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キリストの最期の言葉

キリストの最期の言葉とされる"Eli eli lama sabachthani" (マタイ27)には強烈な疑問を抱いてしまいます。なぜなら、彼自身が神の子で絶対的な信仰を神に対して持っていなければならないはずなのに、最期に彼は神の行い、彼の運命(Providence)に対して強烈な疑いの叫びを発したからです。
人々に神への絶対の信仰を説く根本たる聖書にこのような記述がある、というのは私には理解の到底およばないことです。聖書を読んでいてキリスト教の信者はこのような疑問は持たないのでしょうか?
キリスト教でこのようなことは多くの人にどう理解されているのでしょうか?

投稿日時 - 2005-10-13 18:31:00

QNo.1711519

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

追伸
そのときゴルゴダの丘にいたのは、マグダリアのマリア、母のマリアとサロメの女性3人および(母のマリアを世話していた若い弟子、12人の弟子の一人ではない)であったといわれてます。従って、逃げていなかった弟子たちの福音書には書くことは出来なかったというのが本当のことでしょう。イエス様はエルサレムの門外のオリーブの園でつかまりましたが、十字架は当然予定の行動であったわけです。弟子にもそういっていたので皆逃げたのでしょう。だから、死に際して「強烈な疑いの叫び」など発するわけが無いのですね。Eli というのはElia(エリア)のことですね。エリアは旧約聖書にでてくるバール信仰と戦った人物ですね。イエスの神ではないことはたしかですよ、聖書には私はエリアの再来かなどと転生輪廻的な含みを伝えている箇所もありますね。つまり、12人の逃げた弟子の福音書では何のことかわからないということなんですね。その後、霊的に再誕したときもマグダリアのマリア(最後を見取る弟子あるいはそれ以上の者としてかわいがっていたのでしょうね)に一番にあってますので、マクダリアのマリアの福音書が一番正確のはずですが、12人の弟子が嫉妬したのかマリアの過去の職業がいやだったのかわかりませんが葬り去ったのか無いんですね。それぐらい逃げたことが恥ずかしかったのかもしれませんね。だから最後の言葉は正確な伝承ではないが文字づらで解釈するのが一番ただしいのですね。#2の解釈は、霊的にも真実なんですよ。参考までに

投稿日時 - 2005-10-22 17:59:15

ANo.8

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回答(9)

ANo.9

解釈次第でいかようにもできますが、こんな解釈もできます。

例えばイエスがエルサレムに凱旋したとき、ロバに乗った。
これをある人はこう解釈するでしょう。

「イエス様は自分が王だと威張るようなお方ではなかったので、馬にのらず、わざわざロバにお乗りになった。おくゆかしいお方だったのです。みなさんもみんなから賞賛されても威張ってはいけません。イエス様を見習って謙虚に生きましょう」

キリスト教の聖書の内容は、ユダヤ書の内容を繰り返しています。
イエスのストーリー内容もユダヤ書から来ています。
ソロモン王だったと思いますが、息子をロバに乗せたそうです。
<王の血筋を受け取るものはロバに乗る>という慣しがあったからです。
そう知ると「おくゆかしい方だったので」というのは正しい解釈ではないことになります。


<Eli eli lama sabachthani>
これもユダヤ書の詩篇(22章)の中からの引用だと思います。

いくつもユダヤ書の内容からキリスト教聖書は成り立っており、<ユダヤ書の予言が当たっていた>と解釈するか、聖書作家がユダヤ書に詳しく、それを参考にしながら新たな小説を書いたと解釈するか。

人によって解釈は違うと思います。

キリスト教の聖書がわからない場合は、ユダヤ書をひもとくと、そのわからなかった理由がわかることがあります。


尚 エリですが それをエリアを呼んでいると書いてあり、エリアが来るか見てやろう とローマ兵は思ったようですが、このエリ(エリア)とは何か?

一説にはエリはエルでエルとは神のこと。(エロヒムはエルの複数形)
神であるとすれば、「神よ何故私を見捨てたのですか」はユダヤ書と同じ。
エリヤとしてしまうと、預言者エリヤに訴えたことになる。
そして囚われる前にエリヤと対話したことになっているので、また難解です。
やはり「神よ」でいいと思います。

で、どうして最後にそう叫んだのか。
謎です。
しかし、、、、。
何か根拠があるはずだ。

イエスの磔刑及び復活に関しても、ユダヤ書から来ていますが、このユダヤ書のストーリーの基本はそこいらいったいにあった土着宗教の概念が反映されているようです。

その概念とは、民の王が民が神の祝福に入るために生け贄にささげられるという風習です。
というかそういう儀式があったようです。
高められた後 王はきらびやかな衣装を剥ぎ取られ、天と地の間に木に吊るされ、鞭打たれさげすまれ、槍でさされる。
その時 王が涙を流せばその歳は豊作となる。
生け贄の儀式です。
これは王のみ限定です。

こういう概念を知ると「何故私をみすてたのですか」を涙と解釈すれば、のちのち地上は神の祝福に入ったことになります。
しかし イエスは涙を流さなかったとなれば、、、、、

 

投稿日時 - 2005-10-23 12:58:21

ANo.7

キリストの最期の言葉ではありますが、#1の方がおっしゃるとおり、『詩篇』の一節をふまえています。つまり、イエスは最期に詩篇の中の神を賛美する詩を口ずさんだのです。

新約聖書には、イエスが旧約聖書の記述に則った行為をするところがいくつかあります。イエスがメシアである以上、旧約聖書で預言されたとおりの行動をとるのは当然のことです。

一度、『詩篇』と『マタイによる福音書』を読み比べてください。きっと答えが見つかるはずです。もし聖書がお手元になければ、参考URLで、共同訳聖書と口語訳聖書が読めます。

参考URL:http://www.bible.or.jp/main.html

投稿日時 - 2005-10-22 14:49:29

ANo.6

rikeniumさんの言葉を借りるなら、
「彼自身が神の子で絶対的な信仰を神に対して持っていた」からこその叫びです。

通常の人間であれば信じていた神に見放されたと感じた時に、どういう行動を取ると予想されますか?
大抵なら、目の前の人に向かって「神などいない」と宣言するでしょう。
なぜなら神に見放されたということは、あらゆる点において神の存在を微塵も感じられないからです。
十字架につけられたイエスも普通の人間であれば、神から見放されたと感じた時点で眼前の群集に「神など存在しない」と言ったことでしょう。

でも、イエスは神に対する絶対的な信仰があったからこそ、こう叫ぶのです。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」
そこに神の臨在を感じないのに、それでも神を信じ疑わない、むしろその神の不在を神ご自身に叫ぶその信仰こそ驚異的であり、絶対的であり、彼が神の子である証しそのものではないでしょうか。

私はいつもこのイエスの完全なる信仰に励まされます。

投稿日時 - 2005-10-18 16:34:07

ANo.5

http://homepage1.nifty.com/kameari/worship/2005/03/0320.html

どこにいるんだ~!ではなく
まあ本当に神様いるなら助けろ~という叫びで神に訴えている感じですね。
信仰者の祈り方に通じる物があります

求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、尋ねる者は見出し、門を叩くものは開かるるなり

この聖句に共通しているように思いましたが・・

投稿日時 - 2005-10-15 19:10:02

ANo.4

僕は、この言葉は、子であるキリストが、(一時的にですが)父である神と共にいることをわかり得なくなった悲しみをあらわしているように思います。キリストが僕たちの身代わりとなって神の裁きを受けた点はそこに(そのような状態におかれることに)あるのではないかと思うので、この言葉はキリストが実際に身代わりとなったこと、さらに、この言葉は疑いの叫びではなく、むしろ、キリストが父である神の意思に従順に従って犠牲となったことが僕達にわかる言葉ではないかと考えます。

つまり、マタイによる福音書26章53,54節やルカによる福音書22章42節から、キリストは父である神様に助けを求めることができたところを、自ら神様の意思に従ったことがわかるのですが、それは十字架の上でこの言葉を発したときにも変わらなかったのだと考えます。
(例、フィリピの信徒への手紙2章6-11節)

僕は以上のように考えるのですが、ご自分で聖書をお読みになったり、お近くの教会で、神父や牧師など聖書をよく読んでいる人に質問されてはいかがかと思いました。

参考URL:http://www.ccel.org/c/calvin/comment3/comm_vol33/htm/xliii.htm

投稿日時 - 2005-10-15 07:58:28

ANo.3

イエスは人間として、この世に来たので、人間としての痛みや悩みや弱さを持っていたからだと思います。

もし、イエスが神の万能の力を持って、この世に来たのなら、磔になったとしても、何の痛みも苦しみもないはずですから、それでは「犠牲」としての意味がなくなり、後世に、イエスのありがたさを伝えることができないからだと思います。

投稿日時 - 2005-10-13 22:44:05

ANo.2

参考に
イエス様は、「エリア、エリア、ラファエロ、迎いに来なさい。」といったんですね。天使たちへの言葉ですね。それから彼らが降りてきて、イエスに付き添って昇天していったのですね。この部分は当然弟子のマルコには見えなかったから書くことは出来ませんでしたがね。

投稿日時 - 2005-10-13 21:13:06

ANo.1

よくある誤解なのですが、この言葉は詩篇22:1です。この後、

「2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」

と続いていく、神を賛美する言葉です。決して、
> 神の行い、彼の運命(Providence)に対して強烈な疑いの叫び
ではありません。

投稿日時 - 2005-10-13 20:41:48

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