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解決済みの質問

両墓制について

瀬戸内を旅行しました。
そこで初めて埋め墓と参り墓という二つの墓を見ました。
両墓制の存在は、学生時代、歴史で学習しましたが、
実際に目にするのは初めてでした。
自分としては、遺体を埋めた墓が山の上だったり、遠かったりと参るのが困難なゆえに
身近な場所に参り墓を設けたのだろうと思っていました。
しかし、今回訪れた瀬戸内の島では、とても近い場所に埋め墓と参り墓がありました。
こんな至近距離に隣接している光景は異様にさえ思えました。
日本人は、死体を不浄のものと考えるので墓を二つに分けた、とされていますが、
こんなに隣接していたのでは、分けた意味がないように思います。

ご教示お願いいたします。

投稿日時 - 2005-11-09 18:36:21

QNo.1768343

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

 こんにちは。

 まず、結論から先に言うと、「両墓制」は過渡期の産物だから、なんでもありだった、ということになります。

 なんやそれっ、と思われるかも知れませんが、実際、ウメバカ(三昧、ステバカとも)と、マイリバカがある、いわゆる「両墓制」は、沖縄、奄美、それに東北を除いた全国に見られ、2つの墓の場所が、遠いこともあれば、隣り合ってることも珍しくないんだそうな。

 で、この「両墓制」(とかってに学者が名づけたのは大雑把過ぎたんじゃないかと私なぞは思うんですが)は、いまだに民俗学の大問題らしいです。

 以下、一応、こんな解釈に落ちついてるらしい(と私が読み取った)見解を述べてみます。

 まず、日本の葬礼の歴史ですが。

1.遺体を「穢れ」たものとしてとして、廃棄に近い扱いをする。質問者さまの「死穢」ですね。
 絵巻や文書などを見る限り、よほど地位のある人でないと、「火葬」や「土葬」は行なわれなかった。一般の人々は、かなりあと(江戸初期)まで、遺体を、河原とか、村落の決められた場所に放置していた。

2.仏教が浸透するにつれ、死者は記念されるべきもので、遺体を粗末にしてはいけないという観念が広まり、「土葬」が増えた。つまり、僧によって清められれば、遺体は「穢れ」てはいない、という考えが浸透した。
 今見るような家単位の墓も、この頃から出現。「火葬」も表れはじめる。

3.火によって遺体を清める「火葬」が浸透。家単位の墓の設立が一般的になる(これは明治以降とされています)。

 その他、両墓から単墓に到る事例として、沖縄の「洗骨」があります。台湾や香港にもあるそうです。
 遺体を、墓の前の方(沖縄のお墓が、大きなものであることはご存知でしょう)に置いておいて、骨化するのを待ちます。自然に清まるのにまかせたわけです、期間はまちまち、3~13年、村落で一緒にすることもあったそうです。
 その骨を洗い、墓の奥の正式な場所に納める。これでやっと葬送は完了します。
 これは、両墓制ではありませんが、葬送儀礼が大きく2段階に分れ、それに「穢れ」を清めるという明確な意識がみえることで、非常に重要な事例とされています。

 さて、大体の変遷と、沖縄の事例を参考として紹介しました。

 まとめると、2つのファクターが見えます。

 ひとつは、死穢をいかに解決してきたか。仏教がいかにこの問題に取り組んできたか、と言い換えてもいいでしょう。メルクマールとなった歴史的事実として、「宗門制度」(=人はみな檀那寺を持たなくてはいけない)をあげられるでしょう。

 もうひとつは、集団帰属意識の変遷。「部落」単位の生活だったころは、「墓」は、要らなかった。部落のシンボル(森など、実際、両墓を持ちながら、森へお参りするという事例もあります)だけでよかった。
 それに、仏教が、死者を記念する「墓」という概念を持ちこみます。ここで遺体を「穢れ」とする観念を払拭できなかった人は、遺体が実際に埋まっている場所と、死者を記念する施設を別々にとらえてしまうことになります。
 それに、前述の「宗門制度」で、「家」単位の葬送形式が提示される。
 これは「集落」意識と矛盾します。
 結果として、さまざまな墓制が表れる。両墓制もそのひとつのような気がするんです。それは、事例に、ステバカは集落単位、マイリバカは家単位だったり、両方集落単位なんだけど、各家にも祭壇があったり。
 私は、「家大事」の意識が、一般に広がるのは、明治もだいぶ経ってからだと思っています。「家」単位の墓ができるのとほぼ軌を一にしています。
 つまり、江戸時代が、意識改革の天王山ではなかったか、と思います。

 部落、家、墓、死穢。こんなものが、それぞれ絡み合いながら、いまの一般的な形式―「墓」というものが、「家」単位で作られる―へ進んできたのだと思います。

 そして、社会事象はなんでもそうですが、AからBへすべてが変わる、ということはあまりなく、なんらかの痕跡を強く刻んで行きます。ときには、痕跡ではなく、まだまだ現役だったりもするわけです。

 いま、個人の墓とか、もっといえば散骨といった、自ら「記念」されることを拒むような葬送形式もあります。一方で、質問者さまが見たような、割に新しい「両墓制」から、より古層に属す「両墓制」の事例の報告もあるわけです。

 死んだらどうなるのか。死に対してどう向き合えばいいのか。この根源的な問いかけに対して、このささやかな島国の人が出してきたさまざまな答え、そのひとつが、質問者様の見た事例だったわけです。

 かなり長文になりました。整理されてないところは、私の到らなさです。参考にした文献は数部ありますが、いずれも「~辞典」、「~事典」「~概論」の類なので、いちいちあげません。文責はもちろんすべて回答者にあります。

 ご参考になれば幸いです。

 

投稿日時 - 2005-11-10 16:51:49

お礼

ありがとうございました

投稿日時 - 2005-12-20 02:22:43

ANo.2

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回答(2)

ANo.1

こんばんは。。

 歴史的な専門知識はないのですが、仕事が祭式・葬祭関連なので、ちょっとお邪魔します。(ウチの地方でも、若干、両墓制が見られます。両墓の距離はまちまちですね。)

 不浄(穢れ)というものは、案外と物理的な距離とは関係ないものかな、という印象を持っています。
 死の穢れを土に埋めることによって浄化する場所が埋め墓とするなら、その敷地内に埋葬の時以外に入らなければよいという感じなのかもしれません。(←あくまで自分の個人的な印象ですけど。)島では土地がないという要因も考えられますし・・・

 現在の感覚からするとピンとこない部分ではありますが、「参るのが困難なゆえに身近な場所に参り墓を設けた」というよりも、かつて埋め墓は、お祀りのある時点から(四十九日とか1周忌とかを境に)ほとんど、あるいはまったく(そしてそれがたとえ隣の敷地であっても)お参りしなくなっていたのではないかと思います。

 現在は、火葬が定着したことによって、浄・不浄の意識が変化したということ(←火によってすでに浄化されたお骨を埋葬するという形になった)、全体としては単墓制への移行が進み、それが当たり前のような意識に変化してきたこと、両墓がある場合でも埋め墓にも石塔を建立する場合が出てきたことなどから、埋め墓にも日常的に参ることが普通に見られるようになりましたが、それはごく最近のことなのだろうと思います。

 自分が見聞きしたところは、こういうところです。では。

投稿日時 - 2005-11-09 19:34:29

お礼

ありがとうございました

投稿日時 - 2005-12-20 02:22:12

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