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解決済みの質問

年貢について

私は、中3です。
夏休みの宿題で、「税の作文」というのが出ました。
今まで税なんて全くと言っていいほど意識していませんでした。
税の何について書こうか迷いましたが、「昔の税と今の税」について書くことにしました。
http://homepage1.nifty.com/keimurata/mm/s/21/tax.htm
質問1)上のページを見ると、税は飛鳥時代からありますが、民の負担?は、現在に至るまで、どのように変化したのでしょうか?
減ったのでしょうか。増えたのでしょうか。それとも増えたり減ったりでしょうか?
そのページを見ても、中学生の私にはちょっと見難くて・・・。

質問2)江戸時代の「五公五民」は農民にとって、大変厳しいもの(百姓一揆の原因になったとか)だったと聞いたのですが、
調べていたら、「それは嘘で、そこまで厳しいものではなかった」とありましたが、
実際はどうだったのでしょうか?
中には七公三民、八公二民のところもあったとか・・・。
自分の稼ぎの7割、8割が幕府に持っていかれるってことですよね?
そう考えると今の国民が負担する税はかなり減ったってことなんでしょうかね。

質問3)農民から得た膨大な?金は何に使ったのでしょうか?
幕府の贅沢でしょうか?
民は幕府がそのお金を何に費やすかを、今みたいに明確に?知っていたのでしょうか?

質問4)昔(特に江戸時代)でも脱税はあったのでしょうか?

大変困っています。
ご教授、よろしくお願いします。

投稿日時 - 2009-07-19 18:05:01

QNo.5138324

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前提条件として、全国・全民衆に一律に税を掛けることができたのは一国平均役を除くと、律令体制が機能した時代だけでした。それも資料が少ないので、本当に実行されたのかは不明ですが、建前上はそのようになっています。飛んで江戸時代には税金を負担するのは農民だけで、商人には基本的には所得に対する税はかかりませんでした。時代が下ると、冥加金・運上金などの臨時的税金(恒常化している地域もあります)も出てきますが。この他に一国平均役として平安時代後期頃から全国の公領・荘園に一律に掛ける税(江戸時代の国役金につながるといわれます)がありますが、臨時税的な性格が強く、いつでも徴収されたわけでもありません。
さらに、江戸幕府は全国の税を手元に吸収する手段を持っていませんでした。徳川家の領地から上がる税金で全国統治をしており、基本的に各大名・旗本の領地から上がった税金はその大名・旗本が使うもので、幕府へ上納することはありませんでした。ただし、富士山の降灰除去・寺院や皇居の新改築のためなどに、大名から税を上納させる国役金が中期以降見られます。(軍役としての手伝普請などの間接的な徴収は除きます)
税金が増えたのか減ったのかはよくわからないと言ったほうが正確です。ただし、律令体制下で税が払えず、荘園に逃げ込むなどの現象を考えると、荘園体制下のほうが少しは税(負担)が安かったのではないかと思いますが。
豊臣氏の時代、戦国末期から江戸時代初期は「五公五民」どころか2/3は税として徴収されたとされています。収穫物を三つの山にし、その二つを領主が取ると記した記録が残っています。この時代は河川の改修、用水の開削、新田の開墾が計られ、農地が拡大した時代でした。大変な高度経済成長の時代でもありました。そのための費用として高率の税が徴収されたとされています。従来新田開発は享保の改革を一つの契機として発展したとされていましたが、現在では戦国期から江戸初期に新田の開発が集中し、それ以降は開発のペ-スが鈍り、低成長の時代に変化したとされるようになります。開発が一段落すると税率も下がり、幕府領での実効税率は3割を割り込んでいます。享保の改革はこの実効税率を4割を超えることを目標にしたようですが、改革以降も目標を超えることはなく、3割台を維持するのが精一杯であったようです。このことから見ると実効税率は高くなったり、低くなったりしていたようです。
江戸時代は幕府・大名領によって税率が違います(前記のように幕府が一律に税を徴収したのでも、上納させたのでもありません)。幕府領は税率が安かったと言われていますが、これに対して大名領は高率の税が課せられた地域が多かったようです。貨幣経済の発展、多くの不要の武士を雇い続けなければならない制度、米中心経済体制の依存、などの中、幕府を含めどの領主も経済的に苦しくなります。さらに大名は参勤交代、江戸居住、手伝普請などの費用にも苦しめられ、借金がかさみ、それを農民に転化して遣り繰るをしようとするわけで、税率も上がり、耐え切れない農民の中には逃散・一揆などを起こす者もでてきます。この中で七公三民、八公二民という話も出てきますが、農民一揆が続けば幕府によって統治不良で藩が改易(つぶされること)になりますので、限界はあったと思います。平均的な収公率は四公六民とは言われていますが。
今の税率に比べると商人は恵まれていたでしょうし、農民は大変だったように思いますが、現在でもトウゴサンピン・クロヨンなどの言葉があるように、所得の捕捉は難しく、七公三民、八公二民が本当であったのかどうかは不明です。
このような状況の中で上杉鷹山のように倹約だけでなく、殖産興業に励む改革が出てきます。また、西国諸藩の中には、薩摩藩の黒糖などのように藩の専売化をはかり、莫大な利益を上げ雄藩と呼ばれ、次代の政治勢力としての地位を築く藩も現れます。
税金の使い道ですが、最大の支出項目は人件費でした。将軍が使う費用は大奥の費用を含め、多く見積もっても全体の1割程度(将軍の衣服身の回り品の購入費は1%強)といわれています。意外に少ないように思うのですが。当時の知識人の中には、将軍が贅沢や、建築を盛んにし、費用を支出しないと景気が悪くなると考えていた人々も少なからずいたようです。現在の公共事業的な考え方です。また、意外なことですが、司馬遼太郎の随筆でに、大久保利通の話として、京都の嵐山に遊んだ時、地元民に幕府次代は嵐山の景観維持のためにお金が出ていたが、新政府ではそのような支出がなく、景観が荒れたと言われたとの話を読んだ記憶があります。
大名の話になりますが、江戸初期に毛利の殿様が江戸城に出仕し、昼の弁当に鮭の切り身があったために、老中をはじめ大名が珍しさに寄ってきて、一口ずつ食べたとの記事があります。中期以降になると大名といえども悲惨で、財政破綻のために朝はご飯にお汁に香の物だけ、あまりのことに嫁入った大名の娘が実家に逃げ帰ったとか、ウソみたいな話もあります。初期はともかく、特別な大名は別として、贅沢どころの話ではなかったようです。
脱税に関しては、作柄を見る検見の時の接待が大きな方法でした。坪刈といって作柄を見るために、田圃の一部を区切り、刈り取って作柄を見るのですが、どの田圃を選ぶのかなどにより収穫量の増減、ひいては年貢高に大きな変化が起こるため、役人を接待攻めにし、有利に判定してもらおうとすることが横行していました(定免法でも10年の収穫量の平均を元に税額を決めるので、坪刈が必要な場合があります)。これを脱税というのか、贈収賄というのかは難しいところですが、年貢を少しでも少なくしようとする努力は払われていました。純粋に脱税に当たるのは隠田でしょうか。室町期には家の間口に応じて税が課されたので、京都の町屋のように、表は狭く、奥に長い家が成立したのもこの類です。上に法あれば、下に対策ありで、いつでもどこでも脱税行為は多くあったと思います。

長く、まとまりなくない文章になってしまいました。参考程度に。

投稿日時 - 2009-07-22 14:33:16

お礼

回答ありがとうございます!
くらしく説明して下さって光栄です。
よくわかりました。
脱税はやはりあったのですね。
ありがとうございいました。

投稿日時 - 2009-07-24 01:54:11

ANo.6

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回答(6)

ANo.5

phj

税金の歴史というのは、ある一定の流れがあります。それは、人頭税(人の単位でかける税金、兵役、労役も含む)がだんだん少なくなり、直接税(農地からの収穫の一部を納める、商売の売り上げの一部を納めるなど)が増え、つぎに近代になると収穫物ではなく、「お金」で税金を納めるようになり、最後に登場するのが消費税などの売るものに税金をかける間接税です。
つまり最初は「人」そのものを搾取するのが税だったのに、さまざまな問題点があり(逃亡者が増えるなど)直接税になり、近代国家のなると「消費する側」に税金がかかります(消費税などは、高い買い物をすればするほど、税金を納める買った側、消費する側が払う税金です)

つぎに、税金の使い方やそれをめぐる管理のありかたも一定のパターンがあります。
イギリスのマグナカルタやフランス革命をもう一度確認すると、税負担者への権利の付与、という流れが見えるはずです。
日本の特徴は、これらの流れが見えにくく、偶発的な一揆による抵抗しかないように見える点です。
つまり他の方が書いておられるように、日本は税負担がものすごく軽かったのか、それともものすごく強権的に徹底的に取り締まられたから反抗できなかったのかのどちらかです(藩によっても違いますね)

これらのことがあって、今の在民主権は権利の反対に納税の義務があるとされるのです。
と、ここまでが質問1の回答ですね。

質問2についてはすばらしい回答があるので、割愛します。ひとつだけ補足するなら、太閤検地以降の生産性向上による収穫高の向上は検地されないと発見できません。つまり7公3民でも、検地をしないで生産性が向上していると、それだけ分母が増えているということです。

質問3については、
幕府は何度も倹約令を発令しています。有名なのは吉宗の改革ですね。それでも沸騰する経済(つまり華美になっていく服や芝居や娯楽)を抑えることが出来なかったのですから、どこにお金が流れたか分かるでしょう。

質問4
税のあるところに脱税があります。人頭税のころは逃亡することが脱税でした。つまり為政者からみれば人は税金の塊だったわけです。今の人権感覚からすればとんでもないことですね。

このようなことをインターネットを使って調べれば面白いことが分かります。たとえば、イギリスの話ですが窓に税金がかかっていた時代がありました。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/nakano(03-7-31)
宿題を書き上げるのは最後にして、いろいろ調べてみると面白いですよ。

投稿日時 - 2009-07-21 11:40:52

お礼

回答ありがとうございます!
税の移り変わり?について詳しく説明していただいたおかげで、良くわかりました。

倹約令=贅沢禁止令という様な感じでしょうか?
享保の改革は歴史で習いました。
倹約令で沸騰する経済を抑えるのに納められた税を使ったのでしょうか?

そのイギリスのお話、面白いですね。
こんなこともあったんですね~。

投稿日時 - 2009-07-23 23:42:50

ANo.4

1)
ざっくり言うと、直接税をまじめに徴収しようとすると、大変なんです。毎年毎年、役人が几帳面にチェックしないとなりません。この意味で、まじめに徴税されたのは、太閤検地以降となります。律令時代にちゃんと徴税していたかはよくわからん。その間は基本的に「間接税」だったり、現地任せ。関銭とか土倉への課税というのが間接税。税金を取りに行くのでなく、関所を通るときに、金を巻き上げようというもの。

2)常免法と検見法
チェックするのが面倒なので、幕府は常免法がおおかった、出来高に関係なく一定にする方が楽ですので。岡山県では倉敷には立派な蔵があり、岡山には蔵がないそうです。理由は、岡山が池田家がしっかり税金を取ったのに対して、倉敷は天領で、税率が低かったためだそうだ。
豊臣秀吉の頃は、7公だったりする。これは、城郭建築など「公共投資事業」が多かったためらしい。納税額は多いが、土木工事でその金は一般労働者=農民に還元された。
黄金太閤―夢を演じた天下びと (中公新書) 山室  恭子<この辺に書いてあった説。

3)大名家では
参勤交代と江戸在住でかなり税金が消えたそうだ。

4)隠田 というのが支配者から見た、脱税となります。
検地帳に無届けの田んぼということです。

投稿日時 - 2009-07-20 01:55:57

お礼

回答ありがとうございます。
やはり、No.3さんも仰っていたように、年貢の徴収は大雑把にしか行われていなかったのですね。

定免法という数年間の収穫の平均を見てとる方式でやっていたのですか。

参勤交代なんかで使われていたのですか。確かにあれはお金がかかるでしょうね。

隠田ですか。隠れた田んぼですね。やはり脱税もあったのですね。

いろいろ教えて頂き、ありがとうございました!

投稿日時 - 2009-07-20 16:21:55

ANo.3

幕府は徴税システムが酷く、ほとんど年貢を取っていません。
 例えば関東は、伊豆半島の韮山代官が管轄しておりました。有名なのは南庄内地方で、代官が行けないような場所だったため、実質無税でした。ところがそこが庄内藩領になることになり、徴税されることが判ったら編入反対の一揆が起きています。
 7公8公で有名なのは幕末の会津藩です。江戸湾警備(ペリー来航時に警備していた藩の一つが会津藩)、京都守護職と相次いで出兵命令が出されたため、会津藩は領民に重税を課して遠征費を賄いました。その結果、戊辰戦争では領民に裏切られ敗残兵は襲われ、領民は敵の道案内役になっています。戦後、猪苗代への移封が決定した時、猪苗代の住民は会津の圧政を知っていたので移封反対一揆が起きています。

 年貢は現代で言う税金です。現代の日本は市民税・年金・健康保険・所得税・消費税を払うとだいたい収入の3割が税金となります。そういう意味では3公7民と言えます。江戸時代の年貢は武士(現代で言う公務員兼警察兼自衛隊と思ってください)への給与と公共事業への投資です。現代とほとんど変わりませんが、現代と違って使用人を雇う義務など武家は領民への還元をせねばならない状態にありました。

 脱税する者もいました。秤マスを不正するなどです。但し発覚すれば死刑(確かムシロを被せて火あぶりの刑)+全財産没収になります。今みたいに懲役何年罰金幾らみたいに可愛くありません。

投稿日時 - 2009-07-19 23:05:37

お礼

回答ありがとうございます。
幕府は殆ど年貢をとっていなかったのですか!?
手の届く一部からは年貢を沢山とっていたけれど、遠方などのそこに住んでいる
人以外誰も行かないような所からはとっていなかったってことでしょうか?
会津藩ではそんなことが起こっていたのですか。
自業自得と言うべきなのでしょうかね。

現在は収入の約3割が税金となるのですね。3公7民と5公5民、結構違いますね。
まして7公3民なんて・・・。

脱税する者もいたんですね。秤マスとは、なんの(どんな)はかりなのでしょうか?

投稿日時 - 2009-07-20 16:04:40

ANo.2

発想は素晴らしいのですが、あなたの質問に答え、それらをまとめるには大学生以上の学力が必要となります。
中学の作文の宿題ならば、せいぜい400字詰め原稿用紙で数枚でしょう。そうした作文を書くためには、あなたの疑問は難し過ぎます。
まず、税とは何かを考えてみてはどうでしょう。なぜ税金というものがあるのか、今の税金は何に使われているのかといった「基本的」なところから考えていくことがよいのではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-07-19 22:21:59

お礼

回答ありがとうございます。
基本的なことから書こうと思ったのですが、そちらの方が難しくて・・・。

投稿日時 - 2009-07-20 15:50:18

ANo.1

本を何冊も書くわけじゃないんだから、話を絞って手の負える範囲にしたほうがいいですよ。

投稿日時 - 2009-07-19 21:36:11

お礼

回答ありがとうございます。
やはりそうですよね。
というわけで、「江戸時代の税と今の税」にすることにしました。
これなら結構絞れると思うので。

投稿日時 - 2009-07-20 15:48:55

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