こんにちはゲストさん。会員登録(無料)して質問・回答してみよう!

解決済みの質問

織田の二兵衛

素朴な疑問です。
黒田官兵衛と竹中半兵衛は同時期に秀吉に仕えていましたが、普通参謀(軍師?)は一人でいいのではないでしょうか?作戦の意見が違えば混乱の元になると思うのですが。
例えば攻撃目標別(作戦方面別と言い換えてもいいです)起用であるとか、作戦の得手不得手で起用していたのか、または全く起用目的が違っていたのか?
なぜ二人必要としたのでしょうか?

投稿日時 - 2007-09-17 09:06:55

QNo.3352016

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

竹中半兵衛は織田信長がようやく尾張を統一し、今川義元を桶狭間で打ち破り、美濃侵攻時に秀吉が調略によって織田方に組した武将です。
しかしながら半兵衛は信長の家臣として仕えるという条件ではなく、秀吉の参謀として仕えることを条件に織田方になったと言われています。
秀吉は半兵衛のところへ幾度も出向き、美濃の農民のために寝返るよう再三説得します。しかし半兵衛は信長に脅威を感じて直接仕えず、秀吉から俸禄をもらうことを条件にしたようです。
秀吉にとっては野武士を六千人も召抱えるなど、自分の能力だけではまとめきれないというときに半兵衛が使えることになり、軍師として迎えるという最高のもてなしをしたのでしょう。
一方、黒田官兵衛は信長が京あたりをおさめたころにいくさによって信長に下った武将です。
恐らく信長の命によって秀吉の与力を命じられたのではないでしょうか。
官兵衛も千戦略に長けていたので、内政面は半兵衛、軍略面は官兵衛というようにしたのではないでしょうか?
信長の家臣は一言で言えば武功派が多いのですが、秀吉の家臣は知略派が多いのです。
竹中半兵衛・黒田官兵衛・石田三成・羽柴秀長など、いずれも軍師になりうる武将です。恐らく秀吉は正式な軍師としてではなくそれぞれの得意分野を担当させる「奉行」(秀吉の五奉行のような)として待遇したのではないでしょうか?

投稿日時 - 2007-09-17 09:33:28

お礼

そうなんですよね。半兵衛は信長に直属してはいませんでした。秀吉が三顧の礼を取ったのは定かではありませんが(三国志由来か?)、一般には蜂須賀小六らと出向いて説得したらしいとなっていますね。つまり浪人だった。
それに対して官兵衛は別所氏の家臣だった。この違いは大きいのではと気がつきました。
直臣と陪臣との差(信長から見て)はあったでしょうね。

>内政面は半兵衛、軍略面は官兵衛
そうなんですか。織田家臣は引越しが多かった(笑)ので、そのたびに新しい領地に治世を敷かなければならないですからね。

>正式な軍師としてではなくそれぞれの得意分野を担当させる「奉行」として
なるほど分かりやすい、いい例えだと思います。
秀吉が上の考えなら参謀が二人(もしくはそれ以上)必要であることがわかりました。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2007-09-17 12:54:52

ANo.1

このQ&Aは役に立ちましたか?

3人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

回答(4)

ANo.4

三国志演義などの悪い影響だと思いますが、参謀や軍師という役割を過大に評価しすぎというか、形容表現としての参謀役や軍師を、支配的あるいは専属的地位と勘違いしていることが多いようです。
実のところ、織田信長にしろ、豊臣秀吉、徳川家康にしろ、皆卓越し優れた指揮官であって、ほとんどの判断や決定は自分で下しています。軍師とされるような人物に依存するようなケースはほとんどありません。そもそも家臣の分際に、軍事上の決定権のような大権を特定の一人に与えるのは、戦国の世では非常に危険です。
特に戦場では、指揮官は一人である必要があり、軍師あるいは他の誰かに指揮をゆだねるかのような状況は、よほど無能な大名(例えば朝倉)以外ありえません。実際、黒田も竹中も一部隊長以外で、軍を指揮したことはありません。
現実的には、黒田官兵衛や竹中半兵衛も多くの助言者の一人にすぎず、主人が考えをまとめている段階で参考意見を述べる程度。秀吉がまだ立身出世を果たしてないときに会った竹中のほうは、先輩でもあり、敬意を払われたでしょうが、黒田についてはもともとは陪臣の身でもあり、私の知る限り、何か大きなことを単独で任されたこともない。竹中にしても見識の高い文人にすぎない。

彼らは助言者であり、時に諫言する利口者ですが、いわゆる軍師なるものは、戦国時代の制度として存在しないというのがまじめな答え。各家で呼び方や組織は違えど、陣立てなどをするのは奉行などの役割です。それはようする官僚的な軍事組織の一面であり、演義的な軍師の活躍する場は現実世界にはほぼ存在しません。

投稿日時 - 2007-09-18 05:42:40

お礼

軍議で意見を主人が求めた場合も発言権は優先されなかったのでしょうか?つまり軍師は私は懐疑的ですが、参謀なのではと思っていました。
三国志においても(私は良く知りませんので)軍師は居なかったと言い切れるのでしょうか。
半兵衛は先輩的立場で助言していたのはわかります。官兵衛はどうなんでしょう。高松城水攻めは彼の発案ではないのですね。
(ちなみに朝倉氏には軍師的立場の人はいなかったのでしょうか?)
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2007-09-18 07:27:44

ANo.3

2人の兵衛はその活躍時期がほぼ異なります。
竹中半兵衛は秀吉がまだ武将待遇になったばかりの美濃攻めの際に寄騎としてつけられました。
その後の美濃、近江、越前、京都、などでの秀吉の参謀として参画しました。
彼は戦術面より政略面に優れていたと思います。

黒田官兵衛は秀吉が毛利攻めの司令官に任じられた以後播磨を征服した時に降伏してきた人で、そのころ竹中半兵衛は病に倒れて引退後死亡していました。
従って両者の意見が異なり紛糾するという期間は殆どなかったとおもいます。  竹中半兵衛が担っていた任務は石田三成が引き継いでいます。

投稿日時 - 2007-09-17 12:08:40

お礼

役割がかぶっていた時期は少ないとみていいのですね。
No1様の回答のように半兵衛は政治向き(内の者)と言えるのでしょうね。そういう面では石田三成は妥当な後継者といえます。軍略面では官兵衛が引き継いでいますし。
半兵衛は子がなかったのでしょうか?弟の存在は知っていますが。

織田家というより秀吉にとって前半は半兵衛、後半は官兵衛といえるのでしょうね。(信長から見ての陪臣・直臣/無欲・野望/内政・戦略などの違いもありました)
回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2007-09-17 13:12:57

ANo.2

 戦国時代は、優秀な人間であれば、できるだけ大勢部下にしようとした時代です。

 また、竹中半兵衛には、権力欲がほとんどない人物と言われています。

 時代的に細かく見ると、黒田官兵衛が秀吉に仕えて活躍しだした頃、竹中半兵衛は結核に掛かってかなり健康を害しており、半兵衛は官兵衛を自分の後継者として考えていたように思えます。

 黒田官兵衛が荒木村重に監禁されていたとき、黒田官兵衛の裏切りと思った織田信長が、人質であった官兵衛の息子を殺すように秀吉に指示したのに対し、竹中半兵衛が秀吉の内意を受けて、自分の一存ということで、かくまったことがあります。

 また、三木城攻めのときには、急に反撃してきた別所方の軍に対して、別々の場所にいた半兵衛と官兵衛が、打ち合わせもなしに連携して、別所方の軍を罠に嵌めて、撃退したこともあったようです。

 部下がお互いに、足の引っ張り合いや無駄な意地の張り合いをしないかぎり、優秀な人材は何人いても、無駄になりません。

投稿日時 - 2007-09-17 11:59:43

お礼

>戦国時代は、優秀な人間であれば、できるだけ大勢部下にしようとした時代です
そうですね。特に秀吉は武家出身ではありませんからね。
半兵衛の特徴は権力欲が薄いこと。官兵衛は天下を狙ったことがありますので、この点も大きい違いがありますね。
>半兵衛は官兵衛を自分の後継者として考えていたように・・・
特に何か対談とかしてレクチャーっぽいものもしていたのでしょうか?

長政のことは男の友情美談として有名ですね。このことからも交流はあったと考えています。対して半兵衛は子はなかったのでしょうか?
三木城の話は凄いですね。やはり軍略に関しては相通ずるところがあったのでしょう。
半兵衛の無欲さや、官兵衛への後継者としての扱いが足の引っ張り合いを未然に防いでいたのですね。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2007-09-17 13:03:23

あなたにオススメの質問