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締切り済みの質問

イエスキリストの十字架の意味は?

私は最近DVDでパッションという映画を見ました。
イエスキリストが十字架にかかって死ぬ前のことを映画にしたものです。

残酷な場面がたくさんあり、何度も目をそむけてしまいました。でも、涙がとまりませんでした。ことばではうまく言えないのですが、かわいそうというのとは全然違うのです。

私が疑問に思ったのは、イエスキリストはどうして十字架にかけられて死んだのかということです。その本当の意味です。

あれだけ残酷な罰を受けたのにもかかわらず(鞭打たれ、つばをかけられ、罵声をあびせられ、思い十字架を背負わせられ、あげくの果てには両手と両足に太い釘を打ち込まれて十字架にかけられて殺されてしまった)十字架の上で「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈って死んでいったのです。

そして、その十字架の死がもとになってキリストが今でも世界中の人々に信じられているということは、この十字架に何か大きな意味というか、理由が隠されているような気がしてなりません。

キリスト信者の方、イエスキリストの十字架の意味をわかりやすく教えてくださいませんか?難しいことをいわれてもわかりませんので。

私は小さい頃、教会の日曜学校に行っていたので教会に十字架があったのは覚えていますし、聖書のことばの書いたカードをもらったのを覚えています。

投稿日時 - 2005-02-11 11:31:31

QNo.1213114

暇なときに回答ください

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回答(31)

ANo.31

信仰の浅いものです。詳しいことはお近くのキリスト教会やBBNインターネット放送でお聞きくださいね。

イエス様は、旧約聖書に予言されていたとおりに生まれ、
そして旧約聖書に予言されていたとおりに死んでいます。

旧約聖書は、ユダヤ教の経典です。
今でもユダヤ教では救い主が来ておらずそのあらわれを待っているそうです。
旧約といっているのは、キリスト教会の人たちです。

イエス様の十字架の死は
旧約聖書をもちいて良く調べたならキリスト(救い主)であることを指し示すものです。

またイエス様は十字架にかかられる前に何度も3日後に蘇えることを話させれていました。

イエス様が十字架で私たちの罪を贖ってくださったことをともに喜びましょう。

参考URL:http://www.bbnradio.org/WCM4/Default.aspx?alias=www.bbnradio.org/wcm4/japanese

投稿日時 - 2013-05-30 10:48:31

それほど敬虔でもない信者から。
人間は特定のイメージを共有化するためにはその象徴を必要とします。
イエスは生涯にわたり布教をしましたが、信者にとってもっともドラマティックな出来事は、自分たちの教祖(とされた人物)が理不尽に刑死したことでしょう。

同時にそれは他の宗教を連想させるものではなく、ローマと当時のユダヤの理不尽への否定と敵意を煽り、信徒たちにローマの元の安楽な秩序に溺れさせないようなものであり、かつまたユダヤから引き継いだ「神の似姿を表現してはならない」というタブーに触れないものでなければなりません。
単なる処刑の一道具でしかなかった十字架(これは古来から伝わったものでなく、いわゆるキリスト教式の十字架)はそれらすべての条件を満たす理想的な象徴だったのです。

注意すべきは、本来のキリスト教は、宗教に相当に寛容なローマを完全否定するものであったというものです。
ローマは宿敵パルティアから伝わったミトラ神すら自分たちの宗教にしたほど、異教に寛容な人々でした。
当然、ローマ市民もしくは属州民としての基本的な制約(皇帝とローマの神々を敬うこと、ローマの秩序を守ること、それぞれの形で税を支払うこと-属州民は金銭農穀で、市民はマリウスの改革で変わりましたが兵としての血で)さえ果たせば、個人が何を信じていても許しました。
しかし唯一絶対の神を崇め、ほかの神を否定することはキリスト教徒にとって絶対条件です。
特に社会のマイノリティだったローマ時代前半から中盤においては、ローマへの遺恨を忘れることはコミュニティの崩壊を意味しました。

よって、彼らは一見してそれとわからず、同時に教祖の苦難を象徴しローマへ敵愾心を向けられる「十字架」という象徴に飛びついたのです。

投稿日時 - 2013-01-26 18:49:03

ANo.29

下のコメントをしたjeyuです。 参考にすると良いですよと言った5番目6番目14番目22番目の方々というのは私のコメントから数えての事で、わかりづらいかと思いましたし、最初の方から数えてだと違う方になってしまうので、お名前をいれさせていただこうかと思いました。 jcpowerさん sweeeetjesusさん asaktaroさん tanita530さん wwjdkekoさんのコメントを読まれると良いと思います。 イエス様はあなたの心のドアの外側からノックされています。ドアノブはあなた側にしかついてはおらず、イエス様は無理矢理あなたの心の内側に入ろうとはなさいません。あなたがイエス様に心開き、イエス様をあなたの内側に招き入れ、イエス様と共に歩み始めた時に、あなたがパッションを観て感じた事の答えはでてくると思います。これからはクリスマスもありますし、ぜひキリスト教会に足を運んで、聖書のメッセージを聴かれてみてください。いつかあなたに答えが与えられると思います。

投稿日時 - 2012-11-19 22:51:28

ANo.28

質問者の方は良い質問ですね。
回答者の皆様方も自分なりの考えをかいてらして、一気に読ませていただきました。
質問者の方は聖書は1人読んで解釈せず、教会にぜひ足を運んでいただきたいです。5番目6番目14番目22番目の方々がおっしゃっている事よく読まれると良いと思います。
質問者の方の疑問が解決されますようお祈り致します。

投稿日時 - 2012-11-16 04:49:56

ANo.27

イエスは、自分が考える「正義」のために生き、その結果殺されるに至り、壮絶な死を遂げたのだと思います。彼が考える正義とは何か、二千年のキリスト教の歴史を見ても客観的にはっきりとしたことは言えないのではないでしょうか。
ただひとつ言えることは、彼は自分より大いなる何かのために、生涯をかけたということだと思います。あの十字架の苦しみによって自分を曲げることもしなかったということだと思います。十字架の凄まじさが物語るのは、イエスが生と死をかけて守ろうとした「大いなる何か」の大きさであり、イエスの決意の凄さだと言ってよいと思います。彼の生と死を目撃した人々にも、イエスを捨てた弟子たちにも、十字架の出来事は計り知れない衝撃を与えたということなのでしょう。
このインパクトが、今に至るまで僕たちに影響を及ぼしている、そういうことだと思います。

イエスのように生きること、それは僕らにとって絶対的に不可能なのかも知れません。でもイエスの生に関心を持たずにはいられない、という意味では、僕たちにもイエスのように生きることの可能性は絶たれてはいない、とも言えると思います。それをキリスト教主流派の中では「聖霊」の働きと言うのだと思います。

投稿日時 - 2012-10-21 21:31:04

ANo.26

Q - C H A N 牧 師 の 伝 道 部 屋

イエス・キリストの教えを学びます!(プロテスタントのカリスマ派)

ニコ生放送では、月~土7:00~8:00PM  
LTLキリスト教会礼拝ライブは、日10:30~12AM 

Ustreamでも生放送します、また録画(YouTubeとUstream)もありますから生放送を見逃しても後で見ることができます!

参考URL:http://com.nicovideo.jp/community/co6246

投稿日時 - 2012-07-30 17:53:24

ANo.25

イエス様が十字架の磔をお受けになったのは、救い主(メシア)である彼自身が犠牲となり人々を罪から救うためです。イエス様が罪を犯したのではなく、彼が母マリアのお腹に処女懐胎したときから決まっていました。


とはいえ、イエスさまは十字架の前夜神に向かって「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈っています。イエスさまでも死の恐怖からは逃れられません…。
十字架は暗にさまざまな意味が込められてと思います。人間の罪、アダムとイブ、十字架があったからこその復活の意味、
イエス様は神ではありません。イエス様はただ神の命に従い、人々を救い死をうけました。すべては、神のみこころのままに…。ということですね。
わたしはキリスト教精神に基づく学校に通っています。6年間キリスト教について学んで参りましたが、まだまだ知識は浅くなぞは深まるばかりです…。うーん、難しい!わたしはプロテスタントですが、教派によっても考えは異なるものですし、正解はないと思います。しかし、モーセが神から与えられたとされる十戒など、全人類に共通する道徳的な考えがキリスト教にあることも、聖書が世界中でもっとも読まれている書物である理由のひとつではないでしょうか?

投稿日時 - 2012-07-20 20:53:34

ANo.24

イエスの死は人々の意識の中に強く残りました。
それは強く教えを残すためでした。
イエスの時代はそれだけ心が荒廃し、病気も流行っていたと思われます。
科学が未だ発達しておらず、身分制度があり宗教と言っても生きる上でどれだけ役に立っていたのか?
目に見えても理解できないことは祟りと思っていた時代です。
教えはイエスの人格を現わしたもので、やはり神に近い心を持っていたと思われます。
その時代としての心得、生きる指針、人はどのように生きればいいのか?
イエスの人格と教えと十字架が人の心の救い、人の心の支えになったのです。
しかし、これからの時代は十字架の教えは過去のものになって行きます。
教えもその時代の役目を果たし、新しい教え、新しい生きる指針が説かれることになるでしょう。

投稿日時 - 2012-04-09 22:41:01

ANo.23

皆さん素晴らしい回答をされていますので、細かい事は述べませんが少しだけ。

イエス様は神のたった一人の御子であり、何の罪もないのにかかわらず、十字架刑に
よって殺されました。質問者さんが言われているように、今自分を殺そうとしている
者のために、父なる神に許しを祈ってくださいました。

大切な事は、イエス様を殺したのは私たち自身であるという事。

イエス様が、本来なら私たちが受けるべきあらゆる苦しみをお受けになり、十字架で
殺されたことで、ご自分の命によって、私たち(過去から現代を生きる全ての)
人間の深く大きな罪が赦されたという事です。

もっと大切な事はイエス様は3日後に復活され、今も生きておられるという事です。

イエス様は人間のこの世のあらゆる苦しみを受け(暴力、飢餓、侮辱、裏切り等・・)
られ、私たちの手によって私たちのために、もっとも残酷な処刑方法で殺されたのです。

なぜか。

私たちを愛してくださっているからです。”あなたは私の大切な宝物だ”と言ってくだ
さっているからです。「赦して欲しい」と頼まなくても、すでに私たちの罪は赦されて
います。そして私たちに必要な恵みを十分にくださっています。

なぜか。

私たちがイエス様の事を知らなくても、イエス様は私たちの事をすでによくご存知だか
らです。

「許し」と「赦し」は同じ”ゆるし”と読みますが、どこが違うのでしょうか。

「許し」は謝ったり、償う行為をしたものが代わりに与えられる”ゆるし”です。

「赦し」は何もしなくても、謝らなくても、一方的にあたえられる”ゆるし”です。
「恩赦」等の時に使う字ですよね。

では、私たちはイエス様に何をすればよいのでしょうか。イエス様は私たちに何をして
欲しいと思われているのでしょうか。

ただ一つだけ。

「わたしに従いなさい。」

ただそれ一つだけです。

私たちがどんな苦難にあっても、イエス様に従っていれば、今も生きる私たちの主、
”十字架のイエス様”、”復活のイエス様”がともにいてくださり、神の子の権威ある
お名前によって私たちを守り、強め、導いてくださるのです。

この権威に対抗できるものは何一つ無いという事を、ぜひお伝えしたいと思います。

投稿日時 - 2011-06-20 15:14:25

ANo.22

イエス様は私たち人間の罪のために自分がいけにえとなって死んでくださったのです。




そして、人間たちがそのことを信じて永遠の命をもてるようになるためです*

一方的な愛です*

参考URL:http://d.hatena.ne.jp/kashiwara143/20100926

投稿日時 - 2011-05-25 17:41:30

ANo.21

>その十字架の死がもとになってキリストが今でも世界中の人々に信じられているということは
>十字架に何か大きな意味というか、理由が隠されているような気がしてなりません。


直感的に感じたことの本質を知りたい、ということだと思います。

イエスが十字架で死んだことは、聖書のテーマとして旧約時代から続いている
「罪の購いのための生贄」というメッセージに則ったものです。

かつては山羊を、ユダヤ人全体の罪を赦してもらうための生贄にしていたのですが
この原理に則り、イエスは多くの罪びとのための「身代わり」あるいは「生贄」として
死んだ、ということを聖書はメッセージしているわけです。

聖書には「木にかけられる者は呪われる」と、わざわざ書いてありますので、
罪の無いイエスが「木にかけられて」、身代わりに呪いを身に受けて死んだ、と解釈できます。
これは、多くの人の罪が赦されるためであった、というのがパウロなどの解釈です。

さて、ではなぜ死刑の方法が「十字架」でなければならなかったのかについては
明確な見解というのはないのですが、

十字架は、縦と横の線が一体となった形をしていますので、
縦が、神と人との愛を、横が、人と人、つまり隣人どうしの愛を表現しているという解釈があります。
イエスは、神を愛すことと、隣人を愛すことが、律法の完成を表すことを言っていました。

おそるおそるでも良いので、質問者さんが自分から福音書に目を通して、イエスの十字架について考えることが良いことであると思います。

参考URL:http://d.hatena.ne.jp/believer777/20100816

投稿日時 - 2011-02-27 19:29:17

ANo.20

キリストの十字架の意味は、本物の苦難のしもべの処刑に関わると推測しています。
以下に記すことは自分の推測に過ぎませんのであしからず。

歴史は全て最初から決まっています。
未来に来る世界の主(苦難のメシア)を処刑するのはキリスト教徒だと思います。
そして、その処刑に多くの人々が不満を抱き不公平さに嘆く未来があると思います。
だから神が、そういう未来にしないために平等にするために、
あらかじめキリスト教の教祖を処刑しとくという神による施策であると推測しています。


因みにイエス・キリストは世界の主ではありません。
なぜならユダヤ教徒、イスラム教徒の方々が、イエス・キリストを自分達の主だと認めてないからです。
世界の主になれる人物は誰もが自分達の主だと認める存在なのです。


イエス・キリストは、間違いなくメシア(救世主)です。イエス・キリストの言葉で多くの人々が救われてきたでしょう。
しかし、聖書の言葉全てが正しいわけではありません。正しい部分もあれば間違った部分もあります。


世界の主の預言

偉大なるシーレンが、世界の主となるだろう。
はじめは愛されるが、のちに恐れられ怖がられる。
彼の名声と称賛は天にまで達し、勝利者の称号に大いに満足するだろう。




それから天国地獄はあるかもしれません。もし神が人々の平等願望を尊重されているなら天国地獄はあるかもしれません。実際に神は旧約聖書の中で、「霊はいつまでも肉にとどまらない。人の寿命を120年とする」と言われた事があり、霊の存在を否定はできませんしね。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/58izaya.html#kome2

投稿日時 - 2010-04-07 01:02:39

ANo.19

神は人間に死後の世界を用意しています。
天国(神の祝福を受ける場所)と地獄(神の罰を受ける場所)
神は人間を造り自由の意思を与えた。
しかし、人間は自由の意思がある為、一面として自己中心に生きる悪い心を持っている。
神はこの悪い心を嫌い。全ての人間は天国に相応しくないと考えた。しかし、神自身が形造った愛する人間を地獄には入れたくないと考えた。
そこで神は全ての人間に死後、与えるはずの罰を人間の代わりにイエス・キリストを地上に送り与えた。(十字架の死)

そして、自分が受けるはずだった罰をイエス・キリストが受けたことを認め信じる人だけはどんな人間でも死後、天国へ入れることにした。

十字架にはこんな意味があります。もしイエスの十字架がなければ
全ての人間は神からの罰を逃れることはできませんでした。

聖書を読めばもっと細かく書いてあります。

投稿日時 - 2010-03-18 06:59:16

ANo.18

>何か大きな意味というか、理由が隠されているような気がしてなりません。
その通りです。人類史上で五本の指に入る意味があります。

神が最初の人間アダムを創造された後、アダムは蛇に欺かれて神が死ぬと言われたことを行ったのでその子孫も死ぬようになりました。
その時、神は蛇にこう預言されました。
「わたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」‐参 創世記 3:15

蛇である悪魔サタンは、女の胤であるキリストを杭につけ、全くの無実の罪で処刑することに成功しましたが、これが「かかとを砕く」という預言の成就です。実際にかかとに釘が打ち込まれたかもしれません。

しかし、このことによって、キリストは人類の贖いとして、
すべての人の代わりに死ぬことによって、キリストに信仰を持つ者が
永遠の命を得られるようになったのです。

このことは遠い昔から神によって示されていました。
イスラエルがエジプトから脱出したとき、毎年「過ぎ越し」をするよう命じられました。子羊の血を家のドアに塗り、初子が守られたことを記念するための祭りです。
ちょうどこの祭りの日にキリストは処刑されたのです。
その後の部分で、キリストは聖書の中で神の子羊と呼ばれています。

また、イスラエル人が罪を犯したとき、神に犠牲として
牛や羊などの動物をささげるようにという律法を与えたのです。
ですから、イエス・キリストが死ぬことは1500年まえから予示されていました。

では、蛇の頭を砕くことはどうなるのでしょうか。
蛇である悪魔サタンの企ては、キリストの贖いによって見事に
打ち砕かれました。神が正しいことが証明されたのです。

また実際に悪魔サタンとその使いたちは滅ぼされます。
これは将来についてですが、こうかかれています。
「ひとりのみ使いが底知れぬ深みのかぎと大きな鎖を手にして天から下って来るのを見た。そして彼は,悪魔またサタンである龍,すなわち初めからの蛇を捕らえて,千年のあいだ縛った。そして彼を底知れぬ深みに投げ込み,[それを]閉じて彼の上から封印し,千年が終わるまでもはや諸国民を惑わすことができないようにした。・・・そして,彼らを惑わしていた悪魔は火と硫黄との湖に投げ込まれた」
‐ ヨハネへの啓示 20:1-3,10

ですから、キリストの処刑は、困惑を起こさせる程のショックな場面で
当時の弟子たちも泣いたり、関係ないそぶりをしたりしましたが、
こうした神がご計画された人類の救済や、預言などの歴史があってのことなのです。

参考URL:http://watchtower.org/j/

投稿日時 - 2009-01-01 15:04:03

ANo.17

ぼくはキリスト教に興味はありますが、キリスト教の信者ではありません。ですが、「パッション」は見ました。「ジャンヌ・ダルク」と「エミリー・ローズ」も見ました。そこで思うのです。質問の答えになるか分かりませんが、キリストは死んで聖霊になったのだと思うんです。人は死んで消滅するか、聖霊になるか、悪霊になるか、悪霊が悪魔で、聖霊が神なのではないでしょうか。十字架の意味については、劇中ではキリストが望んだものではなく、キリストを殺した人たちが望んだものです。
あれは単に罪人として殺したかったのではないでしょうか。他にお答えになっているキリスト教関係者の方の反感は承知であえて書きます。あれは単なる残酷刑です。しかしキリストの十字架には感動があるのではないでしょうか。言葉は悪いですが十字架に架かって死ぬキリストに意味があるのであって、十字架には特に意味はないと思います。

投稿日時 - 2008-03-29 10:08:21

ANo.16

「イエス・キリストの十字架刑での死は人々のあらゆる罪を清めるための代償となっている。」ということだと思います。

さらに、「イエス・キリストは処刑後3日目に復活した神の子である。」このことを自分に罪があることを自覚した上で信じることがキリスト教であると私は認識しています。

 自分に罪があることを自覚し、「許してください。もうしないようにします。」と悔い改めて、イエス・キリストの十字架での死の意味と復活を信じるならば、神の前ではいかなる罪も許されるのがキリスト教であると思われます。

 いかなる罪であろうと、十字架で流された血が罪の代償になっていることを信じて、神の前に悔い改めることができれば、許されない罪はないという無制限で無条件の許しを命を賭してキリストが提示したということだと思います。

 さらに、3日目に復活したことで、「死」という恐怖を超越し、天国を実感させ、希望を与え、この世の苦しみや不公平に耐え忍び、必要であれば「死」を超越して対抗する力を与えてくれるきっかけを人類にもたらしたともいえるのではないかと思います。

 それが故に、アメイジング・グレイス(おどろくばかりの恵み)なのであると思われます。

 つまり、キリスト教は、ジェフリー・ダーマーのような連続強姦殺人犯だろうがなんだろうが、基本的に誰でも、どんな罪を犯していようと無条件に許されるというおどろくべき宗教だと思います。(もちろん、普通の国であれば、法律に違反すると、その法律を知らなかったとしても、当然なんらかの罪に問われ、罰せられます。)

投稿日時 - 2008-03-03 03:05:39

ANo.15

キリスト教はおしゃれな頭=人として正しい考え方と生き方を教える書です。ゆえにゴルゴダの丘(髑髏)の出来事に聖書の凡てがあるとヨハネは言っています。

イエス様は人間の罪と罰を演じて見せ、ここから救われる方法の手本を見せたのです。
私達の罪とは、棘のある考えをしていて横木(肉体本能)を頭まで運ばない、我欲に負けてしまうことです。これがイエスが三度躓いて十字架を担ぎ上げられなかったこと、頭に荊の冠を被っている意味です。そして十字架の上のユダヤ(夕蛇邪=肉体=バラバ=腹場=薔薇場=英米主義)の王の札も腹の虫の蝮気が強い者の意味です。映画の冒頭で蛇がイエスの着物の裾から潜り込んだのは、人の本能(イヴ=異部、穢場=肉体=ユダヤ)=女神が魂を育てる親であるということです。神様を女優さんが演じていましたよね。

イエスは弟子達に自分の十字架を運びなさいと教えます。これは精神の火と肉体の水をかみ合わせる苦労の熱(オウム=Ω)が魂を温める風呂の理である、与えられる人生の苦労は母主神の愛の手であるから、天を見つながら地に汗を流す情熱(神向心=パッション=インナーバウアー=蛹=静香)に素直になりなさい、ということです。

三度(春夏秋)無信仰の666(シックス=病気=下を向く)できたものは、溶鉱炉に投げ入れられて汚れを焼かれる、洗濯機の中に入れられるという神の愛の浄化のチャンスを受けます。これが十字架の張付けで、ハルマゲドン(基経)、ラルロの大嵐が吹く(神道)、大水に呑まれる(仏教)という予言です。

この直前に救いの主(ミロク、メシア、観音)が現れるとあり、イエスはヨハネ福音書の16章で真理の御霊が来て救いの智慧(999=成因=上を向く))をあなたがたに与えると言っています。

この救いの智慧とは、人は苦労の荒野、竹薮を通る旅によって育つと、母主神は定められた、苦労は神の愛であると目覚めて受け取って行く先に幸があると悟ることです。
イエスが「私はかわく」といったのは、神の真理心裏を知らずに、苦労から逃げる我利、怠けに生きてきたドライな私(現代人)に目覚めたということです。

反省して人々の差し出す酸い葡萄酒を受けました。神を信じて苦労に向って生活した。「全ては終わった」、天国に迎えられたのです。四つの福音書は春夏秋冬を表わしており、葡萄酒を飲んだのはヨハネの福音書だけです。

映画パッションでは、葡萄酒を吐き出しています。これでは聖書、イエスの教えは全うされない重大な間違いです。犬養道子の書ではイエスは葡萄酒を飲まなかったと断言しています。
映画パッションの批判の中にこの重大な間違いが指摘されていないことは、教会側も誰もこの間違いに気が付かない。いまだ聖書はきちんと読まれていないということなのです。

投稿日時 - 2006-03-21 03:35:42

ANo.14

目を背けたくなるのはわかりますがまぎれもない事実なのです。イエスは我々の罪を一人で背負い、十字架につきました。我々の罪とはユダヤ人の思想の中にある罪、つまり宗教的なものではありません。人の心の陰なのです(アダムとイブの原罪も背負っています)。どんな人間にも陰はあります。生きる上で必ず犯す罪(ねたみ・うらみ・よこしまな心など)を悔い改める事によって神に許しを請うことをイエスは説いたのです。しかし、当時のエルサレムの人々はイエスをユダヤ教の教えに反する危険な人物として当時一番重いとされていた十字架刑にしたのです。しかしイエスの十字架は旧約聖書にあらかじめ預言者を通して神が予告しておいたことだったのです。イエスは神の言葉が実現されるために神が送り込んだ救い主であって、その教えに背いた人々の罪をあがなって十字架についたのです。

つまりイエスの十字架により人々は罪を赦されたのです。キリスト教は愛の宗教です。敵を憎まず愛する教えです。だからイエスは「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」といったのです。
我々はイエスが十字架により我々の罪をあがなって下さった事を忘れてはいけません。

参考URL:http://www.ktv.ne.jp/~kiryu-ch/2002massage/020324.htm

投稿日時 - 2005-11-01 00:47:54

ANo.13

何より先ず目を向けなければならないことはキリスト教が恐ろしい宗教集団であるということです。十字軍、魔女裁判、教会の僧兵、植民地化の尖兵たる宣教師、現代キリスト信者のむごさ(アメリカ・イギリス国民、イスラエル国民)等に表れるキリスト教が織り成す世界的な悪事の数々、憂慮足るべきことです。(中世としては映画「薔薇の名前」をお薦めします。)イエス・キリスト(ナザレのイエス)は、天上界で最も位の高い存在と言われています(引用:シュタイナーの神智学)。または神そのものと言われています(引用:天界と地獄)。降臨する前に、ヨハネが道を整え、イエスが真理を述べ伝えるという計画のもとに行われたという教えががあります(引用:新約聖書)。高位の霊的存在であるイエスならば、自己が降臨した場合にそれ以降、どのような影響が地上に現れるかを知れたはずです(引用:霊界日記=「主は全てをご存知です。」)。
キリストが降臨されたのは人類の程度が最悪になったため(引用:シュタイナーの神智学)、ルシファーの改悛のため(引用:その他書籍)と諸説がありますが、少なくとも教えを広めるためではないことは、前述の恐ろしい宗教集団化(主はそれを望まれたでしょうか)となったキリスト教から必然導き出されます(引用:旧約聖書 預言者)。「天界と地獄」を読む限りではこの地球は精神と物資との関係において、非常に物質よりだということです。仮説としてはその地球上で(人類の)精神が崩壊寸前であったために主の栄光が顕現されなければ天界の計画における地球の働きが救えなかったのではないかと推測しています(シュタイナーの神智学とは趣が違いますが)。ゆえにその後のキリスト教による弊害が容認されたと。
キリスト教は"パウロのキリスト教"と言われています。付記すればスウェデンボルグはパウロを偽善で悪の使徒(悪霊)と厳しく指弾しています。もし仮にパウロの存在や行動を防ぐことが出来れば、イエスの磔刑も未然に防げたはずです。
イエスは肉の身を持って復活されたと信じています(引用:新約聖書=「三日で建て直す」)。それゆえに当時の社会的弱者であった使徒たちが奮い立ったのだと、既設の論に同調します。

投稿日時 - 2005-09-28 22:36:24

ANo.12

あまり深く考えたことはないのですけど。
お祈りの最後に
「父と、子と、せいれいの皆によって」
「In the name of the fater, and of the son, and of the holy spirit」
といいながら十字架をきるのでそれがなにか関係してるのではないでしょうか??

投稿日時 - 2005-03-06 01:05:19

ANo.11

キリスト教団体のサイトだと思うのですが、以下の参考URLに「パッション」についてのメルギブソンのインタビュー記事があるので、記事の一部(最後から2番目の段落)ではあるのですが、参考になるかと思い私の拙い訳ですが投稿したいと思います。

------ 以下の参考URLより ------
Neff (質問者):映画はイエスの受難をみごとにあらわしています。また、あなたは、ある程度、イエスの受難の意味を示唆しようとしています。しかし、そういった意味を伝えるうえで、映画の限界はどういったものだと思いますか?

(メルギブソン):映画というのは、私は、直感的なものだと思う。それは、観る者を引き込み、論理的には説明のできない感情レベルで経験をもたらす力がある。しかしそれだけではなく、映画は、観た者がさらにその先にあるものへと目を向けたくなるような、あるイメージとか、経験とか、感情とか、そういった余韻を残すだろう。それがすべてであって、映画というのはただのきっかけなんだ。
--------------------------------

メルギブソンは、映画を作るうえで聖書の記述に非常に注意を払っていた様子が伺えます。直接の答えではないのですが、No.6の方が書いていらっしゃるように、ご自分で聖書をお読みになってはいかがでしょうか?聖書を入手する方法、あるいはどのように読んだらよいかについては、新たに質問されてもよいのではないかと思います。

参考URL:http://www.christianitytoday.com/movies/interviews/melgibson.html

投稿日時 - 2005-02-13 03:42:05

ANo.10

日本には八百万(やおよろず)の神といってたくさんの神々があるといわれていますが、日本人が神ということばを使ったときには、あまりにも神という概念がばらばらです。

もし、神が本当に存在するならそれは人間が造った神ではなく、もともと存在し(だれかが造ったものならそれは神ではありません。)天地万物を創造し、無から有を作り出せるからこそ神なのです。神は唯一(ただひとり)であり何でも出来る方ですからたくさん存在する必要はなく、すべてのことを知っておられ、どこにでも存在され、正しいお方で、完全な聖さをもっておられ、義なるお方で永遠から永遠に存在される愛なるお方です。

このことをまず知っておいてください。

神様は最初にアダムという男性を創造し、次にエバという女性を造りました。その時は人間に罪は全くありませんでした。

神様は、最初アダムとエバをエデンの園という庭に住まわせていました。どんなことをしてもよかったのですが、たった一つだけ「この園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはならない」という命令をだしました。それは、人間をロボットに造らなかったという証拠でもありました。つまり、人間に自由意志を与え、人間との間に愛を存在させたかったのです。

しかし、悪魔に化けたへびに誘惑されたアダムとエバはその命令を破り、その木の実を取って食べてしまいました。そのために人間は罪人となりエデンの園を追放され、人間は必ず死ななければならなくなってしまいました。

これがキリスト教でいう人間が原罪をもって生まれてくる理由です。この原罪というのは、人を殺すとかお金を盗むなどの警察に捕まってしまうような罪だけをいうのではなく、心の中で「あいつなんていなければいい」とか、「あいつなんて死んでしまえばいい」などど思うこともその罪に含まれます。うそをつくことも罪です。つまり、人間として生まれたならばすべての人間が罪人であると宣告されているのです。

しかし神様は、きよい正しいお方であり義なるお方ですから、その人間の罪を罪として罰しなければならないのです。

その結果、すべての人間は地獄に投げ入れられてしまうはずでした。

しかし、人間を愛している神はその地獄に投げ入れてしまう人間を救う道を開いたのです。

その方法は人間に「いい人間になりなさい」「修行をして罪のない人間になりなさい」
「いいことをたくさんしなさい」という命令を出すことではありませんでした。そんな命令を出したところで人間は修行やいい行いをたくさんすることによっては罪のない人間になることは不可能だということを知っていたからです。

そこで、神は自分のひとり子であるイエスキリストをこの地上に誕生させ、全人類のすべての人間の罪の刑罰を負わせて十字架にかけて死なせ3日後に復活させることにより人間のすべての罪を完全に赦し天国へ連れて行く道を開いたのです。

イエスキリストは何の罪も犯さず一回もウソを言ったこともありませんでした。

十字架にかかって殺されようとしたときにイエスキリストは自分が無実であることを叫びませんでした。

ほふり場に引かれていく子羊のように何も言わず、自分がかかる十字架をかついで処刑されるべき場所へと歩いていき、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈りました。

私たち人間は無実で十字架にかけられているときに、自分を殺そうとしている人に対してこのように言うことはできません。

しかしイエスキリストはそのように言って十字架の上で息を引き取りました。しかし3日目に復活しました。

それは、イエスキリストが神のひとり子であったという証拠です。3日後に復活したのも彼が神のひとり子であったからできたことなのです。

イエスキリストは私たちを命をかけて愛し私たち人間の罪の刑罰を身に受けて十字架にかかって死に天国への道を開いてくださったのです。

そのことを自分のこととして信じる者はすべての罪を赦され天国へ行けます。しかし信じないものはその罪が裁かれ地獄へ行かなければなりません。クリスチャンはイエスキリストの道徳的な教えを信じているのではなく、十字架と復活を信じているのです。

イエスキリストの十字架と復活がなければキリスト教は存在しませんでした。

このことはすべて聖書に書かれています。

聖書は毎年毎年世界中の多くの国の人々に読まれ何年たっても世界のベストセラーです。しかしクリスチャンと同様、聖書ほど迫害を受けてきた書物はありません。ローマ時代の初期には王がクリスチャンを迫害して殺してしまうと同時に聖書も全部焼き払えという命令が出され聖書は全部焼かれてしまいました。

しかしどんなに人間がクリスチャンを迫害し殺しても聖書を焼き払ってもクリスチャンはこの世界からいなくなることはなかったし、聖書もこの世界からなくなることは決してなかったどころか世界中のほとんどの言語に翻訳され読まれ本当の救いと喜びと希望を与え続けているのです。

参考URL:http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8610/

投稿日時 - 2005-02-12 16:00:02

ANo.9

歴史的に言えば、イエスが磔刑に処されたのは、ローマ帝国当局に政治犯として処刑されたということです。磔刑(十字架にはりつける死刑)は、古代ローマではイエスの時代よりも前から行われていた残虐な死刑の形式の一つでした。奴隷スパルタクスの反乱では、スパルタクスはじめ数千人の叛徒が磔刑に処せられたとされますが、これはイエスより百年も前の話。ナザレのイエスも、当時の最高権力ローマ帝国の刑罰により死刑になったのわけです。この辺が福音書では曖昧に書かれていますが、これは、初期のキリスト教団が、ローマ帝国批判を避けるためにぼかした疑いが濃厚の部分です。

イエスの死後成立したキリスト教は、教祖の死刑という普通なら教団の恥辱となる事件を、逆に宗教的に意味付けし、教祖が処刑される姿とそれに使われた処刑具を神聖視するという、ある意味でひじょうに変わった宗教的シンボルを持つようになりました。
でも、古代ローマ時代に十字架にかけられて死んだ人は何万人もいたわけですね。

投稿日時 - 2005-02-12 10:52:43

ANo.8

「その本当の意味」というのは曖昧ですが、今の解釈はパウロの「全人類の罪を十字架で背負った」ということになります。
 それまでユダヤ教は、神と人間との契約関係で、エデンでの原罪を負っていて、人間は、これこれの戒律を守りますから、これこれをしてください、というものだったのですが、十字架でそれらの契約も原罪も全て背負うことで人間は罪のない自由な人となったということです。

投稿日時 - 2005-02-12 10:25:44

ANo.7

まずクリスチャン一人一人違いますので正解というのはないと思います。ただ
下のようなHPがうまく表現していると思います。

ことばではうまく言えないのですが、かわいそうというのとは全然違うのです。

このときumiyamakawa様はどのように思ったのでしょうか?(質問してごめんね)

参考URL:http://bible-room.org/seisho%2Dnyumon/gospel/

投稿日時 - 2005-02-12 10:19:57

ANo.6

はじめまして。

あなたがパッションをご覧になったこと、そして、イエス・キリストの十字架の意味を知りたいと思うようになったこと、神さまがあなたをそのように導いておられるのだと思います。メル・ギブソン監督は、まさにそのキリストの十字架の意味を伝えるために、それが事実であるがゆえにあえて目をそむけたくなるような残酷なシーンを、イエス・キリストの最後の12時間として映画にしたのです。

イエス・キリストはなぜ十字架で死ななければならなかったのか。
それは、「神さまは、あなたを、イエス・キリストのいのちとひきかえにしても惜しくないと思うほどに、愛しておられるから」です。
あなたを、本当に大切な、尊い存在として愛しておられるからです。
キリストの十字架は、他ならぬあなたのため、実は、あなたが本当ならば、あの十字架で処刑されなければならなかった。でも、何の罪もないイエス・キリストは、あなたを愛しておられるので、あなたの身代わりにあの十字架の苦しみを受けて下さったのです。

おそらく、2000年近く前のあの十字架と、今の自分と、何の関係があるのか、とお思いになることでしょう。上の説明も、何の説明にもなっていない、と思われることと思います。もっとたくさんのことを説明することももちろんできるのですが、ぜひ、世界のベストセラーと言われる聖書を読むことをおすすめいたします。そしてちょっと敷居が高く感じられるかもしれませんが、勇気を出して、ぜひお近くのキリスト教会へ行ってみて下さいませんか。そこには、このキリストを私の救い主と信じて生きている、クリスチャンの方々が集まっています。クリスチャンと言っても本当にいろんな方がおられますが、それぞれ、人生のある時、イエス・キリストを自分の人生の主として心に受け入れ、十字架で死なれたイエスを救い主と信じて生きると決めたのです。その方々とふれあうことは、イエス・キリストというお方を知るために、とても助けになると思います。

あなたは今、とても大切な問いを持っておられます。そしてそれは、あなたのこれからの人生にとって、大きな意味を持っていると思います。「なぜキリストは、十字架で死ななければならなかったのか」いろんな方が、いろんな言葉で説明してくれるかもしれません。でも、その問いを、イエス・キリストご自身にぶつけてみてはいかがでしょう。「十字架の意味を教えて下さい」と、祈ってみて下さい。パッションは、十字架の死の場面で終わってはいませんでした。イエス・キリストは、死んで終わりではなく、復活されたのです。そして今も生きておられる神さまです。私たちはこのお方から、真実の愛、ゆるし、いやしを受けることができます。あなたに「キリスト教」という宗教を押し付けるつもりはありませんが(そう感じられたとしたらごめんなさい)、ぜひこの問いを持ち続けて、納得のいく答えをイエスさまご自身からいただくことができますように、神さまが導いて下さいますようにと、祈らせていただきます。

投稿日時 - 2005-02-11 22:18:28

ANo.5

その先に光は見えたのだろうか.....

投稿日時 - 2005-02-11 17:42:53

ANo.4

処刑における十字架という象徴性の意味は解りませんが

“左の頬をぶたれたら右の頬を出しなさい”
どこまでも相手を憎んだり,恨んだりしてはいけない.
相手への愛を思いなさい.
それが人間同士お互い仲良く暮らしていく方法だ,といいます.

実際,人と会っていて相手がぶっきらぼうに,不機嫌そうにしていても
こちらの方で“何かあったのかな”などと相手のことを思いながら接していると
いつの間にか別れ際には笑顔を返されたりして“あれ?”と思うことがある.

それを例え“死”に追い詰められても貫き通さなければならなかった.
途中から切り替えるということはできなかった.
それを知らしめなければならなかった.
そして“神を試すな”ともいいます.

疑い,知ろうとして,どこまでも試そうとするが故に
“死”にまで至らせてしまう人間性に対する警告.

ωαを求め,虐げられてもその相手を愛せといい,人々を幸せに導こうとした教えも
自らを神のごとき位置に置く権威,権力者達に悪用されてしまう結果となっていく.

人々を幸せに導く為の“知”が,神に属するものでもあり,悪魔にも使うことができるものであるという,二面性を持つことによって.

“自らが一番下の者のようにありなさい”と教えているのに
“この中で誰が一番の弟子か”と問い,それにこだわるような者たちによって.

民衆を支配し搾取していくのにとても利用価値が高かった.
そして今でもそれは,そうあり続けている.


処刑の間際で“もっと光を...”と呟いたといわれているが
自分の伝えようとしたことが,悪用される可能性があることに気が付いたからであろうか.

投稿日時 - 2005-02-11 14:48:50

ANo.3

初期のキリスト教は十字架をシンボルとはしていなかったと記憶しています。

十字架に意味があるから、貼り付けになったのではないでしょう。
もともと罪人を見せしめにするのに十字架を使っていたと思います。
日本で言えば打ち首にして晒すのと同じですね。

後世の人がキリストが殺されたことを忘れないために、
処刑の道具であった十字架をシンボルにすえたのだと思います。

投稿日時 - 2005-02-11 12:29:18

ANo.2

監督は俳優のメル・ギブソンで、彼は敬虔なカソリックの信者です。
もし彼が女ならこういう映画は作らなかったかもしれません。


イエスの背景からいくと、元を同じとするイスラム教もそうですが、この世界は男性を中心に動いています。
男性が主で女性は男性と家畜の中間のような立場です。
その男性に生まれたイエスは父親がいませんでした。
この社会で父親がいない事は一人の男として認められませんでした。
彼は大変な差別とともすれば自信喪失と存在の否定にさらされていたのではないかと思います。
最初から女性に生まれていればこんな自分を追い詰めるようなことにはならなかったと思います。


あの当時ライ病などになった人は神に罰せられた人という認識でした。
彼らは人里離れ孤独と痛みの中で生活をしていました。
イエスと同じような状況でした。
イエスは誰よりもその苦しさがわかったので、彼らを慰めにいきました。
休息日であっても行きました。
ユダヤ教では休息日には何もやってはいけませんでした。
その絶対の社会の掟 つまり 秩序をイエスは破りました。
正当化の理由は今までのその社会の秩序は神の意思とは違うからとしました。

この思想は神の秩序を伝えてきて市民に守らせてきた司祭や律法学者の立場を危うくしました。
それでなんとかイエスをはめようと色々問答をしている内に、彼が神の子であるかのような言い方をしたんです。
司祭や律法学者にとっては人間ごときが神の子であるなんて神への愚弄もいいところです。

それで司祭はこのことを理由にイエスをしょっぴいて、いきました。
その当時あの土地はローマに侵略されていたので、勝手に罪人を殺してはいけないことになっていました。

それで統治者のポンテオ・ピラトの元に朝っぱらからイエスを連れていって、もっともだと思えることでイエスを罪人として裁くようにいいました。

ピラトはいくつかイエスと問答をして司祭たちの茶番だと見抜きました。
しかし収まりがつかないので、ヘロデ王に判断をまかせようとイエスをヘロデの元に連れていかせました。
ヘロデは問答をして「この人は罪人ではなく狂人だ」と言ってピラトの元に送り返しました。

ピラトは責任をまた押付けられ、困ってしまいました。
その当時民衆は民族独立気運がとっても高まっており(過ぎ越しの祭りが近いから)、ちょっと間違うと民衆が暴動を起こす恐れがあり、今の兵力では鎮圧するのは難しかったからです。
鎮圧に失敗すればピラトは失脚します。

そこでイエスを騒ぎを起した人として鞭打ちの刑にするように指示しました。
それで鞭打ちされました。
ところが司祭はイエスを解放してしまっては困ります。
まだ自分の地位を危うくする危険因子はこの世に存在することになり怯え続けなければなりません。

司祭は彼に死をと言いました。
馬鹿な これごときで死刑にはできない とピラトは司祭たちの理性に働きかけました。

「今捉えられて獄中にいるイエス・バラバとこのイエス どちらが死に値する罪があるのだ」(問うまでもないだろう)
ところが司祭は民衆を煽って「この男に死を」と言いました。
もうピラトには選択肢はありません。
「この前代未聞の間違いは自分ではなくお前らがやったんだ」としてイエスを処刑することを承諾しました。

その当時ユダヤ教では石を投げて殺すのが処刑だったようですが、統治者がローマなのでローマ方式の処刑 つまり磔となりました。

これは即死ではなくじわじわと殺す残酷なやり方で、それを見た民衆に無言の圧力をかける働きがありました。


イエスは幻の父親を憎むより、愛することで つまり神として尊ぶことで苦痛を幸福に変えることができることを発見し実践してきました。
人を憎んでいては地獄です。 自分にひどいしうちをした人を憎まず愛し尊ぶことは天国です。
イエスは幻の父親を神とたとえいつしか神の思え、それで力強く不運にもめげないようにしました。
しかし 死が近づくにつれ、その決意がゆるぎます。
「お父さん どうして私を捨てたんですか あなたさえいればわたしは・・・」

これでは逆戻りです。
自分に苦痛を与える人を憎んでは何の救いもない。

「彼らは自分達がやっていることを知らないんです。でもわたしはわかったのであなたのことは恨みません。だからもう苦しくありません」

「あなたに身をまかせられ幸福です」


こうやって彼の一生は終りました。

その後、イエスを捨てた信者は自分を責め続け地獄に陥りました。
その後 復活劇がありますが、これは心理的な復活であって、物理的な復活ではないようです。

しかし、その心理的な復活が幾人かに起こり、後は伝道が始まり、イエスの思想とはちょっと違うけど宗教がはじまり、イエスの死後、信者の思想を軸にキリスト教は始まりました。

キリスト教の十字架は原罪を忘れるなって戒めのようなものだと思います。
おごった気持ちになったその時、高飛車になり人を蹴落とそうとしたと思ったとき、十字架の戒めにより、平常心を取り戻す作用があるのではないかと思います。

イエスを捨てた信者が基本に帰る時、イエスの処刑を思い出すかのように。
イエスを自分は見捨てたことを思い出し、おごらないように。
人が弱いことを実体験で知った気持ちを忘れず、おごった人を批判せず、罪のある人を見下さないように。許すように。
自分が許されるには 他人を許さなければならない。
これは片方では完成せず、両方があって完成する。


こんなことだと思います。

投稿日時 - 2005-02-11 12:25:15

ANo.1

キリスト信者ではないのですが下記のサイトを見つけたので・・・・

「私たちの罪の罰を身代わりにイエス・キリストが受けて下さいました」

また、自分勝手な解釈ですが
そのイエスキリストに感謝しましょう。
また罪を犯したならば身代わりの象徴である十字架に懺悔し、許しを請う。
ではないでしょうか?(違ってたらごめんなさい;;)

参考URL:http://www.mars.dti.ne.jp/~at-grace/gospel7.html

投稿日時 - 2005-02-11 11:49:54

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