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解決済みの質問

旅とは何か

旅とは何か

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思やまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひてやゝ年も暮、春立てる霞の空に、白川の関越えんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取る物手につかず、…」

芭蕉ならずも、漂泊の念に駆られることがありましょう。
また、実際に旅に出ずとも、魂としての旅もあろうかとも思われます。

旅の目的が本質だったり、あるいは、あてもない旅をすること自体がそうなのかもしれません。
旅とは何か、旅人とは何者なのでしょう。 よろしくお願い致します。

投稿日時 - 2010-09-13 22:42:50

QNo.6180625

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

俳句をすこし・・・


風を待つごとく芒の傾げをり

ふと出し森の小径の秋の蝶

ゑのこ草芯まで透けて夕日濃し


芭蕉先生・・・・・添削は・・・無理・・すか

叙情はダメか



小さな旅の小さな句

スケッチブックを離さずに

見つけたらすぐに描こう

消えないうちに

下手でいいから

見たまんま・・・



秋風にさそはれ出し広野かな

花野ゆく一両列車のローカル線

見はるかす森の稜線秋の雲

大刈田捻りゆるやか鳶の舞

秋水に影を据ゑたる峰ふたつ

群雲に月の明りのこぼれをり



写生も・・・いいか

次・・・行こ

投稿日時 - 2010-09-20 19:13:09

補足

hetanosuke様、お礼が遅くなってすみません。
もう少々お待ちを。

>写生も・・・いいか
>次・・・行こ

はい、どうぞ先に行っててね。
すぐに、追いつきますので。

投稿日時 - 2010-09-21 11:21:31

お礼

hetanosuke様、
お礼が遅くなりました。
重ねてのご回答をありがとうございます。

そして、
>風を待つごとく芒の傾げをり

これ、私にとっては初見ではないのです。
何かの質問で、拙文投稿のたしか前か後ろにあったかと。
とても味のある句だと思いますし、
私には到底つくれませんし。

芭蕉先生、いったい何ておっしゃるでしょうね?

>小さな旅の小さな句
>スケッチブックを離さずに
>見つけたらすぐに描こう

hetanosuke様の旅支度で欠かせないものは何ですか。
小さな句をしたためるメモ帳と愛用の筆記用具?
それとも、
スケッチブック?

私は、小さなスケッチブックと水彩画鉛筆です。
rupapo様みたいな素晴らしい写真も、いつか撮ってみたい!
hetanosuke様には、せっかくですから、作曲などにも是非。
ヒマラヤ地方のスピティとか、ラダックあたりだと、
どのような曲調に仕上がるのでしょうね。

この度はhetanosuke様のご回答をまるごと素直に頂戴し留めさせていただきますね。
いずれも旅情たっぷりなのが何よりも嬉しくて。
ほんとうにありがとうございます。

またひとつ先に進みます。

投稿日時 - 2010-09-24 00:20:59

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回答(30)

ANo.30

捕まってしまった・・・

持ち物を出せと言はれて・・・も

ガラクタばっかりで

小さなよごれた手帳が一冊あるだけ

でも、これが無いと大変

いつでもどこでもコソコソやっているのだが

いざ、無いとなるとコンビニやディスカウントへ駆け込まなければならない



メロディを付けてくれる人がいるかもしれない・・・という勝手な思い込みで詩をひとつ



思い出は一束の移ろい

顔を上げれば見知らぬ風景が待っている

新しいといふ名前さえまだ無い

理由は後付けでいいから歩きだそう

ただ訪れる新鮮さよりも

迷って選んだ新鮮さの方がいい

見送る風景は過去にまかせて

さあ旅に出よう



それじゃ、また。

投稿日時 - 2010-09-24 21:22:15

補足

ご回答者の皆々様へ、

今回ほど、BAを付け辛い拙問はありませんでした。
どうして、自分自身で頂いたポイントを、
望みのままに各回答者様へ付与できないのかと、
非常に苛立ちを感じます。

哲学カテの旅ということで、ほんとうに迷ったのですけれども、
辞世の句や詩にこめられた旅心に勇気づけられたので、
その御方へポイントを付与させていただきたいと思います。

本当にどうもありがとうございました。
お一人お一人に心より感謝申し上げます。

投稿日時 - 2010-09-24 23:53:50

お礼

hetanosuke様、つかまえた!

え?

>捕まってしまった・・・
>持ち物を出せと言はれて・・・も

んま。
私は追い剥ぎ?笑

>小さなよごれた手帳が一冊あるだけ
>でも、これが無いと大変
>いつでもどこでもコソコソやっているのだが

フムフム…

>いざ、無いとなるとコンビニやディスカウントへ駆け込まなければならない

なあんだ、
コンビニ常習者だったの~笑

>メロディを付けてくれる人がいるかもしれない・・・

ですよね!
私もいちおう付けさせていただきますね。
とても披露などできませぬが…笑

>見送る風景は過去にまかせて
>さあ旅に出よう

はい! 
わたしを~待ってる~人は~ど~こ~笑

快く最後までお付き合いくださりまして、
本当にどうもありがとうございました!

投稿日時 - 2010-09-24 23:44:11

ANo.29

星野立子もいいです。

望郷や 土塀秋桜 咲き乱れ


秋桜=コスモス

ブラジルへ行った時に作った句みたいです

ブラジルにも土塀があったのでしょう

乱れ、に日系人の思いが込められているような・・・

日系一世といえば、開拓で行ってそのままでしょうから

望郷の念もひとしお、かと・・・



星野立子のお子さんが星野椿さんで、現在も俳句界の重鎮としてご活躍なされています。

椿先生の句もさらっとした嫌味のない感じでいいです。

鎌倉虚子立子記念館なんかいいかも・・・



旅もブラジルまで来てしまった

飛機の旅もわるくない

地球の反対側でも地面には立てるみたいだ・・・

コスモス咲いたら一句つくろう

では

投稿日時 - 2010-09-21 20:44:02

補足

ブラジルですか…!
そりゃあまた、ずいぶんと遠くへ進みましたね。

…なんだか、世界一周すごろくゲームみたい、笑

投稿日時 - 2010-09-22 12:05:01

お礼

hetanosuke様、こんにちは。
ご回答をどうもありがとうございます。

掴まえた!と思ったのに、
サラサラと零れ落ちて、
また遠くへ行ってしまった感じ。 

>望郷や 土塀秋桜 咲き乱れ
>乱れ、に日系人の思いが込められているような・・・

そうよ、きっと恋しくて、帰りたかったでしょうね。
いいなあ、これ。
それにしても、ブラジルは遠いですよ。
船旅で50日間の旅程って。
着いた不慣れな土地で、ゼロからのスタートって、
とても想像できない過酷さだったに違いありませんね。

ちょっと調べてみたら、このような句が。

人の世の秋やしあわせふしあわせ

星野立子の9月の句ですって。
ライフ・カテゴリーにぴったりな感じがシマス。
こんどBSも観てみようかしら。

>鎌倉虚子立子記念館なんかいいかも・・・

はい、ここなら十分日帰りが可能です。
は! 岩船地蔵堂にも行くの、忘れてた=3

>コスモス咲いたら一句つくろう

拙宅の近所では、もう咲いています。
よろしかったら、その一句、次の機会にでもご披露いただけますか?
よろしくお願い致します!
(そうそう、先にご紹介いただいた句の質問は「貴方の死の美学は?」でした。
何で投稿したのか、全く自分でも理由がわからないのですが…笑)

次は、旅の終点かも。

投稿日時 - 2010-09-24 23:16:52

ANo.28

mashumaro2さん、こんばんは。

まず、老婆心から申し上げますが、妙齢の女性が見ず知らずの男に返し歌をするのはたいへん危険な行為だと思いますので、以後お慎みなされますよう。

ところで、「旅」について考えていたところ、不意に倭語の「たび」には動詞がないことに気づいて、たいそう驚かされました。
「恋(こひ)」が「恋ふ」という動詞から派生したように、こんなにも重要な「旅(たび)」という語が、その生みの親に当たる動詞を持っていないというのは、考えれば考えるほど不思議な話ですからね。

この理由を説明しようとすると、遠い昔の倭人たちの頭の中にあった「たび」という語には、travelingという概念は全く含まれていなかったからではないかと結論するしかないですよね。
で、この仮説を裏付けるべく調べてみたところ、白川静さんが、昔は「家を離れることを旅といった」(字訓)と説いていらっしゃいました。
言い換えますと、倭語の「旅」は、もともとは「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」といった、後世には当たり前になった時間的概念は含んでおらず、単に「家」から離れた、ある空間的な一地点に身を置いているという、純粋に空間的な概念だけを示す言葉だったということになりますよね。

こう考えますと、はじめて「旅」に動詞がない根源的な理由も、これを動詞化するには、漢文訓読(倭訳)の必要性から発明された、「概念語+サ変動詞(す)」という人為的な手段を用い、無理矢理「旅(を)する」という語を生み出さざるを得なかった事情も明らかになったと言えるのではないでしょうか。

なお、同様の手段は、倭語ならぬ、古代外来語の「愛」を無理矢理動詞化せんとして、「愛(を)する」という滑稽な漢語・倭語合成語を明治期に発明したときにも駆使されたわけでして、現在、この語が男が女を落とす上で必要不可欠な動詞?となったことについては申し上げるまでもないですよね。
私には、この「愛(を)する」という人造語、人工語に、人間の心の中で最も尊厳性ある心情を逡巡することなく託せる人の神経がいまだに理解できないのです。
かといって、今さら「愛しの○○さん、~」とかと口説こうものなら、相手女性は腹を抱えて哄笑すること間違いないですし。

(閑話休題)

でも、人間である以上、家を離れた一地点に身を置いたからには、早かれ遅かれ、家と現在地との間に横たわる時空の隔たりに興味・関心を向けざるを得なくなり、こうして「旅」が時間的概念をも包摂する語へと変化していったのではないでしょうか。
そこから、「はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」という時間的概念としての「旅」が意識されるまでは一っ飛びだったでしょうし、そうでなくとも西行にしても、芭蕉にしても生来無益に反省好きな詩人だっただけに、必然的に旅のプロセスや中間性などというものの孕む謎に、詮なきことと知りつつ、囚われざるを得なかったのではないでしょうか。

>さんざん妻や女を泣かせる男、それも極上の男性というものは、「旅」によって仕立てられ、洗練されたりなんかして。

だったら嬉しいのですが、「さんざん妻や女に泣かせられてきた男」としては、旅はその傷心を慰めるための現実逃避以外の何ものでもなかったような気がします。

以上、スレ汚し、失礼をばいたしました。

投稿日時 - 2010-09-21 15:39:07

補足

>まず、老婆心から申し上げますが、妙齢の女性が見ず知らずの男に返し歌をするのはたいへん危険な行為だと思いますので、以後お慎みなされますよう。

Pourquoi n'aimez-vous pas "Les Liaisons Dangereuses"?

投稿日時 - 2010-09-21 19:19:14

お礼

kadowaki様、重ねてのご回答、まことにありがとうございます。

>遠い昔の倭人たちの頭の中にあった「たび」という語には、travelingという概念は全く含まれていなかったからではないかと結論するしかないですよね。

このたびも、大変得難い気付きをご教示下さり、とても嬉しいです。
そして「愛」同様の手法についても、なるほどと感じ入った次第です。

酷く自明のことながら、日本の古典にふれるほどに、
漢学/漢文化の測り知れない影響力につき、思い知らされます。
「月日は百代の過客にして~」は、まぎれもなく
「夫天地者萬物之逆旅 光陰者百代之過客…」で始まる
李白の『春夜宴桃李園序』を踏むものかと思われます。

一方では心象風景や観想としての西行らを、
また他方では古典的な漢詩の世界を意識しての
都から遠く離れた遥か遠方への旅というものは、
模倣と独創の相克でもあったのでしょうか。

たった17文字に凝縮された俳句の奥や裏には、
いったいどれだけの想いが潜んでいるというのでしょう。

>倭語の「旅」は…後世には当たり前になった時間的概念は含んでおらず、単に「家」から離れた、ある空間的な一地点に身を置いているという、純粋に空間的な概念だけを示す言葉だった
>早かれ遅かれ、家と現在地との間に横たわる時空の隔たりに興味・関心を向けざるを得なくなり

なるほど、そして横たわる時空の隔たりに対して
次第に微妙な心情が織り交ぜられていったのでしょうね。

余談ながらtravelについては、"travail"が転じて
“to make a laborious journey”となり、
一方、漢字の「旅」とは、旗をたててすすむ軍隊という意味を表し、
軍隊が移動することから「たび」の意味になったそうです。

翻って現代では、travelや旅には、骨が折れ、
進軍するような意味合いとはまるで真逆の
愉しみやリフレッシュ的な意味合いが殆どなわけで、もしかすると、
いまから数十年後、数百年後には、
また違ったあらたな意味が付与されたりなんかして?

>必然的に旅のプロセスや中間性などというものの孕む謎

また随分と難しそうな、でも面白いことをおっしゃるのですね。
その謎って、いったい何なのでしょう。
必然と偶然の織りなす悪戯?

そして謎というか、以下のいずれのどれが最も旅の醍醐味なのでしょうか。
・「旅立つまで」のあれこれ思い巡らす、旅立ちの時
・「旅先で」の思わぬ出逢いや小さな幸運や発見の連続
・「旅から戻って」日常のある瞬間、旅先の事を反芻する
まあもっとも、最後のものはただの旅ボケでサボりでしょうけれども。

>旅はその傷心を慰めるための現実逃避以外の何ものでもなかったような気がします。

業平は旅の先々で女人とかかわったものの、詠じる心のその先には、
いつも妻、奥方の面影を見出していたように思われます。
遠く離れた土地ほどに、望郷の念と共に想いが募ったに違いありません。

手の届かないものほど、逢えない人であるゆえに、
人は理想を重ね、一層それを愛しく想うものなのでしょうね、きっと。

業平のような男がいて、女の色香を上手い具合にひきだしはぐくむのか、
それとも、
そこに女がいるかぎり、業平のような雅な男がフラリと訪れ情を交わして去るのか…

…恋愛カテご常連のkadowaki様にはあまりに容易い宿題かと存じ上げますので、
次の機会にてよろしくご回答の程お願い申し上げます。
そしてほんとうにありがとうございました。

投稿日時 - 2010-09-24 17:34:50

ANo.26

和泉文化もとい平泉文化です。ごめんなさい。

投稿日時 - 2010-09-20 14:12:31

お礼

heartmind様、投稿ならびにお礼が遅くなって、ごめんなさい。
もう少々待っててね。
それと、訂正につき、ご丁寧にどうもありがとうございます。

和泉文化もとい…で、
思わず「和泉元彌(いずみもとや)」を思い出してしまったのは
私だけ…?笑

別にファンでもなんでもないけれど、
そういえば「空中モトヤチョップ」以降どうしているのだろうと思ったら、
次年度のNHK大河ドラマに足利義昭役で出演するようですね。

足利義昭って、乱世の当時にあって、齢60過ぎまで全うした最期の将軍ですよね。
信長によって京都から追われる身となり、
備後国に下向する「旅」の心境とは、いかに…。

格好良いばかりが、人生ではないわけで。
それに、室町という時代性と狂言師、
案外、絶妙な配役のようにも思えてまいりました。
どうなのでしょうね。

では、またのちほど~

投稿日時 - 2010-09-21 11:59:10

ANo.25

マシュマロさんおもしろいのみつけました。

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic23.html

とりあえず藤原氏でつながりましたね。

投稿日時 - 2010-09-19 15:14:30

お礼

heartmind様、こんにちは。
お礼が遅くなってごめんなさい。
うっかり寝過ごさないように早朝から起床し、家族と共にお墓参りのため、神戸へ日帰り旅でした。
あいにくの天気ながら、若干小降りの頃合いに恵まれたのが幸いでしたが。

西行に関するサイトのご教示、ほんとうにありがとうございます。
たしかに、藤原氏でつながっていますね。

西行は奥州へは二度旅行しているようです。
私も新幹線の車内で『西行 白洲正子 新潮文庫』を片手に想いを馳せてみました。

陸奥の奥ゆかしくぞおもほゆる壺の碑そとの浜風

「陸奥に『奥ゆかし』がかけてあるのだが」
「平安時代にみちのくといえば、さいはての国であり、蝦夷の住む未開の原野のように思われていたであろう。 ことに人の心も生活も閉鎖的になっていた平安末期の宮廷人にとって、この謎にみちた辺境の地が、好奇とあこがれの対象となったことは想像にかたくない。 東北地方に歌枕が多いことが、それを証しているが、…」と著してありました。

西行を陸奥へ誘ったものとして、ご指摘の藤原氏の縁、また能因、藤原実方、平兼盛などの歌人たち、
古今和歌集の陸奥歌、あるいは遠い昔の坂上田村麻呂による蝦夷討伐の辺境地に対する多少の「あくがるる心」も多分にあったのではないでしょうか。

またさらに、

「僧の衣に『衣河』をかけて詠んでいるが、ここでも西行は、彼らの身になって涙を流しているのである。「数寄」と「あはれ」は表裏一体をなすもので、名だたる中尊寺で、金色堂や一字金輪には目もくれず、しがない罪人の僧侶たちと語り合っているのは興味深い。 西行の初度みちのく行については、古来さまざまの説があるが、数寄以外にこれという目的はなかったと思う。 そのことを誰よりもよく知っていたのは、5百年後に生まれた松尾芭蕉で、『そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず』という『奥の細道』の序文は、西行の心境を語ってあますところがない。 『五月雨のふり残してや光堂』の句の背後に、西行の涙を想うのは深読みにすぎるであろうか。」

この場合における「数寄」って、いったいどのようなものだったのでしょうね。

陸奥の国へ修行して罷りけるに、白川の関に留まりて、所柄にや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が「秋風ぞ吹く」と申けん折何時なりけんと思出でられて、名残多くおぼえければ、関屋の柱に書き付けける
白川の関屋を月の漏る影は人の心を留むる成けり

白川(白河)の地を久しく訪れていないので、また行ってみたいなあとの思いが募ります。
先人の足跡を辿る旅の題材には事欠かないのが嬉しいですよね。

ご回答とサイトのご教示、ほんとうに参考になりました。
ありがとうございました。また次回もよろしくお願い致しますね。

投稿日時 - 2010-09-23 23:42:59

ANo.24

そうですね、そうでした。
北に果てしなく向かうということが分水嶺を超えることだっていうのは
ずいぶんローカルな話なんですね。
超えたところに別の世界がひらけているっていう感覚とはずいぶん違い
ますね。

関東ローム層の視点からいうと北へ向かうことは、どこまでいっても、
はてしなく山深くなるばかりだから、奥のまたその奥どんどん奥で、
ますます奥まってさびしくなるばかりだから、
そういう感覚でいうと、そぞろがみもずいぶんと、もう少し、ちょっと
した覚悟の上での世捨て人へのいざないの役目になっちゃいますね。

だとしても旅の本質はそんなにぶれていないかも。わかんないけど。

なぜ北なのか、は、想像でしかないけど、関東ローム層くんだり、から
すると旅はざっくり北か西だから、もうひとつの都のほらはききあきてる
だろうから、もっといにしえのかおりのする和泉文化のほうが、
ミステリアスだったのかなあ。

すいません適当なことしか言えなくて。くんだりは冗談ですよ。

投稿日時 - 2010-09-19 14:42:16

お礼

heartmind様、こんにちは。
そして、不躾な拙問に快くご回答下さり、本当にありがとうございます。

>なぜ北なのか

ご指摘の平泉文化は、次のご回答であらためてうかがうとしまして、

>北へ向かうことは、どこまでいっても、
>はてしなく山深くなるばかりだから、奥のまたその奥どんどん奥で、
>ますます奥まってさびしくなるばかりだから

この箇所にとても心惹かれました。
深き山々をしたがえたかの地で、街道の宿場町を一歩外に出れば、
ますます奥まって、たいそう心許なく寂しさが募っていきそうな感じですね。
おっしゃるとおり、たしかに、そぞろがみの誘いも勢い増しそうな。

そして、それって。
どこか、ドイツの黒い森(Schwarzwald)にも通じているのかも。
ロマン主義時代の絵画において、荒涼とした廃墟や、大きな槲の木、
海や山岳風景などの題材が描かれているのですが、
いずれにおいても、とても幻想的に映るのです。

鬱蒼とした森林に足を踏み入れると、
自然の中に自己回帰するというか、
森と一体化することによって、雄大な景観に対し、
相対的に自分を含めた人間が酷くちっぽけな存在に思えてくる感じ。

>旅の本質はそんなにぶれていないかも。

はい、そうなのですけれども、
やはり北(東)か南(西)かによっても、
そぞろがみも誘い方を少々変化をつけていたりして。

>分水嶺を超えること

なるほど、了解です! 次に進みますね。

投稿日時 - 2010-09-22 20:05:24

ANo.23

間違った

遠くへ行きたい・・・でした

知らない町を歩いてみたい・・・

投稿日時 - 2010-09-18 18:10:09

お礼

hetanosuke様、
ご丁寧に、訂正をどうもありがとうございます。

>間違った
>遠くへ行きたい・・・でした

そうなのですが、でもでも、
「遠くへ行くたい?」のほうが、
九州の博多方言ぽいというか、
何とも言えないほのぼのさが感じられて、
案外イイものかもしれませんよ?^^

博多と札幌は、「二度泣き」する地だと、
銀行員時代に聞かされたことがあります。

赴任時に「思えば遠くへ来たもんだ」と泣いて、
帰任の際、あまりに居心地が良くなってしまって、
「帰ろかな、帰るのよそうかな」と泣くので、
だから「二度泣き」らしい、と。

投稿日時 - 2010-09-21 12:09:21

ANo.22

ジェリー藤尾・・・遠くへ行くたい

山口百恵・・・いい日旅立ち

どちらも大ヒットした

歌詞もメロディーもいい

芭蕉におとらず・・・



旅は

移ろいゆく中にあって、移ろいなきものを得ようとすること

永遠の中の一瞬を刻みつづける・・・進行形



秋なので

菊の香や奈良には古き仏たち

秋風や藪も畑も不破の関

荒海や佐渡に横たふ天の川

なんかも


行ってみますか

行くのが旅

投稿日時 - 2010-09-18 17:51:46

お礼

hetanosuke様、こんにちは。
お礼が遅くなりました。すみません。

「遠くへ行きたい」は、昭和37年の曲なのですね。
まだ、生まれていなかったけれども、出だしのサビの部分は存じております。
でも、この男性(ジェリー藤尾)が歌った曲だったとは。

で、歌詞を見たら…
1番:夢追い人として遠い知らない街に行きたいと願う
2番:愛する人と巡り逢うために、遠い街へ行きたい

1番2番で少々旅のニュアンスが異なるように感じたのですが、
でも、おっしゃるように「行くのが旅」なのでしょうね、きっと。 

「いい日旅立ち」の流行った当時は、
ちょうど小~中学生になったかどうかの年頃で、
谷村新司が作詞作曲だと、いまあらためて気付きました。

歌を道連れに…か。
いずれの曲も、詞が特に素晴らしいと思いました。

そして、これらの歌謡曲って、少なからず、
西行や芭蕉の系譜を辿れるのでしょうか。 
どうでしょうね。

>旅は
>移ろいゆく中にあって、移ろいなきものを得ようとすること
>永遠の中の一瞬を刻みつづける・・・進行形

移ろいの中の永遠って何でしょうね。
生々流転の中で進行形の旅人が得るものっていったい、それとも、
「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまる例しなし」と
旅人が川岸にふと立ち止まり、水鏡に何かを見出すものだとか。

>菊の香や奈良には古き仏たち
>秋風や藪も畑も不破の関
>荒海や佐渡に横たふ天の川

思わず「行ってみますか」「はい」と、誘われたくなるものばかりですね。
「荒海や~」は、先人を想い、心象の景観を見立てているのかしら。

日本の四方は海に囲まれてはおりますが、
太平洋、日本海、瀬戸内海、オホーツク等々、それぞれが異なり、
四季折々でもまた、趣が様変わりするのですよね。
…そして、尖閣諸島の周辺海域も穏やかであってほしいです。

ご回答をありがとうございました。
次に進みます。

投稿日時 - 2010-09-22 17:34:24

ANo.21

 ANo.20:投稿爺じい
 
 江戸四十八組のかしら、纏持ちじゃなくて、一番筒先って持ち場。
 俺っていわなかった。“あ(タ)しゃねぇ、川からこっちぁ仕事したこたぁねぇよ”
 おじさんのいう川は荒川と綾瀬川。隅田川と荒川の間の北千住や向島では仕事した。 

 漬物っていわないなぁ。おしんこですね。
 ちなみに“しんでめ”。一定の範囲の地域(昔は広く、蓮池がいくつもありました)。新田前。
 なんだと思いますか?“しんでめいなり”。つまり大きくなって扁額が読めて“新田前稲荷”

 原宿には隠田っていう地域があり、町名になっても居ましたが、“しんでめ”は区域もはっきりしないし、人も住んでいないし、町の名前にも為りませんでした。

投稿日時 - 2010-09-17 09:11:18

補足

またよろしくお願い致します。←また忘れました。

投稿日時 - 2010-09-22 11:53:56

お礼

krya1998様、またまた遅くなりました、すみません。
ご回答をほんとうにありがとうございます。

>私は浅草生まれ、育ちですが、戦災で小3より荒川と隅田川を越えた地域
>向島ですから、隅田川と荒川に挟まれた地域です。
>江戸の川々で井戸端に運ばれる魚
>大川(隅田川のこと)をわたったら江戸じゃねぇ。
>旧(ふる)綾瀬川の真ん中を境にする
>川からこっちぁ仕事したこたぁねぇよ”
>おじさんのいう川は荒川と綾瀬川。隅田川と荒川の間の北千住や向島では仕事した。 

なんといっても川のお話がとても私の心に残りました。
東京における川の果たしてきた大きな役割と、
人々の暮らしの下支えにつき興味深く拝見させていただきました。
>江戸四十八組のかしら、纏持ちじゃなくて、一番筒先って持ち場。←面白いですね

行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。

川は、こちらの岸とあちらの岸という異なる世界を隔てる境界であり、
その上にかかる橋も結界のような意味合いとして、
古くから運命的な人の出逢いと別れ、さらには
死生観をはぐくんだ超常的な空間だったのでしょうね。
そういえば「戻り橋」などというのもありました。
krya様のお近くにも小さな橋やその名残などありますか。

それにしても、何かもったいない気も致します。
東京の街の発展に欠かせなかったにせよ、
高速道路や河川運河の埋め立てによって失われたものもかなり多そうな。
江戸湾の大きな大きな湿地帯にやってきていた鳥たち、
いったいどこへ旅立っていったのでしょうね。

>漬物っていわないなぁ。おしんこですね。
>ちなみに“しんでめ”。

ん~。何ともいなせな感じですね。 
そういえば「佃煮」って、佃島の由来でしょうか。

新田、隠田…当たり前のことながら、交易のみならず、
川はかけがえのない稲穂の恵みをもたらしている(た)のですよね。

旅の醍醐味というものは、
旅程の遠近や日数云々ばかりではないのだと、
あらためて気付かされました。
歩みを一歩前に進めることって、そのまま人生と重なりますね。
日々、小さな発見や再認識の連続で。

あかあかと日はつれなくも秋の風
今日はまた少し暑くなるそうですね、御身お大切に。

投稿日時 - 2010-09-22 11:52:48

ANo.20

 mashumaro2さんは何処に?
 ANo.12:
 ロマの方の写真はみました。ロマであった方も直接はしりません。
 サンカであった方には幼児期可愛がられました。ここで名前は出せません。
 私は浅草生まれ、育ちですが、戦災で小3より荒川と隅田川を越えた地域、松戸の間に居住し、全く自然児で過ごし、中学・高校は日光街道最初の関所。
 そして向島ですから、隅田川と荒川に挟まれた地域です。
 いい店って、お江戸は刺身と蕎麦です。いずれも下りもの醤油に頼らずに下らない醤油が千葉でできるようになり、何百樽を関西から下らす必要がなくなりました。
 汁の中で煮込んだような饂飩は、職人の生活にあいません。熱くちゃぁいけない。
 箸でちょいと持ち上げ濃い目のたれにちょいとつけて、啜る。
 江戸の川々で井戸端に運ばれる魚は生、この紫は関西の醤油では駄目です。
 いい店は所詮、気分と意気でしかない。どんな選び方をしますか?マシュマロさんは。

 ロマは知らないが、遍歴の箕作り、川漁師たち。定住者を“なんだ、此の人たち?”っていう感覚のようです。
 私の拠点の所謂る寅さんのところ、小菅の刑務所(東京拘置所:ここは将軍が狩にでると、お邸としていました)あたりは将軍の狩場です。狩場をもてるのは朝廷と将軍だけ。
 ここで数ヶ月、軍事演習・デモンストレーションの狩をして、白鳥を獲り、直ぐにわたをとり塩をつめ、早馬で禁裏に届ける。
 禁裏はお吸い物、お公家さんたちの。
 白鳥番の旗本や御家人が任命されていました。
 お花茶屋(将軍が腹痛になったとき、お花坊の茶屋でお世話になった、お花ちゃんの御茶屋)駅の隣りが、将軍の白鳥が取れたところ。
 ここらは日本中の鳥がきていた。この狩の数ヶ月、定住民は肥溜めは蓋、洗濯物罷りならぬ。
 人は数人で歩くな、出るな。って不自由だったそうです。
 遍歴の鳥追いやご商売の方は、立ち入れません。音も出せません。
 
 向島が文人たち、そして昭和期、掘削した荒川は地続きでしたが、菖蒲と野菜を育て、江戸びとの行楽に供しました、そういう地域です。江戸湾の大きな大きな湿地帯地域です。
 帰りにやさいなどを買っていってもらうのです。
 鳥追いさんをお嫁さんになってもらった、四十八組のかしら、股だけ残して彫り物(刺青は科人のやるもの)。
 風呂に早くにきて、私達が水をうめると、怒る。
 せんべぇ食いにおいで。って呼ばれて恐る恐るいったら、長火鉢を間にして座らされ、いろいろな話。
 最初のメーデーにいったことなど。読書家。長火鉢にたくさん引き出しがあって、いろいろ出てくる。
 鳥追いの小母さんはとても優しかった。小父さんも。三味線が二さお。時折聞こえる、ご近所さん。
 小父さんこの辺でしごとしとこどこ?ときいたら。おれ川からこっちはしごとしねぇ。
 大川(隅田川のこと)をわたったら江戸じゃねぇ。っていうこと。
 江戸も開発されて、与力困ったそうです。それで何処まで江戸かを決めてもらったそうです。
 旧(ふる)綾瀬川の真ん中を境にする、っていう裁きだそうでした。
 言葉はお江戸の方言。今、話す人は、古い近所でおねぇさんと呼ばれている髪結いさんがそんなことば。後はいません。
 いい店、向島は今はないけど。好き好きでね。

 風、流れ。何処からともなく、そしてどこかへ。無根拠。だから逆らわない。
 芭蕉庵、向島の百花園の中にもあるんですよ。都立になっちゃった。
 そう漬物が美味しい料理だしてくれます。風流っていうのにはいい雰囲気かな。
 近所もお寺や花町跡。そして学校だし、住宅だから。
 高速はここを通っていないし。ひとりではねぇ。ちよっと一杯ではないから。
 会合ですね。現役のとき館長以下、図書館全員(三人しかいない)で行きましたが。

 神田や駒込、御徒歩町ならあるけどなぁ。好き好きですから。

投稿日時 - 2010-09-17 08:22:05

お礼

krya1998様、こんにちは。
お礼が遅くなりまして、ほんとうにすみません…。

>mashumaro2さんは何処に?

一瞬、きょとん!としてしまいましたが、
ああ、「私の生まれた街」のことですね?

東京の幼稚園に入園するまでの数年は香港で過ごしました。
返還前に観光旅行で訪ねた記憶しかありませんけれども。
向島百花園まではどうでしょう、銀座線で浅草経由になるのかしら。

>ロマの方の写真はみました。ロマであった方も直接はしりません。

先日、朝のBSニュースで、フランスA2が放送されていました。
サルコジ仏大統領によるロマの国外送還問題につき、
9月20日付け毎日jpの記事の一部を以下に記させていただきます。
 
「仏のロマ帰還問題 仏では7月、国内を放浪するロマとは別の「非定住者」の暴動が発生。
これを機に仏は、やはり放浪の民であるロマの不法キャンプ撤去と故国送還の方針を表明。
送還者数は今年約8000人と、昨年1年の約1万人をしのぐペースで、
国際社会から「差別」と強く批判された。
ロマはインドが起源とされ、欧州には推定1000万人以上が在住。差別の対象となってきた。」

放浪の民のロマ問題、
やはり「旅」のくくりでは、とても収まりきらない様相を呈しているのですね。

>私は浅草生まれ、育ちですが、戦災で小3より荒川と隅田川を越えた地域、
松戸の間に居住し、全く自然児で過ごし、中学・高校は日光街道最初の関所。
>そして向島ですから、隅田川と荒川に挟まれた地域です。
>江戸の川々で井戸端に運ばれる魚は生、この紫は関西の醤油では駄目です。

東京は大都会ながら、実際のところは田舎者の集まりなわけでして。
でも、krya様は生粋のバリバリの江戸っ子、
大変粋な御方でいらっしゃるのですね。
「せんべぇ食いにおいで。」のせんべいは、
醤油味で厚みがあって、噛みごたえがありそうな。

私の場合、父方が関西、母方が北陸、主人の実家が九州ですので、
嗜好のほどは、粋も統一感も全くあったものじゃあありません。
魚や天ぷらなど、塩でいただくことが多いのですが、でもやはり、
江戸前のものは香り高い濃口醤油が当然合うのでしょうね。

>私の拠点の所謂る寅さんのところ

そうっか、「寅さん」がいましたね、日本一の旅男!

で、こんな質問を見つけてしまいました。
「「男はつらいよ」の寅さんはいつも良いところまで言っているのに最後には振られます。
なぜでしょうか? 」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/817070.html

回答No.6に惹かれました。
「寅さんは、永遠の漂泊者の象徴として描かれています。
われわれは、結婚などの小市民的な日常性にいかりを下ろしたがごとき幻想を持っていますが、
常に安住のできぬ旅人だというところが、肝です。」

そうっか、だから寅さんは、永遠に独身、真に安住なき《旅人》だったのですね。

でも、案外、
映画のタイトル「男はつらいよ」は、
結婚という小市民的にいかりをおろした幻想の囚われ人である
夫族のためのものだったりしてね?^^

投稿日時 - 2010-09-21 10:19:09

ANo.19

>旅とは何か

と問われても、自分にはすぐに明快に答えられないことが分かり、しかたなく、次に「なぜこの問いが明快に答えられない難問なのか?」と問うてみたところ、古来、しばしば旅は人生の比喩として語られてきましたが、もしかして「人生の方こそ旅の比喩にすぎないのではないか?」という気がしてきました。
ちょうど、ニーチェが「音楽にくらべれば、むしろあらゆる現象は比喩にすぎない」(『悲劇の誕生』)と喝破したように。
でも、芭蕉にとっては、これも言わずと知れたことだったかもしれませんね。

ところで、私の場合、ちょっとした小旅行をして帰宅したときに、一種の《戸惑い》のような感覚に捉えられることがあります。

一つは、数日ぶりに旅先から戻り、自宅の玄関に入ったとき、住み慣れた自分の家のはずなのに、一瞬、まるで間違ってよその家にでも入ったかのような、微妙な違和感を覚えることです。
もちろん、それは一瞬でしかなく、すぐにこの違和感は消滅し、もとの惰性的な生活感覚を取り戻しているのですが。

もう一つは、たとえ数泊程度の小旅行であったにせよ、それがはじめての訪問地への旅だったり、旅先で印象深い経験をしたりした場合には、帰宅してしばらくの間、身体の方がもっと長い間家を留守にしていたかのような感覚を引き摺っていることです。
で、リビングのカレンダーを見て、「エッ?たった3日間しか経ってないんだ、なんだかもっと経っているような気がするんだけど....」と驚いたりするのです。

以上、旅にまつわる私のささやかな体験です。

ついでに、旅を読んだ数々の名歌の中でも私が一等愛誦してきた、哀切きわまりない一首を紹介させていただきます。

 からごろも着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ   業平

もっとも、人一倍ひがみっぽい私としては、さんざん妻を泣かせた男でなければ、こういう秀歌はまず詠めないはずと勝手に思っております。

投稿日時 - 2010-09-17 03:47:57

お礼

kadowaki様、こんにちは。

>旅とは何か
>と問われても、自分にはすぐに明快に答えられないことが分かり、しかたなく、次に「なぜこの問いが明快に答えられない難問なのか?」と問うてみたところ

「旅は旅に決まっているでしょう!」とおっしゃりそうなkadowaki様、
拙問にお付き合い下さり、嬉しく思います。

でも、「旅とは何か」って、難問なの?

>「人生の方こそ旅の比喩にすぎないのではないか?」
>ニーチェが「音楽にくらべれば、むしろあらゆる現象は比喩にすぎない」(『悲劇の誕生』)

そうっか、誰彼気付かずとも、芭蕉自らはそれを知り得ていたというわけですね。
それにしても、芭蕉を旅へと駆り立てたのは、そゞろ神の仕業もさることながら、古の先達の影響もあったと思うのです。
西行なんて、草庵にあっても「旅」していたのではないかなあって。
隠遁生活を過ごしながら「修行」を続けていたのかもって。

その、一か所に定住しながらも、旅をしたり、あるいは心に描く観念の景色を愛でたりするのって、
やはり歌人の世界を喚起せざるを得ません。

>一種の《戸惑い》
>一瞬、まるで間違ってよその家にでも入ったかのような

面白いことをおっしゃるのですね。
よその「家」ならまだしも、よその「妻」なんて、笑
まあ、愛妻家のkadowaki様には、想いもよらぬことですね。

>「エッ?たった3日間しか経ってないんだ、なんだかもっと経っているような気がするんだけど....」

まるで、浦島太郎になったようなご感想ですね。
それだけ日常と旅の非日常との差を瞬時に覚られたのかも。
浦島太郎の玉手箱、そして白髪というのは、
それだけきっと、竜宮城と住屋が雲泥の差だったことを物語っているのでしょうか。
しかも、おとぎ話はkadowaki様とは逆で、
「エッ?もうそんなに気の遠くなるような年月が経っていたの?」なわけでして。
どうして結末が異なるのかなと、ふと思ってしまいました。

>からごろも着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ

東京に「業平橋」ってあります。
通った時、ちょっと感動しました。 
だって、伊勢物語が好きだから。
あの辺りが舞台だったようですね。

さんざん妻や女を泣かせる男、それも極上の男性というものは、
「旅」によって仕立てられ、洗練されたりなんかして。

名にし負はば いざこことはむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

それとも、奥様が無理なら、他の女性の一人や二人、泣かせてみたらいかが? 
なんちゃって、笑

ご回答をありがとうございました。
またまた、減らず口を叩いて申し訳ありませんでした、お許しを。

投稿日時 - 2010-09-19 00:09:22

ANo.18

やっぱり「帰るところがあるお出掛け」で、
やっぱり旅は「お出掛け」に過ぎないのでしょうか。

「帰る場所の無い旅」はあるのでしょうか。
ちょっと悩んでしまいます。

あてが無くっても、何処かに「自分の中心」があるから「旅」なのかなあ。

だからこそ、それを振り切りたくて出て行くのも、旅です、ね。

「次の居場所」を見つける為に、というのもひとつの旅かもしれません。

「死出の旅」って、あれもやっぱり「家」から「死」へ、
自分の居場所を移動?変更?する為のものなのかもしれません。

自分の中心を持たずして、人は生きられないのかも知れません。
その中心は直接的には「心の中」であり、
媒体として「誰か」だったり「何処か」だったりするのかなあ、と思いました。

先日糸切り凧のように家出をした、不良妻です。苦笑
帰る場所があるから嬉しい事も、帰る場所があるからこそ苦しい事も、あります。
どっちが良いのやら。。。
なかなか糸を切っては貰えないみたいです。

投稿日時 - 2010-09-16 21:34:06

補足

夫を追い出したのは、数年前の一回きりです、誤解のありませんように、笑

投稿日時 - 2010-09-17 22:53:58

お礼

yukkinn66様、こんにちは。

>なかなか糸を切っては貰えないみたいです。

そりゃあそうでしょう~
いいなあ、可愛いお子さんが3人もいらして。
しかも若いママで。羨ましいです、ほんとうに。
私なんて、下の子に申し訳なくてね、苦笑

>「帰る場所の無い旅」はあるのでしょうか。
>ちょっと悩んでしまいます。

そうですよね、ちょっと考えちゃいますよね。

以前、パリのとあるクレジットカード会社のラウンジにて、
メトロの切符やらこまごまとしたものを用立てていた際に、旅行者風でないお爺ちゃんが姿を現したの。
で、どうやら、カード・ホルダーでもないのにしょっちゅう顔を出して話をしていったり、
ドリンクサービスを受けたりしている感じね。

受付の女性たちも感じが良くてむげには出来ず、ちょっと困った感じにも見受けられましたけれど、
どうやらそのお爺ちゃん、帰る旅費も身寄りも無いって。
ほんとうにどうやって生計を立てて暮らしているのだろうって思ってしまいましたよ。
日本に帰りたいけれど…という話もしていました。

あとはね、昔渡仏していた際に、師事した先生が干されたとかで、
推薦を受けられない日本を飛び出し、フランス各地の楽団を転々とする演奏家とも知り合いました。
腕一本で渡り歩くとのこと、才能ある若い人たちにポストを奪われることももちろんあるそうで、
小さい赤ちゃんと奥さんがいてね、
家族を養う関係上不安も半端じゃないって話してくれたりしましたよ。
企業の海外転勤なんかではなくって、遠い外国の地で自らの才能だけで切り開いていくって、
日本にいてはとても想像もつかないような苦労があるに違いないの。

それに、旅行って普通は期限が区切ってあるでしょう?
いつ戻れるかわからないというような「帰れない旅」というのも、
「帰るところがない旅」同様に、とても辛い面があると思われます。

まあね、人の幸せなんて、他人から見たら知る由もないのでしょうけれども、でもそれでも、
すぐ身近に帰れるところがある、待っている人、自分を必要としてくれる人、
支えになってくれる人がいるというのは、凄く幸せなことだと思うのですよ…。

…な~んて、家出不良妻どころか、主人を追い出しちゃったことのある悪妻(=私)が、
とても偉そうに言える立場ではないのですけれどもね、苦笑

>あてが無くっても、何処かに「自分の中心」があるから「旅」なのかなあ。
>だからこそ、それを振り切りたくて出て行くのも、旅です、ね。
>「次の居場所」を見つける為に、というのもひとつの旅かもしれません。

はい、そうですよね。
そぞろ神に誘われて旅に出たくなるのか、
宿主の内に旅が憑依しているのか、いずれにしても、
しがらみを振り切りたくもなりますよね、しかも突然だったりして。

>「死出の旅」って、あれもやっぱり「家」から「死」へ、
>自分の居場所を移動?変更?する為のものなのかもしれません。

ん~、それは単にイメージ的にというか、古代エジプトの墳墓の出土品のような、
いわゆる船の模型を想い浮かべたのです。
来世信仰と絡んでいそうでしょう?
でもおっしゃる通り、古の彼等は自分の居場所を移動するものと信じていたのでしょうね、きっと。

>自分の中心を持たずして、人は生きられないのかも知れません。
>その中心は直接的には「心の中」であり、
>媒体として「誰か」だったり「何処か」だったりするのかなあ、と思いました。

はい。自分の中心(心の中)をつよく持つのはもちろんのこと、
「人」という字の如く、誰かや何処かを媒体やら拠り所にして生きているのではないでしょうか。

ああそっか、時に家出をしたり、夫を追い出すことで、
いったい誰を媒体やら拠り所として生きているかを確認できるということかもね?!

そして、私は、あなたの文章をお手本として大いに学んでおりますので
(詩的なニュアンスのセンスの良さとか、とても真似できるものではありませんけれども)、
今後とも、お手隙のときにでも結構ですので、こちらのサイトに今まで同様に投稿していただけたら、
私の拠り所&支えになりますので、今後ともどうぞよろしくお願い致しますね。
(毎度厚かましいお願いばかりでスミマセン)

ご回答をありがとうございました^^
気温の寒暖にはご用心なさって下さい。




 

投稿日時 - 2010-09-17 22:52:03

ANo.17

雪解け間近かの 北の空に向かい・・・・・
いい日旅立ち・・・してみたい
日本のどこかに・・・いるだろう

夢でしょう
夢に変えて、やっぱり夢だったという後悔のなさ・・・
この世の自分にあたえられた時間を確かめる
もう一度生まれ変わったように
すべてが始めてのことばかり・・・
幸せと名付けるもののない幸せ・・・の始まり

投稿日時 - 2010-09-16 21:16:28

お礼

hetanosuke様、こんにちは。

>雪解け間近かの 北の空に向かい・・・・・

ご指摘どうもありがとうございます♪
この歌も、やはりあらためて思えば、「北」を目指していたのですね。

そうそう、この曲も。
「北へ帰る人の群れは 誰も無口で…」も「北」でしたね。
南に向かう歌って、ありましたっけ?
なぜか郷愁を誘うのは「北」なイメージなのですけれども、独善的でしょうかね?

>夢でしょう
>夢に変えて、やっぱり夢だったという後悔のなさ・・・

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
夢とおっしゃりたいの?

「夢だったという後悔のなさ…」というくだりも、すごく不思議に感じます。
仮に、時間や空間が旅人だとして、己が宿主で。
現の生涯を夢だったとする…
う~ん、ちょっとこんがらがってきてしまいました、すみません、笑

>この世の自分にあたえられた時間を確かめる
>もう一度生まれ変わったように
>すべてが始めてのことばかり・・・
>幸せと名付けるもののない幸せ・・・の始まり

ああ、なるほど、
旅を機に、もう一度あたえられた時間を確かめる。
旅先で己にリセットをかけるだけではなくて、それではなくって、
旅の始まりがまっさらな白紙の意味合いを持つのですね。
白いキャンバスにめいめいが心模様を描いていくのでしょう?

>幸せと名付けるもののない幸せ・・・の始まり

う~ん。
旅=100%幸福感ばかりとはいかないけれど、
旅の始まりはきっと、その萌芽なのでしょうね。

hetanosuke様の詩的な世界を汚してしまったのなら、お詫び致します。
すみません、ニブくて足りなくて。

でもね、旅が夢と交錯するのは、とても良くわかりました!!

>いい日旅立ち・・・してみたい
>日本のどこかに・・・いるだろう

はい、いい日旅立ち、してみたいですよね。
そして、日本のどこかに・・・いるだろうと思いたいです。 
この期に及んで、厚かましいでしょうかね、笑

またよろしくお願い致します。
ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2010-09-17 20:48:29

ANo.16

 哲学的とかなんとか、しきりに気にされる方がおられるかも知れませんが、実は私も世の中で哲学的っていうのをあまり分らないで、投稿しております。

 (1)わたしが人生なりの旅行をしているとき、私って何だ、誰だこの人は?って思うことが頻りです。
  自分の手足やを眺め回しこれって誰だとか、ここはどこだと周りを不思議に思って見回した、最初の経験は小学校に3年生のときでした。

  今は自分を生きて、感じ、経験し、認識しているのが自分ではなく、その自分ではないものがその結果を反射しているのだと思っています。

 そういう存在が自分を自分の思うようにさせながら、ずぅっと旅して見物しているのだなぁと思っています。

(2)質問文には細道が掲げられています。
   芭蕉はどうして、“細道”なのですか? 
   そしてどうして“奥”なのでしょうね?
   “通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道だ”ていうわらべ歌。
   参道ですから、細道ですね。産道かもしれません。
   異界から異界への細道。気の狂ういそうな異界。
   私達は異界に入って、異界から異界へと転生し続けるのでしょうか?

   中島敦の話にも、虎になったり、桃源郷とか。
   難破して助かった島の住人が自分の実家にくる燕の世界だったり、親子の熊が人間になたり、ありますね。
   いろんな異界経験ですね。
   そんな思いで、人生の夢想、異界経験をしている感じになるのです。
   だから、もっとも普通、白鳥入蘆花(湖人のことば。白馬だと臨済の偈にあるのでうね)。
   そして或いは鼓腹撃壌の世界。もっとも希薄の向こうの無。
   更に有がないという無を通り越した無、非創造界世界。
   そこに何も纏わない、自分の本源があると思っています。
   そこにたどりついたとき、旅も途中で、終了するのだと思っています。

   細道って、産道、参道かな、なんって語呂合わせを考えています。

   マシュマロ2さんのコメントで目を醒ましたく、期待しておりますが。
   どなたの何の質問に投稿しているのかもうわからなくなりそうです。
   哲学が偉い学問かどうか知りません。
   そして私も哲学の質問であるということ考えられずに投稿しますが、どうか寛大にお認めください。

投稿日時 - 2010-09-16 17:53:25

補足

哲学のど素人(=私)に多くのご教示、いつもありがとうございます。

投稿日時 - 2010-09-17 19:50:07

お礼

krya1998様、再度のご回答をどうもありがとうございます。

>今は自分を生きて、感じ、経験し、認識しているのが自分ではなく、その自分ではないものがその結果を反射しているのだと思っています。
>そういう存在が自分を自分の思うようにさせながら、ずぅっと旅して見物しているのだなぁと思っています。

このくだりは、まるで、肉体から意識が離れ、傍観したり見物しているという意味に思えました。
拝見していて、ちょっと不思議な心地が致します。

>芭蕉はどうして、“細道”なのですか? 
>そしてどうして“奥”なのでしょうね?
>“通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道だ”ていうわらべ歌。

!!なるほど、そうですよね。
”奥”はとりあえず「奥州」だとしても、なぜ細道なのでしょうね。 う~ん…。

>参道ですから、細道ですね。産道かもしれません。
>異界から異界への細道。気の狂ういそうな異界。
>私達は異界に入って、異界から異界へと転生し続けるのでしょうか?

先のご回答で、krya様の理想となさる旅が、どこか険しい道を想起させるものだったので、
やはり、ただ楽しいだけの物見遊山とは一線を画す精神性が感じられる気が致します。

奥の細道には、修験僧さながらに、細く異界のような参道の道程を経る芭蕉なりの独自性というか、求道精神、観察というか見立ての意識が込められていると思います。
そぞろ神に自らを差し出し、まるで肉体から精神を離脱させ、四季折々の自然の美景の中に自らの旅を観照させているかのように映ります。

そしてもちろん、苦難の道を抜けたあとに広がる光景に転生的な浄化も得られたのではないでしょうか。

>中島敦の話にも、虎になったり、桃源郷とか。
>難破して助かった島の住人が自分の実家にくる燕の世界だったり、親子の熊が人間になたり、ありますね。
>そんな思いで、人生の夢想、異界経験をしている感じになるのです。

はい、まったく人間の夢想、幻想/想像力とは豊かで素晴らしいものですね。
おとぎ話や寓話の類って、少なからず故郷、母体回帰的なものを目指しているのではないでしょうか。

>白鳥入蘆花
>鼓腹撃壌の世界。もっとも希薄の向こうの無。
>そこにたどりついたとき、旅も途中で、終了するのだと思っています。

このkrya様のくだりを拝見していて、芭蕉の最期は何を回想していたのだろうかとも思う次第です。
いえ、回想ではなくて、志半ばの旅の途中だったのかしら。

この後もご回答を頂戴しております。
ほんとうにいつもありがとうございます。

投稿日時 - 2010-09-17 19:48:23

ANo.15

こんにちは。

哲学カテゴリーの質問に、哲学のわからない私が回答していいのか、と悩みましたが、回答させていただきます。

私の旅は日帰りがほとんどです。
たまには旅館にとまって、おいしいもの食べて、温泉にはいってゆっくりしたいなあ、などともいますがなかなかそういう時間がつくれなくて。

私は道端に置かれた一見ありふれたように見える石仏にも、何らかの意味があってそこにあるのではないか、と思っています。
そしてその意味を考えることが私の旅の目的です。

なので家を一歩でればもう旅の始まりです♪

以前、マシュマロさんに回答いただきましたっけ、鉢の中のお地蔵さま、のようなものです。
(あのときはありがとうございました!)

最近は、京都の六道の辻にある西福寺の門前にある布袋の石像が、京都の盆歌を意味しているのではないか、ということを発見しました。

京都の盆歌とは次のようなものです。

さのやの糸桜 盆にはどこもいそがしや 
東のお茶屋のかどぐちに 赤前だれに繻子の帯 
ちょっと寄らんせ はいらんせ
きんちゃくに 金がない のうてもだんない はいらんせ 
おう辛気 こう辛気 よいさっさ よいさっさ 
これから八丁 十八丁 八丁目のこぐりは こぐりにくいこぐりで 
頭のてっぺん すりむいて 一貫膏薬 二貫膏薬 
それで治らな 一生の病じゃ

で、西福寺の布袋像は片手で頭をさすっています。
いろいろ調べてみたら、子供が片手に小皿をもって布袋の頭をさすっているような像もつくられていました。
小皿には膏薬が入っていて、子供が布袋に膏薬を塗っているところなのでは・・・。

どちらかというと私の手法は、鑑賞ではなく、観察ですね。
これは「絢爛たる暗号」という書物を書いた織田正吉さんの手法に倣ったものです。
ご存知かもしれませんが、織田正吉さんは百人一首を鑑賞するのではなく、観察するという手法で百人一首はクロスワードパズルであるという説を発表された方です。

旅とは何か。旅人とは何か。
そうですね・・・・旅とは観察である、旅人とは観察者である、と言っておこうかな。

それから、地元の人とのふれあいが嬉しいですね。

枝垂れ桜の美しいお寺を発見したのでよってみたら、檀家さんたちが花見の酒宴を開いておられまして、おにぎりやおでんなどたらふくご馳走になったこともあります。(ありがとうございました。)
祭の起源や寺社の縁起などを説明してくださる方もいます。
普段は公開しておられないみほとけを拝ませていただいたこともあり、そのときは大感激でした。

あー、やっぱり哲学的な内容にならずすいません。

それから芭蕉の言葉はとても興味深いですね。
蜘蛛の巣がはると、愛しい人が会いにくるという言い伝えがあったと言います。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sotoori.html

それからなぜ芭蕉はそぞろ神にとりつかれたのでしょう。
道祖神はなぜ芭蕉をまねいたのでしょうか。

芭蕉についていろいろ調べてみたくなりました。

投稿日時 - 2010-09-16 14:24:51

補足

>哲学カテゴリーの質問に、哲学のわからない私が回答していいのか

そんなご謙遜をどうかおっしゃらないでね。
だってそれこそ、私なんてどうなっちゃうの?となりまする、笑

投稿日時 - 2010-09-17 19:54:23

お礼

rupapo様、こんにちは。
その後もライフ・ワークを愉しんでいらっしゃるようで、嬉しく拝察致しております。

>私は道端に置かれた一見ありふれたように見える石仏にも、何らかの意味があってそこにあるのではないか、と思っています。
>そしてその意味を考えることが私の旅の目的です。

はい、そしてその楽しさが、またこちらにも伝わってまいりますよ。
rupapo様の旅の本質は、意識的に立てる「見る旅」「歴史発見の旅」なのかなあって。

>最近は、京都の六道の辻にある西福寺の門前にある布袋の石像が、京都の盆歌を意味しているのではないか、ということを発見しました。

え、そうなのですか! まったく気付きもせず。
主人と六道の辻を「そぞろ歩き」したのですよ、面白かった!
『幽霊子育て飴』、懐かしい感じのする味のべっこう飴ですよね!←ザ・おのぼりさん

で、rupapo様の手法を真似て写真を撮ってはみたものの(@六道珍皇寺)、
閻魔様の鏡が乱反射してとんでもない画像になったり、あるいは、あの世へ伝うという井戸、
あれも遠く豆くらいにしか扉越しに見れなくて…。
あの辺りって、夜歩いたら、ちょっと「遭遇しそう」な怪しさが漂っていそうで。

でもね、あらためて思ったことは、rupapo様の旅のスタイルを真似しようと思っても、なかなかできないのだなあってこと。
気付くことが出来ずに、いつの間にやらもうお寺を後にして歩いているというか。
つくづく、旅の形は十人十色なのだなあって実感した次第です。

…え? 布袋と髑髏ですって?
「小皿には膏薬が入っていて、子供が布袋に膏薬を塗っているところなのでは・・・。」も鋭いですね。
京都の盆歌、たしかに18禁ぽい、
というか、いつの頃からの歌なのかは存じませんけれども、
花街の遊女文化が身近なもので、京文化の一角を担っていたということかもしれませんね。

>「絢爛たる暗号」という書物を書いた織田正吉さんの手法に倣ったものです。
>観察するという手法で百人一首はクロスワードパズルであるという説を発表
>旅とは観察である、旅人とは観察者である、と言っておこうかな。

なるほど、そうだったのですね。
手法に倣うとは言っても、やはりセンスも推理力も必要でしょうし、
「旅は観察である、旅人とは観察者である」とおっしゃるあたりに迷いの無さが感じられます。
テーマや観察材料は無尽蔵、でも、あとは「拝観料」がネックですよね、たしかに。

>それから、地元の人とのふれあいが嬉しいですね。

はい、ここは声を大にしておかないとね。
やはり、旅人と旅人(いや檀家?)、
そしてお寺の方々との「人のふれあい」も旅の醍醐味ですよね。

>それから芭蕉の言葉はとても興味深いですね。
>蜘蛛の巣がはると、愛しい人が会いにくるという言い伝えがあったと言います。

リンク先を拝見致しました。どうもありがとうございます。
待ち焦がれる感覚というか、心切ない感じが伝わってきますね。
どこか心許なくて、他に身を委ね漂わせているというか。

「蜘の古巣を払ひて」の折の芭蕉の心境、どのようなものだったのでしょうね。

またよろしくお願い致します。
ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2010-09-17 18:28:16

ANo.14

自律の契機なのかなと。

車を北に250キロメートルぐらい走らせると、南に流れているはずの川が北に流れるのを
目の当たりにするんですね。
なんだか川にそそのかされているようで、だから、憂鬱になってきまって帰りたくなるんですね。
それなのに、少しわくわくして冒険心をそそられる。
だからまた行きたくなるのかもしれません、これがそぞろがみのしわざなんでしょうか。
不思議ですよね。
(独り言だけど、やっぱりリベラリズムはルサマンチンじゃなかった、自律だったんですね)


それにしても芭蕉って、

時間と空間が旅人で、自分が宿主っていう発想なんでしょ。
現代においてもそういう感覚って、なんだかみずみずしい斬新さが、よいですよねえ。

皆様、まだお礼が書けてなくてごめんなさい。

投稿日時 - 2010-09-16 10:48:45

お礼

heartmind様、こんにちは。

>車を北に250キロメートルぐらい走らせると

面白いですね、「北」ですか。
奥の細道の行程で行くと、深川芭蕉庵からちょうど奥州街道の辺り、黒磯付近のようですね。

ねえ、なぜ芭蕉は「北」を目指したのだと思われますか。
そして、heartmind様も、なぜ「北」に?
その「川」が当初のめあてだったわけでもないですよね。

>なんだか川にそそのかされているようで、だから、憂鬱になってきまって帰りたくなるんですね。
>それなのに、少しわくわくして冒険心をそそられる。

「川にそそのかされているようで」には参りましたよ~
何と言う表現力なのでしょう!いいなあ。 好きです、こういう感じ。
で、そのしわざが、

>だからまた行きたくなるのかもしれません、これがそぞろがみのしわざなんでしょうか。
>不思議ですよね。

はい。本当に、不思議。
それに、「そぞろがみ」っていったい何の神様なのでしょうね?

古の旅人といえば、西行が挙げられるかと思われます。
「日々旅にして旅を栖とす。」とまでは言えなくとも、諸国を遍歴したのは確かですよね。
関東から奥州のみならず伊勢や吉野にまで及んだ旅路、これって、
少なからず芭蕉にも影響を与えたのかもしれませんよね。どうでしょう。

で、西行を奥州へと誘ったものはいったい何だったのでしょうね。
heartmind様もそそのかされそうになった「そぞろ神」と何か関係でもあるのかしら、なんて。

>リベラリズムはルサマンチンじゃなかった、自律だったんですね

はい、ルサンチマンの方じゃあないと、私も思います。違うの?

>それにしても芭蕉って、
>時間と空間が旅人で、自分が宿主っていう発想なんでしょ。
>現代においてもそういう感覚って、なんだかみずみずしい斬新さが、よいですよねえ。

はい。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」って、
ほんとうに、自分が宿主と表現しているみたいですよね。
「舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。」もそう。
旅と己の生涯が完璧に一つになっていて、旅が主で旅に自らが取り憑かれている状態というか。

>現代においてもそういう感覚って、なんだかみずみずしい斬新さが、よいですよねえ。

そうなんですよね。
「松島の月まづ心にかゝりて」なんていう発想の旅、とかね。
まさに、彼の旅の本質なのかもしれませんね。

余談ながら、「日本のものづくり」のご質問、なかなか難しそうですよね。
スタンス的にMokuzo様とほぼ同一な意見なのですが、あとでこっそり投稿させていただきますので、
お手隙の折にでもご笑覧下さいね。
あまりに二番煎じな内容になりそう、だから、躊躇していたのですけれども、
でも、せっかくだからと思いまして、てへ。

またよろしくお願い致しますね。
ご回答をありがとうございました。
(しかし、南に流れるはずの川が北に流れているって…なぜ?!笑)

投稿日時 - 2010-09-17 16:56:07

ANo.13

旅とは、行って帰ってくることです。
この世界に来て、また土に帰る。
それがすべてだと思います。

投稿日時 - 2010-09-16 03:26:54

お礼

beardman9様、こんにちは。

>旅とは、行って帰ってくることです。

この一文、あとの二行とひとまとめで表現なさっていらっしゃるのを、あえて分割してみたいと思います。
どうかご容赦下さいますよう。

たしか…パイオニア10号という惑星探査機が、今も帰還のない旅の途中にあったと記憶しております。
《片道旅行》なのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%A210%E5%8F%B7

「地球から53光年離れたアルデバランの方向へ移動を続けているが、もしアルデバランに到着するとしても約170万年かかると予測されている。」ですって!
気の遠くなるような旅程だとは思いませんか。
探査機に取り付けられたあの金属板、未知なるなにものかに認めてもらえるのでしょうか。

>この世界に来て、また土に帰る。

そうですね、
土に帰る。
宇宙の塵に帰る。

人の一生なんて、宇宙からしたら一瞬のまたたきほどにもならないのでしょうね。
なぜか「無量大数」という言葉が浮かんできました。
でもこれ、「無限大」とは異なるようですね、よくは知らないのですけれども。

>それがすべてだと思います。

始まりがあって終わりがないものって、この世にいったいあるのでしょうか。
どなたかご存知の方がいらしたら、お聞きしてみたいです。

そしてあらためまして。
>旅とは、行って帰ってくることです。
>この世界に来て、また土に帰る。
>それがすべてだと思います。

One wayながらも、土に帰還する旅、ということでしょうか。
私達一人一人が、その時代毎のタイム・トラベラーなのでしょうね。
不思議な縁に手繰り寄せられることもあれば、すれ違いもあるわけで。
一期一会を大切にしたいと新たに思った次第です。

真に簡潔な3行、本当にそのとおりですね。
ご回答をありがとうございました。
またよろしくお願い致します。

投稿日時 - 2010-09-17 01:17:37

ANo.12

 公務出張、個人旅行。私は東京生まれ育ちで帰郷の旅行はありません。
 所用の旅行。遍歴、流浪、サンカや行商の旅。ロマ(ジプシー)たち。逃避や逃亡の旅。
 民族の移動や侵略、領土拡張の旅。

 動機や目的、態様はさまざまですね。

 私は多少、瞑想の行をしています。時として自分が山野などを一笠一蓑一杖で只管ら歩いている姿が目に浮かんできます。
 本当はそういう働き動作も、行の最中はいけないのですが。だから今は直ぐにその視界を離れます。

 昔、なんていうと年配者にわらわれますが、50年くらい前の20代後半には夏休みに一ヶ月以上旅行しました。
 体力もあり、気持ちも何かに合わせる必要もなく、ガッシガッシと力まかせの旅でした。
 職場でも衝突や争いなどはものともしないで、力で押し切る態度でした。

 70を多少以上に出てきてしまった今、体力も落ち、少しは賢くもなったのかな、そしてずるくもなり、力まかせでの手法は避けています。
 流れに素直になりたいと、遅まきながら考えています。
 実際の旅はほとんどしなくなりました。でも毎日が旅です。人、日々に違う。日々が旅です。
 そして時折、家内の田舎などに行きます。列車に乗るとやはり日常からの解放、開放ですね。
 
 ネットでアジア諸国の町の方の写真や風景に出会います。なんと人間の同じ性だろう。
 私がいる、両親や家族がいる。友人達がいる。

 芭蕉庵は私の高校のそばにもありました。向島百花園です。ここは年中いきます。授業中も散歩にでて、そこらを歩きました。

 芭蕉と曾良の記述がどうのってありますが、両人そして特に芭蕉はリズムと気分で記述していると存じます。
 正確な記録など度外視していると存じます。
 だからどうの、忍者だのなんだのは、このことでは全く考えられません。
 所謂る忍者ではないが、情報いろいろあったろうし、芭蕉からそれを得ていた統治の人達も居たでしょう。
 細道は文学であり、記録ではありません。紀行記録でも紀行文学でもありません。という私の受け取りです。
 
 あぁいう旅は体力と節制が必要ですね。self-controlが。だから好きだの、本性だのではなく、イズムではないかと存じます。
 自分への仕事だと思います。傍で読めば素晴らしいが、楽しくもある精進であったのでしょうね。

 旅、私がしたい旅はやはりそういう一面義務、楽しくもあるが義務。という負わされてする自己での旅です。
 だから今の日々の生活は旅となっています。
 行楽の旅には興味がありません。必然性のない旅、そういう人生に呼ばれません。
 
 長く教育機関にいまして、何かと卒業生に呼ばれるとき、いつもこれで最後の日だなと思って、出席に○をつけます。
 都内であること、昼間であることを希望して。
 旧友との会合、あぁもうこれでかな。と思います。長い遍歴はできなくなりました。希望もしてません。
 民謡のどの会などがあったら、その都度その地域を訪ねることを計画しています。
 楽しいかも知れない。アジアの諸国を歩いてみたい。旅、いいですね。でも苦労なんですよね。

投稿日時 - 2010-09-15 18:16:23

お礼

krya1998様、こんにちは。

>所用の旅行。遍歴、流浪、サンカや行商の旅。ロマ(ジプシー)たち。逃避や逃亡の旅。
>民族の移動や侵略、領土拡張の旅。
>動機や目的、態様はさまざまですね。

はい、このように丁寧にご指摘いただくと、とても一口で旅を言い表せないことに気づかされます。
以前、krya様が漂泊の民関連の質問を幾つか立てていらっしゃいましたよね。
さきほど再び拝見し、あらためて、積年の流浪の民につき、想いを馳せてみたりして。
彼等の眼には定住民や文化がどのように映る(映った)のでしょうね。う~ん。

>私は多少、瞑想の行をしています。時として自分が山野などを一笠一蓑一杖で只管ら歩いている姿が目に浮かんできます。

え、行の最中に浮かんできてはいけないのですか、大変厳しいものなのですね…。

>体力もあり、気持ちも何かに合わせる必要もなく、ガッシガッシと力まかせの旅でした。
>職場でも衝突や争いなどはものともしないで、力で押し切る態度でした。

若いって、体力をもて余しぎみで、血気盛んなところがありますものね。
失敗ももろともしない、そんな感じでしたよね。 私にも身に覚えがあります、笑

>流れに素直になりたいと、遅まきながら考えています。

この流れというものは、「風の流れ」に身を任せるということをおっしゃりたいの?
そもそも、風って、どこで生まれてどこへ去っていくものなのでしょう。
「知らず、生まれ、死ぬる人、いづ方より来たりて、いづ方へか去る。」の如くに
まるで、人の一生のようですね。

>毎日が旅です。人、日々に違う。日々が旅です。

ここがね、一番心に残ったのです…。なぜかしら。

>芭蕉庵は私の高校のそばにもありました。向島百花園です。

! こんど私も行ってみますね!
…と思ったら、芭蕉庵って二か所あるのですね。文京区と墨田区と。
う~ん、知りませんでした。 
ついでだから、近くに美味しいお店もあるとなお嬉しいです。
http://kkubota.cool.ne.jp/sekiguchibashouan.htm
http://kkubota.cool.ne.jp/fukagawabashouan.htm

>あぁいう旅は体力と節制が必要ですね。self-controlが。だから好きだの、本性だのではなく、イズムではないかと存じます。

はい、ここはまるごと賛同致します。
まさに、「イズム」なのでしょうね。
諸国漫遊の旅には相応の情報網、かなり古い時代からあったでしょうね、きっと。

krya様にとっての理想の旅は、芭蕉の「奥の細道」にも通ずるものがあるのですね。
そして「アジアの諸国を歩いてみたい。旅、いいですね。でも《苦労なんですよね》。」
とおっしゃるあたりに、《一切の旅の試練や受苦の肯定、類まれなる求道の精神》を拝察した次第です。

引き続きご回答を頂戴しております。
本当にどうもありがとうございます。

投稿日時 - 2010-09-17 00:12:00

ANo.11

>326AtoZ様は、旅に出ると、やはり脳がリセットされたのがわかりますか。
>それって、旅先で気付くのか、帰宅後に実感するのか、どちらがより実感するのでしょうか。

”旅”に関しては、私は情緒的な何かが脳に作用して”非日常性”が獲得されるとは思っていません。一般的な「雰囲気」として、旅は情緒に訴えますという”常識”がすでにインストールされているので、そういう作用があると結びつけてしまっているだけだと思っています。

”非日常性”に関しては、「初めて行く場所」であれば、どこでもある程度獲得することが出来ると思います。ここでいう”非日常性”は、脳の「いつも行っている場所だから、色々情報収集するのさぼるね」という機構の強制解除です。

脳は常に情報収集体制でいると疲れるので(多分)、よくさぼります。そのさぼっている状態が”日常”です。

一方、旅に出るとこの機能は解除されます。見知らぬ場所で、そんな機能をオンにしっぱなしにすることは、身体を危機にさらすこととイコールですからね。

よって、私にとっては”旅”はそういう脳みそのリフレッシュ体操みたいな位置づけです。普段、眠っている脳の機能を久々にメンテナンスする感じです。(ちょっと起きてもらって、錆びていないか確認する)。


確かに皆皆さんのように、旅に情緒性を感じることは確かですが、旅の本質は”日頃使っていない脳機能のスイッチを入れ、そちらの機能から情報収集を行い、何か目新しい情報処理経路、アルゴリズムのヒントを得る”ことだと何となく思っています。

投稿日時 - 2010-09-15 01:45:20

お礼

326AtoZ様、
再度のご回答をありがとうございます。

>脳は常に情報収集体制でいると疲れるので(多分)、よくさぼります。そのさぼっている状態が”日常”です。

なるほど、
日常において私達は、自らの脳をフル稼働せずとも暮らしていけますものね。
案外休眠している脳の部位って多いのかも。

さぼると言えば、旅行でも言えることでして、たとえ一度でも訪れた場所ならば、頭の片隅の残像を掘り起こして反芻したりして。

いったい、旅のどの要素に最も脳機能をリフレッシュさせる効果があるのでしょうね。
土地勘や方向感覚がないことによる戸惑いと心許なさ、方言や言葉、風習の違い、
一期一会の出逢いや思わぬハプニングなどなど…
考えたらキリがなさそうですね。

>身体を危機にさらすこととイコールですからね。

はい、旅に出るということは、日常オフになっている防衛本能を自ずと呼び覚ますことかもしれませんね。
旅に出ると、180度我が身の半径1メートルにレーダーが張り巡らされるのが実感できたりして。
あるわけないのに、背中にも目がついている、そんな感じがします。
脳だけでなく、皮膚から何から、全身が感知器モードかもしれません。
だからでしょうか、滞在先に戻ると、
ど~っと疲れが押し寄せて、あられもない格好で呆けて寝入ってしまったり、笑

そう考えますと、たしかに環境の変化って凄く大きいですよね。
でも、期間限定で戻る時期が織り込み済みの旅だからこそ、エンジョイできる面があると思うのです。
旅先では、どこか戻る日から逆算して考えたりする面がありますし。

たとえば、戻る日を確定していない、ほんとうにあてのない旅をし続けるというのは、
いったいどのような心地がするのでしょうね。
その場合、流離うことがむしろ日常で、
ほんの束の間ある土地に留まることのほうが非日常だったりして。

>旅の本質は”日頃使っていない脳機能のスイッチを入れ、そちらの機能から情報収集を行い、何か目新しい情報処理経路、アルゴリズムのヒントを得る”

そうですね。
そしてその旅の道程が険しく難儀なほどに、脳の経路が飛躍的に増し、
心身ともに多くを学び取り、そしてまた鍛えられていくのでしょうね。

そして、これはなにもそんなに大それたことではなく、
赤ちゃんの頃に母親の手から離れて、トコトコ独り歩きをしていってしまう、
誰に教わったわけでもなく自然な動態の延長線上でしかすぎないものかもしれないわけで、

あ、だから「かわいい子には旅をさせよ」と言うのですね。

目から鱗の旅論、本当に参考になりました!
またよろしくお願い致します。

投稿日時 - 2010-09-16 22:15:42

ANo.10

随分旅をしたもんだが、拙者にとって旅とはいつも郷愁を感じるためのものだったなあ。
結局、いつも予定通りか予定を早めて帰宅した。

帰宅した途端に少々がっかりするんだけどね。
旅先で思い描いたほど家は素晴らしいところじゃないんだ。

でも旅に出ると家が恋しくなったもんだ。
旅の終盤に日本行きの飛行機が待つ空港へ急ぐ時、いつもいつもスピードだしてまっしぐらだったな。
今にして思えば、そんなに早く空港に着く必要ないのに、途中で寄り道をして城の見物だってできたのに、と思うけど、旅先からは家路を急いだもんだ。

旅先が遠ければ遠いほど郷愁が強く、遠ければ遠いほど家路を急いだな。

最近では半径1000km程の中で済ますことが増えた。
お箸の国、漢字の国が増えたな。

飛行機に乗らずに行ける小さな旅も良いものだと思うようになった。
自分で運転してゆける範囲にだって、旅する価値はあると思うようになった。

歳をとったということか。
自分が何者か、少しわかるようになったと言うべきか。

いつまで旅をするのだろう。

だんだん、行動半径が小さくなって。

最後には犬の散歩が旅になるのだろうか。

その旅路においても郷愁を感じるものなのだろうか。

投稿日時 - 2010-09-14 23:16:06

お礼

Mokuzo100nenn様、こんばんは。

>随分旅をしたもんだが、拙者にとって旅とはいつも郷愁を感じるためのものだったなあ。

Mokuzo様って、同じ「飛び」でも大工さんではなくて、フリクエント・フライヤーでしたよね。
たしかアテンダントのパリスがどうのっておっしゃっていらっしゃいましたが。
(カタカナ使いまくって怒られそう)

>帰宅した途端に少々がっかりするんだけどね。
>旅先で思い描いたほど家は素晴らしいところじゃないんだ。
>でも旅に出ると家が恋しくなったもんだ。

はい、わかります。これ、どうしてなのでしょうね。
家にいると旅路が恋しくなったり、はたまた、
旅先にて家や日本が愛しく思えたりして。 不思議ですよね。

>旅先が遠ければ遠いほど郷愁が強く、遠ければ遠いほど家路を急いだな。

三木清にもありましたが、たしかに移動中はさほど郷愁を感じないのですけれども、
宿に着くと、とてつもない遠さからか、ふいに漠然とした心許なさを感じたりして。
だから余計に郷愁が募るのでしょうか。
Mokuzo様の遠くって、いったいどのあたりまで行かれたことでしょう。

>お箸の国、漢字の国が増えたな。

前者は韓国、後者は中国あたりのことでしょうか。
この国々って、似て非なるところこそが大いなる差のように思えます。
でもつい最近なのですよね、これらの国々の一般人の旅行の自由化って。
戦車が通る韓国の戒厳令の模様など、いまだに目に焼き付いております。
それが今では、繁華街の店先で中国語を良く見かけるようになりました。
これも時代の流れなのでしょうね。

>飛行機に乗らずに行ける小さな旅も良いものだと思うようになった。
>自分で運転してゆける範囲にだって、旅する価値はあると思うようになった。
>歳をとったということか。

はい、歳のせいかどうかはわかりませんけれども、
身近なところの再発見と申しましょうか、
今まで気づかなかった良さを再認識するようになっていくのかもしれませんね。
自家用車でなくとも、路線バスだったり、路面電車で知らない町を探訪するというのも、
なかなか愉しそうですよね。
老舗の味めぐりならずとも、B級グルメでもいいし、
手弁当片手に、秋の花草を背景に日向ぼっこするのも、これからの季節心地良さそうです。

>いつまで旅をするのだろう。

そうですよね、
いったいいつまで、人は旅心を抱き続けるのでしょうね。

>最後には犬の散歩が旅になるのだろうか。

ふふ。私など絶対ボケそう。
だから、犬にナビしてもらう側になりそうな予感がシマス、笑
その点、Mokuzo様は大丈夫、羨ましいかぎりです。

>その旅路においても郷愁を感じるものなのだろうか。

だと思います。
いつもと違う、以前通った道をほんのちょっと歩んだだけでも、感じるのではないでしょうか。
これって、先人たち全員がみな通っていった道程なのでしょうね、きっと。

SF仕立ての命題とはまた違ったMokuzo様の魅力にふれることができました。
ご回答をありがとうございました。
また次もよろしくお願い致します。

投稿日時 - 2010-09-16 02:05:15

ANo.9

旅とは、見聞を広めるもの。
マルコポーロも、マゼランも、芭蕉も、みな見聞拡大を目指して長旅に出た。

人生そのものもまた、旅だ。
伊達政宗の家訓には
「人生は重き荷を負うて長き道程を行くが如し。急ぐべからず。」
「人生とは他家へ招かるる客人の如し。客の身にて好悪は申されまじ。」
と言っているそうです。
このように人生を旅と考える事には、妙に現実味があると思いませんか?

西洋でも「Life is short, art is long.」と言います。
神ならぬ身の我々は一人として、この地球上に永住権を持っていません。
旅人として地球を訪れ、ビザが切れたらあの世へ強制送還されるのです。

投稿日時 - 2010-09-14 16:05:39

お礼

SaveMonk様、こんにちは。

>旅とは、見聞を広めるもの。
>マルコポーロも、マゼランも、芭蕉も、みな見聞拡大を目指して長旅に出た。

はい、とてもわかりやすいです。
個人都合や事情は異なれど、見聞を願う熱意は各人に通底しているように思われます。
強いて言えば、芭蕉には旅の本質がしかるべき美意識に満ちた物見の旅であったであろうと
独善的に思うところではあるのですが、いかがでしょうか。

>伊達政宗の家訓には
>「人生は重き荷を負うて長き道程を行くが如し。急ぐべからず。」
>「人生とは他家へ招かるる客人の如し。客の身にて好悪は申されまじ。」

よくご存知ですね。
妙にどころか、かなりの現実味が感じられました。
「客の身にて好悪は申されまじ。」というのは凄く新鮮で、
ホント、伊達じゃあないですね、笑

>神ならぬ身の我々は一人として、この地球上に永住権を持っていません。
>旅人として地球を訪れ、ビザが切れたらあの世へ強制送還されるのです。

はい、このくだりを拝見して、古代エジプトの死出の船を想起致しました。
まさに、人生そのものが旅、そして、
誰もが片道切符と期限付きのビザを握りしめているのですよね。
常日頃、あまりに当たり前のこのことを忘れて暮らしているわけでして。

そうっか、誰もがみな旅人なのですよね。 納得です。

またよろしくお願い致します。
ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2010-09-15 23:11:46

ANo.8

個人的経験と勘からですが。。。

「旅」とは、「自己からの解放」ではないかと思います。

つまり、現在、自分が置かれている状況や環境の下で、いろいろな制約のある空間の中で、人は生きていますが、座標系が異なった空間へ移動する事により、日常のしがらみや制約から逃れて、自由になることのように思えます。
つまり、自分の背負った文化の世界から、異文化の世界に自分を置いてみるような。。。
よって、人は旅行をすると、すがすがしい気分になり、心が洗われたような感じがするのではないかと思います。

でも、「旅」は、交通機関を利用して物理的移動が伴わなくても、精神的なVirtual Tripも含め得るのではないでしょうか。
空飛ぶ鳥の如く、野や山で吹き荒ぶ風の如く、「自由になる事」が「旅」の本質ではないかと思うのですが。。。

投稿日時 - 2010-09-14 11:31:30

お礼

plokij75様、こんにちは。

>個人的経験と勘からですが。。。
>「旅」とは、「自己からの解放」ではないかと思います。

はい、「旅」のスタイルは十人十色、
皆様方の「個人的経験と勘」による「旅」につきうかがいたく、
私にとってはご回答の一つ一つに深く考えさせられておりまして、
本当に有り難く感謝致しております。

また、その「経験」とは、plokij75様も「物理的移動が伴わなくても」とおっしゃるように、
必ずしも物理的移動など要さないものかもしれませんね。
たとえば精神的なVirtual Tripにより生み出された芸術作品など数知れませんし、
人間の情熱や想像力、創造力って、本当に凄まじいとは思いませんか。

「百聞は一見にしかず」のことわざ、これって、いつ頃からあるのでしょう。
現代の旅の場合、時にネット上の百聞(百見?)などがあまりに充実過ぎて、自身の経験(一見)のほうが影が薄かったりして、
そんな逆転劇ってあり得そうな。
単なるVirtual Tripの効能って、いったい、どうなのでしょうね。
よくSF映画にも出てきますけれども。

>いろいろな制約のある空間の中で、人は生きていますが、座標系が異なった空間へ移動する事により、日常のしがらみや制約から逃れて、自由になることのように思えます。

はい、旅を人生と結びつけると、ちょっと壮大な航海の様相を呈してまいりますが、
実際には、多忙な現代人としての日常から解放されるために逃避行先で、癒しを受けて清々しく家路に着く旅など多くみられましょう。
「異文化の世界に自分を置く」旅は、やはり舞台の一役者としての自分を愉しむ、余暇ですよね。

>空飛ぶ鳥の如く、野や山で吹き荒ぶ風の如く、「自由になる事」が「旅」の本質ではないかと思うのですが。。。

そうですね、翼があったら飛んで行けるのに…と、私自身何度も思ったことがあります。
「自由になる」って、どちらかというと、漂泊、さすらいの旅の印象がありましょうか。
思うに、古事記に出てくる須佐之男命など、周縁に下る日本神話の旅の原型なのかもしれませんね。

う~ん。 風とともに茫漠とした野に帰る…。
「自由になる事=旅の本質」とは、ともすると、大自然の懐、あるいは宇宙への回帰のようにも思えてきたりして。
ちょっとあまりにも飛躍しすぎましたでしょうか。

またよろしくお願い致します。
ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2010-09-15 22:49:03

ANo.7

自我の確立を環境(周囲の評価や社会的地位)に依存する人間は、
ある意味、自我の目覚めが不完全だと言え、自己の属する環境から
脱却することにより、自我が不安定になります。
環境を変えることにより、通常の意識の中で不可分に混合し不明瞭
になっていた自己と環境が、明確に把握できるようになるのです。
もの想う人間にとって、旅は故郷です(環境の三点測量の基線)。

投稿日時 - 2010-09-14 09:45:13

お礼

psytex様、こんにちは。

広大な景色が見渡せて気持ちの良いお写真、どうもありがとうございます。
どちらの方面なのでしょう。アジアなのでしょうか。それともアフリカあたりですか。

>自我の確立を環境(周囲の評価や社会的地位)に依存する人間は、
>ある意味、自我の目覚めが不完全だと言え、自己の属する環境から
>脱却することにより、自我が不安定になります。

はい、komaas8様の三木清も同様な事柄を述べているようです。
「旅に出ることは日常の習慣的な、従つて安定した関係を脱することであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくるのである。旅は何となく不安なものである。」

旅人なら誰しも自我が不安定になりやすいのでしょうね。
そしてだからこそ、ありとあらゆるものを鋭敏に感受し、心に残ったりするのでしょうか。

>環境を変えることにより、通常の意識の中で不可分に混合し不明瞭
>になっていた自己と環境が、明確に把握できるようになるのです。
>もの想う人間にとって、旅は故郷です(環境の三点測量の基線)。

この「環境の三点測量の基線」の意味するところがちょっとわかりかねるのですけれども、
「自己と環境が明確に把握できる」つまり、
わたしとはいったい何者かと自問自答せざるを得ない状況を突きつけられるということですよね。

そして時と場合、相手次第では、かなりのダメージをくらうこともあったりなどして。
人間と自然、psytex様の御経験では、どちらが手厳しくお感じになったのでしょうね。

もう何年も「予約」「予定」のない旅など私はしておりません。
たとえば美術館でも何カ月も前から予約を入れる予約制だったりして、
それって、はたして便利なんだか、不便なんだか、
とにかく以前よりは少々融通が利かなくなっているように映るのです。
交通手段の発達により、移動時間が短縮され、逆にせわしい気もしなくもなかったりして。
こんな端々に加齢を感じたりなんかして、笑

むろん、そのようなシステム網が張り巡らされた地域など、
この地球上ではごく限られた場所で、私が他を知らないだけなのでしょうけれども…

環境を変えるというのは、ただ物理的な移動のみを指すわけでもなく、
ある程度慣れ切った旅の方面やスタイルを変えるという意味にも思えてまいりました。
アジア、心の故郷としてはかなり良さそうですしね。

またよろしくお願い致します。
ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2010-09-15 18:37:20

三木武吉いや三木清は「旅は人生そのものである」と河童、いや喝破しています。それはおいといて
やはり私は、旅は変わらないもの、変わるもの、おおいにかわるものたちがお互いに心身で交流し共感しつつしかし独立性は保ち合いながらそれら自身が更に膨大ななにものかのこしらえた舞台のうえで演技しているのだという覚めた意識になかば酔いながらもいやおうなくどこかへおし流されていく、そういったことを実感するための最高のツールであろうとおもいます。旅人とは?その中のヒーローであるあなた自身でしょう。

投稿日時 - 2010-09-14 08:10:37

補足

またよろしくお願い致します。←抜けました

投稿日時 - 2010-09-15 17:39:38

お礼

komaas8様、こんにちは。

以前、こちらのカテの「旅についての哲学書」という質問に際し、
三木清「旅について」人生論ノートを挙げていらっしゃいましたよね。憶えております。

「出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味ふことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといはれるのである。日常の生活において我々はつねに主として到達点を、結果をのみ問題にしてゐる、これが行動とか実践とかいふものの本性である。しかるに旅は本質的に観想的である。旅において我々はつねに見る人である。平生の実践的生活から脱け出して純粋に観想的になり得るといふことが旅の特色である。旅が人生に対して有する意義もそこから考へることができるであらう。」

得てして結果のみを問題にする日常から抜け出す旅の特色と人生、ここに特に惹かれます。
komaas8様は、どのあたりに深く考えさせられたのでしょうか。

>膨大ななにものかのこしらえた舞台のうえで演技しているのだという覚めた意識になかば酔いながらもいやおうなくどこかへおし流されていく、そういったことを実感するための最高のツール

はい。たしかに、見知らぬ土地の旅人として劇中に参加している気にもなります。
たとえばルーヴル級の美術館内では、エキストラの一人に過ぎないでしょうし、
名もなき片田舎の村で民宿に泊まるときなど、まさに主役級だったりして。
自分で立てた旅程ながらも、諸般の物理的事情とは別に、
目には見えない不思議な縁に手繰り寄せられて、自分がそこにいる、みたいな(酩酊状態、笑)。

若い時は通過儀礼みたいな意味もあったのかも。
そんな御経験はおありでしょうか。
三木清以上にkomaas8様らしい旅論をうかがえて良かったです。
きっと旅がお好きな御方なのでしょう。

そして時折「おーい、酔ってるぞ~!(「思いこみ激しいぞ~」も可)」
というストッパー的な声掛けを頂戴できますか。
最近回るのが早いせいか、戸惑うこともあったりなんかして。

ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2010-09-15 17:35:52

ANo.5

ここでは「ただ旅すること すべてはその中に」と言っております。
http://www.youtube.com/watch?v=t9OmIJ2gQ8g

それから、「誰にも知られず 消えていく強さ」とも言ってます。間違いでしょうか?

投稿日時 - 2010-09-14 03:42:02

お礼

_AXIS様、こんにちは。
清々しくて、聴けば聴くほどに心地良く感じられる曲だと思いました。
本当にありがとうございます。

近日よく似たIDネームが散見されておりましたし、
イメージ的にはインストゥルメンタル系がお好きな御方だと思っていたのですけれども、
ご紹介下さった曲もヴォーカルがとても自然な感じなので、すぐにピンときました。

曲の出だしで「はじめて飛んだ~あの空へと~」とありました。
旅(たび)は飛び(とび)なのかもしれませんね。

>ここでは「ただ旅すること すべてはその中に」と言っております。

はい、曲の中で「旅」が何であるかを告げてますものね。

>それから、「誰にも知られず 消えていく強さ」とも言ってます。間違いでしょうか?

間違いではないと思います。
人に誇示するまでもなく、自分だけが知っていればよい諸々の強さですよね。

「どんな遠くても~まよわない強さ~」ともありますよね。
私は、この強さ、欲しいです。とても。 
_AXIS様はもうすでにお持ちのようですね。

そうそう、「聞くな」で一度、迷子になりそうになったことがありましたっけ。
急なカーブや坂の多い起伏のある土地って、
歩くには多少疲れるけれども、趣があって嫌いじゃあないです。
たまには、あてもない途中下車の旅も、いいかもしれませんね。

ご回答をありがとうございました。
またよろしくお願い致します。

投稿日時 - 2010-09-14 22:34:02

ANo.4

旅は非日常性を経験するための環境作りです。

非日常性とは、日常性の反対です。日常とは脳の情報処理が”自分が知っている情報は無視”するようになっているのが常態の環境のことです。

つまり、日々の生活では脳みそという臓器は、自分が知っていると思い込んでいる周辺情報を根こそぎ無視します。そこから新しい情報を発見しようという処理経路を遮断するのです。

古来より、旅にて色々な物を発見するという体験は、このような脳の処理系を無意識的に知っていた人々の知恵であったろうと思います。わざと見知らぬ土地を旅することで、自分の脳みそがさぼっていた情報処理を復活させ、新しい発見を強制的に促していたのです。

投稿日時 - 2010-09-14 00:04:33

お礼

326AtoZ様、こんにちは。

>旅は非日常性を経験するための環境作りです。

kunobou様と同じ「非日常性」ですね。 はい、たしかにそうかもしれませんね。
非日常を味わいたくて、だから旅に出たいと思うのでしょう。
「環境」を変えることが、脳の処理経路を根こそぎリセットするのに都合が良いのでしょうね。
それって、価値観の転換とも言えるのでしょうか。

>古来より、旅にて色々な物を発見するという体験は、このような脳の処理系を無意識的に知っていた人々の知恵であったろうと思います。

そうですね、旅の道中や旅先において芭蕉は自然を愛で、古に思いを馳せ、多くのゆきずりの人々と触れ合うこと、
これら一つ一つに心を揺り動かされていったことでしょう。
日本に数多くの紀行文が遺されているのは、日本人の旅好きを如実に物語っているのかもしれませんね。

総じて、あまり西洋のそれは多く見受けられないような気もします。
都市間の距離なども、意外と「直線距離(distance a vol d'oiseau)」で掲載されていることが結構多かったりして、
旅の道中というよりも、着いた旅先が何といっても主で、
だから、滞在型の旅に長けているのかもしれないなあって。

326AtoZ様は、旅に出ると、やはり脳がリセットされたのがわかりますか。
それって、旅先で気付くのか、帰宅後に実感するのか、どちらがより実感するのでしょうか。

ご回答をありがとうございました。
またよろしくお願い致します。

投稿日時 - 2010-09-14 21:54:10

 
旅とは、すむ土地を離れて、一時他の土地に行くこと。
旅人とは、旅をする人

です。
因みに、広辞苑です。

これを、抽象化するなら。
旅とは、非日常性を体験すること。

されに、抽象化を進めると。
旅とは、非日常性を獲得すること。

さらに、抽象化を進めると・・・
きりがないので、止めます・・・
 

投稿日時 - 2010-09-13 23:41:46

お礼

kunobou様、こんにちは。

広辞苑、どうもありがとうございます。
私もkunobou様に倣って、広辞苑を開いてみました。

驚きました。
ずいぶん多くの旅にまつわる言葉があるのですね。

「旅」のほかに「旅行(たびゆき)」という言葉を見かけました。
「旅に出ること」だそうです。

「旅」と「旅行」とは、同じだけど、ちょっと何かが違うのでしょうか、
違うとしたら、いったい何なのでしょうね。

>旅とは、非日常性を体験すること。
>旅とは、非日常性を獲得すること。
>さらに、抽象化を進めると…

はい、おっしゃることはよくわかります。
ご指摘の「旅とは、すむ土地を離れて、一時他の土地に行くこと。」に則れば、
たしかに旅には非日常性がつきものと言えましょう。

では、修学旅行などの団体行動の際、あるいは、
ネットを介して旅先から連絡をする場合など、はたしてそれって、
非日常なのか、それとも、普段の日常とさほど変わらないようにも感じたりして、
ちょっと自分自身で訳がわからなくなる瞬間ってあるような気もするのです。
「旅=非日常」とは、必ずしも言えないのかも?なんて、おかしいでしょうか。

ご回答をありがとうございました。
またよろしくお願い致します。

投稿日時 - 2010-09-14 18:45:40

ANo.2

私の実家の宗教は空海の「お遍路さん」のものです。
旅とは何か?
おそらく、自分との対話です。

ちなみに旅をほとんど出来なかった私は、経済的理由からです。
旅をせぬも、旅をするも、みな同じ。「移動のみ」が旅ではない。

投稿日時 - 2010-09-13 23:10:52

お礼

OtamaFJWR様、こんにちは。

>私の実家の宗教は空海の「お遍路さん」のものです。
>旅とは何か?
>おそらく、自分との対話です。

そうなのですね。
「お遍路さん」=霊場巡り、つまり旅ですよね。
修行や参詣を意図して巡礼遍歴の旅に出たとすれば、
ご指摘の「自分との対話」というのも、納得です。

>ちなみに旅をほとんど出来なかった私は、経済的理由からです。
>「移動のみ」が旅ではない。

はい、おっしゃるとおり、
実際に、旅には先立つ出費が常に想定されることでしょう、けれども、
「移動のみ」が旅とは決して言えないかもしれませんね、たしかに。

>旅をせぬも、旅をするも、みな同じ。

「みな同じ」かどうか、
さあ、どうでしょうね。
言えそうで言えない…そんなもどかしさも、正直感じなくもないです。

ただ、「巡る」というこの言葉ひとつを例に挙げてみても、
「戒壇巡り」「堂々巡り」等々、
とても思索的な意味があるような気が致しまして。

目的があって巡るのか、それとも、巡ることそれ自体が目的なのか、
そして、
「旅をせぬも、旅をするも、みな同じ」につき、あらためて考えさせられる次第です。

ご回答をありがとうございました。
またよろしくお願い致します。

投稿日時 - 2010-09-14 18:10:35

ANo.1

 
旅は哲学そのものなり
 

投稿日時 - 2010-09-13 22:47:15

お礼

v4330様、こんにちは。

>旅は哲学そのものなり

はい、けだし名言ですね。

たった10文字に凝縮されているその意味って
はかりしれないほど奥深いようにも察せられます。
もうちょっと、ヒントを戴きたいところではありますが。

ところで、
「哲学を要しない旅」って、あるのでしょうか。
ふと、考え込んでしまいました。

ご回答をありがとうございました。
またよろしくお願い致します。

投稿日時 - 2010-09-14 17:36:12

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