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締切り済みの質問

 哲学では答えを出せない!

 仏教では答えを出しています。
 それゆえ、多くの人が精神のよりどころとしています。

 でも、哲学では、答えがありません。
 なぜ、なぜ、なぜ、とこれまでは続いています。

 哲学者を尊敬する人はいても帰依しようという人はいないようです。
 また、“この哲学者”を尊敬する、という人たちも少数です。

 それは理性の理、「理」の世界だからです。(頭のいい人は少数です)

 人間の心は、意志、感情、理性、と三つの働きがあります。(記憶とかは除いてください)

 宗教はこの三つの働きを持って、答えを出しました。

 でも、哲学は「理」のみなので、答えが出せない。

 という私の主張への、感想を聞かせてください。

 お願いします。
 

投稿日時 - 2009-09-15 18:07:52

QNo.5292450

暇なときに回答ください

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回答(17)

ANo.17

 人間は、自分を邪険に扱ったり、蔑ろに扱う他者を信奉したり、認めたりしがちです。それは、ひとえに赤ん坊のころの体験が強烈だからでしょう。

 その反動で、自分のことを心配してくれる人間を邪険に扱い、侮り、蔑ろにするのは仕方のないことなのかもしれません。親が精神的ヤクザ、チンピラだったのですから。

 質問者さんのような、無邪気な人間はその心配はないかと思いますが、ムカつくべき人間にムカつくことができるか、これは大切なことだと思います。

 ドンキホーテが、天にそびえ立つ風車を、人間世界の欺瞞、誤謬の象徴するものとして挑みかかったのであれば、案外彼を笑えないかもしれませんね。

 ただ、正邪の見極め、認識しようとする姿勢はやはり大切です。維持していってください。

 創世、発展の時期でない、欺瞞や誤謬がはびこる現代は、それのみが有意義な生き方といっても過言ではないだろうと思います。

投稿日時 - 2009-09-19 13:30:56

お礼

 有意義な回答ありがとうございます。

 締め切ったつもりでいたのですが、手違いがあったようです。

 また質問するようなことがあるかと思いますが、そのときはよろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2009-09-19 22:06:46

ANo.16

> 文章は専門用語もあまり使っておらず、やさしいのですが、何がいいたいのかが分かりません。

 何か意味のあることが書いてあるに違いない という前提で読めば、もし何も意味がない文章であれば、「何がいいたいのか分からない」と言う事になります。

 もし、意味のないことが書いてあるのだとすれば、「意味のないことが書いてある」ということが 分かるかもしれません。

 ひとつの事柄を堂々巡りしている のは、同じ事を違う言葉で説明すれば、たとえ最初の説明で理解できない人がいたとしても、理解できる可能性が高くなるから 違う表現で同じ事を説明しているのではないでしょうか。

 それから、実感として理解していることでも、言葉で説明されると難しく感じ、実は自分が分かっていることでも、分からない と錯覚させられてしまうことも在ると思います。言葉にした文章が分からないのは、実質的にすでに自分が吸収していて、すでに自分の中に備わっている(身についている)から 言葉としては理解できない ということもケースもあると思います。つまり当たり前のことを難しく説明している哲学者は人間的には初心者だと考えられます。

 良くわかっていない人ほど難しく説明するというのは、実感としてあります。

投稿日時 - 2009-09-17 21:17:36

補足

 この欄をお借りして。

 いつものことですが、皆様の回答に接していると、私の欠陥部分が見えてきます。

 今回も、哲学できる頭ではないなぁと再認識しました。

 でも考えることは好きなので、これからもよろしくお願いいたします。

 これで締め切ります。ありがとうございました。

 

投稿日時 - 2009-09-19 09:16:48

お礼

 なるほど。

 この本については、再度読んでみようと思っています。

 片手に鉛筆を持って。

 欠陥を見つけたい欲望があるのです。

 私の頭ではムリかと思っていますが、ドンキホーテになって突撃です。

 回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-09-17 23:04:10

ANo.15

仏教そのものには興味はないのですが、仏教に最も近い坊さんは悟りを開いているのでしょうか?真理に近づいているのでようか?答えを持っているのでしょうか?人生を仏教に捧げている坊さんは全てを知っているのでしょうか?神道の神主でも、キリスト教の神父でもいいのですが、神の真髄に近づいて答えを得ている人はいるのでしょうか。ここ数百年日本において新たな仏教が発生していません。新たな真理(答え)に達した坊さんは生まれていないのでしょうか?仏教には宗派が複数あります。答えは一つではないと言うことでしょうか?複数の答えがあるのが仏教なのでしょうか?真理は一つでは無いということですね。多数の答え、多数の考え方は許容されるということでしょうか。

投稿日時 - 2009-09-17 16:46:54

お礼

 釈尊の顕わした世界、経典とそのエッセンスである般若心経が“真理”である、との前提の下に。

 現代では、明治から大正にかけて活動されたお坊さんで、山崎弁栄(べんねい)という人がいます。

 この方の書き残された文章(書籍になっています)は、大昔、釈尊が示した真理の世界を、現代の言葉で表しているのではと思い、ブログで紹介しています。

 ほんの一部分なのですが、覗いてみてください。心の琴線に触れていただけるかも知れません。

 「心の世界・良心」で検索すると出てきます。現代のお経ではないかと思っています。

 ご意見ありがとうございました。

 

投稿日時 - 2009-09-17 22:54:49

ANo.14

貴様ぁーっ!・・・以下の回答は 質問者に対してというよりも、以前同じような質問があった時に書こうと思っていたことを、書いただけですので深読みしないでください。質問者に対して書いたのではありません。

哲学者が自分で「おれは哲学者だ」とは言わないでしょう。

と、

あなたは哲学者です と言うのであれば、それはその人をバカにしているのです。

は、段落を変えるべきでしたね、特につながりはないです。

 他の誰かが、誰かに向かって「あなたは哲学者ですね」と言えば、言ったほうは褒めているつもりでいて、言われたほうも良い気分になっているとしたら、お互いに勘違いしている。 と書けば解るでしょうか、つまり質問と直接の関係はありません。「哲学者」という肩書きが、実際の人間関係において実際に使われている言葉ではない。実はこの言葉自体が虚である。と言いたかったのです。

投稿日時 - 2009-09-17 07:21:38

お礼

 もともと宗教的な事柄に関心があって、ここ哲学カテに参加するようになりました。

 だんだんに哲学なるものに興味(哲学って何?)を持ち、それらしき本を読み始めています。

 今、講談社学術文庫の「哲学の教科書」(中島義道著)を読んでいるのですが、これが結構むずかしいのです。

 文章は専門用語もあまり使っておらず、やさしいのですが、何がいいたいのかが分かりません。

 ひとつの事柄を堂々巡りしているようで、結局何なの?という感じなのです。(たぶん私の頭のせいなのでしょうけど)

 カントの文章が紹介されていましたが、さすがにこれは“難解”という印象でした。

 回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2009-09-17 09:24:41

ANo.13

no7です。
>もう少し意見を伺いたく思います。>
つまり「なぜ・なぜ・・」=「答えがない」とするが故に
「哲学には答えが出せない」とご自身が思い込むわけです。
たとえば『A次元を答えとしましょう』と決めた場合
A次元が現れればそれで答えになります。しかしそれを哲学上で
ご自身が定義しなから答えが出ないだけです。分りますか?

投稿日時 - 2009-09-17 01:30:00

補足

 今回の私の質問は、哲学で取り上げている様々な問題を、“理”のみを以って解明しようとするのは無理なのでは、という疑問からでした。

 決して決め付けているわけではありません。
 ですから皆様の考えを伺いたいと思ったのです。

 他の回答に、意志や感情も影響を与えているのでは、と言った意見もあり、それを否定する“論”を持っているわけでは在りません。

 たぶん入門書レベルの哲学書に、答えらしきものを見つけられないので、哲学というものを、“質問”のように捉えることになったのでしょう。

 回答を含んだ哲学書は、専門書でも良いのですが、あるのでしょうか。

 

投稿日時 - 2009-09-17 08:38:54

ANo.12

#2です。

> 人間の心は、意志、感情、理性、と三つの働きがあります。
:これはそのとおりだと思います。
いずれも(先天性・後天性に拘わらず)記憶が土台になっていることは明白ですから、(記憶とかは除いてください)という注釈は蛇足でしょう。
ま、このように触れることも蛇足かもしれませんが。

いずれにしても「>この三つの働き」がそれぞれ活躍の場を与えられてこそ人は満足するようにできています。
>哲学は「理」のみなので、答えが出せない
:とおっしゃるのは私にもわかるような気がします。
哲学のみで(人生の)全てが解決できるという拙速な考えは、苛立ちを生むことになるでしょう。
感情(本能的感性)なり、意志(現実的自主性)なりとのバランスが必要になるはずです。

しかし、理というものは、なんらかの基準に基づいての理なわけでしょうから、その基準が何であるのか、ということは重要なことになります。
哲学というのは、おそらくですが、それを常に懐疑的に追求していくものであるように見えます。
しかし、懐疑的に追求していく余地があるのであれば、懐疑的に追求し続けていくのが、それこそ理なのではないかとも思うわけです。

その懐疑的に追求していくということ自体は、感情や意志との兼ね合いとは別問題として考えるべきではないでしょうか。
たとえば、「宇宙の果てはどこにあるのか」ということを探ろうとする場合、哲学は果てしなく追求し続ける。(実際にはそうではないかもしれませんが、あくまでひとつのイメージです)
しかし、宗教は、そんなこと答えが出るはずがないだろう、ほれ、これが宇宙の果てであるよ、と言って教祖なりを祭り上げる。
だから、最終的に理で説明できないことは「神がそうおっしゃっておられる」で済ます結果になるのは当然ですよね。

人間の幸福は納得することだと常々思っていますが、その意味では、何であれ、わからないこと、答えがないもの、というのは人を不安に陥れやすいものだということが言えると思います。

哲学は、この不安を超越しつつ理を探り、
宗教は、仮想的な理を提供することで不安を解消する。
といったことになるんでしょうかね。

つまり、宗教は、「理だけでなく意志や感情も大切にする(と、おっしゃっていると思いますが)」ということではなく、
「理に見切りをつけることで意志や感情の言い分を尊重しているかのよううに見せる」だけではないでしょうか。

一番の違いは、
哲学的生き方はあくまで人生の過程として活用できますが、宗教的生き方は人生のすべてとなってしまう、という点であるような気がします。
また、おそらくですが、懐疑は邪とされるでしょうし、その偏執性に個が取り込まれてしまう、という側面もあるのではないでしょうか。
哲学は理が覆されればそれを認めて修正できるだけの余地は残されるように思われます。
哲学にも宗教にも門外漢ですが、素人の感想ということで。
 

投稿日時 - 2009-09-16 17:30:52

お礼

 この講義、良かったです。

 何度も読み返し、“思索”を深めようと思います。

 回答ありがとうございました。

 「理に見切りをつける・・・」だけでは・・・に、ちょっと異議が。

 “宗教”はともかく“仏教”には聖道門と浄土門とがあり、聖道門(禅とか)は、“哲学的”であるようです。

投稿日時 - 2009-09-17 00:41:25

ANo.11

哲学は、脳の論理思考で、答えを出しているので、限界があります。この脳は、大宇宙では、不調和世界の代表です。だから脳の科学は、自然を破壊しました。脳の自我は、対立と争いばかりです。論理思考は、情緒を排除するので、心がストレスになります。他方、宗教が依存している大自然の心、情緒、神は、調和世界の代表です。だから宇宙のすべてを知っています。限界はありません。そして情緒は、人を癒し、人を育て、社会を調和に導きます。

投稿日時 - 2009-09-16 13:27:17

補足

 eyasi2012さん。

 あなたは、誰。

 あなたは何者。

 2012年に正体を見せてくれますか。

投稿日時 - 2009-09-17 00:19:45

ANo.10

人間の危うさ、弱さ。

投稿日時 - 2009-09-16 12:11:27

補足

 どんな意味を、込めたのでしょうか。

 理解できなくてごめんなさい。

投稿日時 - 2009-09-17 00:15:53

ANo.9

例えば貴様ぁーっ!と おのれぇーっ!
 の違いは、言葉の違いから、意味の違いが在り、実際の場面でも、その使い分けがあるのは「当たり前」なのですが、アタマだけで考えるモノには、この違いが解りません。

 前者は 他者が、他の他者になにか危害を加えたときなどに使います。(あるいは自分を客観的な他者として見た時にも使う)

 後者は、自分に損害を加えられた、自分が被害を被った という思いから発せられる、復讐心、恨みを伴った感情です。(あるいは他者を自分の事とし、自分と同体と感じ、そうみなしたときにも使う)

 こういったことは、アタマで考えても解りません。実際に自分がその言葉をいう場面を想定し、感情的に理解することで それらの言葉の違いが判ります。

 哲学者が自分で「おれは哲学者だ」とは言わないでしょう。あなたは哲学者です と言うのであれば、それはその人をバカにしているのです。言った人も、言われた人も自覚はないかもしれませんが。

投稿日時 - 2009-09-16 12:08:35

補足

 最後の行、哲学者が自分で・・・のところの“あなたは哲学者です”が、私のことを言っているのか、あるいは私がそう思っていると言っているのか、第三者が言った場合、と言うことなのか、分かりずらいです。

 また、例えば貴様ぁーっ!・・・以下の回答は、私の質問から、私が“理”に走りすぎていると感じてのことなのでしょうか。

 よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2009-09-17 00:11:36

「ゼロ」出発点

禅ならそうかも

色即是空という言葉があります。
「色」
現象世界を
「即」
思考・理性を通じて
「是」
この日・此処で自分として
「空」
普遍を開く

というのはこの全ての関連項目がクリアされることではじめて達成されます。

この際、
世界・道具・人・普遍は不可分で相互に関連しています。
4つ全てがそろって初めて「ゲーム」が可能なのです。電気のようなものです。

「即」が其の機能を満たしたから用済みだというのは、禅に独特の考えだと思います。極論すれば、不敬・無感謝の傲慢。

若さを失ってはなりません。信が「即」だというなら、是を明示して、以後「公」=空の場で「私こそが正真正銘の経験者である」と自己主張しながら議論するべきではないでしょう。自己矛盾です。最低でも、わからないとして決着するべきです。

(空)
議論の場+
(即)
思考という手段が有効な範囲・範疇では
唯一理性が
(是色)
「現象(色)と個性(是)」をつなぎとめる手段です。

感情に帰するなんて「酷」過ぎます。
感情なら「お葬式は、親の宗派でやるか」という馬を鹿と取り違えるおろか現代国語の先生(若さのない若者言語専門=某ch)のやり方です。

若者に受ける「作家」=エロい人には、なれても
人生の何たるかは、「このままでは」わかるはずもありません。賢者という言葉を再考する必要があります。

「オレオレがいい」なら
それは個人の選択です。
しかし、みんなに強制してはいけません。

この論理展開では、
残念ながら、オレオレ理論の無知あほ子分が現れても仕方がありません。

「一」
結論は個々人が持つべきでしょう。
信か理か
説か法か
ミュートスかロゴスか

求道心を持つ
個人なのか

投稿日時 - 2009-09-16 03:23:07

補足

 哲学を否定されたと思って、このような回答になったのでしょうか。

 nananisseさんの主張を理解するにはもう少し読み込まねばなりません。

 時間をください。

 回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-09-16 23:41:40

簡単ですよ、ご自身の「答え」の感覚が違うだけです。
なぜ・なぜ・・・というのは一理ありますがこれは「あるポイントを
『答え』と定義しないから永久に『答え』が出ない」というだけの話
です。

投稿日時 - 2009-09-16 01:12:06

補足

 もう少し意見を伺いたく思います。

 よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2009-09-16 23:37:20

ANo.6

宗教の論理は絶対の回答がまず先にあるわけですから、答えは出るでしょうね。
もし、経典の中に矛盾があっても、それを解釈論によって習合していくという
スタイルは、しかしひとつの疑問を抑えることが出来ないのです。



何故その回答が正しいのか?と。



もちろん、それを疑問に思うことが不徳であるとか、理解不足であるとするのが
"宗教"のあるべき姿なのでしょう。結論としては、それが唯一絶対の神の言葉だからであるとか、
あるいは修行を積んだ高僧の言葉であるから、とするのが"宗教"です。
つまり、より上の位階にある人間の言葉は常に正しいのだ、という規定こそが"宗教"です。
組織宗教における上位の人間は誤りが無い,と規定するならば。
つまり上位の人間の行動が一般的な基準と異なったとしても『正しい』と強弁するならば。
それが一般的な基準と置き換わり、『正しい』と規定される。これが"宗教"であるのです。



そこに現出するのは絶対の階級制。そこにはもはや万人を幸福にする答えなどはありません。
近代哲学の『理』を祖とする現代国家が目指す、相互互助を旨とする平等の理念・法理は消えうせ、
"正しい強者"が"誤った弱者"を食らい尽くす、中世の暗黒時代が再来するのです。

それでも宗教の論理に微塵も誤りが無い、という解答を真に導き出したのならば
質問者さんはまさしく"宗教家"であると思います。






とまあ、おどろおどろしく書きましたが、これは組織宗教の話であって
質問者さんがそう考えてるなら、それでいいんじゃね?ってのが正直な感想です。
強いて言うなら、人間の行動は意志・感情・理性だけではなく記憶(知識)によっても
規範されるんじゃないかな?とは思います。


たとえば、私は『世の中には証明できない問題がある』という数学的証明を
どういうわけかたまたま知っていて、だからこそ全部に答えがあるとする
宗教はあやしいなぁ、と感じるわけです。

もちろん解答を先においてしまうという宗教のスタイルもありだと思います。
ただ、本当に答えの無い問題かは事前に判断できない。
よってそれを追求するのもしないのも、各々、つまり『個』が判断すること、
とするのが哲学なんじゃないでしょうか。



それが、一般的な宗教のように、なんらかの組織の上位者からの命令であっては
やはり毛色の違った話になってきますよね。
そして、宗教と組織は構造的にどうしても切っても切れない関係にある、と思うんです。

投稿日時 - 2009-09-15 23:46:38

お礼

 私が、安易に宗教という言葉を使ったのは、適当でなかったかもしれません。

 質問で、仏教ではといっておきながら、その後で宗教は・・・と言い換えています。ここも、仏教は・・・というべきでした。

 といっても、仏教と言い換えても同じ、と云われてしまいそうですが。

 wiz0621さんの意見は私にとって、とても参考になります。

 私は、無意識のうちに、釈尊が顕わした般若心経の世界を、回答と見ていたことに気づきました。

 また、組織宗教に対する受け止め方や、『個』が判断すること、それが哲学、という指摘も納得できます。

 回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-09-16 23:35:49

ANo.5

 yy8yy8az さん こんばんは。わたしが投稿するとたぶん いやがらせだとも受け取られるかも知れませんが まぁ 聞いてください。

 最終の答えは 非思考――その意味での 信仰――にあると捉えています。
 思考ないし理性ないしその意味での哲学に 最終のこたえは 詰め込めません。
 文章あるいは議論としての哲学をとおして 先に述べた《非思考》を捉えることは出来ると考えます。非思考への道を 言葉による表現をつうじて用意することができると考えます。 
 ★ 仏教では答えを出しています。
 ☆ とおっしゃるのは そういう表現〔としての哲学〕を仲介役としているのではないでしょうか? 突きつめたかたちにおいては
 ★ 感情
 ☆ の問題であるという《答え〔に近いもの〕》を伝えるのは 言葉による表現なのではないでしょうか?

 繰り返すならば 注意すべきこととして 次のように思います。
 ○ 非思考に最終の答えがあるというとき その答えを仮りのかたちとしては けっきょく哲学の文章ないし物語に表わすようになると思います。
 ○ 口伝・直伝ということを言ったりしますが 言葉という手段は けっこう有効だと考えます。つまり哲学が 最終の答えへの仲介者となり得ます。――《教外別伝》ということを そのように言葉で伝えています。
 ○ けっきょく 哲学は 感性と理性とを総合した《知解》能力を発揮して主題ごとに推論した結論について その妥当性を判断しています。判断は 《意志》行為です。知解の基礎に 《記憶》もあるわけですが これは触れないでおきましょう。

 このような感想を持ちました。どうでしょうか。

投稿日時 - 2009-09-15 22:15:32

お礼

 今回はとても分かりやすかったです。

 全くそのとうりだと思いました。

 「感性と理性とを総合した能力を・・・」

 異議なし。

 人は理性にしたがって、行動する動物である。(五割程度)

 と気づきました。

 今回の質問は、理性を軽く見ているから、ではなかったのですが、もしかしたら軽く見ていたかも知れません。

 回答ありがとうございました。

 

 
 

投稿日時 - 2009-09-15 22:56:03

ANo.4

哲学は「智を愛する」であり、宗教も広い意味で哲学の一種になります。

>>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6
フィロソフィアという語 [編集]
古希: Φιλοσοφια(philosophia、ピロソピア、フィロソフィア)という語は、希: philos(愛)+希: sophia(知、智)が結び合わさったもので、「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている。この語はヘラクレイトスやヘロドトスによって、形容詞や動詞の形でいくらか使われていたが、名称として確立したのはソクラテスやプラトンが用いるようになってから、とされている。
<<<

さて、哲学では「答えがでない」のではなく、「でないようにみえている」だけだとも捉えることが出来るように思えます。

逆説的に言えば、そのような問題(智のみでは答えられないような問い)のみが、残されてきているとも言えるでしょう。

では、どうして「理(智)」のみでは答えがでないように「みえる」のでしょうか?

おっしゃるように「意志、感情、理性」(別名、知情意)といった、ざっくりとした概念で捉えられ得る心の働きがありますが、「一見」答えのでないような問題も、具体的な問題に直面したときには、「その時・その場所」での「意志・感情」が影響するゆえ、「答えがでたような」錯覚に陥ることになります。

でも、後から冷静になって思い返せば、「いゃ、間違えたかな?」などと思うことも多いわけです。

だからといって、決断すべきときには、その時の状況によってそうせざるを得ないわけですから、人は時として「あとづけの知的・理性的な説明」を考えたりするわけです。

人が、人として生きる(死ぬ)過程において、「なぜ」という疑問は、一期一会の出会いに対し、常に真剣に接していこうとする「思い・想い(情や意)」があってこそ、発せられる真摯な問いでもあるでしょう。

常に自らを含む対象、ないし全体に対し、真摯に接していこうとするならば、智・理性のみでは不十分であり、必然的に知情意のバランスが保たれている必要があるでしょうし、そうでなければ、自滅の道を歩みかねないと思っています。

投稿日時 - 2009-09-15 21:47:01

お礼

 「理」のみでは不十分、感情のみでも選択を誤る。
 同時進行も難しい。

 迷いが生じて、考え始める。

 “思考”は理性の世界。

 理性の世界に住む人も、感情の世界に住んでみて、言葉に置き換える。また意志という心についても、実感して、言葉に置き換えようと努力してみる。

 哲学人たちは、言葉の阿弥陀くじをしているような印象を持っています。
 言葉の選択を間違えば、どんな答えにたどり着くのか分かりません。

 素直に言葉の選択にしたがって、答えに出会ったとしても、そんなはずではと、思ったりして。

 あるお坊さんの言うところによると、仏教には、哲学的な聖道門(禅とか)と、宗教的(情的)な、浄土門との二門がある。とあります。

 回答ありがとうございました。

 

投稿日時 - 2009-09-15 22:33:27

ANo.3

#1

>信仰あるいは信心という点で哲学の無い宗教もあるのでは

私には想像できません。
仏教哲学という言葉がありますが、仏教から哲学を外してしまって大仏に手を合わせていれば救われるということでしょうか。
たいていの宗教には経典があり、その中には人はどう生きるべきかの指針が示されていると思います。
私はこれが宗教における哲学部分だと思います。
これを抜いてしまうなら、信者など単なる狂信者でしかないのではないでしょうか。
それが救われるための答えだというなら宗教に価値は無いでしょう。

>刺抜き地蔵を信仰している人たちのように。

たぶん本人たちが聞いたら怒ると思いますよ。

投稿日時 - 2009-09-15 21:17:48

お礼

 大昔、人は自然の脅威や暗闇に恐怖を抱き、それらを恐れ、そして敬うという態度を表しました。
 それを“信仰”と受け止めて。

 そこには“感情”が大きく支配してるように思います。
 理性の働きによる“信仰”ではないように思うのですが。

 よく、いわしの頭も信心、などといいますが、そのレベルのことを云いたくて、刺抜き地蔵を例に挙げました。 決して、見下しているわけではありません。当人達も哲学を通して信仰しているわけではないと思うので、怒らないと思います。
 私も人並みに、初詣もしますし、お盆にお墓参りもします。

 たぶん、宗教という言葉と信仰という言葉に対しての、使い方に違いがあったのかもしれませんね。

 回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-09-15 21:49:18

ANo.2

> でも、哲学は「理」のみなので、答えが出せない。

 という私の主張への、感想を聞かせてください。
:その内容がどんなものであっても、とりあえず答えが出せさえすればそれでいいのかな?

という乾燥を持ちました。
 
わからなければ、なぜ、なぜ、と問い続けるのは理に適っているのではありませんか?
宗教というのは妥協の産物にすぎないのでしょうか?

> 人間の心は、意志、感情、理性、と三つの働きがあります。(記憶とかは除いてください)

 宗教はこの三つの働きを持って、答えを出しました。
:素晴しいです。
その答えをぜひ教えてください。
 

投稿日時 - 2009-09-15 19:56:19

お礼

 鋭いですね。痛いところをついてきますね。
 生半可な知識を“駆使?”しての主張を見抜いています。

 ですから素晴らしいといわれても、答えられません。ただ漠然とそう感じているだけ、なのですから。

 また、“宗教というのは妥協の産物”という意見については、これから考えてみたいと思います。初めて摂する“指摘”なので。

 般若心経を顕わした、釈尊の世界なら、感情も、理性も、そして人間の生きようという意志さえも包み込んで“教え”ているのではと漠然と受け止めているだけです。

 人間は理性のみで生きているわけではないので“哲学”は“感情”や、本能として備わっているのではないかと思われる“意志”なども理性が捉えて、考えを深めているとは思いますが、それだけでは、理性の世界を飛び出せないのではないでしょうか。

 “哲学”に疑問を問うなら、感情の力にも、意志の心にも、頼るべきではないかといいたいのです。

 こうした受け止め方への批判なども、受けてみようかと思いますが。
 批判は無いほうがいいけど。

 回答ありがとうございました。

 

投稿日時 - 2009-09-15 21:22:06

ANo.1

哲学のない宗教なんて存在するのですか?

>という私の主張への、感想を聞かせてください。

お返事は必ず書いてくださいね。

投稿日時 - 2009-09-15 18:51:48

お礼

 “哲学のない宗教なんて存在するのですか?”
 というのが、返事なのですね。

 宗教という表現よりも少し範囲が狭まるかと思いますが、信仰あるいは信心、という点で哲学の無い宗教もあるのでは、とは思いますが。

 巣鴨の刺抜き地蔵を信仰している人たちのように。

 でも私は、宗教は意志、感情、理性、を基に答えを出した、と考えてみたのです。

 理性=哲学、と受け止めてください。

 回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2009-09-15 20:35:15

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