんとか、そーゆー不満があるのですか。
>>アルケーの神に不満があるとしたら、どこに不満があるのですか。
 不満ですね。もっと正確に言えば「Hitonomitiさんの語っているアルケーの神」に不満があります。

 人の道は「アルケーの神つまり宇宙の法則を探求・追求してその法則にしたがって生きていくという考え」ですよね?
 先の回答の中にも書きましたが、人の道においては宇宙の法則に従い
命題1「アルケーの神は唯一感じることが出来る神である」
命題2「アルケーの神以外の神は感じることが出来ない」
という二つの命題を提出していますが、私は人の道でおっしゃるところの命題2は間違いであると述べました。根拠は回答No.50に記したとおりですが(詳しくは「宗教の本質」「宗教の本質十カ条」「善悪の問答について」をご参照下さい)、すると命題1も間違いという事になります。
 では、人の道ではどのな根拠を持って命題1、命題2にたどり着いたのでしょうか?まったく根拠が示されていません。

 また、「根拠はアルケーの神つまり宇宙の法則にしたがって導かれたのだ。否定できまい。」とおっしゃるのであれば、論理学者バートランドラッセルがいう「自分で証明せず、懐疑主義者に反証をさせようとする」という宗教がよくやる間違いと同じですよ指摘したいわけですよ。しかし、その手法が人の道の取る手法であるのなら、どのように導き出されたのでしょうか??

 そして、皆さんが何度も質問されているのに、その宇宙の法則そのものが「どのようなもので」「どのように働いているのか」というようなことは明らかにしてくださらない。もしかしたら、人の道は「アルケーの神がいる」「宇宙の法則がある」「宇宙の根源がある」という事は分かっていても、それがどのようなものであるかは分からないという「不可知論」の立場なのですか??

 こういったことにお答えいただけないのが不満です。
 まぁ、一言で言えばkunobouさんの指摘されているように、根拠がないってことが不満ですね。


>>それとも「人の道」が神を語ることに不満があるのですか。
 この質問は、さきの回答の中の「無神論者だと思ってお話をすると大体の人が結局は汎神論か理神論者なんですよね。」ということについてかと思いますが、私も無神論についても書籍等々をあたって調べてはいるんですが、結局はどの書籍も理神論か汎神論なんですよね。例えばリチャード・ドーキンス。彼は『利己的な遺伝子』の頃は無神論者っぽくて、ついにこういう無神論者が来たかと思ったんですが、『神は妄想である』の頃になると汎神論ぽい発言が目立ち、一年くらい前の英字版『ニューズウィーク』のなかでは理神論ぽくなってまして。「何だ無神論者も結局また理神論か」と思っているときに、「人の道」なる無神論を説く人が現れたかと思ったので、がちがちの無神論を期待していたんですがやっぱり汎神論だったという事で、「また無神論じゃなかった」と残念と勝手に思っただけですよ。だから、「人の道」が神を語ることには何の不満もありません。私の勘違いが生んだ勝手な期待はずれです。



>>あなたには神や仏があるんですか。
 私には神や仏はありませんよ。自分の中に神も仏もない凡夫です。

>>あなたは南無阿弥陀仏と唱えておるけど阿弥陀様に唱えておるんではないのですか。
 私がお念仏を唱えている??それはいつのことですか?私はお念仏を唱えてなどいませんし、お念仏を唱えようなどという殊勝なお心は私のどこを探してもありませんよ。

>>浄土真宗のお坊さんは阿弥陀様を信じておらんのですか。
 浄土真宗のお坊さんは阿弥陀様を信じていませんよ。私達に阿弥陀様を信じるなんていう殊勝な心は一つもありません。

>>阿弥陀様は神でも仏でもないんですか。
 阿弥陀様は仏様ですよ。



>>神や仏は世の中に数えきれん程あるけど、アルケーの神だけに不満があるのですか。
>>それとも阿弥陀様を除いてそれ以外の神にも不満があるのですか。
 いいえ、私は世界中の宗教のすべての立場を知りたいと思って、日夜本と格闘しています。こんな楽しいことに、不満の持ちようもありません。

急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀仏

投稿日時 - 2011-04-23 10:00:19

ANo.52

では今の世界はすでに完璧であり、何も問題はないということですね。

人と人の社会は「地獄」に関わらず、宇宙の法則に反するような混乱を生じさせることは不可能であり、完璧である、と。

投稿日時 - 2011-04-23 05:10:19

ANo.51

 
質問者さんに、過去に何度も指摘したが、「妄想」と「論理的思考」の違いが分かっていない。

論理的思考とは、一般的に事実と認知されている事柄を根拠として主張する物である。
一方「妄想」とは、根拠を用いず主張する場合、例えば主張だけを言う場合である。
以前にも口にしていた「ビッブパンはギャグである。」は主張だけで根拠が添付されていないので、
「妄想」の類になってしまう。

また、一般に事実と認知されいない事実を根拠として主張する場合も「妄想」と言われても仕方がない。

「宇宙が無限に続いている」も同様で、根拠の添付されていない主張だから、「妄想」となってしまう。
宇宙の端が膨張していることが観察されているから宇宙は膨張していると言うなら、観察された事実を根拠にしているので、論理的な思考と言える。

根拠なしに地球外に人間のような生命体の存在を主張するのも同じである。


此処で、かつてないほど「妄想」と「論理的思考」の違いを分かりやすく書いた。
今後は、まず、一般に認知された、明らかな事実を元に主張すると良いだろう。
これが、論理思考の第一歩になる。妄想論から脱することの出来る一歩となる。

学習して、前進することを希望する。
 

投稿日時 - 2011-04-23 03:44:14

ANo.50

 アルケーの神は唯一絶対であり、無限であり、永遠であり、永遠だからこそ不滅である。と、しますが全知全能だとか偉大であるとかは小さな人間の“気持ち”なので定義から外します。

 この定義を受け入れる事が出来る“凡人=普通の人々”の心情はどちらかと云えば「感じる」と言うよりも「信じる」という表現の方が適当かと思います。この定義を「感じる」事が出来るのは“聖人=悟りの世界に入れた人々”。であると言いたい。

 前にも言いましたが宗教には祈りが必要。
 祈りは信じるものがあってこそ、本気で祈れます。
 そして真に祈り続けることで、感じる心が育ちます。

 信じて祈り、そして感じようとする。
 これが信仰心というもの。

 人の道さんは祈り続けたうえで掴んだ“感じ”ではなさそうなので、信じているという表現の方が正確かと思います。
 ではなぜ、信じるのではなく感じるのだと主張してしまうのでしょう。 

 それは普通の人々が持っている“良心”、神や仏の心と同質の“良心”を重要視しており、だからこそこの心持を一足飛びに「万物の原理」に結び付けてしまい、万物の原理=信じる、神の心=感じる、が、万物の原理=感じる、とすり替わってしまうのです。

 釈尊は「本来、善とか悪とか、そういうものはない」と云ったそうです。
 これを哲学っぽく言い換えれば、「全体と個」あるいは「生産と破壊」といった意味を含ませることが可能かと思いますが、こんなイメージでこの世の現象を捉えようとすれば、個々の物質の集合である“宇宙”は「善」の象徴である神の創造ではなく、宇宙そのもの中に人間の想定する「神」も「悪魔」も存在すのだと、思えるのです。「全体」と「個」。「誕生」と「消滅」といったイメージです。

 ちょっと脱線しましたが、人の道さんが“信じる”を“感じる”と言い換えてしまうのは、「良心=好ましい心(やさしさとか)」を重視しているからかと思います。
 この心こそが宗教の源泉でなければならないのに、従来の旧態依然とした「宗教」は御利益とかに心を奪われた「漬かった信仰」になっていると。

 人の道さんも希求するように、私もこれからの宗教は、好ましい心「良心(他者を思う気持ちとか)」を基礎に置くことを一人一人が自覚する必要があると思います。
 自分の中にある「良心」は神や仏のこころの反映なのだと受け止めて、この心を“勇気を以て信じる”。これが大事かと思います。

 

 

 

投稿日時 - 2011-04-23 02:57:02

ANo.49

 「人の道」の捉え方に変化があったというよりも、神殿を覆う濃い霧が消えかかってきた、と云ったような感じです。

 回答者さんたちは気づいていないようですが、人の道さんの立場をたとえて言うと、古臭い旧道を通ることに疑問を抱き、バイパスを使って一足飛びに目的地へたどり着いてしまった、ということでしょう。

 その目的地で見たものを、これが「アルケー」だと思ったのです。
 その「アルケー」はたぶん物理的な“存在”だったのでしょう。
 この物理的な“存在”を人の道さんは「アルケー」と見たわけです。
 このような受け止め方をすれば、物理屋さんでもある程度、人の道さんを理解できるのではないでしょうか。

 人の道さんは旧態依然とした「情」的世界の負の部分の影響の大きさを心配し、そしてそのことに気づかない善良な市民の多いことが、腹立たしいのだと思います。
 
 だからこうして「人の道」を問いかけているのです。
 この人の道さんの着点は非常に新鮮なのですが、いかんせん、手持ちの大きな風呂敷は古く、だから穴だらけ。
 そして、そのことに気付かない回答者さんたちは、その陥穽に嵌まっているのです。
 私には、それがわかるので穴に落ちないよう、大きな風呂敷に摑まっています。

 また人の道さんは「アルケー」を物理的存在とのみ受け止めている、と、決めつけているわけではないことを付け加えておきます。検討中です。

 哲学には帰納法とか何とか、とか考え方の「方法」があるようなので「アルケー」をかりに正しいとしてみて、思索した場合、人の道さんを論破する根拠を発見できるのだろうかと、思いついたりしましたが、・・・・・私の頭では無理か。

 

 
 

投稿日時 - 2011-04-22 12:57:35

ANo.48

 

>>その神や仏とは、天国、地獄、極楽浄土を語る神や仏、つまり信じるための神や仏をゆーております。
 ほんなら、浄土真宗の阿弥陀さんのことやないな。私達阿弥陀さん信じてないからな。


>>信じるための神や仏とは単に想像の産物であり、なんぼでも必要なだけ想像し作ることの出来る神や仏のこと、感じることのできぬもののこと。
 これについては「宗教の本質」「宗教の本質十カ条」「善悪の問答について」のなかでもお話していますが、神や仏は人間の創造の産物出ることは否定しません。しかし、感じることが出来ないというのは間違いです。というより、進化の過程で人間がみにつけた見えないもの(獲物や捕食者)を感じる能力「行為者の過剰検出」が、霊や神の概念の前提にあると考えられます。それは、神や霊という概念がすでに存在している現在でも同じで、神や霊の概念があるから「感じる」のではなく、「感じる」という事が前提にあって霊や神であると解釈しているに過ぎません。つまり、神や霊といった概念は行為者の過剰検出という人間誰もが持っている能力に依存または寄生する形で存在すると考えられます。(この「行為者の過剰検出」がどのように生じるかについては「善悪の問答について」の中で詳しく述べています。)
 ですから、感じることが出来ないというのは間違いです。


>>「人の道」は神と呼ぶに値するものはこのアルケー以外には在り得ないと考え、アルケーの神と呼ぶのです。
 人の道は無神論だと思っていたのに、汎神論だったわけですね。残念です。無神論者だと思ってお話をすると大体の人が結局は汎神論か理神論者なんですよね。ドーキンスに然り、人の道然り。


>>アルケーの神は万物の根源、宇宙の法則なので想像の産物ではありません。
>>つまり信じるものではなく感じることのできるもの、我々のまわりに四六時中あるもの。
>>アルケーには天国や地獄、極楽浄土はありません。
>>天国や地獄、極楽浄土は宇宙の法則に従うものではないからです。

 私は仏教学のほかに人間の認知構造・心理構造を専門的に勉強してきました。天国や地獄・または極楽浄土という概念は人間の進化の過程で得た認知作用や心的作用によって生み出されたと考えています。しかし、天国や地獄・極楽浄土は宇宙の法則にしたがうものではないという。私は人間の認知的作用・心的作用も脳が生み出していると考えています。つまり、天国・地獄・極楽浄土という概念を生み出した脳の働きは、宇宙の法則には含まれないという事ですか??


>>我々のまわりのものは全て宇宙の法則に従い動いているのであるから、常にアルケーの神を感じていることは明らかです。

 馬鹿なことを言わないで下さい。人の道でも「ニュートンの万有引力の法則」について方っておられましたが、『プリンキピア』くらいは読んだことありますよね?この中で、すべての人は引力をかんじているのだから引力があるのは明らかですなんて姿勢はまったくありませんよ。では、その引力とはどのようなものでどのように作用しているかを、当時はまだ現代物理学のような微分積分法を使われておらず幾何学的は方法で証明しておられます。しかし人の道は「証明がない」。
 ここで言われる宇宙の法則はどのようなもので、どのように働き、何故普遍で、何ゆえ全知なのか?などなど、まったく証明がなされていない。まずアルケーの神を「感じる」とはどのような状態をおっしゃっているのですか??その感じた中から「尻尾はないと考えてよい」とお考えになったのならば何を感じたのですか??
 それとも、人の道は宇宙の法則を証明していくのではなく、宇宙の法則があることは知っていても我々には理解することが出来ないという不可知論の立場ですか??

>>以上ゆーたことを考えれば、あなたの問いへの答えは自ずと導かれるはずです。
 証明を提出してもいないのに「これを否定できる者などおるまい。」なんてまるで宗教みたいですよ。論理学者バートランド・ラッセルは「立証責任」という観点から、『Russell,Is there a God?』の中で

正統派(宗教家)の多くは(中略)懐疑主義者がその反証することが務めであるかのごとく語る。

と述べています。自明の事実であるという所に胡坐をかいてな証明せずに、懐疑主義者に反証させようとして「無理だろう」と攻める手法ほんと宗教みたい。

 急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀仏

投稿日時 - 2011-04-22 08:15:33

お礼

 
baka-hage さん、あなたはアルケーの神に何か不満があるんですか。
アルケーの神は神ではないとか、アルケーの神は存在してはならんとか、そーゆー不満があるのですか。
アルケーの神に不満があるとしたら、どこに不満があるのですか。
それとも「人の道」が神を語ることに不満があるのですか。

あなたには神や仏があるんですか。
あなたは南無阿弥陀仏と唱えておるけど阿弥陀様に唱えておるんではないのですか。
浄土真宗のお坊さんは阿弥陀様を信じておらんのですか。
阿弥陀様は神でも仏でもないんですか。

神や仏は世の中に数えきれん程あるけど、アルケーの神だけに不満があるのですか。
それとも阿弥陀様を除いてそれ以外の神にも不満があるのですか。
 

投稿日時 - 2011-04-22 12:00:49

ANo.47

>宇宙の法則に従い地上に楽園を造ろーとする者と、宇宙の法則に逆らいその楽園を破壊しよーとする者がおったら争いが起こるであろーな。
>そのときどちらが正しいんや。
>ちゃんとその答えを持っておるんか。
>答えもないのに勝手な断定をしてよいのか、どーや。

上記に対しては、すでに答えています。
私の価値判断はカントの命題であり、そこで善悪を判断するとはっきりオウムの問題の時に書いています。その時もあなたは、私の問いかけに対して、何も答えていません。

「宇宙の法則に従い地上に楽園を造ろーとする者」vs「宇宙の法則に逆らいその楽園を破壊しよーとする者」は、独我論者が互いに言いあっているのであれば、互いに相手を悪というだけです。

あなたこそ、
(1)これを極端に推し進めると、「人の道」=アルケーの神を感じないのは、人間ではないということになります。
(2)「宇宙の法則に従い地上に楽園を造る」のに邪魔になるから、殺してしまえということになります。
(3)私が前に人の道さんは「オーム」の本名松本某と五十歩百歩ではないかと言ったのは、まさに上記のようなことです。(私の発言に番号をつけました)

という私の発言に何の答えもせずに、勝手な断定をしているのです。
しかも
>宇宙の法則に従い地上に楽園を造ろーとする者と、宇宙の法則に逆らいその楽園を破壊しよーとする者がおったら争いが起こるであろーな。

と、またまた上記の(2)を全肯定するようなことを、臆面もなく書いています。
あなたは本当に、(3)を認めてしまうのですか????

投稿日時 - 2011-04-22 00:02:50

ANo.46

質問者は

>人間は天国や地獄を作り出すことは出来ない。

 と言っておきながら、

>アルケーの神にとって天国や地獄はゴミである。
>アルケーの神にとって宇宙の法則に従わないものは何であろーと全てゴミにしか過ぎん。 

 などと、「ゴミとして存在している」と言っているように思います。存在しないのならゴミですらないからね。

Q1.宇宙の法則に従わない人間は、ゴミである「地獄」などを実際に作り出すことが出来ると言うことでしょうか。


>問うのはえーが、たまには答えてみいゆーとるんや。

 ブロックする前にそう言ってくれよ、ブロックされたら答えられねーだろ!w


Q2.このカテでは質問者が答え、回答者が質問するんじゃなかったっけ


Q3.「アルケーの神を感じる」と言っていますが、何に対して、どのように感じるのですか?


>あんたはアルケーの神は偉大であると感じておるが、だから証明はできておらんのや。

 私が「アルケーの神は偉大であると感じておるが、偉大ではないと信じよーとしている」ということを証明してみてください。

投稿日時 - 2011-04-21 23:34:56

お礼

 
>Q1.宇宙の法則に従わない人間は、ゴミである「地獄」などを実際に作り出すことが出来ると言うことでしょうか。
ゴミは存在しない。
ゴミは存在してもしょーもないものであるからアルケーの神が全部掃除したんでもーない。
人間がゴミを作ろーとしてもそれはアルケーの神が許さん。
だからゴミは存在しないし作ることも出来ん。

> Q2.このカテでは質問者が答え、回答者が質問するんじゃなかったっけ
だから質問でき、こーやって回答が返ってくるんであろーが、有難いと思え。

>Q3.「アルケーの神を感じる」と言っていますが、何に対して、どのように感じるのですか?
地面に立っているとき既にアルケーの神を感じておる。
地面が磁石のよーに我々を吸い付けておるから、我々は地面に立って歩くことが出来るのである。
これはアルケーの神がそーさせておるんや。
それでもなおアルケーの神を感じないと言えるか、どーや。
 

投稿日時 - 2011-04-22 07:00:32

ANo.45

人の道さん
私の次の発言については反論が全くないので
同意なさっていると、とってよろしいのですね。

>これを極端に推し進めると、「人の道」=アルケーの神を感じないのは、人間ではないということになります。
>「宇宙の法則に従い地上に楽園を造る」のに邪魔になるから、殺してしまえということになります。

>私が前に人の道さんは「オーム」の本名松本某と五十歩百歩ではないかと言ったのは、まさに上記のようなことです。

投稿日時 - 2011-04-21 22:28:39

補足

 
漬かろーとする者と漬かろーとしないものが殺し合いを始めたらどっちが悪い。
 

投稿日時 - 2011-04-21 23:32:12

お礼

  
宇宙の法則に従い地上に楽園を造ろーとする者と、宇宙の法則に逆らいその楽園を破壊しよーとする者がおったら争いが起こるであろーな。
そのときどちらが正しいんや。
ちゃんとその答えを持っておるんか。
答えもないのに勝手な断定をしてよいのか、どーや。
 

 

投稿日時 - 2011-04-21 23:10:47

ANo.44

 Hitonomitiさんはじめまして。私は以前g3452sgpさんという方とお話したことがありますが、両者は「人の道」という名のお考えをお持ちのようですが、意見が食い違っています。

第一点「漬かった人と語り合う方法」において、Hitonomitiさんは

もし漬かった人が神を信じるかと訊いたなら、神を信じているのではなく神を感じていると答えればよい。

と述べておられます。また、こちらの質問においても、

アルケーの神は信じる神ではなく、感じる神である。

と述べられております。つまり、Hitonomitiさんの言う「人の道」においては、アルケーの神は感じる神であるとのことです。

 しかし、以前お話をさせていただいたg3452sgpさんのおっしゃる「人の道」おいては「感じる」という事の語用について「善と悪についての問答」http://okwave.jp/qa/q6100728.htmlにおいて、

えーか、よー聞け。
「感じた」、「感じられた」ちゅー言い回しは宗教漬になった者が使うもんやろが。
「人の道」を歩む人間はそーゆー言い方はせんのや。

と述べておられます。これは一体どういう事なのでしょうか??「感じる」ということについて、前者の語用と、後者の語用は矛盾しています。g3452sgpさんのおっしゃる「人の道」と同じであれば、「感じる」という言い回しは宗教漬けになっている者が使うもので、人に道を歩むものは「感じる」などという言い方はしないはずです。



 第二に、今回の質問において、Hitonomitiさんは

アルケーの神がどのような姿形をしているかは誰も見たものはいない。

と述べておられます。つまり、アルケーの神は視覚的には取られることができないようです。
しかし、g3452sgpさんは「善悪についての問答」において

神や仏、天国、地獄があると感じたと言う者がおったら、それはその人の五感で感じたちゅーんやのーて単にその人の願い、神や仏、天国、地獄があってほしいという願いを述べておるに過ぎんのや。
だからこの場合は感じる感じないではのーて、「願っとるもんを願っとると言い、願っとらんもんを願っとらんと言う」、このように言わなあかん。

とおっしゃって、「感じる」という語用は人の道においては「五感」においてのみのことに限定した使用と定義されております。Hitonomitiさんのおっしゃる「感じる」とは、五感のうち「視覚」以外の「味覚」「聴覚」「触覚」「嗅覚」のうち、どれで感じておられるのでしょうか??また、それ以外であれば感じているではなく「願っているものを願っている」といわねばなりません。そして、アルケーの神の何を感じているのでしょうか??


 このように、g3452sgpさんさんのおっしゃる「人の道」とHitonomitiさんのおっしゃる「人の道」のでは、「感じる」ということに対して、相反する意見を述べ合っている。「人の道」にも派閥があるようだ。
 急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀仏

投稿日時 - 2011-04-21 11:18:28

お礼

 
baka-hage さん、今日は。
まず「人の道」の教えは、以前も今も全く変わっていないとゆーておきます。
「人の道」に派閥などはありません。
「人の道」は、神や仏を語ってはならんとゆーております。
その神や仏とは、天国、地獄、極楽浄土を語る神や仏、つまり信じるための神や仏をゆーております。
信じるための神や仏とは単に想像の産物であり、なんぼでも必要なだけ想像し作ることの出来る神や仏のこと、感じることのできぬもののこと。
このよーな、神や仏は語ってはならず、これは今も全く変わらぬことであります。
では感じることの出来る神についてはどーか。
これは万物の根源、宇宙の法則であるアルケーの神を意味します。
アルケーは古代ギリシャ以来、多くの哲学者が万物の根源と考えたものです。
「人の道」は神と呼ぶに値するものはこのアルケー以外には在り得ないと考え、アルケーの神と呼ぶのです。
アルケーの神は万物の根源、宇宙の法則なので想像の産物ではありません。
つまり信じるものではなく感じることのできるもの、我々のまわりに四六時中あるもの。
アルケーには天国や地獄、極楽浄土はありません。
天国や地獄、極楽浄土は宇宙の法則に従うものではないからです。
我々のまわりのものは全て宇宙の法則に従い動いているのであるから、常にアルケーの神を感じていることは明らかです。
以上ゆーたことを考えれば、あなたの問いへの答えは自ずと導かれるはずです。
 

投稿日時 - 2011-04-21 15:36:08

ANo.43

>アルケーの神は偉大である

 いいえ。

>これを否定できる者などおるまい。

 を否定して見せました。証明して見せました。ここにいますが?
 

投稿日時 - 2011-04-21 02:35:49

お礼

 
えーか、 
あんたはアルケーの神は偉大であると感じておるが、偉大ではないと信じよーとしているのである。
だから証明はできておらんのや。
 

投稿日時 - 2011-04-21 09:15:50

ANo.42

 孤軍奮闘は疲れます。
 ほんとに、ほんとにご苦労さん。

 「人の道」の心を“正確に分かった”わけではありませんが今回は、支えてみようと思います。

 人の道さんは危険人物?・・・・・いや、疲れるというくらいだから、“心配”は御無用。
 とても“良い人”かと思います。

 哲学は言葉が必須。宗教は情が必須。

 ここの参加者は「哲学」故に“情”の世界をおろそかにしがち。
 でも、「理」も「情」も同時進行させてこそ、まっすぐに進めるのではないでしょうか。

 偏りを是正するため、アルケーの神『アルチュー』様を情的目線で見ることも必要なのではと思い、
 そこでというか、だからというか“信じる”と“感じる”の違いを考えてみました。

 “信じる”は理屈的っぽく、“感じる”は感覚っぽいと思います。
 この観点に立ってみれば、人の道さんの質問文は理屈っぽい。でもそれを“感じたのだ”と言っていますから、これはたぶん宗教心。

 宗教は祈りが不可欠。祈りを伴わない宗教なんてありません。
 もっとも人の道さんには、俺は祈ってなんかいない、と言われそうですが。

 『信じて、念じ、そして感じる』

 信じるからこそ、祈り、祈るからこそ、感じるのです。
 この、感じるという事こそが“信仰”。宗教の目指すところ。

 まあ、人の道さんは祈ってはいないつもりの様ですが、感じるという事は無意識にも祈りという行為をしているのではないでしょうか。ささやかなと云いたくなるような祈りを。

 イマイチ言い足りなく思いますが頭が弱いので、とりあえずここまで。

 この“感じ”伝わるかなぁ。

 

  

投稿日時 - 2011-04-21 01:44:12

補足

 
この回答を見ると、おそらく「人の道」に対する捉え方に変化があったのだろーと察します。
アルケーの神の捉え方が変化したのではないのか。
それはどー変化したのか、それはなぜ変化したのか、その辺りの状況を詳しく説明してもらえんだろーか。
そのことが「人の道」が外界と語り合う上において大いに参考になるかも知れないから。
 

投稿日時 - 2011-04-21 18:58:14

お礼

 
アルケーの神を感じると言えば、共に「人の道」を歩ゆもーと言えるのであるが。
 

投稿日時 - 2011-04-21 09:19:48

ANo.41

話を以前に戻してしまいますが、

人の道さんは、自分に当てはまることは当然にも他人にも当てはまると考えていますよね。
これは独我論=他人も全て自分と同じように考え、感じるという思考です。したがってあなたの言う哲学的対話も、他人との対話ではなく、対話の形をしたモノローグということです。

少なくとも、bragelonne さんとのやり取りを読んでいると、bragelonne さんは自分には理解不能な他人を前提しています(理解不能な他人があるが、その他人とつながりうることを信じる、その根拠を信仰と言っているのかなとおもいます)が、人の道さんはそのような他人を前提していない、すべての他人も自分の延長線上(結局は自分のうち)にしか捉えていないと思われます。

これを極端に推し進めると、「人の道」=アルケーの神を感じないのは、人間ではないということになります。
「宇宙の法則に従い地上に楽園を造る」のに邪魔になるから、殺してしまえということになります。

私が前に人の道さんは「オーム」の本名松本某と五十歩百歩ではないかと言ったのは、まさに上記のようなことです。

多くのカルト宗教がカルトであるのは、その宗教が独我論だったからではないかと思います。カルトの教祖は、幾ら神や救いを語ろうが、自分の考えを絶対化し、理解できない存在や他人を視野から追い出してしまっているからです。その場合、他人を自らの延長=道具として手段化するか、そうできない場合はこれを抹殺しようとします。両方ともできなくなると、自らの延長である信者を引きずり込んでの自爆=集団自決になるでしょう。

bragelonne さんは、私よりずーっと親切ですから、人の道さんの間違いを正そうとしています。私はそんなに親切ではありませんから、人の道さんにレッテルを貼って済ましています。

投稿日時 - 2011-04-20 20:33:24

お礼

 
bragelonne さんは立派なお方であります。
しかしbragelonne さんと「人の道」では以下において決定的な違いがあるのです。

  bragelonne さんは、神は信じるものであるとゆー。

  「人の道」は、神は感じるものであるとゆー。
 

投稿日時 - 2011-04-21 19:29:59

ANo.40

 No.40です。

 ★(No.40お礼欄) ~~~~
 あんたはいわしの頭が神であってもよいと言うた。
 いわしの頭を神とするとき、神は非経験なのか。
 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 非経験を神(もしくは 無い神)と言う。ここから始まります。わたしは
 ★☆ いわしの頭が〔その非経験のナゾなる〕神〔の名前〕であってもよいと言うた。
 ☆ のです。

 
 われわれ人間の《ことば》というものは 考えてみれば不思議なものです。
 いつもわたしが思うことは 《いなづま・いなびかり・いなつるび》という表現です。
 あの空における放電現象を 稲が育つためのエネルギであるというかのようにその昔の人びとは捉え表現した。《妻(夫?)》と言うからには《つるび》があるということのようです。
 現代では 《ことだま》と言えば《言霊》と書いて けっきょく《言葉には霊力があって 言い出しただけでその力が伝わりはたらくことがある》という意味で使っているようです。そうではなく 昔は――わたしの見るところ―― 事霊(ことだま)と言ったはずなんです。もろもろの自然現象ないし人間のいとなみも含まれるところの社会現象に霊力がやどっていると見たのでしょう。そのはずなんです。
 《稲光》という言葉があるから・またそう口に出して言うから その隠れたたましいがはたらくというのではなく そうではなく 神鳴りとしての雷というコトがみづからに霊力をやどしている。こう見たはずなんです。

 だからまんざら 神を表わすために使われる言葉は その事由がないわけでもないのでしょう。確かに《いわしの頭》という名前をつけても何ともないというのは 言い過ぎでしょう。けれども さらに考えてみれば 神鳴りとしての雷そのコトが アルケーの神そのものではありません。雷は いかにそこに霊力がやどると言ったとしても・そのことが真実であったとしても やはり神の仮りの姿なのではないでしょうか? おのぞみならば 分身と言っておけば分かりやすいでしょうか。

 ですから 《ことば》には それに経験的な事物が対応するものと そしてそうではなくまったく対応するものがない(有るか無いか分からない)ものとに分かれると思われるのです。
 いくら《感じる》と言っても――つまり感じるというのなら 確かに対応する経験事物があるはずなのですが あったとしてもそれすらも 仮りの代理物だと考えられ―― やはり直接的なまた科学的にその事実が検証されうるような対応には成っていない。つまりたとえ成っていたとしても 人と人とが言葉による対話をつうじることのみによって 分かり合えるというには あまりにもナゾでありそれこそ霊力であり神秘です。
 そうはお考えになりませんか?


 ★ アルケーの神は偉大である。〔また その神をわたしは感じる〕。
 ☆ ということと そのことが他人に伝わるかどうかということとは きわめて微妙な違いを持っていると考えられます。あるいは違いなのではなく つねに互いのあいだに直接の話し合いは出来ないという溝があるかに思えます。ぎゃくに言えば溝があるだけで 人は神のおぼえよかりせば その溝を難なく超えて 他人にも伝え得るということであるかも知れません。あるいはむしろ それは言葉によるのではなく《香り》としてであるかも知れません。
 いづれにしましても この人と人とのマ(間合い)に留意して また間接的な関係であるかも知れないといった溝にも注意を向けて――それが開かれた神学としての哲学だと考えますから―― われわれは一歩を踏み出さなくてはならない。

 日本人は――わたしの見るところ―― 世界のほかの国の人びとと比べれば割り合いに開かれているとおもうのです。これからです。

投稿日時 - 2011-04-20 15:59:30

補足

 
分かるか分からないかが分からないそのナゾの何ものかの神とは、こーゆーものである
 

投稿日時 - 2011-04-20 16:39:14

お礼

 
するとこーなる訳や

いわしの頭の神
犬のしっぽの神
猿のふんどしの神
タコのいぼの神
鶏のとさかの神
  ・
  ・
  ・

何でもござれと、
ただ非経験であれば何でもよいと

タコを見たことも食ったこともない人間にとってはタコのいぼが神になるなー
あ~、おもろいなー
あ~、疲れるなー

投稿日時 - 2011-04-20 16:28:15

ANo.39

 あまり長く書くと 注意が分散するらしい。

 ★(No.39お礼欄) あんたは当の本人が感じるとゆーものを、いや信じておるに過ぎんとゆーておる。
 ☆☆(回答No.39) 《感じる》のは 自由です。信じるのではないと言いますが 《考える》のでも――基本としては・つまりその初源のかたちにおいては――ないのでしょう? だったら 《信じる》と言うしかないのです。そのあと 《感じる・あるいは 見た》が来ます。

 ★(同上) ~~~~
 ビールは旨いとゆーと、いやこのビールは旨いと信じておるとゆー。 / わしが腹が痛いと / 足が痛いと / わしがこの本は面白いと / わしが雪が降って寒いと / わしが喉が乾いて水が飲みたいと / わしが腹が減ってカツ丼を食いたいと ゆーと、いやカツ丼を食いたいと信じているとゆー。

 わしがアルケーの神を感じるとゆーと、いやアルケーの神を信じているとゆー。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 仮りにぜんぶが経験事象であるとしましょう。そのとき最後のひとつだけは ふつうに経験できることとは違うはずです。違わないという場合 それは どういう性質のことであるかを調べれば分かります。

 ビールが旨いに反対して まづいと言う場合 / あるいは 腹が痛いを疑って 仮病だろう? と言う場合 それらは いづれの場合も そうであるとそうではないとの二つの答えがありえます。然りや否か二つとも一般にはありうるという判断が前提となっています。面白いかどうかなどは その程度問題であるとも言えます。ですが 前提の内容としては すべて経験事象であることが 検証しうるという性質であるからです。

 アルケーの神を感じることが 体験できることであり皆もじっさい感じているとしましょう。そうすると それはどのように検証しうるか? これが問題です。

 みなが一人残らず声をそろえて《その神を感じるゥ》と大合唱すれば 検証できますか? 
 ばかなことをいつまでも言っていてはいけません。
 神は非経験に属します。だから まづ先に《信じる》が来るのです。《考える》のでもありません。

 無限は それを二で割っても三で割っても 答えはやはり無限です。そういうふうに想定し説明するわけですが 実際にはこのことを人間が感じることはありません。出来ません。しかも人間の言葉というのは そういうあり得ないようなまぼろしについても表現できるようになっています。ただし 仮りの代理表現だという前提が やはりあります。
 仮りに《唯一絶対 / 全知全能 / 永遠無限 / 永遠不変 / 永遠不滅 / 偉大である》ことを感じるとしましょう。ではどのようにそれを検証しますか? これらについては 《何となく旨い》とか《ちょっと寒い》とかいう程度問題ではないのです。仮りにたとえれば 《本が万人にとっておもしろい。もしくは 絶対的に面白くない》といった性格に少しは似ています。でもどうやって検証しますか? 
 神なら出来るかも知れません。でも人間がどのように答えますか?


 この一件にのみしぼったほうがよいでしょう。

投稿日時 - 2011-04-20 13:25:32

お礼

 
あんたはいわしの頭が神であってもよいと言うた。
いわしの頭を神とするとき、神は非経験なのか。
 

投稿日時 - 2011-04-20 14:23:29

ANo.38

 No.36を承けます。

 ★ ・・・そんなことは当たり前であり、言わんでも皆分かっておる。
 ☆ 分かっておることと それを実行していることとは 別である。

 ★ ~~~~~~~
 アルケーの神は信じるものではなく、感じるものとゆーておるにも関わらず、なぜこれを信仰と見做す。
 「人の道」はこれを信仰であるとは一言もゆーておらんが。
 ~~~~~~~~
 ☆ 《感じる》のは 自由です。信じるのではないと言いますが 《考える》のでも――基本としては・つまりその初源のかたちにおいては――ないのでしょう? だったら 《信じる》と言うしかないのです。そのあと 《感じる・あるいは 見た》が来ます。

 ではその《感じる》は いったい何を感じたのか? 
 ★★(趣旨説明) アルケーの神は永遠無限である、
 ☆ たとえばこの《無限》ですが 無限と言えば それを二で割っても三で割っても やはり商は無限ですよ。そういう想定です。つまりこの想定内容をいったいどう《感じる》のでしょう?
 永遠無限を感じるという表現はむろん出来ますが そのことの事実としての一般性はありません。比喩だからです。あるいは仮りに事実であったとしても 主観の内にとどまることだからです。
 きよらかなおそれを持って それくらいの謙虚さは必要でしょう。つまり おまえの主観においても必ずこのアルケーの神は感じられるはずだよと言いたいとしても まづは・取り敢えずは です。

 まづ先に《感じる》が来るのではないとして その神は他方で 《考える》でもありません。ほんとうには考えるではありません。想像したのだから 考えたのだと言って言えなくないでしょうが 考えるの対象ではありません。
 考えるや想像するというような経験思考をいっさい超えたところのナゾを――あたかも賭けのごとくに 受け容れるもしくは 無い神として受けとめることとして――心にいだくという意味の《信じる》しかないのです。ナゾであり 《まぼろし》なのです この悲しいかな うつろいゆく人間にとっては。

 想定するときに 考えたし想像したであろう? と問われれば そうですと答えます。ただし 考えたからその想定内容がある(もしくは ない)というのではない。ここが みそです。
 永遠無限はもともと ある(もしくは無い)と想定されるのです。有るとも無いとも人間には決められないからこそ 永遠無限です。
 《絶対》とは何であるか これは分かるか分からないかが分からないのです。人間に分かったなら それは神ではありません。人間の想像の産物であることになるからです。
 もしその神があわれみに満ちいつくしみあふれる存在であるなら きよらかな心の庭にはいつかそっとおとづれて その存在と力を感じさせてくれるかも分かりません。知恵をそっとさづけてくれるかも分かりません。
 感じた人 さづかった人は ようく心して 他人(ひと)にそのことを伝える。こういうことでしょう。それには 普遍性を持つものであることを哲学として――経験合理性において――述べて行かなくてはなりません。

 信じたあと 人によってはその主観の出来事として この神を感じたであるとか あるいは見ただとかという自己表現を持つこともあります。ありますが それは 主観内面におさまることです。(他人にしゃべってもよいのですが そこまでだという意味です)。
 だから 神を感じた・見たということを伝えたいのであれば 問題は その神をまづ非思考において受けとめているその信仰のありようが問われます。そのありようが普遍性を持つかどうかにかかっています。信仰の形態が 果たして普遍性を持っているかどうかの試練に耐えなければなりません。

 だからたとえば 質問者さんの場合 アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)と唱えるイスラームとの違いをしっかりと明らかにして普遍性をうったえなければ話は始まらないでしょう。(同じなら それでもよいはずです。また イスラームだけではないはずです けっきょく)。
 これが こころを社会に開くことであり 信仰とは信じるというのではなく信じさせることだという意味です。どうですか?
 
 このように表現すれば その表現者としてのわたしは なるほど普遍であり遍在する神を信じておりその非思考の庭としての信仰に立ってものを言っているなと思われることでしょう。

投稿日時 - 2011-04-20 10:29:35

お礼

 
あんたは当の本人が感じるとゆーものを、いや信じておるに過ぎんとゆーておる。

わしがこのビールは旨いとゆーと、いやこのビールは旨いと信じておるとゆー。
わしが腹が痛いとゆーと、いや腹が痛いと信じているとゆー。
わしが転んでも足が痛いとゆーと、いや足が痛いと信じているとゆー。
わしがこの本は面白いとゆーと、いやこの本は面白いと信じているとゆー。
わしが雪が降って寒いとゆーと、いや雪が降って寒いと信じているとゆー。
わしが喉が乾いて水が飲みたいとゆーと、いや水が飲みたいと信じているとゆー。
わしが腹が減ってカツ丼を食いたいとゆーと、いやカツ丼を食いたいと信じているとゆー。
わしがアルケーの神を感じるとゆーと、いやアルケーの神を信じているとゆー。
              ・
              ・
              ・
全てこーゆー具合に人の感じることを、信じているのだとゆーのか。
全てこーなるんか。
 

投稿日時 - 2011-04-20 11:37:25

ANo.37

 
>仮に人間が死滅しよーとこの宇宙にはアルケーの神を感じるものは他にも無限に存在するから、
>アルケーの神は全く気にすることはない。

人間が死滅したら、「人の道」じゃなくなるでしょ。

「人の道」は終了になっちゃうよ。
 
「人の道」のためのアルケーの神じゃないの?

投稿日時 - 2011-04-20 01:37:46

補足

 
アルケーの神は宇宙の隅々まで、愛され慕われておる神や。
 

投稿日時 - 2011-04-20 05:27:41

お礼

 
アルケーの神は永遠無限なる神、全宇宙的神である。
この宇宙には人間以外にもアルケーの神を感じる生き物はたくさん、たくさんいる。
アルケーの神を人間だけのものと考えてはいかん。
アルケーの神は永遠不滅である。
 

投稿日時 - 2011-04-20 05:23:33

ANo.36

 No.32です。

 ★ 分かるか分からないかが分からないナゾの何んたらかんたらなどとちゃらんぽらんなこと
 ☆ ゆえに そのナゾについて或る人は それは神である。アルケーの神であると――良心・信教の自由にもとづいて――宣言するのであるし また或る人は それは無い神である。創造主などという神はいないと――同じく表現の自由にもとづき 先の有神論とまったく対等に――宣言するのです。どちらも 自由な信仰です。
 有神論の中にその神の名前がちがっていたりしても それは無神論とも同じく 《ナゾをめぐる非思考の庭》が成った状態であるのです。

 そのように普遍性をもった理論でなければ 人との交通に入れません。
 あなたの一般的に言えば信仰宣言は 自由でしょうが それだけにとどまらず そこから一歩ほかの人に対して・社会に対して開かれて行ってください。
 いちど触れましたように イスラームでも《アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)》と言っています。どう同じでどう違うか これをしっかりと明らかにして初めて社会の中における神学となります。
 どうかそのようにみづからの広義の信仰を活かすようにしてください。

 神の全知全能を その神を感じる人は どこまで与えられているのか。どこまでその偉大さの内に浴しているのか。そういったことを みなさんは知りたいと言っているのです。一歩踏み出してください。

 ★(趣旨説明) ~~~
 アルケーの神は唯一絶対である、
 ・・・
 アルケーの神は偉大である

 これを否定できる者などおるまい。
 ~~~~~~~~
 ☆ 否定できるかどうかは 問題ではありません。その信仰は まったく無条件に自由だからです。またそれは 基本的に主観の内にとどまることだからです。この宣言までは 無条件に認められます。
 上に触れましたように 中には そんな神などいないと言って――否定というよりは――自分の信仰形態は別だと言いたいし 事実上言っていることになる反応もあり得ます。それも自由ですし ですからほんとうは そこから 互いの信仰内容が実質的に問われることになります。
 というように 非思考の庭がわが主観の内に成ったという場合には こんどはその自由と自由との交通が始まるのでなければウソです。人間は 社会的動物です。交通において ご自分の神学を広く活かすようにしてください。

投稿日時 - 2011-04-19 06:30:11

補足

 
>普遍性をもった理論でなければ 人との交通に入れません

普遍性をもつ神はアルケーの神以外にはおりません。
なぜなら唯一アルケーの神のみが感じることのできる神だからである。
アルケーの神は全宇宙空間に渡り存在する神、
アルケーの神は全人類を包み込む神、
アルケーの神は信じる神ではなく、感じる神である。
 
 

投稿日時 - 2011-04-20 08:36:45

お礼

長々と語っておるが、要するに何であれ信仰するのは自由であるが普遍性をもったものでなければ人には受け入れられんとそー言いたいんであろう。
そんなことは当たり前であり、言わんでも皆分かっておる。

分かるか分からないかが分からないナゾの何んたらかんたらなどと分けの分からぬことをもーすものが、他者にはよーこーゆー真っ当なことが平気で言えるもんやと呆れ果てておる次第である。

しかしそれは脇に置くとして、思い違いがある。

アルケーの神は信じるものではなく、感じるものとゆーておるにも関わらず、なぜこれを信仰と見做す。
「人の道」はこれを信仰であるとは一言もゆーておらんが。

投稿日時 - 2011-04-19 23:42:29

ANo.35

 
太陽は、永久機関でないからその内燃え尽きてしまいます。
宇宙の法則ですから仕方ないですね。

太陽が燃え尽きれば、光や熱が失われ、地球の人間をはじめとして生命は死滅してしまいます。
つまり、神を感じる主体はなくなります。

これが、アルケーの神の終了となります。

>アルケーの神は信じるものではない、感じるものである。

って言っていますしね。

投稿日時 - 2011-04-19 05:42:12

お礼

 
アルケーの神にとっては、地球や太陽がこの宇宙から消えてなくなろーと、砂粒が一つ風に吹かれて消え去るよーなものに過ぎん。

仮に人間が死滅しよーとこの宇宙にはアルケーの神を感じるものは他にも無限に存在するから、アルケーの神は全く気にすることはない。
 

投稿日時 - 2011-04-19 23:29:01

ANo.34

では今の世界はすでに完璧であり、何も問題はないということですね。

人と人の社会は「地獄」に関わらず、宇宙の法則に反するような混乱を生じさせることは不可能であり、完璧である、と。

投稿日時 - 2011-04-19 05:24:01

お礼

投稿日時 - 2011-04-19 23:15:52

ANo.33

 アルケーの神は唯一絶対である。〇
 アルケーの神は全知全能である。×
 アルケーの神は永遠無限である。〇
 アルケーの神は永遠不変である。×(永遠ではあるが不変か?宇宙は変化し続けているが。)
 アルケーの神は永遠不滅である。〇
 アルケーの神は偉大である。×(何を以て偉大だというのか。小さな人間の感覚でしかないのでは。)

 名前はまだない。

 アルケーの神にはまだ名前が無いようなので、考えました。
 思い切って『アルチュー』と。

 アルケーの神『アルチュー』は唯一絶対である。

 誤解のないように言っておく。
 『アルチュー』とは『生る宙』という意味である。

 「生る」は、辞書を引けばわかる。
 不服ならアルケーの神に命名せよ。

 ちなみに私はアムロナミエの世界、アムロワールドの住人“アムチュー”である。

投稿日時 - 2011-04-18 22:38:01

お礼

>永遠ではあるが不変か?宇宙は変化し続けているが。

読みが浅すぎる。

宇宙の法則は永遠不変である、
永遠不変なる宇宙の法則に従い、宇宙は変化し続ける
アルケーの神は宇宙の法則に従い変化し続ける宇宙の全てを知る全知全能の神である。
こーゆーふーに読むんや。
 
 

投稿日時 - 2011-04-19 02:03:07

ANo.32

 もし回答者の議論に考え違いや筋の違いがあるようだったら そのことを指摘し これこれこういうふうであるとその事情を示してやらねばなりません。
 神を感じ人の道をあゆむあなたであれば。

投稿日時 - 2011-04-18 21:04:49

お礼

 
神を感じ人の道を歩む者は、分かるか分からないかが分からないナゾの何んたらかんたらなどとちゃらんぽらんなことをゆーたりはしません。
 

投稿日時 - 2011-04-19 01:38:11

ANo.31

アルケーの神が統治するこの世界は元々完全、完璧なのですね?

投稿日時 - 2011-04-18 20:57:05

お礼

 
宇宙の法則は完全、完璧である。
 

投稿日時 - 2011-04-19 01:50:14

ANo.30

アルケーのカミは大事だね。

おいらなんか、トイレに入った時に紙がアルケーじゃないとがっかりするもん。

この質問見るたびに、このタイトル→
http://okwave.jp/qa/q6669211.html
思い出しちゃうんだよねー。

この質問に青筋たてて何度も回答してる奴がいるのをみると、アルケーの紙さまもちっとは偉大なのかな。

投稿日時 - 2011-04-18 20:29:00

お礼

 
ま~、偉大としか言えんなー、アルケーは、

あ~、アルケーと共にいると、漬かるきになれんなー
あ~、アルケーと共にいると、充実するなー
あ~、アルケーと共にいると、楽しいなー
あ~、アルケーと共にいると、嬉しいなー
あ~、アルケーと共にいると、幸せやなー
あ~、アルケーと共にいると、・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

投稿日時 - 2011-04-18 20:46:28

ANo.29

アルケーの神は宇宙の法則に従わないものを生み出せないのですね?

投稿日時 - 2011-04-18 20:15:44

お礼

 
アルケーの神にとって天国や地獄はゴミである。
なぜならアルケーの神は天国や地獄が宇宙の法則に従うものでないことを知っておるから。
アルケーの神にとって宇宙の法則に従わないものは何であろーと全てゴミにしか過ぎん。 
 

投稿日時 - 2011-04-18 20:28:20

ANo.28

 No.6&11&13&20&22&26です。

 ★(No.26お礼欄) ~~~
 アルケーの神を感じるのは「人の道」に限らず、人間だれでも感じることができる。

 例えてゆーならば、アルケーの神は空気のよーなものでこの地球上のどこにおいても我々はアルケーの神と接しておるのである。

 ★(No.26補足欄) ~~~
 アルケーの神を感じるにはどーすれば良いか。

 「人の道」は説いております、真理を探求する以外にアルケーの神を感じる方法はないと。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 部分的な引用ではありますが このように《神が普遍の存在であり 遍在する》ことは誰もが知っていることです。想定における定義からして そういうものなのです。
 だから その神の遍在について実際のところを――つまりは《真理の探究》の結果として・あるいはその途中経過として―― みながそれぞれ自分の経験と思索にもとづき その成果を述べ合っているのです。
 ★ アルケーの神は偉大である
 ☆ 分かっています。どのように偉大であるか? あるいは しばしば人間にとってはその偉大さが分からなくなるときもある。よって このようにかのようにわたしは探究しており その成果をこれこれのように明らかにして伝えたいうんぬんと述べるのが 人間のコミュニケーションというものなのです。

 それが出来ないというのであれば 決して神を感じているとは限らないのです。タコツボ神学であり 子どものあそびであるに過ぎません。どんなインチキ宗教でも 
 ★ アルケーの神は偉大である
 ☆ と――その神の名前こそ違っていても―― 堂々と明らかなかたちで言っているのです。

 そこのところが分からないようでは 困ったものですね。

投稿日時 - 2011-04-18 19:54:09

ANo.27

アルケーの神は人間が自ら「地獄」を作り出すことさえ許しますか?

投稿日時 - 2011-04-18 19:09:43

お礼

 
アルケーの神は天国や地獄が宇宙の法則に従わんことを知っておる。
人間は天国や地獄を作り出すことは出来ない。
なぜなら宇宙の法則に従わんものを作り出すことは出来ないからである。
 

投稿日時 - 2011-04-18 19:30:07

ANo.26

 No.6&11&13&20&22です。

 ほんまにこんなことを言いたいために質問してるのですか?
 ★ ~~~~~
 アルケーの神は唯一絶対であり、これ以外に神は存在しない、また存在してはならないのである。
 アルケーの神が存在することは全宇宙的真理であり、これを否定することは出来ない。
 アルケーの神の存在は絶対的であるが故に「人の道」は朝起きてから、夜寝るまで四六時中、アルケーの神と共に暮らしておるんや。
 ~~~~~~~
 ☆ むろん 良心・信教の自由にもとづき 自由ですよ。ただしそれだけなら どこの宗教の信者でも名前を変えて言いそうなことだとは思わないのかなぁ。
 ということは たとえばの話 その神学を 哲学として比較して普遍性を明らかにしておかなければならない。と思いませんか?
 だから 子供じみていると言っています。そういう信仰宣言は自由ですが そこまでのことだという意味です。《信じる》のではなく《感じる》のだとも聞きましたが 一般にはこのような表明は 信仰の宣言と言います。

 要するに いいですか? これだけでは ただのタコ壺宣言であるに過ぎません。そう見ることはできませんか? 見ることができなければ そのあなたの主観が共同性を持つかどうか 分かったことではないではないですか? 感じるのではなく そうではなく 感じさせることをしなければ始まらないし その感じるというコトが普遍性を持つということを論証しなければ始まらないのです。

 やっかいやなぁ。

投稿日時 - 2011-04-18 13:12:51

補足

 
アルケーの神を感じるにはどーすれば良いか。

「人の道」は説いております、真理を探求する以外にアルケーの神を感じる方法はないと。
アルケーの神は真理を探求する心に近づいてくるが、漬かろーとする心からは離れて行く。

投稿日時 - 2011-04-18 19:41:35

お礼

やっかいなことは何もない。

アルケーの神を感じるのは「人の道」に限らず、人間だれでも感じることができる。

例えてゆーならば、アルケーの神は空気のよーなものでこの地球上のどこにおいても我々はアルケーの神と接しておるのである。

ただそのことに気付いていないだけである。

これに気づくよーになるには「人の道」が教えるよーに、真理を探求すればよいのである。

「人の道」の教えに従い真理を探求すれば、アルケーの神が唯一絶対の神であることが分かり、アルケーの神を感じるよーになるんや。

 

投稿日時 - 2011-04-18 16:47:12

ANo.25

みっちゃんよ、何か淋しいね。

>今年の4月から、宇宙の支配者はアルケーの神と決定したんで、よろしく。

宇宙の支配者がカタカナか。やっぱ日本人よりも毛唐の方のが優れてるんかね。どうせカタカナで毛唐の神様なら、アルカーなんかじゃなくって、アルコールなんて名前の方がずっと粋だと思うんだが、そんなんじゃ駄目なんかね。

5月からは宇宙の支配者はアルコールの神と決定してくんないかね。

投稿日時 - 2011-04-18 12:56:55

ANo.24

この間アリエールって化粧品だったか何だかの宣伝を見たんだが、そのときあたしが直ぐに浮かんだのは、アリエンヌってな商品だったね。そう言えば昔、ナオールって名前の薬があった。

あんたの神なんて簡単に否定出来る。その神の名は、ナイケーじゃ。ナイキー(NIKE)じゃないから間違えないように。

投稿日時 - 2011-04-18 09:59:22

お礼

 
ちょとっちゃんよ、
今年の4月から、宇宙の支配者はアルケーの神と決定したんで、よろしく。
アルケーの神以外はアマテラスも含め全てクビと決定となったんで連絡しとく。
 
「人の道」より
 

投稿日時 - 2011-04-18 12:06:43

ANo.23

>完全無欠なアルケーの神に逆らうことが悪である。
>この世界は アルケーの神である宇宙の法則の基に動いておる。
>アルケーの神は全知全能であり、完全無欠である。
>そのアルケーの神に逆らったり、不満を抱いたりすることは悪である。
>だからアルケーの神に願ったり、祈りを捧げよーするのは悪である。
>アルケーの神に願ったり、祈りを捧げよーとしてもアルケーの神がそれを受け入れることはない。

人間の生死や生きざまにアルケーの神は全く関与しない。
神を祈りを受け付けないのですから、その神に不満を抱いたりしてもそのことについて、神がどうこうするわけではないですよね。
とすれば、不満を抱く、祈りをささげることが悪であるというのは、神がそれに対して罰を与えるから「悪」だという意味ではないですね。
この「悪」という判断は、「神」を基にしていなければ、どこから出てくるのですか。

投稿日時 - 2011-04-18 09:25:54

ANo.22

 No.6&11&13&20です。


 ★(No.20お礼欄) ~~~
 あのなあ、

 分かるか分からないかが分からないナゾの何んたらかんたらなどとあいまいなことをゆーよりは遥かにマシであるとゆーとく。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ それでは――つまり ほかと比べてよいとか ましとか言うであれば―― 《絶対》なる《偉大》ではないではないですか? 

 というよりも けっきょく《絶対》については 仮りの説明しか 人間の言葉では出来ないということをまづ認めるところから始めなければならない。のではありませんか?

 それとも《神を感じる》というのは それだけのことであって あとは一切その神について言葉による説明は出来ないということですか? では何のために神は偉大であるなどと表明しなければならないのですか? 自由ですが あまりにも子供の遊びじみています。

 どうか最後まで《人の道》をまっとうしていただきたい。

投稿日時 - 2011-04-18 09:18:09

お礼

 
アルケーの神は唯一絶対であり、これ以外に神は存在しない、また存在してはならないのである。
アルケーの神が存在することは全宇宙的真理であり、これを否定することは出来ない。
アルケーの神の存在は絶対的であるが故に「人の道」は朝起きてから、夜寝るまで四六時中、アルケーの神と共に暮らしておるんや。
 

投稿日時 - 2011-04-18 12:36:00

ANo.21

「神などいない」と言う : さんは卑小、矮小な神であるということが出来ますか?

投稿日時 - 2011-04-18 07:44:33

お礼

投稿日時 - 2011-04-18 12:21:44

ANo.20

 No.6&11&13です。

 No.13をおぎないます。

 もしアルケーの神を感じる者であるなら すべての問い返しについて答えることが出来るのではないですか?
 自分に都合のわるいことには答えられない。
 人のまともな回答に対してまともに答えられないで いったいどういう神を感じているのですか?
 それが 人の道なのですか?

 

投稿日時 - 2011-04-18 06:51:11

お礼

投稿日時 - 2011-04-18 07:07:51

ANo.19

 偉大なるアルケーの神に人間が作り出す善悪とか正否とかの価値基準を当てはめてはならない。

 偉大なるアルケーの神に“アルケーの神は正しい”なんていうのは人間の思慮でしかなく、アルケーの神の心を言い表していない。

 アルケーの神の心、それは「法則」と言い換えることができる。

 よって、今回の震災はアルケーの神の法則により起きたことで、人間の思慮による正否という価値基準を当てはめるのは、アルケーの神の心を汚すことになる。

 重ねて言う。宇宙の現象は法則に依るのであり、人間の価値基準を当てはめるのは大間違いである。

 

投稿日時 - 2011-04-18 05:34:30

お礼

 
えーか、

  宇宙の法則は常に正しい

とゆーておるではないか。
もちろん今回の震災とてアルケーの神の法則により起きたんや。
 

投稿日時 - 2011-04-18 07:03:13

ANo.18

アルケーの神は人格神ですか?

投稿日時 - 2011-04-18 04:17:07

お礼

 
アルケーの神がどのような姿形をしているかは誰も見たものはいない。
ただ、しっぽはついてないと思って良い。
 

 

投稿日時 - 2011-04-18 06:56:34

ANo.17

 
宇宙は膨張拡大していることが、観測されています。

太陽も永久機関ではないので、いつかは燃え尽きる事が分かっています。

つまり、宇宙は永遠不変ではありません。

 
宇宙の永遠不滅を前提とするなら、アルケーの神は否定されます。
 
 

投稿日時 - 2011-04-18 01:36:23

お礼

 
>宇宙は膨張拡大していることが、観測されています。

アルケーの神に言わせれば、それはミクロのスケールでの話に過ぎん。
永遠無限なるアルケーの神に言わせれば、宇宙の中にはそのよーに動いておるビー玉もあるゆーだけのことに過ぎん。
 

 

投稿日時 - 2011-04-18 02:34:28

ANo.16

>この世界に創造神なるものは存在せん。
>何故ならアルケーの神は唯一絶対の神であり、アルケーの神以外に神は存在せんが、アルケーの神は創造神ではないからである。
>なぜアルケーの神が創造神ではないかとゆーと、万物とこの宇宙は作られたものではなく初めから存在しておったからである。万物とこの宇宙を想像したものは存在せんのである。

あらゆる存在自体が、無前提にあなたの五感に訴えかけてくる。
つまり、自らが存在していると感じること自体を「神」として把握するということですか。

>またアルケーの神は人間の願いや祈りを捧げる相手ではない。
>アルケーの神に人間が願いや祈りを捧げたところで、アルケーの神は全く聞く耳をもたない。
>アルケーの神に願いや祈りを捧げることは、道端の石ころに願ったり祈ったりするのと全く変わりはない。
>これは何故かとゆーと、全知全能のアルケーの神はこの世界を支配する宇宙の法則が既に完全であることを知っているからである。
>だからこの世界に対し人間が何かを願ったところで全く相手にせんのである。

私も、イスラムの神、キリストの神は絶対神ですから人間の祈りなぞは相手にしていないのだと書いたでしょう。
ただ、イスラムの神、キリスト教の神は創造神であるがゆえに赦しの神でもあり、その点で人間とつながっているのだろうと考えます。
創造神でもなければ、人間とは全く接点を持ちえませんから、これは人間の生活には何の意味もありません。したがって、人間の共同生活の中から出てくるら善悪の問題にもアルケーの神は関与しないのでしょう。
とすると、「人の道」の善悪の判断はどこから出てくるのでしょう。

漬かろうとする心・・・・は、わかりましたから、それが悪だという判断基準はどこから出てくるのですか。

個人的には前のイコンのほうが好きです。

投稿日時 - 2011-04-17 23:26:07

お礼

 
>善悪の判断はどこから出てくるのでしょう

これは簡単なことである。

完全無欠なアルケーの神に逆らうことが悪である。
この世界は アルケーの神である宇宙の法則の基に動いておる。
アルケーの神は全知全能であり、完全無欠である。
そのアルケーの神に逆らったり、不満を抱いたりすることは悪である。
だからアルケーの神に願ったり、祈りを捧げよーするのは悪である。
アルケーの神に願ったり、祈りを捧げよーとしてもアルケーの神がそれを受け入れることはない。
 

投稿日時 - 2011-04-18 02:53:01

ANo.15

 なんで不完全な人間に、こうした問いをするのでしょうか。

 アルケーの神が、完全無欠である事を不完全な人間に理解など出来るはずはないのに。
 
 愚問です。

 そんなことより、アルケーの神は不完全な人間にどんなことを“求めているか”を問う「べき」だと思います。

 返答を要求します。

 アルケーの神はこの不完全な人間どもにどんなことを要求しているんでしょう。

投稿日時 - 2011-04-17 23:14:35

ANo.14

アルケーの神に聞きたい事があります。

アスペルガー症候群をご存じですか。
先天的に特徴を持って生まれてくるそうなんですが
その特徴は、偏執的に知能が高く、他人の感情の読み取りが
できないそうです。およそ1000分の1の割合で出現するらしい。

これは人類が分岐点に差し掛かっている事の、顕われなんでしょうか。
言い換えると、人類が万物の法則に逆らった為にアルケーの報いを受けたのでしょうか?

しかも悪い事に、アスペルガーはエリートに出世する確率が高いのだとか。
憂うべき事態なのです。

意思の疎通ができない人がシステムを構築して
意思の疎通ができない人がシステムを運営して
意思の疎通ができない人がシステムを管理して
意思の疎通ができない人が人を裁いて
意思の疎通ができない人が子孫を残して
意思の疎通ができない人がバラバラな国を造る

これがアルケーの神が描いたシナリオでしょうか?
回避する選択肢があるなら、教えてほしいです。
困ってます。

投稿日時 - 2011-04-17 21:55:17

お礼

 
地震が起きたのも、原発が火を吹いたのも全てアルケーの神の知るところであり、アルケーの神のシナリオに従い起こったのである。
 
アルケーの神が偽ることはない。
アルケーの神は全知全能であり、完全無欠である。
アルケーの神の行いは全て正しいのである。
アルケーの神に逆らってはならない。
 

投稿日時 - 2011-04-18 03:11:45

ANo.13

 No.6&11です。

 それでぜんぶ答えたというのであれば そのままにしておくよりほかに仕方がないと考えます。

投稿日時 - 2011-04-17 20:42:19

ANo.12

イコンは前のほうが良いと思いますけど。

>まず神の意志について、
>神の意思は決して変わらないとゆーこと。
>何故なら、 アルケーの神は永遠不変であるから。
>また神は意思を変える必要はないとゆーこと。
>何故なら、アルケーの神は全知全能であるから。
>何故なら、アルケーの意思は常に正しいから。
>神の意思を変えよーなどと考えても無駄である。
>神の意思を変えよーなどと考えてはならん。
>神の意思を変えよーと祈ってはならん。
>神の意思を変えよーと祈ることは神を否定すること。
>神の意思を変えよーと祈ることは漬かろーとすること。
>決してあってはならんこと。

>次に神の恵みについて、
>アルケーの神は恵み深い、なぜなら唯一絶対なるアルケーの神以外に恵み得るものは存在せんから。
>アルケーの神は恵み深い、なぜなら全知全能なるアルケーの神は恵みとは何かを知っておるから。
>アルケーの神は恵み深い、なぜなら永遠無限なるアルケーの神は全てを恵み得る力を持つから。
>アルケーの神は恵み深い、なぜなら永遠不変なるアルケーの神は偽ることをしないから。
>アルケーの神は恵み深い、なぜなら永遠不滅なるアルケーの神は恵み続けることが出来るから。
>アルケーの神は恵み深い、なぜなら偉大なるアルケーの神が恵まぬはずはないから。

>アルケーの神ほど恵み深いものはない。

これだと、「アルケーの神」は創造神で、人間の存在自体は神の恵みなんだということでしょうね。
かつ将棋をするんですから、人格神でもありますね。
だとすると、これは私の理解する限り、イスラム教の神、キリスト教の神と全くイコールです。
ただ、人間の祈りで神は動かないと言い切っているので、キリスト教よりはイスラム教ですか。

イスラム的な展開でいくと、
神の恩恵による世界の創造⇒神に与えられた現世を享受する⇒神は人々を創り出したのだから他の人々とともに神の恵みに感謝し、共同して生きていこう(イスラム律法)
という具合になります。

「人の道」はイスラム教に近いのですか?????

また、キリスト教でもイスラム教でも神と人間の関係は、不完全な存在とである人間を神が「赦す」としてあるのだろうと、私は思っているのですが、「人の道」さんはその「赦し」については、何も言わないので「神と人間の接点」はどこにあるのだろうと不思議なのです。
神は絶対ですから、祈れば神の赦しを得ることができるというものでないことは、イスラム教でもキリスト教でも同じです。

投稿日時 - 2011-04-17 16:40:01

補足

 
イコンは前のに戻したほーがえーかな?
 

投稿日時 - 2011-04-17 19:32:26

お礼

 
一つはっきりとゆーておく。

この世界に創造神なるものは存在せん。
何故ならアルケーの神は唯一絶対の神であり、アルケーの神以外に神は存在せんが、アルケーの神は創造神ではないからである。
なぜアルケーの神が創造神ではないかとゆーと、万物とこの宇宙は作られたものではなく初めから存在しておったからである。万物とこの宇宙を想像したものは存在せんのである。

またアルケーの神は人間の願いや祈りを捧げる相手ではない。
アルケーの神に人間が願いや祈りを捧げたところで、アルケーの神は全く聞く耳をもたない。
アルケーの神に願いや祈りを捧げることは、道端の石ころに願ったり祈ったりするのと全く変わりはない。
これは何故かとゆーと、全知全能のアルケーの神はこの世界を支配する宇宙の法則が既に完全であることを知っているからである。
だからこの世界に対し人間が何かを願ったところで全く相手にせんのである。
 

投稿日時 - 2011-04-17 19:02:51

ANo.11

 No.6です。

 ★(補足欄)~~~~~~

   >栄光は神に帰せずしてどうするのですか

      ?
 ~~~~~~~~~
 ☆ それは 次のようにご自分の信教について宣言しつづけるだけであるのは いかがなものかという意味です。それが自由であるのは 当たり前のことです。

 ★(お礼欄)~~~~
   
 だからゆーておるではないか、

  アルケーの神は偉大なり

 と。
 ~~~~~~~~~~

 ☆ 信じるということは 信じさせることである。
 自分の信念の強さを訴えることでは必ずしもなく また自分がただしい人間であるとやはり訴えることでもなく あやまつおそれのある言語表現においてたとえ自分がその神のただしさに当然のごとくながら及ばないとしても その自己表現をとおして 相手が自分は信じているという動態にみづから気づくようにすることである。
 これを 神に栄光を帰すと言います。神とは そういう場合に 相手のこと・つまりわれをも誰れをも含む人間のことになります。


 ちなみに アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)と唱える人たちは 世界が自分の思うようにならないときには それも神のおぼしめしであると弁明します。
 ぢゃあ どういうふうに《偉大である》か? これを知識を尽くし知恵を尽くし心を尽くして考え明らかにしていくこと つまり哲学の仕事が来なければウソです。


 けれども 宇宙の法則は それを知ることを科学者にまかせているのではないですか? むろん専門家に任せることになるのですが そうしているということを忘れているのは どうですかね? どうして分業しつつ協業しないのですか? 偉大なる神は そのことを望んでいませんか?

投稿日時 - 2011-04-17 08:44:27

お礼

>信じるということは 信じさせることである。

どーやら、ここで途方もない勘違いをしておるとみえる。 

ここではっきりとゆーておく。
アルケーの神は信じるものではない、感じるものである。
「人の道」はアルケーの神を信じているのではなく、感じておる。
何故なら宇宙の法則は信じるものではなく、感じることが出来るからである。
「人の道」はアルケーの神が存在することを感じておる。

またもーひとつゆーておく。
アルケーの神は人間の願いや祈りを捧げる相手ではないゆーこと。
アルケーの神に人間が願いや祈りを捧げたところで、アルケーの神は全く聞く耳をもたない。
これは何故かとゆーと、全知全能のアルケーの神はこの世界を支配する宇宙の法則が既に完全であることを知っているからである。
だからこの世界に対し人間が何かを願ったところで全く相手にせんし、相手にする必要はないからである。
 

投稿日時 - 2011-04-17 19:29:40

ANo.10

アルケーの神は「人の道」さえ否定できます?

投稿日時 - 2011-04-17 08:15:17

お礼

 
アルケーの神は正しい者を否定することはない。
 

投稿日時 - 2011-04-17 19:06:27

 



質問1,アルケーの神の「アルケー」って何ですか?




質問2,ビッグバンで宇宙が生まれたように、いつか宇宙も消滅すると言われています。
    (宇宙が現在も膨張しているように、宇宙は変化しています。)
    アルケーの神が宇宙の法則なら、宇宙の消滅と同時にアルケーの神も消滅するのですか?

投稿日時 - 2011-04-17 01:23:34

お礼

投稿日時 - 2011-04-17 06:05:54

ANo.8

人の道が何たるかを追い求め、神や仏とは無縁なるものと知る
人の道の何たるかを追い求め、この世の無常を知る
じゃなかったんですか。無縁、無常、は仏教ですよ。
コーラン、を読んで、イスラム教に宗旨変えしましたか。
それとも、逆説を掲げて見せ、反論があなたの思想(妄想)の肯定である。
とでも言うつもりですか。
きっと、死んでから、アッラーに、翌朝には処女に戻っているという理想の妻、
を与えてもらいたいんだ。
しかしあなたの場合は(精神分裂であっても、預言者を騙った罪で?)
地獄の業火に焼かれること間違いなし。じゃないでしょうか。

投稿日時 - 2011-04-16 23:18:03

お礼

 
あのなあ、
「人の道」が説いておることに、何一つ変りはない。

あのなあ、
わしはゆーておるんや、
人の道が何たるかを追い求め、天国、地獄を語る神や極楽浄土を唱える仏とは無縁なるものと知ると、

「人の道」は初めからゆーておる、
宇宙の法則、万物の根源であるアルケーの神を除いて神は存在しない。
アルケーの神が唯一絶対の神、全知全能の神であり、これ以外に神は無いと。
 

投稿日時 - 2011-04-17 00:20:46

ANo.7

あら、言われてロゴ(イコン)を変えたのね。

アルケーの神は唯一絶対である、
アルケーの神は全知全能である、
アルケーの神は永遠無限である、
アルケーの神は永遠不変である、
アルケーの神は永遠不滅である、
アルケーの神は偉大である

これだけだと、どうして神が「人の道」につながるのかわかんないのですが。
神がこういうものだとすると、

多くのものの関係性の中でしか生きていない
あまりに多くの点で無知蒙昧である
あまりに短時間で生き急ぎ死んでしまう
あまりに矮小な存在でもある人間と

神は何の接点もないのだと言っているのでしょうか。

だとすれば、生きている人間にとって「神」は何の関係もない
考えるまでもないことだと言うことです。

私は、今日を生きるためにどうすればよいのか!
「神」は勝手に永遠と完全無欠をほざいていてください。

投稿日時 - 2011-04-16 22:53:51

補足

投稿日時 - 2011-04-17 00:44:56

お礼

 
>これだけだと、どうして神が「人の道」につながるのかわかんないのですが。

頭を冷やして考えれば判る。

まず神の意志について、
神の意思は決して変わらないとゆーこと。
何故なら、 アルケーの神は永遠不変であるから。
また神は意思を変える必要はないとゆーこと。
何故なら、アルケーの神は全知全能であるから。
何故なら、アルケーの意思は常に正しいから。
神の意思を変えよーなどと考えても無駄である。
神の意思を変えよーなどと考えてはならん。
神の意思を変えよーと祈ってはならん。
神の意思を変えよーと祈ることは神を否定すること。
神の意思を変えよーと祈ることは漬かろーとすること。
決してあってはならんこと。

次に神の恵みについて、
アルケーの神は恵み深い、なぜなら唯一絶対なるアルケーの神以外に恵み得るものは存在せんから。
アルケーの神は恵み深い、なぜなら全知全能なるアルケーの神は恵みとは何かを知っておるから。
アルケーの神は恵み深い、なぜなら永遠無限なるアルケーの神は全てを恵み得る力を持つから。
アルケーの神は恵み深い、なぜなら永遠不変なるアルケーの神は偽ることをしないから。
アルケーの神は恵み深い、なぜなら永遠不滅なるアルケーの神は恵み続けることが出来るから。
アルケーの神は恵み深い、なぜなら偉大なるアルケーの神が恵まぬはずはないから。

アルケーの神ほど恵み深いものはない。
 

投稿日時 - 2011-04-16 23:28:43

ANo.6

 こんにちは。

 ★ これを否定できる者などおるまい。
 ☆ と思ったとしても――だからわれには もはや何のおそれもないと思ったとしても―― 人間であるわたしは その神のこころをひょっとしてたがえていないかというきよらかなおそれを ふつうは 持っている。


 いくら神のことをつたえているからと言って――だからその歩きつづける足は そしてそのキーを打つ手は何とうつくしいことかとたたえられても―― 栄光は神に帰せずしてどうするのですか?

 ただの人間であることをも 片隅にでも表現しているようにしないと。な。

投稿日時 - 2011-04-16 21:34:25

補足

>栄光は神に帰せずしてどうするのですか

      ?


 

投稿日時 - 2011-04-17 00:37:38

お礼

 
だからゆーておるではないか、

  アルケーの神は偉大なり

と。
 

投稿日時 - 2011-04-17 00:36:09

ANo.5

>アルケーの神は全知全能である
以下の疑問はどうする?
・アルケーの神は、囲碁将棋(=完全情報ゲーム)を楽しむことは可能か?

可能な場合:これって、最終結論は論理的には決まっているのに、何故楽しめるのか。それが問題。
不可能な場合:完全情報ゲームの場合の当然の帰結ですが、楽しめないのに全能とは何故?
楽しむかどうかは全能に含まないの?

※まあ、これも不完全性定理の変形だと思うが。

投稿日時 - 2011-04-16 10:54:39

お礼

 
全知全能の神アルケーにとって囲碁将棋などままごと遊びのよーなもの。
羽生善治が100億人束になってかかってもアルケーの将棋には勝てん。
 

投稿日時 - 2011-04-16 21:17:57

ANo.4

s:「体験」ってな、実際のことだろがw

 はい、そうです。実際のことですがw

s:いったい何さまで何の権利があるつもりじゃ、おまえはぁ。

 ゴキちゃんを追い掛け回すのは人間の「権利」でしょうか、教えてくださいw

s:誰に向かってエラそーに言っとるか

 ゴキちゃん?

s:そうよ、おまえが性悪で、他者を非難ばかりしておるっつうことよ

 よく言うよw 自分のことは棚に上げといてw あ、ちなみにオレは最高に性格が良いですwww

s:何とも言えない嫌悪感が起きてしまってたのかな。

 確かに。キーキーと喚く声が聞こえるようなw お前が社会の荒らしなんだっつーのw

s:同じことなの!

 同じではありません!ww

s:だから、違うでしょ。

 全然違いません!w 「こうするべき、ああするべき」と「こうすればよかった、ああすればよかった」と言うのは違います!w

s:それこそ「妄想、勘違い」だろ。

 そうです、虚構のお城に住むナルシストさんのね!w

s:なんだって政府や政治家連に対して、大多数の国民の不満がバクハツするものか。

 白雪ばあさんのアタマがバクハツして原発もバクハツしちゃった、みたいな???w

s:国によっても事情は違うだろうが。

 日本のことを言っていますwww

s:当たり障りなんぞ、あるときはあるし、なくてすむときは ないだけのことじゃ。

 精神錯乱している人が言っても説得力ありませんwww

s:「くだを巻いてる」のは、おまえだよ。

 オレのほうがより開かれたサイトで言っていますwww

s:自分のするべき反省点が大いにあるだろが。猿並みなりにも、してろってばw

 ありませんw メス猿さんは格好だけでも反省のポーズをしなさい?w

s:だったら、おまえは どうなんだって。

 ああ、認めましたか。開き直ってないで反省しなさい!w

s:匿名に守られてるつもりでアグラかいて、他人のことばかりをブツブツガミガミ言う おまえこそが。

 まさに自分のことw まさか「白雪姫」が本名だと思ってないですよね?思っているなら病院へ行ってください。精神科ですw

 大体、自分が「名無し」でしょ、よく言うよwww

s:自己愛性人格障害の特徴そのものだ。

 そのような言葉を知っているのであれば「自己投影」という言葉も知っていると思うのですがw

s:敵意まんまん

 www

s:「セックスの標的にされました」だって?

 そんなこといってませんw そろそろ薬を飲まないと完全に逝ってしまいそうですね、重症ですw

 だいたいオレはリングキューじゃないってのw

s:ネット世界を現実同様に思っているということの証左でしょうか。

 現実同様に思って、キーキーサルみたいに喚いているのはあなたですw

 しかしそこまで全身掻き毟って狂乱させるほど効果があると言うなら、現実以上の影響力ですねwww

 でも、それで全身の毛が薄くなって人間に近づけるなら俺に感謝しなければなりませんね(爆)

 

 sさんは自分こそが唯一絶対神であると思っているようですが?

投稿日時 - 2011-04-16 09:06:18

ANo.3

♪泣くの~がいやなら~ さ~あ アルケー


ひとのみっちゃん、症状が進んできたよ
早めに薬のみな

ちょっと多めにな

投稿日時 - 2011-04-15 23:19:51

ANo.2

要するに万物の法則ですよね。

万物の法則は絶対である。

アインシュタインは「神はサイコロ遊びはしない」と言った。

同じ条件なのに結果が異なるってことは万物の法則にはない。
その万物の法則のほんの一部を知ることで、人間は生活にその法則を利用している。
万物の法則は全知全能ではない。
ただ存在しているだけ。

投稿日時 - 2011-04-15 22:26:14

お礼

 

 
アルケーの神は永遠不変である。
アルケーの神の意志が変わることはない。
人間はアルケーの神の意志を変えることは出来ない。
人間はアルケーの神の意志を変えよーなどと考えてはならない。
万物の法則はアルケーの神の意志である。
アルケーの神は全知全能である。
万物の法則に間違いはない。
万物の法則は完全である。
 
 

投稿日時 - 2011-04-16 21:12:15

その神様が恵み深くなかったら、多くの人が否定すると思う。

投稿日時 - 2011-04-15 22:10:12

補足

 
         アルケーの神
 
今から2500年前、ギリシャの哲学者ターレスは考えた。
万物の根源は何かと。
ターレスは万物の根源をアルケーと呼んだ。
そしてターレスはアルケーは水であるとした。

ヘラクレイトスもアルケーは何か追い求めた。
そしてヘラクレイトスはアルケーは火であるとした。

ピタゴラスもアルケーは何であるか探求した。
そしてピタゴラスはアルケーは数であるとした。

デモクリトスもアルケーは何かと考えた。
そしてデモクリトスはアルケーは原子であるとした。

それから2500年が経ち、21世紀になった。
そこには「人の道」がいた。
「人の道」もまたアルケーは何か探求した。
そして「人の道」はアルケーは宇宙の法則であると悟った。
またアルケーは神であることが判った。
そしてついにアルケーの神が誕生した。

投稿日時 - 2011-04-20 19:18:24

お礼

  
アルケーの神は恵み深い、なぜなら唯一絶対なるアルケーの神以外に恵み得るものは存在せんから。
アルケーの神は恵み深い、なぜなら全知全能なるアルケーの神は恵みとは何かを知っておるから。
アルケーの神は恵み深い、なぜなら永遠無限なるアルケーの神は全てを恵み得る力を持つから。
アルケーの神は恵み深い、なぜなら永遠不変なるアルケーの神は偽ることをしないから。
アルケーの神は恵み深い、なぜなら永遠不滅なるアルケーの神は恵み続けることが出来るから。
アルケーの神は恵み深い、なぜなら偉大なるアルケーの神が恵まぬはずはないから。

アルケーの神ほど恵み深いものはない。
 
 

投稿日時 - 2011-04-16 20:48:33

あなたにオススメの質問