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江戸時代の町人,百姓の支配について

町人の支配は江戸などの町では町奉行,百姓の支配は幕領であれば郡代や代官だと理解しています。そこで町人・百姓の支配について2点質問があります。

(1)幕領以外の諸藩に住んでいる町人や百姓はの支配体制はどのようになっているのでしょうか?藩独自に江戸幕府に習った役職などを設置していたのでしょうか?

(2)藩内の百姓から集められた年貢は領主である大名に納めるだけで,その後さらに幕府へ納めるということはなかったのでしょうか?

投稿日時 - 2007-12-09 22:05:22

QNo.3584997

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NO3です。追記の追記で申し訳ありません。
村、町の自治の基本として、村掟・町掟があった。
町名主の家系から夏目漱石等が出ています。

(2)藩内の百姓から集められた年貢は領主である大名に納めるだけで,その後さらに幕府へ納めるということはなかったのでしょうか?について、

江戸時代の財政はNO2の方が書かれているように年貢の大名から幕府への上納は基本的にありません。幕府は天領(幕府領とも呼ばれる直轄領)の400万石あまりからの年貢と、佐渡金山などの直轄鉱山や長崎の外国貿易等からあがる収入によって運営されており、その収入で徳川家の家政機関と全国の政治とを賄っていた。現代にたとえれば、東京都が東京都だけの財政で、都政と国政の両方の支出を賄っているようなものです。収入については、元禄時代以降は、貨幣改鋳による出目と言う臨時収入もありました。小判の金の含有量を減らし、差額を得ると言う方法です(その他の貨幣でも実施)。これが100万両単位の馬鹿にならない収入になるわけですが、当然インフレになり、貨幣価値は下落し、幕府の信用も加工するのですが。

さて、では大名領からまるで上納がなかったかというと直接、間接を含めていくつかの例が見られる。

直接は、国役といわれる室町時代の一国平均役に淵源を持つとされるものがあり、治水などの大規模工事について、幕府領・大名領・旗本領などを問わず一国に課されるもので、最初は人夫としての労働か、米の提供であったが、金納に変わっていく。
次にNO1の方のご指摘の上米。
後1つは、記憶があいまいで申し訳ありませんが、浅間か富士の噴火の降灰処理金の上納。これは国役を根拠とし、以降も用途を拡大して臨時に付加していったと思いますが、記憶があいまいです。

間接は、NO2の方がご指摘のお手伝い普請などの普請役や接待役。
これは領地を安堵してくれた主君に対する奉公で、軍事負担(役)の一つ。戦争が起こった場合の軍役-兵や武器・馬などの提供-に含まれ、参勤交代などと同じであった。初期は天下普請と呼ばれた、江戸城・名古屋城などの普請。その後、朝廷・上野寛永寺・日光・江戸城などの建築・改修工事、長良川などの治水工事。浅野内匠頭のなった勅使接待役など。本来全国政府である幕府が出すべき支出を、負担させるわけで、間接的かたちではあるが、大名の上納の面があった。

あいまいな部分があって申し訳ありません。

投稿日時 - 2007-12-23 17:45:09

ANo.5

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回答(5)

ANo.4

NO3です。回答が不十分だったので、町人の支配について追記します。
町人についても、農民と同じく、町人居住区内の町(ちょう)と言う自治的組織を持ち、町名主が町役人として町内の地主、家持からなる本町人の自治組織をまとめていた。この都市内の町人町の総合が惣町と呼ばれ、町年寄りを置くのが一般的です。
江戸の場合、町年寄は徳川家康の江戸移住に従った三家-樽屋・奈良屋・もう一家は忘れました-が草分け町人として町年寄りに就任し、代を重ねていった。支配としては、町奉行-町年寄-町名主-町人と言うことになります。
地域により違いがあるとは思いますが、江戸時代は農民にしろ、町人にしろ、基本的には自治組織を持ち、同身分の中から村や町の役人を出していたわけです。すべての権限を持っていたわけでも、すべての農民や町人が自治組織に参加できたわけでもありませんが、ある一定の自治を行っていたようです。

投稿日時 - 2007-12-23 16:30:39

ANo.3

(1)幕領以外の諸藩に住んでいる町人や百姓はの支配体制はどのようになっているのでしょうか?藩独自に江戸幕府に習った役職などを設置していたのでしょうか?

江戸時代の農村には基本的に武士はおらず、村役人と呼ばれる庄屋・肝煎・百姓代が行政の末端に位置付けられ、訴訟・戸籍(寺請)・納税(村請)などの業務をしており、彼らを中心とした本百姓の自治的側面が強い。これは中世の惣の組織に由来し、戦国時代から織豊時代にかけて解体されるのではなくて、組織を換骨奪胎され、支配のための組織になっていった。年貢についても村請により、村全体が年貢納入の連帯責任を負う体制と言う、武士に都合の良い形態になっていった。武士は本来農村より出てきたもので、惣の中にも多くの武士(土豪等)層がおり、指導的立場にあることも多かったが、戦国時代を通じて、ある者は戦国大名などの家臣化して(戦国大名になった者もいるが)農村を離れ、ある者はそのまま農村に留まり帰農化と二分化していった。この傾向を決定的にしたのが豊臣政権下の一連の身分統制令で、武士と農民が分離され、武士は完全に農村を離れて城下に集住するようになった。(島津氏などの中世以来の伝統を持つ大名領では不徹底ではあるが)そのために農村に武士はいないという状況が出現した。百姓の支配と言うと難しいが、代官―村役人―農民と言う構図が一般的なはずです。これは幕府及び各藩共に変わらないはずです。

投稿日時 - 2007-12-20 21:21:43

お礼

大変詳しいかつ分かりやすい回答ありがとうございます!

投稿日時 - 2008-01-19 22:17:29

ANo.2

(1)各藩によって微妙に違うと思いますが、幕府と同様の仕組みが出来ていたようです。

(2)各藩から年貢を上納するということはありません。その必要がないくらい幕府は全国を把握(占領)してました。
 その代わり「お手伝い普請」という名目で本来幕府がやるべき莫大な土木工事を雄藩に命じることがありました。
薩摩藩による揖斐・長良川お手伝い普請は有名です。

投稿日時 - 2007-12-10 20:07:49

お礼

回答ありがとうございます。
年貢以外の幕府から命じられた負担は結構重かったのでしょうかね?

投稿日時 - 2008-01-19 22:15:51

ANo.1

1 町奉行といえば一般的に江戸町奉行を指しますが、町奉行は各藩にも存在したようです。それから代官・郡奉行などという職制もありました。

2 私の知る限りでは、江戸幕府は鎌倉以来の封建制度(御恩とか奉公)を継承しているので、各藩であがる年貢は藩の財政に回されていたのだと思います。参勤交代だけでもかなりの負担なので、これに増して年貢を納めたらパンクするのではないでしょうか?また例外的に、吉宗の代で上げ米の制(1万石につき100石を幕府に上納させ、そのかわりに参勤交代の江戸滞在期間を半減にする制度)というのがありました。これは幕府の財政を立て直すためです。ちなみに吉宗が“米将軍”とか“八木将軍”とか言われるのはこのためです。このような臨時措置もあることから常時は幕府に納める必要性はなかったのだと思います。…が、私の認識不足かもしれません。間違っていたらごめんなさい。

投稿日時 - 2007-12-09 23:33:12

お礼

回答ありがとうございます。
藩の財政は藩内でまかなっていたということですね!

投稿日時 - 2008-01-19 22:13:46

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