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解決済みの質問

ほにゃらか形而左右学 敬語(1)

「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」

『恋衣』(明治38年1月刊) 与謝野晶子

「美男におわす」と言う表現が、「尼」との対比なのか、斬新な価値基準の表れなのかはさておき、この敬語表現は、古い形式で、昨今なら、「美男でいらっしゃます」とでもいうのでしょうか。敬語表現も相当揺らぎが激しいようですね。尤も、言語表現は揺らぎが激しいものですから、驚くことはないのですが、もし、敬語が(此処では一般的に丁寧語や謙譲語等々をひっくるめて)「絶滅危惧種」に指定されているとしたら、どうでしょうか。

敬語の表現変化は、あくまでも国語の問題ですが、そもそも、無くなったり、他の媒体にその使命を移譲していくとしたら、そこに、哲学・社会学的考察の扉が開かれているのではないでしょうか。

手始めに、敬語はなくなるのかどうか、この辺りから、ご意見をお聞かせ下さい。

投稿日時 - 2010-03-20 05:54:08

QNo.5765471

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

敬語はなくなるか?
確かに敬語が使えない人は多い。
目上の人をもちあげる敬語をたどたどしくも使う人はいるが、謙譲語を使って美しく表現する人は、周りには少ないですね。


日本語学習をする人が一番悩むのは敬語だそうだし、謙譲語に至っては理解に苦しむのだそうです。
日本人:「本当につまらないものですけど・・・・」
外国人:『つまらないものだと思うのなら送るなー』
みたいな?

日本人:「うちの愚妻が」
外国人:「馬鹿な女を妻にもらって気の毒」
みたいな?


英語でもmayとか使って表現しますが、日本語ほど種類は無い。

あるジョークを読んだことがある。
名前を聞かれた生徒は自分の名前を答えたら、先生は 「sir」と言った。
sirを最後につけて「でございますと言え」と生徒の乱暴な表現を指摘したわけです。

すると生徒は自分の名前に前にSirをつけて答えた。 Sir Jackっ(ジャック様)って。
生徒にコケにされた先生なわけですが、本当は敬語を使えない生徒の醜悪さを指摘したものでもあるので、ダブルなジョークで、ブラックジョークなわけです。



敬語も時代とともに変化していくと思います。
例えば相手の名前を呼ぶとき「様」「さん」「君」「殿」とか状況に応じて使いわけますが、最近だと「氏」とか「ネ申」があるようですね。

だから、別の表現になってはいくでしょうけど、消えないと思います。

投稿日時 - 2010-03-21 05:50:42

お礼

相変わらずの、切れの良いご回答を頂き、有難う御座います。

>だから、別の表現になってはいくでしょうけど、消えないと思います。

いきなり、結論なんですが、これを読んで、実は迂闊にも、私たちの間で、敬語は消えない、と言う状況が、どういう状況を指しているのかという、共通の理解が未だに形成されていない。にもかかわらず、>消えないと思います。と言い切る、ご回答者様の気風の良さに驚くとともに、質問者のお馬鹿加減に、思わず吹き出してしまいました。

確かに、外国の言葉と日本語を比較して敬語について考えるのは、一つの切り口として、興味深い部分ですね。
英語は、特にアメリカ英語は、比較的新しい言語ですから、古くからある言い習わしは少ないのかもしれませんが、仰るように、sirとかmayには、敬語的要素が僅かながら見られるようですね。

ところで、お隣の韓国のハングルでは、日本語ほどではないにせよ、尊敬や敬意をあらわす、接尾語のような助詞のようなものがありますし、中国語は、一説によると、敬語が廃れて、二人称と年齢を尋ねる祭の数詞の違いがあるとの事、歴史の長い言葉ゆえに、敬語が廃れたと、考えるべきか微妙なところです。

また、欧州の一部の言語では、話し相手との親密性によって言葉遣いが変わると、これは敬語かどうかわかりませんが、日本の敬語同様に、なかなか厄介な使い分けがあるとの事です。さらに、この地域の女性名詞・男性名詞、或いは中性名詞といった存在の精神性を考えると、言葉が表わす意味は、奥深いものがあるようです。

そこで、改めて、最初の質問者のお馬鹿さん鰤に戻ると、敬語が消えた状態を、欧州も含めた英語・ラテン語圏辺りで、敬語が消えたとすると、やはり同じように、消えない、と言う結論になるんでしょうかね。

ついでに、ネ申 これって何のおまじないですか、是非是非鰤鰤聞きたいです。
う~む、ネサル、と読むのかな。

投稿日時 - 2010-03-21 16:28:14

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回答(13)

ANo.13

(2)のほうで文法のモードの話を振った者ですが、
会社のトイレのドアをぱっと開けると上司がしゃがんでいた場合、
開けたほうに非がないとしても咄嗟に謝ることになるのでしょうが、その弁解は
「あっ、いないと思った」
なのか、
「あっ、いらっしゃらないと思った」
なのか。
いないということは、その個室空間の状態が、空き空間であるということを指しているのですが、
いらっしゃらないということは、上司がそこに存在するか存在しないかに気が向いているかもしれません。
これは、シフトされうる発言志向性といったものではないでしょうか。

夜更けの人けのない仕事場で、しくしくと泣く新入社員の女子がいるとして、
あんまり悲しそうに嗚咽しているので、ぽつねんと1人残業していた男性社員は、
たぶん自分がいることに気付いていないんだなと思って黙って聞いている。
そうして女子社員が人の気配に気付いたときのひとこと、
「あっ いないと思った」
か、
「あっ いらっしゃらないと思った」
か、どうなんでしょうね。
段階的に、この人物たちそれぞれの心の動揺、動揺を隠す心、また別の動揺とがあるわけですが、
そういう動きと結びついたところに、いらっしゃらないと思った、などと言われると、
それだけでまた男性社員は少し動揺するのかもしれず、
いないと思った、と微笑まれたときとは少し違う心の襞模様が出てしまいかねないと思ったかどうか、
それを見越して、咄嗟に「いらっしゃらない」よりも「いない」を使う女子社員というのもその逆と同じくらいアリでして、
人の心模様と、判断と、表現、およびその余波というのは、複雑なものではないでしょうかね。
あんまり参考にならないかもしれませんが。

投稿日時 - 2010-04-08 05:04:45

お礼

昔は、確かお手洗いの中では、上司に会っても目礼・お辞儀と言った動作行為で、言葉自体発さない、お手洗いは、不浄の場所だったですね。最近は、あまり気にしないような所も有るようです。
この場合、「失礼しました」で「失礼致しました」は反ってわざとらしい。
トイレのドアをぱっと開けて、女子社員がいたら。
誰が開けたか、気付かれないよう、無言で素早く閉めて立ち去る。

女子社員がしくしく泣いていたら、もぅ、言葉の問題ではなく、個人的な人間関係で、やさしく抱擁するもよし、気付かれないように、立ち去るのもよし。知らぬが仏、見ぬもの清し。

個人的には、モードの続きの方が、敬語の主題に合ってたかも。
ご回答有難う御座います、宜しければ次回も。

投稿日時 - 2010-04-11 17:08:13

ANo.12

>ただ、哲学的対話としては、しかじかこれこれの事実から、○○である。

>例えば、将来、上下関係や敬意の対象が消えるから、それに伴い、敬語も消える、とか。

 そうですね、情報技術が発達して、意識・思想の普遍化・共有化が進んでいるので、特に誰か特定の人を尊敬したりすることが自然となくなりつつあるから だと考えました。歴史の流れなどを見ても、存在に対する格差がなくなりつつありますからね。

投稿日時 - 2010-04-07 23:31:05

お礼

我侭なお礼に、お付き合い頂き、有難う御座います。

仰る通り、敬意の対象が、少なくなりましたね。それに、昔は情報が不足していましたから、伝説的な英雄が作られる、下地があったんでしょうね。二宮尊徳の私生活を暴く、フライデーも無かったし。

ただ、行き過ぎた平等主義も困ったもので、人の能力には差は有っても、互いに敬意を持つ敬語は美しいものですが、人を差異化する敬語は、無くなればよいと。

投稿日時 - 2010-04-11 17:07:26

ANo.11

こんにちは、fishbowl66さん。

「おはす」って…昼も過ぎたころだけれど、ひとまず

おはスタ(^O^)/
http://www.shopro.co.jp/oha/kesikasu/index.html

「絶滅危惧種」ってところから「おはす」をみると「オス」の危機?!

【致死遺伝子】Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%B4%E6%AD%BB%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90

【蚊を絶滅させるための「遺伝子組み換え蚊」】
http://wiredvision.jp/news/200801/2008012923.html



「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」

『恋衣』(明治38年1月刊) 与謝野晶子

鎌倉の大仏さん、夏暑いだろうな。
ぐるりには生い茂った木立
夏ともなれば、
からだのあちこち蚊にくわれ
見た目のボコボコは頭のかりではなく
身体中いたるところにボコボコと
あらわれてきてもよさそうなもの
さぞや痒いことだろうに
しかし、大仏は黙して語らず鎮座する


恋衣、蚊帳のないあなたにかける恋衣




【高徳院】Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BE%B3%E9%99%A2
鎌倉大仏が建立されている場所は、もともと長谷の「おさらぎ」という地名であった。
そのため、鎌倉大仏にかぎっては「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む場合がある。
また、この地に由来のある家系には「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む姓がある。

ちょこっとここに注目!

「釈迦牟尼」と書いて「あみだにょらい」と読み方があったとすれば

釈迦牟尼と阿弥陀如来どちらをも殺生することなくこの世に残る

絶滅危惧種ーほごー幾久しく続くことを願ってのはからい

【大佛次郎】Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BD%9B%E6%AC%A1%E9%83%8E

投稿日時 - 2010-03-29 15:00:54

お礼

お久しぶりです、ご健在、お喜び申し上げます。
お礼をこれだけ遅らせて、言えた義理はもちろんありませんが。

下の方に引用した、『プルーストとイカ』読後に、あれ、イカはどうしたの、と思うほど、イカの存在感が、無いんですね。まぁ、比喩的意味は読み取れますが。
今回のご回答も、あれ、敬語はどうした・・・と。

あっ、知りませんでしたか、大仏の前には、大きな蚊取り線香がもくもく。
やっぱり、現地調査も必要ですよ。

有難う御座いました。

投稿日時 - 2010-04-11 16:59:47

ANo.10

信言不美、美言不信

投稿日時 - 2010-03-27 23:48:34

お礼

但願人長久 千里共嬋娟
非常感謝 人尓心 →中国語三文字組合わせて、「あなた」の敬称一文字です。 

投稿日時 - 2010-04-11 16:58:35

ANo.9

No.7につき、補足させていただきます。

「vouvoyer」などの「(二人称)複数形」に表されるであろう「親密性」
と記したところの「親密性」とは、
「距離感の変容性」を意としたもので、「vouvoyer」が親しみやすさを湛えた表現というわけではありません。

ここのところがわかりづらく表現してしまったようにも思います。
すみません。

投稿日時 - 2010-03-25 23:41:19

お礼

距離感の問題でしたら、上下より内外と解釈していますから、杞憂でしたね。
ご丁寧に有難う御座いました。

此方こそ、忘れ物
#6の補足欄に引用した文章が、出典を明記していませんでしたね。
改めて、『近代中国語の敬語システム』彭国躍でした。

投稿日時 - 2010-04-11 16:57:42

ANo.8

No.6です。
先の回答で「vouvoyer→tutoyer」「親密性」にふれてから、
素人なりに自問自答を繰り返しておりました。

先日「モリエール」という恋愛喜劇映画を観に行った際に手に取った
「美しい言葉づかい──フランス人の表現の技術 井村順一著 中公新書」によりますと、
そもそも17世紀の絶対王政以降、フランス語が「明晰さ=clarte」「美しい慣用="bel"usage」をもってして、
「美しい言語」としての地位を確立していったその背景としては、
会話好きなフランス人が集いもてなすサロンという場と、アカデミーによる
諸般の尽力といった影響が挙げられるそうです(第IV章)。

そこでは、話し手は常に聞き手に対しての「いかにして相手に明確に伝えるか」という表現力と、
相応の規範「美意識」が自ずと求められ、また、会話における技術的な側面も
洗練されていったという内容が記されています(終章)。

一方日本語の場合、どのようなものが認められるのでしょう。

私にはそれが、室町時代に完成の域に達したとされる、
あのおびただしい種類が存在する能楽の面(おもて)が孕むであろう
「陰翳の妙」「慎み隠す」のあたりに何かを感じるのです。

そもそも面をつける意義というのは、幽玄の美を醸し出すために、
舞う人の素の表情の微細な変化や衰え、あるいは醜さを「慎み深く隠す」ことを重んじるからなのでしょう。
神や生霊やらが宿るとされる呪詛的な依代(よりしろ)の性質ゆえに、厳かに丁重に扱われてきた伝統をふまえると、
日本語そして敬語という言葉についても、形式や外観とは別の、
非可視なる何かを孕んでいるのかもしれません。

逆に言えば、わが心を慎ましく隠すことで何かを引きだすといった美意識があったからこそ、
多種多様な敬語の型が生み出されたとも言えるのではないか、あるいは、
言葉を用いる人の醸し出す声色や強弱、間の取り方などによっては、
直截的で明確な表現以上に得られる≪妙≫のようなもの、
奥行きと曖昧さの余地を持たせることで、情感豊かに互いに推し測るであろう
≪心の綾≫といったものを、至上としていたむきがあると思うのです。

そうであるならば、先にふれたフランス語の「vouvoyer」などの「(二人称)複数形」に表されるであろう「親密性」と、
日本語の敬語の孕む「慎み深さ」とでは、同じような敬語的な役割を果たしていたとしても、
その成り立ちと本質とでは、似て非なるものかもしれませんね。

むろん言葉は時代や人と共に変化するものでしょうし、日常の万事につけ、皆が皆「慎み深さ」などを意識しているとは到底思えません。
また、分不相応な際には当然滑稽に映ることでしょう。

けれども、相手を重んじて上述のようなわが心を隠す「慎み深さ、細やかさ」といった
≪日本語の織り成す繊細な色合い≫というのは、面識の有無に拘わらず、
むしろ言葉の送り手と受け手の関係性によっては今なお伝えることが出来るとも、
また、かけがえのないもののようにも思えてならないのです。

さらにまた、「わが心」ではなく「わが思惑」を効率的な効果を狙って用いられた敬語の類に関しては、
虚ろに響くものでしょうし、万人にとり多忙な昨今、
煩わしい以外の何物でもないのかもしれません。

ですので、そのかぎりにおいては、将来的には簡素化されたり、
あるいは別の形に姿を変えていくのではないかと思い耽るのです。

投稿日時 - 2010-03-25 21:54:30

お礼

モリエールの映画は如何だったでしょうか、ルイ十四世の時代でしょうか、ジョン・ローなどが登場していたりしたら、とても興味深いですね。
ところで、モリエールと言うと、どうしても絵画のほうに印象が行って、喜劇とは中々結びつかなかったですね、映画の話と言うこともあって、モデリアーニの映画と混同してしまいました。
言葉による連想の拡がりが、人それぞれで、面白い部分ですね、例えば、この質問は、敬語が主題ですが、その敬語とて言語の内で、言語と映画というと、ピグマリオン(マィフェアレディー)が、下級の娘に上流階級の言葉を教え込んで、社交界を驚かせてやろうとした、言語学者の話だということを思い出しました。
美意識と言うものも勿論ですが、そうした中に、上下関係や階級意識が見え隠れするような気がしてしまいます。

能面の話は、もっと拡散してしまいそうですね。
確か、世阿弥が「秘すれば花」と言う、意味深な言葉を残したらしいですが、能面と「オカメ・ヒョットコ」を較べると、隠す仮面と表現する仮面、どちらかと言うと狂言的な要素が強いと、表現系で、能面のように無表情なものは、隠し系でしょうか。ただ、数年前、関東方面に輪行で遠征の際、某美術館で、能に関する衣装等の展示会があり、そこで沢山の能面を観ましたが、中には結構表情豊かなものが有ったですね、翁とか般若とか。
隠すものは普通、汚いものだ、など『とほざいている』様では世阿弥の心には届きませんね。

さてさて、話を敬語に戻すと、敬語が何を表現するか、というより、何を隠しているのか、と言った新しい視点のご指摘をいただいたようです。

すでに、恐れ・上下関係、そもそも敬意自体も忘れてはなりません、お話のおフランスの表現では親密性は、内・外の関係でしょうか。表わしているのか、隠しているのか、まるで、一番一般的な「こおもて」と言う名でしたか、無表情なお面が、突然、般若に早変りするような、益々、敬語、判りませんね。
有難う御座いました。

投稿日時 - 2010-04-11 16:55:17

ANo.7

 敬語に丁寧語・尊敬語・謙譲語があることを確認しました。

 丁寧語は敬語ではないと思っていたので。

 丁寧語はなくならないでしょうね。

 尊敬語・謙譲語は要らないです。徐々に消えていくでしょう。

 ちなみに「ますでしょ」はその文体にベタベタした醜さ・キタナさを感じます。

 「ます」で言い切り、「でしょ」に依存・癒着を感じます。

 結果的に他者を侮り、尚且つ甘えた、押し付けとなっています。

 コドモです。

 まあ、人の感性も色々ですね~

投稿日時 - 2010-03-23 21:20:47

お礼

結論的には、ほぼ、期待通りのご回答ですね。

ただ、哲学的対話としては、しかじかこれこれの事実から、○○である。

例えば、将来、上下関係や敬意の対象が消えるから、それに伴い、敬語も消える、とか。

まぁ、簡潔な質問には、簡潔な回答で、と言った感じでしょうか。
有難う御座いました。

投稿日時 - 2010-04-04 16:51:58

ANo.6

fishbowl66様、こんにちは。 お久しぶりです。

>敬語はなくなるのかどうか
>「絶滅危惧種」に指定されているとしたら、どうでしょうか。

敬語はこれからもなくならないと私は思います。

かつての歴史的な身分制度に付随し、変化し用いられてきたであろういわゆる敬語というものは、
現代の日本国憲法の平等権の下、「元々の存在意義」からするならば、
自然消滅する方向にあっても、さほど不思議ではないのかもしれませんね。

しかし、従前とは若干用法を変えながらも、敬称と共に、今なお使用されている現状をふまえますと、
敬語全般というものが、決して形式上のものばかりではなく、
「使用する者の相手に対するささやかな気持ちを言葉に託す/受け取る」という意味を為すということ、
そしてそれにより「当事者間において」適度な潤滑油となり得ている、もしくは、
相応の社会儀礼としての役目を確実に担っているという表れを、
私たちは多少なりとも認めることが出来るはずです。

そしてそれはむしろ、サービス業の接待時などといった≪経済的≫な関係性こそ、
現代社会において決して軽視することのできない必要不可欠な要素と言えると思います。

>敬語の表現変化は、あくまでも国語の問題ですが、そもそも、無くなったり、他の媒体にその使命を移譲していくとしたら

はい、今後の可能性として、
ネットや携帯などのいわゆる即時伝達手段の更なる普及と定着により、
たとえば敬語の代りに手の形やお辞儀の表す絵文字などを用いることで、
≪スピード感の重視、軽やかな表現に留める≫ことのほうが、時に求められるのかもしれません。

さらには、多忙なこのご時世だからこそ逆に、手書き、封書といったカスタマイズのような「ひと手間かける」伝達手法を駆使することで、
敬語に近しいニュアンスを表現することも可能なのかもしれませんね。

余談ですが、ご指摘の外国語の件につき、1点付け加えますと、
フランス語のvousとtuに関しては、話し相手との親密性などによって変わり得るものと、経験上心得ております。

かつての滞仏の際には、年配の夫婦間におけるvouvoyerにも遭遇することもありました。
そしてそれは、丁寧語を用いて自然に会話をする日本の年配の夫婦とも、
さほど差がないような印象を受けたことを、今でもはっきりとおぼえているのです。

恐らく、地方、生い立ち、文化的背景、世代間にもよるのでしょう。
そしてまた、古い階級制やしきたりの残る国であればあるほど、静かに、そして確実に、
敬語や敬称というものは用いられ、重宝され、
やはり生き永らえていくように想像せざるを得ないのです。

投稿日時 - 2010-03-23 18:19:30

補足

序論
ここでの引用文献は、用例リストが示した通り、すべて近代において書かれた文学作品である。用例出処の言語スタイルに関しては、第五章・・・以外は、基本的に文学作品の中の会話文を引用する。このように限定した目的は、近代中国語の敬語は書簡文などの文章語特有の現象だと言う従来の誤った認識を正すことにある。したがって、この研究は基本的に近代中国語の話しことばに現れた敬語表現を対象とするものである。

第九章
〔1〕14世紀から19世紀末までの約500年間に敬辞の使用に著しい変化は見られなかった。この500年の間はちょうど元、明、清の王朝時代にあたる。その期間に2回も王朝交替が行なわれ、長期間にわたる非漢民族の支配があったにもかかわらず、表7のグラフが示すように、その間における敬辞使用は、徐々に減少してはいるものの、時代差を感じさせるような顕著な変化はみられない。この現象から異民族支配や王朝交替およびそれに伴う戦乱のような社会的変化は、人々の敬語意識や敬辞使用にそれほど大きな影響は与えなかったことが窺える。歴史的にみてもこの2回の王朝交替は異民族支配があったとは言え、中国従来の社会組織や伝統的な世界観や価値観などを大きく変えるまでは至らなかったと言える。
〔2〕表7で、作品(15)から(16)までの間つまり19世紀末から20世紀初頭にかけて、敬辞は急激な衰退ぶりを見せている。その時期はちょうど清王朝の崩壊、辛亥革命の勃発、中華民国の樹立、そして封建制、伝統文化への猛烈な批判を唱える新文化運動、五四新民主主義運動の発生などの社会構造や社会意識の大変革の時期と重なる。この時期起こった一連の事件や事変は、孤立した出来事としての存在ではなく、社会全体の中で表層に現れた諸現象のうちのひとっであり、その背景に、近現代中国社会における世界観、価値観の大転換が行なわれたことを意味するものである。敬辞の衰退と中国社会の変遷との間に存在する偶然とは言えないこのような通時的共振関係から、今世紀初頭に起こった一連の社会的変化およびその背景となる世界観、価値観の転換は、当時中国社会の人間関係の意識を変化させ、敬辞の衰退を促進した重要な要因ではないかと考えられる。
 伝統的な敬辞表現は社会主義革命によって衰退したと一般的に考えられがちだか、表7で示されたように、その著しい変化は今世紀初頭つまり辛亥革命勃発や清王朝崩壊の時からすでに始まっていたことが分かる。
〔3〕敬辞表現の量の現象は質の変化をもたらし、作品21以降になると、敬辞体系そのものが消えるに至った。謙辞はすっかり消滅し、尊辞も”貴姓”という個別の痕跡が残るだけとなった。その時期はちょうど社会主義革命以後の約45年間と重なる〔2}の分析ですでに分かるように、社会主義革命そのものは敬辞の衰退を促した直接の原因ではないけれども、社会主義国家になってから敬辞はすっかり消失し、二度と復活することがなかったこともまた事実である。社会主義革命により敬辞使用の社会的基盤が更に崩され、その復活がいっそう不可能になったと言えよう。

投稿日時 - 2010-04-04 16:48:46

お礼

お久しぶり、と申しますか、何時もお会いする、お隣さんのような感じですね。
時間感覚の微妙なずれ、でしょうか、普通とは逆のようですが。

敬語はなくならない、という説がどうも優勢ですね。
それに質問して見て、敬語は結構、手強い相手のような気がしてきました。

残念ながら、私は外国暮らしの経験が無く、外国の敬語にまったく接した事がが無いのですが、聞くところによると、日本ほどはっきりした敬語は無いようです。それと興味深いのが、お隣の中国、この国は、一説によると、敬語が消滅したと。
そこで、多勢に無勢、援軍として、中国語消滅のいきさつを、補足に貼っておきます。

それと、親しき仲にも礼儀あり、と申しますが、親密性に甘えて、以下の点に触れさせてください。それは、敬語がなくならないという主張は、平等主義と矛盾しないのか、という点です。
こうした指摘を、お礼ですると、揚げ足取りみたいな失礼なお礼、と、怒られる回答者様が居られるのですが、しきたりや習慣と言った詳細な分析も必要ですが、マクロ的に見ると、上下関係を肯定している、という事に成り易いですね。
例えば、鳩●首相、あなたは友愛主義者なのに、なぜそんなにお金持ちなんですか?と、国会の論戦の中で、質問されたとかされなかったとか。
でこれは、『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』G.A.コーエンという本を以前読んだとき、膝を叩いて、おっ、私と同じようなことを考えている人もいるのだと喜んだ次第です、但し、勿論、レベルが違いますが。

今日の所は、お後が宜しいようで、失礼いたします。有難う御座いました。

この場をお借りして、#5様の補足欄の訂正をさせて頂きます。
誤 古代世界における意識の発生リテラシーが寄与

正 古代世界における意識の発生にリテラシーが寄与

投稿日時 - 2010-04-04 16:47:08

ANo.5

美しい言葉を選べる裏にはそれと同じくらいの人間性の醜さや穢さが潜んでいるもので
それに形だけの敬語使いは日常においてその端はしで人間性の厭らしさが顔を出しているのに出くわします。
そういう時はやはり先の回答の中でどなたかも言っておられますようにその人の心の醜さがことさらに増幅され鼻持ちならない嫌悪感となっていってしまいます。
ましゅまろさんとかあまがっぱさんなど
本人は敬語をうまく使いこなしていると思っておられるのかも知れませんが

言葉の持つ美と醜は表裏一体で
裏を返せば真善美が一体となれば言葉そのものが芸術的といってもいいものになり得ても
そこに何か一つが欠けているとその人の心の醜がそのまま表出してしまうという面があると言えるのではないでしょうか。
またそれに熟達するほどに人を尊ぶこともまた反対に蔑んだりといったことも言葉のニュアンス一つで人に伝えるということができるという単なる道具になります。

優雅、華麗に見せかけてはいても裏を返せば上下関係にこだわった一つ間違えば腐敗しきった心の世界をそのまま表出してしまい
言霊として邪険を含んでいたり平安のおおらかさがなかったり
敬語という文化世界は言葉という道具を通した静かで熾烈な心の世界をそのまま露わしてしまう陰気な粘着性の世界にもなっていってしまうようにも思われます。

使えないより使える方がいいのかもしれませんが、それによって心が涵養されるというわけではありませn。
敬語による言葉の美といったこと以前に日本の美は万葉の詩のような健全なおおらかさといったいくつかの言葉で表わされるような特徴的なものが源流にくるようにと観て行っていただきたいと思います。
昔から仁義礼智忠信孝悌と言い
そのものが失われつつあるとそのものの復古がことさらに言われるようになると言われますが
今は礼が云々言ってるような時ですか?
できるのにしようとしない
できないのにその地位にいる
敬語を使うその人の地位によっては時にその呑気ささえ鼻持ちならないものになり得ます。

投稿日時 - 2010-03-23 11:33:09

補足

 古代世界における意識の発生リテラシーが寄与したことを雄弁に指摘していることにかけては、イエズス会士である文化史家ウォルター・オングの右に出る学者はいない。・・・
オングの先見の明を感じさせる一節を、ここで紹介しよう。

『すべての人間が生まれた時から知っているオラリティ(声の文化)と、生まれたときから知っている者は誰もいない書く技術との相互作用は、心の深みにまで達する。口から発せられる言語によって最初に意識に光を当てるのも、主語と述語をまず分割した後、改めて相互に関連づけるのも、また、社会に生きる人間同士を結びつけるのも、話し言葉である。書くことは分裂と疎外をもたらすが、それと同時に個を高めることででもある。自意識を強め、人間間のより意識的な相互作用を促す。書くことは意識を育むのである。』

 オングが再認識した人間の意識は、音声言語と書記言語が限りなく近づいた時に生まれる本物の変化だった。人間の思考に対する考え方を変化させたのは、読むことだったのである。『アンナ・カレーリナ』のリョーヴィンの告白から、『シャーロットのおくりもの』でクモが思いついた苦肉の策にまで至る例に見られるように、他人の思考を理解できれば、汲み取れるものは二倍に増える。他者の意識と自分自身の意識である。3000年の時をかけて他者の思考プロセスを考慮する術を身につけたからこそ、本来ならば想像もできない人間の意識を自分のものとして本当に理解することができるのだ。最も偉大なる口承伝統の擁護者、ソクラテスの意識も例外ではない。ソクラテスについて、また、彼が抱いていた懸念の普遍性について理解できるのも、プラトンが葛藤しつつも書き残した著書を読めるからにほかならない。

・・・

 しかし、ソクラテスの懸念には、もっと深い意味がある。エデンの園の昔から、インターネットによって誰でも何にでもアクセスできるようになった現代に至るまで、誰が何を、いつ、どのようにして知るべきかという疑問は人類史を通して、今なお解決されていない。10億を越える人々が、これまでに蓄積されて未曾有の拡充を遂げた情報にアクセスできるようになった今、私たちは知識の伝達に対する社会の責任という問題に分析スキルを投じる必要がある。突き詰めていくと、ソクラテスがアテナイの若者たちのためを思って提起した疑問は、現代の子どもたちにも同じくあてはまるからだ。指導なくして与えられる情報は知識をえたという錯覚につながり、そのせいで、本当の知識を得るための、時間がかかって厄介な批判的思考のプロセスが削られてしまうことになるのではないか? 検索エンジンのおかげで、コンマ何秒の早業で情報が得られるうえに、その量も半端ではないとなると、複雑な概念や著者の内的思考のプロセス、自分自身の意識に対する理解を深めてくれるとは言え、退屈な熟考のプロセスに、狂いが生じてくるのではないか?
(『プルーストとイカ』メアリアン・ウルフ)

投稿日時 - 2010-04-04 10:33:34

お礼

お礼が、少し遅れてしまいました。
今月の本棚が、難解な本ばかりで、頭休めのために、タイトルにつられて借りてきた本が、なんと今年初のビンゴ。読みかけの本を放り出して、此方に没頭しておりました。

それに加えて、回答者様の迫力に、一気に土俵際まで押し込まれて、挽回の術を封じられたような悩ましい時間を過ごしました。

さて、
>美しい言葉を選べる裏にはそれと同じくらいの人間性の醜さや穢さが潜んでいるもので
仰るとおりだと思いますが、それならば、敬語はなくなるかどうかと言う質問に対して、無くせば良い、という回答になりそうですが、
>使えないより使える方がいいのかもしれませんが、
此処で、様子が変わってきますね、これはなぜなのか?
>今は礼が云々言ってるような時ですか?
此処では、私のほうが混乱してしまいました。
えっ、どうしてそうなるの、と。

そこで、再度、質問と回答全体を見直しましたが、もう一つ判らなくて、結局、原因は、質問における「敬語」を一つの概念として、質問してしまった、質問者の責任もあるように感じました。
つまり、最初のご回答のお礼欄に、書いてあるように、言語体系の中で敬語を一つの概念として、考察しようとする考えが見られます、この点、ご回答が人によって極端に違う原因が、敬語は一つの概念ではなく、ご回答者様が指摘するように、上下関係を示す、記号だ、と考えることもできるということです。単に、敬意を表わす言葉が敬語ではないということでしょうか。

国語では、敬語、丁寧語、謙譲語と言う分析がありますが、上下関係を表わすか、敬意を表わすか、と言った二分法が、当たっているかどうかわかりませんが、上下関係を表わすだけなら、無くなるだろう、単に敬意を表わすだけなら、無くならないだろう、こんな考え方を深めればよいのでしょうかね?

お礼が遅れた原因の本の一節を張っておきます。
気が向きましたら、お楽しみ下さい。有難う御座いました。

投稿日時 - 2010-04-04 10:33:13

ANo.4

私は昔の文学を読むのが苦手。

芥川龍之介の作品を読むとき、まるで外国語を読んでいるかのような 読みにくさがある。
第一漢字が読めない。
表現はなんとなーくわかるにはわかるが、現代では死語になっているんじゃないか と思えるような語彙が使われているから。
スムーズに読めないので、「ええええい めんどくさーーい」と思って読まずじまいだった。
最近100円ショップで現代語で書かれているのが売られていて、やっと内容がわかったという次第で。

なんでたかだが100年で、これほどまで日本語が変わったのか? と思うわけです。

しかし、現代でも敬語は頻繁に使われているわけで、特にビジネスや売り買いに関しては、必須ですよね。

「ございます。」という言葉はさすがに銀行とか堅い職業の人が使ってますでしょ?
誠実さを表すためだと思うんですね。


ああ、 そういえば「ますでしょ?」というのが最近のマイブームで、心理学の教授の口癖。
聞きなれない新鮮な響きでイヤミの無い控え目でいて主張を秘めており、好印象を感じたので私もたまに使うようになりました。


で、100年前の本で「なさる」という表現が使われており、今でも「なさる」って言葉は使われていますでしょ?
100年前だと「なされまする」だったかな?
「してる」じゃなくて「なさってる」って敬語として使っているじゃないですか。

だから、語尾とかは変わってきても、綺麗な日本語は受け継がれると思うんですね。


アメリカの発音は巻き舌で、i gotcha とか略語を使いますが、上流階級になると巻き舌は使わないし、 I have とか丁寧な言葉を使っています。
二分化されている。
言葉で上流階級に属するかわかる。

その「ますでしょ?」を使う教授も略歴をみると、「ああ 生粋のお嬢様ね」と思える。
上流階級の子女が行く大学と大学院を出ているので。
親の関係で小さい頃からそういう人達の中で育ったのだと思う。
だから言葉が乱れなかったのだと思います。


というわけで、テレビの娯楽番組の影響で、確かに日本語表現は乏しくなっているし、荒くなってきているが、ただし、仕事ではまだまだ敬語を必要としているし、逆に敬語をうまく利用して、コミュニケーションを円滑にはかっていると思うんですね。
従って、日本語から敬語は消えないと思うんです。


ネ申 、これはネット語、神のことです。
すごく才能があると思う人を 「この人はネ申」と表現するのが最近ブームみたいです。
最初見たとき ね・もうす? ねさる? とか頭ひねりました。
素直に読めば神だけど、神とは違うよなぁ・・・・って思っていて、何度もみかけてやっぱり神という語彙として使っている と思ったのですが、人間の中の優秀な人と、神とを区別するため、わざとネ申 ってしているのかも。

投稿日時 - 2010-03-21 21:37:34

補足

・・・
「このようにこのテクノロジーは労働者が自分の労働力をたんなる〈商品〉としてクールに切り離し、資本に売却すること以上の何かを要求する。そこで要求されているのは、個人の〈実存〉や〈生〉そのものの次元とでも呼ぶべきものを生産に投入することであろう。労働者にとっては、生産と生活の原理的な区別は溶解し、彼らがもはや労働に対してクールに振舞うことは不可能となる。こうして彼らの「やる気」を駆り立て、サボりを防止することが成功するのである。それゆえそのテクノロジーの最終的な機能は、企業社会に躊躇なくコミットできる労働者を創出することであるといえよう。こうして労働者は、いわば自己の感情のマネジメントまで含めて労働を商品化するという意味での〈感情労働〉を要請されるわけである。」『魂の労働』渋谷望

私の読書録では「このテクノロジー」が何を指すのか明確ではありませんが、文脈からは、古くは昔のフォードシステム、最近なら、トヨタの「カイゼン」或いは接客マニュアル、・・・
此処まで来て、ふと違和感を覚えました、この後、コンビニ等の敬語の使い方が、形式化する点で、感情の商品化・感情労働の問題点を考察しようとしたのですが・・・

上記、引用書を確認すると、「このテクノロジー」自体は、TQC活動・ティーラシステム辺りまでは、ほぼ同義ですが、コンビニまでは確認できませんでした。主として介護労働・フライト・アテンダントに焦点を絞った議論だったようです。結局、「テクノロジーの最終的な機能は、企業社会に躊躇なくコミットできる労働者を創出することであるといえよう。」と言う表現から、引用した文章は、ビジネスにおける敬語の形骸化を指摘しようとした、私とは正反対の立場とも解釈できるようです。

ビジネス敬語の点から、ずいぶん脱線してしまいましたが、敬語が敬意をなおざりにして形骸化していけば、敬語絶滅の危機は、無いとは言えないと、私なんかは、考えてしまいます。

話は変わりますが、私が子供の頃は、
「東京弁を使う、いけ好かない奴」とか「男の癖に女言葉なんか使って」或いは、口語と文語の区別が曖昧になったり、この50年位でも、日本語は結構変わったと思うのですが。
例えば、東京弁は標準語になって、絶滅したと表現する事は可能でしょうか。
女言葉は、今でも残っているのでしょうか、大阪弁の生命力には驚きますが、各地の方言も絶滅状態です。社会的価値が一元化していくと、言葉を使い分ける負担は、経済性から見て、淘汰されるのが進化の原理です。敬語がなくなって欲しいとは、考えてはいないのですが、油断していると、美しい日本語が守れないのではとの老婆心から、一寸しつこくなり過ぎたようです。

やれやれ、
お嬢様言葉というものを、生まれてこのかた、聞いたことが無い、下流社会の人間とばれてしまいましたね。

ビジネス敬語に拘ってしまいましたが、それ以外の部分も、大変、勉強になりました。
有難う御座います。

投稿日時 - 2010-03-28 05:37:14

お礼

ご回答、有難う御座います。
ネ申の件、勉強になりました。
率直に、これが敬語なのか、敬意の表れなのか、
まるで、中世の、「カンウチ」でしたか、
高い官位を与えて、逆にダメージを画策するような、嬉しくない表現ですね、と、これは私の感想。
で、本文です。
御礼の内容に関して、出典が確認できず、思い込みの恐れがあるので、お礼が少し遅れます、あっ、いっも遅れているから、わざわざ言い分けする必要は、なかったかも。
済みませんね、旬を逃してしまって。

投稿日時 - 2010-03-23 17:42:48

ANo.2

かつて、青島幸男氏が、雑誌のインタビュー記事のなかで述べておられましたが、
氏の場合は、嫌いだと思った人相手には、敢えて仰々しいまでの敬語を、ことさらに使ってみせるのだそうです。

これは、私の個人的な記憶ですが、出会ってから、まだ幾らもたたない人に、「お前」と呼びかけられたことがあり、それについて、私が何を言ったわけでもないのですが、思わず、顔の表情に出ていたのか、相手は慌てて、言い訳になっているのやら分からないような、別の場所、別の人とのエピソードを唐突に話し出し、それ以後は、決して、「お前」と呼びかけることはしなくなりました。

「お前」も「きさま」も、元は敬語ですよね?
何故、いまは、そうではなくなったのでしょうね。

最近、非常にと言うか、バカ丁寧なまでの敬語で話しかけてこられるかたがおられました。
何故なんでしょうか、納豆の糸が粘つくような、その内容の、無意味な辛辣さだけを際立たせて、厭な後味が残りました。

誰が決めたか、本当なのか、私は知りませんが、
ある人が言うのには、
ネットのなかでは、敬語は使わない、ため口がルール、なのだとか。

そういえば、現代日本では、皇室のかたがたに関する報道でも、昔のような敬語は用いなくなっているようですね。
名前に「さま」を付けておいて、「~した。」などと述べるのも、なんだか変な感じがしないでもないけれど。

皇室では、御家族どうしのあいだでも、いつもというわけではないでしょうが、基本的には敬語でお話しされるのでしょうか。

美智子さまが、ある大会に御出席のおり、鼓笛隊の一員として出演し、暑い日差しのなかを、じっと立っている子どもに向かって、
「ちょっと、日かげにお入りになって」
と、優しくおっしゃっているのを、美しく感じましたけれども。


「敬語はなくなるのかどうか」
う~ん?
強いてヒントとしては、態度、姿勢、距離感、などについて考えられるでしょうか。

きちんとした考えも纏まらないまま、とりあえず述べてみました。

投稿日時 - 2010-03-21 01:26:59

お礼

今回もまた、貴重なご体験を教えていただき、有難う御座います。

>「お前」も「きさま」も、元は敬語ですよね?
このお話は、よく聞く事ですが、正直なところちょっと怪しいのでは、と考えているのですが、いろいろ調べてみても、それらしき説は見当たらず、この二語が元敬語だった、という話が多いですね。
私が怪しいと考えるのは、「お前」「貴様」という二つの文字が、現在私達が頭の中で読むような「おまえ」「きさま」と全く同じ発音だったのか、実は確かめようが無い、と言う事です。
もう一点は、このサイトの私の敬愛する友人にお伝えしたいことでもありますが、言葉は他の言葉の関連から意味が変わってくるわけで、「お前」「御前」といった言葉の意味に、敬語的要素がなくなるとしたら、それ以外の敬語的表現が現れてきたことによって、元々あった言葉の意味まで変わってしまっていく、ということでしょうか。
敢えて、その友人に申し上げるとすれば、文字は残っても音は残っていない、という単純なことを、なかなか上手く説明できずに、二の足を踏んでいると。

ここでも脱線しましたね。

>ネットのなかでは、敬語は使わない、ため口がルール、なのだとか。
へ~ぇ、知りませんでした、そうなんだ。
>強いてヒントとしては、態度、姿勢、距離感、などについて考えられるでしょうか。
成る程、よいヒントを頂きました。
一説によると、人間の上下関係が生まれだしたのは、古墳時代というお話がありますが、かといって、その前が平和な原始共産制というわけではありませんが、それ以前は、上下よりは、ウチとソトと言った、和語の区別が主流で、人間の脳の仲間意識が及ぶ範囲の集団で暮らしていた、ということらしいです。

そうだとすると、敬語がもし上下関係を表わすのみならば、これは根源的区別ではなく歴史的産物となって、いつかは消える運命にあると、おっと、まだまだ早急な結論を出す時期ではないようです。
ありがとうございました。

投稿日時 - 2010-03-21 11:05:50

こんにちは。
 
その後チャリ行はどのようですか。
鎌倉へは行かれましたか。

敬語はとても爽やかで、心に負担無く話せ、是非みなに使用して欲しい話し言葉であるとおもいますが、家族のうち、あるいは旧知の友人などと話すときにも敬語を用いたいとおもっていても、何か別人になったかのように思われるのは辛いことです。実質的には敬語の方が、生活はやすくなるでしょう。

敬語は精錬された言葉であって、話していて心地が良く、おそらくは、耳にされている肩の方でも、爽やかな余韻をさとされるのではないかと思います。

爽やかな語り口が望ましいのであるなら、敬語で話すことは推奨されてよいのでしょう。

fishbowl66さんは、敬語の方がさとしいと思われますか。

私は、究極的にはどちらでもかまわないのじゃないかなと思ってしまうのです。
甘いでしょうか。。
和語として相応しいのは、どのような言葉、あるいは語らいなのでしょう。
きっと、答えは見えているのだと思うのですが、なぜか難しいね。


 

投稿日時 - 2010-03-20 19:41:32

お礼

ご回答有難う御座います。
チャリの件、ご配慮を頂き感謝いたします。
先週、行って参りました。予想外の春の嵐で、高徳院へ向う道すがらから不安を覚えましたが、記憶の奇跡的な再現は、結局、失敗で御座いました。御仏の顔を穴の空くほど眺めたり、背後の中への入り口辺りに視線を泳がせても、昔の記憶が蘇る事は、年を取ったせいか、全くありませんでした。
それでも、しつこく、プルーストの「紅茶とマドレーヌ」よろしく、香炉の廻りも一回り、残念ながら、私の脳細胞は、1ミリ秒の共鳴も起きなかったようです。
鶴岡八幡宮の大銀杏は倒れて、代わりにクレーンが鎮座し、江ノ島は猛烈な砂嵐、早々、蕎麦屋に雲隠れ、まぁ、上手く行かないのも、旅の楽しみですね。

ご回答者様の「お上手」に悪乗りして、つい余談が過ぎました。

さて、敬語ですが。

>究極的にはどちらでもかまわないのじゃないかなと思ってしまうのです。

私も同感ですね。ただ、これは規範の問題、良い悪いですが、ちょっと一歩、足を横に出しみて、事実の問題としては、どうだろうか、と考えてしまうのが、私の悪い癖のようです。
例えば「不易流行」という二分法が妥当かどうかはさておき、敬語は流行だから、いつかは無くなる、とか、あるいはその逆、どっちなんだろう。この様に、>どちらでもかまわない のに、あれこれ考え「フォーム・スタイル・モード」の三分法をを使うとどうなんだろう、とか、別の切り口もあるんじゃないのかなとか・・・。

私の記憶力の老化防止と頭の体操です。また気楽に書き込んでいただければ幸いです。

投稿日時 - 2010-03-21 08:44:13

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