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哲学の時代は終わったのか

哲学の時代は終わったのか

真理の探究は古代ギリシャの時代から「万物の根源は何であるか」の問いに始まり、宇宙について、万物について、時間についてこれらが如何なるものであるか探究してきたが、哲学はこれらに対しいまだに何らの答えを与えていない。
「宇宙は有限か無限か」、「時間に始まりはあるか」に対する答えは計測器などを用いて観測データを収集し分析したところで決して得られるものではなく、専ら思索によって得られるものです。
つまりこれらは物理学が答えを出せる問題ではなく、哲学が答えを出すべき問題であると考えます。
なぜならこれらは真理の探究における最重要テーマであり最も哲学的なるもの、哲学以外には解決不可能なものそして哲学が答えを出さないといけないものだからです。
ちなみに物理学では宇宙が誕生した138億年前を時間ゼロとする考えを打ち出しているが、真理を探究する哲学からすればこれはあまりに軽すぎる結論であり、到底受け入れられるものではないでしょう。
もし哲学がこれらに対する扱い方を知らず、答えを導き出す方法論もなく、何らの答えが出せないのであれば、哲学に存在価値は無く、哲学の時代は既に終わったのだと考えるしかない。
 

投稿日時 - 2010-06-10 06:55:23

QNo.5957811

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

 ANo.14
 g3452sgpさんの宗教をかじっているなら、すこしは強くなれ、という忠告と励ましに感謝します。
 剛毅木訥仁に近し。糞土の壁には塗る事ができない。とも。あぁ孔子ですが。
 強くないものには何もできません。
 私たちの先生、パラマハンサ・ヨガナンダ大師も、
【If you want to be in tune with The omnipotent Infinit,
be humble, be strong in perseverance, and have infinit confidence in Him.
Love Him, put your whole faith in Him, with the power of faith march on, march on.】といわれています。人は非難や批判、忠言を嫌がり防備します。自分の保護です。暖かい居心地が好きですね。
 ご忠告に感謝し、改めます。

投稿日時 - 2010-06-12 07:27:38

ANo.15

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18人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

回答(15)

ANo.14

 g3452sgpさん、ご回答を拝読したけど、皆さんずいぶん手厳しいんですね。でも頷く事もずいぶんあります。
 ANo.7です。
 1)お礼なんですが、【宗教というものは心地よいものです。】という“心地よい”という言語使用は、g3452sgpさんの伝えるべきものを必ずしも隅から隅までは伝えていないような気がしまう。でも隅から隅まで仮にご表現されたら、私は多分つらいかも知れません。
 宗教って、一応ここではg3452sgpさんは一把一絡げにされていますが、仕方ないでしょう。でもインド哲学の端っこのものから申し上げると、私たちは一応ものの本質や宇宙の成り立ちを理論として考究するという宗教でして、ちょいと不満があります。無論、どの宗教もいろんな必要な理論説明がついて回っているとは存じますが。
 このこと(【宗教というものは心地よいものです。】)について、この老人につらい思いをさせないようにして、もう少し敷衍していただけるとありがたいですね。つまり不満を感じましたので。
 2)繰り返しになりますが、近代ヨーロッパ的な所謂る科学の手法とその結果は、私たちのインドの伝統学問の端っこからは、実をいうと馬鹿らしい限りですが(分りきっているという事で)、そういう地道な歩き方の道筋祖側面的に参考になることもあります。私たちとして。
 3)g3452sgpさんは口に出していないが、多分西洋的哲学とその流れを頭においてのご質問でしょう。そういうものは、実をいうと、2)での西洋科学以上に私たちは馬鹿馬鹿しいのです。でも同じ知的機能という杖に頼りきった手法としての根本への探求は多分、人の本能ではないかと存じます。杖は杖が歩かせ、杖が歩くのではないのに杖に歩いてもらっている仕方をどこかで克服する必要もありましょうが。
 こういう本能性を、ご回答の皆様は知的好奇心ということばでご表現されているのかな。
 これは知や地の果(涯)てにいくと、そこの境壁からまた先があるという具合で、理論とは果てしがありません。それは、今はちょいと哲学者が居ませんから課題になりませんが、境界に着くとその先がある。
 これが知と地の果(涯)というものですね。区切りと区分するのが知でして。
 多分境界にきた哲学者は新たな先を提示、指し示すでしょう。今は哲学者も哲学もありませんが。いえ、西洋的な哲学という意味で。
 インド、中国、そして日本の伝統的哲学も然りですが。
 私たちの団体は別にして、無論、私の判断でしか在りませんが。
 
 以上、(1)、【宗教というものは心地よいものです。】という“心地よい”という語列の補足お願いと、ついでの私の取り留めない西洋的な【哲学は終わらない】という意見を申し述べました。
 お気に障りましたら、どうぞお許しください。

投稿日時 - 2010-06-11 09:16:14

お礼

私は宗教はもっと強いものであってほしいと願っているのです。
宗教は人を強くするものでなければならないと。
そうでなければ本物の宗教ではないと言いたいのです。
ですからkrya1998さんにも宗教を実践されているのであれば、
>でも隅から隅まで仮にご表現されたら、私は多分つらいかも知れません。
とか
>この老人につらい思いをさせないようにして、もう少し敷衍していただけるとありがたいですね。
とかいうような弱音を吐いてもらいたくはないのです。
でなければ宗教が宗教でなくなってしまう。
もちろん私自身は宗教しませんが、宗教に頼っている人からこれを奪おうなどと考えてはいません。
思い存分やってみてください。
だだしやるからには弱音を吐かずに強く立ってもらいたいのです。
それだけです。

投稿日時 - 2010-06-11 20:45:42

ANo.13

>職業的哲学者は多くいて大学の文学部哲学科あたりで今日も講義しているに違いないが

この方々は哲学学者さんであり、哲学をするというよりも哲学の歴史を教えること、先賢の辿った道を紹介することで、学生さんの個人的営みである「哲学すること」に関して無駄をなくそうとされているのではないでしょうか。
一生、ロシア革命の研究と講義をする歴史の教授もいるじゃないですか。それと同じ。

蒸気機関車の時代は終わったといえ、蒸気機関車という偉大な人類の遺産を動態保存してゆく人たちも必要でしょう。かれらはその動態保存という任務の対価として給料をもらっている人とかんがえればよいと思います。

哲学の時代は終わりましたが、哲学する人たちが尽きることはないと信じております。

投稿日時 - 2010-06-11 01:49:07

ANo.12

#4です。

「真理」とは大げさなモノではなく、数学の公式と同じようなものです。
例えば、先ほど述べたアインシュタインだと、E=mc^2という公式があります。
詳細の説明は省略しますが、彼の導き出した理論は、核爆弾の開発に際して
大きな助けとなりました。これは悪用した結果で、価値としては大きな負の方向と
言えます。ここで重要なのは、理論を悪用したのは人間であるという事、
理論そのものは一人歩きしないのである。

もっと身近な例を挙げよう。火を活用すれば、暖を取る事も調理の手助けにもなるが、
扱いを失敗すると火傷したり、火事を起こす事もある。使い方次第で、生じる結果が
変わります。ということは、「火」に価値はなく、それを扱う過程又は結果によって
価値が生じるのである。

また、真理の追究が一銭の価値も無い事は、皆がそれぞれ証明しているのである。
自動車を利用する者は、その構造を全て把握し、自身で製造や修理が出来るほど
中身を求めていますか? 極端な話、元素構成比を把握しないと自動車に乗れないの?
大概は、まず便利な使い方、安全運転とかをイメージしますよね。

さらに、哲学に価値があるから追究すると言っていますが、真の哲学者ならば、
価値があるからではなく、価値体系というものを論理的に考証するでしょう。

まあ、反例です。気軽に考えてみましょう。

投稿日時 - 2010-06-10 21:32:55

お礼

つまり真理の探究も原理や理論、理念だけでは一銭の価値もなく、応用が伴って初めて価値を生み出す、とこういう考えですか。
これはつまりプラグマティズム、実用主義、実利主義の典型であり、もちろん世界に対するそのような捉え方も一つの価値観として有ることは否定はしません。というより現代文明は実際そのような考え方が主流であり、このような発想に基づいて世界は動いていると思います。そしてこれが進むと自然な成り行きとして効率優先、経済第一主義、アメリカ型資本主義、・・・と突き進むことになる。
私の場合は正直言って、このような流れは自分の肌に合いませんね。
なぜならこの考えに従うと芸術や文学を含め人間の諸活動は全て実利に結び付かないと一銭の価値も生み出さないことになります。人間にとって幸福をもたらすものではないでしょう。
 

投稿日時 - 2010-06-10 22:40:28

ANo.11

宇宙と時間について質問者を納得さす哲学上の定義がない。そのような哲学に存在価値は無く、哲学の時代は既に終わったのだと考えるしかない。と主張されておられます。そう考えれるのでしたら それでいいのではないでしょうか。思想とか哲学は 各個人のモノです。統一されなければならない とお考えなら問題と考えます。

投稿日時 - 2010-06-10 21:17:16

ANo.10

哲学の時代は終わりました。

その昔、科学が未発達で、この自然界の事、宇宙の事や生物の事に関して無知であった時代に哲学は私たちの認識の向上に役立ったと思います。実際ガリレオガリレイやライプニッツなどは、科学者であって哲学者だったですよね。

その後、科学が圧倒的に進歩し、それが人類の福祉に貢献しました。
ただ、科学の成果を正しく理解するのは大変な努力が居ることで、高度な数学や、緻密な観測やその誤差の処理など地道な努力が必要です。

このような科学の進歩にくらべて一人の人間がその一生の中で理解できる物事には限界があります。
そこで、分からない事を納得しようとして、各自各様の哲学を作ったりしますが、往々にして、勝手な思い込みは宇宙の物理学や、生命科学が明らかにしてしまった”事実”と相反していることもある。

そんな、事実誤認による”哲学”蔓延したりするので、哲学の時代は終わったと言っても良いと思います。

あとは、私たち一人一人が哲学する心を持ち続けて、分からない事を分からないと認めつつ、好奇心という人間固有の能力を活用してゆきたいものですね。

投稿日時 - 2010-06-10 19:53:24

お礼

哲学の時代が終わった今でも、職業的哲学者は多くいて大学の文学部哲学科あたりで今日も講義しているに違いないが、その彼らは一体どのような気持ちで毎日を過ごしているのであろうか、気になるところであります。
 

投稿日時 - 2010-06-10 20:17:00

ANo.9

哲学が答えを出そうとしているのは、あなたの知っている上のいくつかの疑問についてだけじゃないでしょ
あと哲学の答えが~とか言ってるけど、それはどう確かめたの?

前提が間違っていれば、論理的に正しくても、真実は導けません。

投稿日時 - 2010-06-10 17:11:18

 
>真理に価値が有るから哲学は真理を探求するのであって、価値の無いものを探求するはずはないでしょう。

本当にそうだろうか?

>「万物の根源は何であるか」の問いに始まり

万物の根源を知ろうとしたのは、価値があると思ったから、探求したのか?
純粋な、知的好奇心からではないか?

>人が生きる目的は真理の探求にあります。真理を探究するために人は生きるのです。

本当に、そうだろうか?

人類は、哲学の発生以前から、真理を探究していたのか?
原始時代、縄文時代の人間も、真理を追究していたのか?
現在の、地球上のあらゆる人間は、真理を探究するために生きているのか?

>どうやらこのような発想をするあたりから哲学は道を間違え、狂い始め、進化を停止し、存在価値の無い俗物に変貌していったのではあるまいか。

質問者こそ、一つの見方に捉われ、思考停止しているのではあるまいか?
 
 

投稿日時 - 2010-06-10 12:06:10

ANo.7

 g3452sgpさんの追及している一貫の世界ですね。
 哲学専攻の小学校の先生にかわいがられ、中学に入ってもいつも先生のお家にいました。
 先生は言われた、哲学はもうやる事がなくなってきているよ、と。
 何でも先生のいうことが正しいと思ってきて、頷いてばかりいたが、このことはどうも「そうだ」とは思えませんでした。
 g3452sgpさんやご回答の何人かの方が言われているように、【万物の根源】も【存在】ということも人間は疑問に思いながら、知的な回答をえていません。
 物象科学という自然科学や心理学など人文科学が考究し答えるでしょうか?
 何らかの方法で考究し答えるかもしれません。
 それは自然科学や心理学の方法による、そしてその方法での答えでしょう。
 それが人間の存在的テーマへの回答になりえないし、その分野の目標も違うでしょう。
 それでは実存や価値哲学のことか。
 いえそういうことではないものが知的に欲しいのですね。
 無論、私たちのインド哲学の端っこのものには、その回答は出されています。
 その結論をお前たちみんな受け入れるしかないのだ、などというとこのインド哲学は自らの墓穴に入ります。
 当然、所謂る哲学プロパとして追究し続けて欲しい事項です。
 私たちにはインド哲学の端くれにはもう無用であり、求めていなくても、哲学としては課題にしていくことを放棄しないで欲しい。
 私たちは人間の知と知機能、論理や演算を低く見ております。
 知と知機能、論理や演算の次元を超えた世界を実在と見ます、そういう実在にいきます。
 それは人間とての界を超えます。彼岸です。無論、今の私にはそれでいいのですが、人間の界として追究することはいいと存じます。
 それは人間の本能です。知を課されたものの宿命です。
 科学の回答がどんなものであれ、この人間の宿命に対応する事はできえません。
 それに目を塞ぐ事はできません。無論、回答がないであろうことは予測はできます。
 
 私たちの聖典にはいろんな挿話で説明があります。
 (1)
 此岸に二匹の蛙がいた。
 やはりあちらに渡りたいと一匹は言った。もう一匹は流れが急だから無理だ。やめとく。
 流される運命はあるが、彼岸にいく努力は放棄しない。と前の蛙はいった。
 できないからしないのでなく、・・・・ということです。

 (2)
 神から人間になる一つの契機は個別化と分類認識です。
 その機能、性格を象徴しているのが、聖典の著者、ヴィアサです。
 ナン(女性修道士)さんたちは、毎日彼岸のクリシュナにできたてのチーズを持っていくのが日課(行で彼岸に捧げる)でした。
 川の水は増え、急流と為りました。(雑念が多くなった)
 川岸で瞑想しているヴィアサにお願いした。
 ヴィアサは俺にそのチーズをくれとむしゃむしゃ食った。
 川岸にたったヴィアサは川に命令した、私が全くチーズを食っていないのなら、川よ命令を聞け。
 水を左右に分け、ナンたちを彼岸に渡せ。
 川は命令どおりにした。
 クリシュナに会うと、いつも喜んでチーズを受け取るのに、クリシュナはもう食べたよ。
 あっちのね、友人のヴィアサがたくさん食べてくれて、わたしはもう今日は結構だよ。
 というのでナンたちは了解した。

 まぁモーゼが海を分けた質問があったけど、水を分けるというのは世界の古代聖典では一定の内意が通底しているようですね。水上の歩行も。
 いえ水上歩行を50年も練習している方もいますが。不思議なインドですね。

投稿日時 - 2010-06-10 10:36:29

お礼

宗教というものは心地よいものです。
ヒンズーにしろ、イスラムにしろ、仏教にしろみな同じです。
人は心地がよいので宗教するのです。
別に悪いことは何もありません。
ただただその心地よさが永遠に続けばよいと思っているだけです。
全てを忘れそこに永遠に浸っていられればそれで上等なわけです。

投稿日時 - 2010-06-10 12:22:17

ANo.6

哲学者として世界的な著名人は、サルトル没後、出ていません。そういう意味では、哲学が社会的に果たしていた使命を失いつつあると思います。
しかし、哲学そのものが衰退した訳ではないと思います。自然科学の発達とともに、哲学が発展して来たように、今後も自然科学の発達が続く限り、哲学は発展し続けるでしょう。アインシュタインの宇宙観が否定されたかと思えば、復活したりしています。暗黒物質(ブラックマター)の研究が進めば、宇宙観が大きく変わる可能性があります。

投稿日時 - 2010-06-10 09:52:43

ANo.5

んー 哲学のビックバンが起こったのは、今から2500年くらい前ですよね。
そこから外に放出してバラバラになっていったわけですが、だんだん減速していきやがては冷えて小さくなっていきエネルギーが強くなって質量を持つものが点在していくと思う。


大きな質量は他の質量を持つものと融合していき、やがては元の一つに戻ると思う。
この一つの戻った状態を哲学0とするかというと、、、
材料はあるのでまた広がると思う。


で、今の状態は拡散か収縮かというとまだ拡散していると思う。

投稿日時 - 2010-06-10 09:30:17

ANo.4

哲学と言っても様々である。

質問者がそう考えるのであれば、それは貴方の哲学が終わったという事です。
真理の追究は哲学の一側面ではあるが、全てではない。よく耳にする言葉ですが、
「真理そのものには一銭の価値も無い」自分もそう思います。

従来の哲学ではなく、存在する「価値」のある哲学が求められるのです。
実際、カント以降においては、洋の東西を問わず、そういった傾向にあります。

また、科学技術の発達によって、今後、宇宙がどうとかの問題は解明されるかもしれま
せん。科学が追いつかないから哲学で定義づけ、そういった声が天動説を用いたのでは?
少々短絡的かと思われます。

「宗教無き科学は欠陥であり、科学無き宗教は盲目である」
これはアインシュタインの言葉だが、宗教を哲学に置き換えてもいいと思う。
”盲目”、やはり何らかの方向性を求めているのではないか。

哲学というと、古代ギリシャなどの西洋の人間しか思いつかないというのも浅学である。
一度、西田幾多郎の「善の研究」、牧口常三郎の「価値論」など、数は少ないが、
価値を追い求めた近代日本の哲学者の著作に触れてみるのはどうでしょう?

投稿日時 - 2010-06-10 08:53:51

お礼

>「真理そのものには一銭の価値も無い」自分もそう思います。

sotomさんも面白いことを言う人だ。
真理に価値が有るから哲学は真理を探求するのであって、価値の無いものを探求するはずはないでしょう。
人が生きる目的は真理の探求にあります。真理を探究するために人は生きるのです。
どうやらこのような発想をするあたりから哲学は道を間違え、狂い始め、進化を停止し、存在価値の無い俗物に変貌していったのではあるまいか。
そんな感じがしてまいりました。
 
 

投稿日時 - 2010-06-10 09:53:05

ANo.3

世界の本質の認識が「物理学でできることではない」にしても、物理学で得られた知見と矛盾してもなりません。
最新の物理を習得せずに、自分の中でしか通用しない思索をいくら深めても、それは現代の哲学たり得ないのです。

投稿日時 - 2010-06-10 07:38:09

お礼

ということはつまり、哲学は単独では成り立たず物理などにまつわり付いて生きる以外にないもの、ちょうど寄生虫のような類となる。
これではやはり哲学は独立しておらず、存在価値は無く、哲学の時代は既に終わったのだと考える以外にない。
 

投稿日時 - 2010-06-10 10:56:03

ANo.2

>哲学の時代は既に終わったのだと考えるしかない。
ハァ
そうですか

投稿日時 - 2010-06-10 07:11:03

補足

哲学の時代は終わったのか?(←コレが疑問符)
ということでコンテンツのある御回答おねがいします。
 

投稿日時 - 2010-06-10 07:39:35

ANo.1

すいませんが
疑問点を お書きください\(^^;).

投稿日時 - 2010-06-10 06:59:03

補足

哲学の時代は終わったのか?(←コレが疑問符)
ということでコンテンツのある御回答おねがいします。
 

投稿日時 - 2010-06-10 07:40:18

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