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解決済みの質問

鎖国 オランダ

江戸時代、鎖国の中、なぜオランダだけが国交を許されたのでしょう?。

投稿日時 - 2016-01-15 00:06:54

QNo.9111471

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

No.3・9・10です
お礼を記入頂きありがとうございます。
お礼に追加のご質問がありました。

>アムステルダム港を各国が使ってたというのは現代でもスキポール空港が欧州のハブ空港として存在するのと全く同じではありませんか。
現在のハブ空港とは多少といいますか基本的に性格が異なります。
「国」という概念が現在と違うのと同じです。
この当時の自由港というのは誰も統治していない港という意味です。
お互い勝手に使っていたということです。
当時、国の領域と言われているのは、その地域の税を誰が徴収するか、いうことだけです。
アムステルダムはスペインの領地とされていましたが、現代のような統治をしていたわけではありません。
税の増収をはかるために港を整備するという考え方です。
港の設備の所有権がどうのこうのという現代的な感覚とは違います。
スペインに税を納めるのは嫌だと言いだしたのがオランダ国独立の発端です。
蛇足
商船の後部甲板の広さに応じて税を徴収していました。
ガレオン船の後部の甲板が狭くなっているのはこれへの対抗処置でした。
オランダ船というのは内陸部の河川と共用していましたので、喫水が浅く甲板が広いという特徴があり、スペインなどの外洋船向けの税法上不利でした。
こんなことも不満が鬱積する原因の一つでしょう。

>海賊行為については、私の想像では「稀にそんなこともある」というレベルではないのでしょうか?。
稀ではありませんでした。
広い大西洋やインド洋で当も無く標的の船を探すというような、マグロ漁のようなやりかたはしていませんでした。
私掠船が最も活躍したのは、カリブ海(現在のキューバ周辺)でした。
主な標的はスペイン船です。
スペイン船が中南米から持ち帰る荷物を狙いました。
(金銀、真珠、香辛料砂、砂糖、染料etc)
スペイン船はベラクルス、カルタヘナの港から出航していました。
カリブ海から大西洋へ出る航路は限られていました。
必ず陸地に挟まれた海峡を通る必要があります。
(フロリダ海峡、ユカタン海峡、ビエント海峡、モナ海峡)
このいずれかで待ち構えればいいだけです。

一方ヨーロッパ周辺では、アムステルダムへ入港するにはドーバー海峡を通ります。
バルセロナなど地中海沿岸に入港するにはジブラルタル海峡を通ります。

スペインも船団を組んだり護衛の軍艦をつけますが手が回りません。
とくに戦争が勃発すれば軍艦はそちらへ回されます。
私掠船を多数抱えていたのはイギリスとオランダでした。

まぁ~マストの上から水平線上の標的船の帆を目視で探しますので発見される頻度は確かに高くはなかったでしょう。
とはいえ、大西洋上よりははるかに高確率です。

見つけても風次第です。
帆船時代の海戦はお互いに風上へ回り込むために数日から時にはひと月もお互いにグルグル回っていました。
こんなこともあり商船にとっては賭けです。
海賊に出会うのも暴風に会うのも同じようなものでした。
腕と度胸頼りの単独行動が当たり前でした。

当時の航海は投資でした。
金主を募って船を仕立て、無事帰港すれば、その積荷を配当として受け取りました。
船長の腕にすべてがかかっていました。
航海が成功すれば船長には莫大な金が入りました。
船員も私物として一定重量の物を持ち帰ることが認められていました。
少量で多額の金額になる香辛料を持ち帰りました。
これを組織化したのが東インド会社です。

>戦争に弱いというわけですね?。
弱い訳ではありません。
イギリスやスペインを相手にして何度も勝っています。
現代のように全面戦争ではありませんから、戦闘が終結すれば終わりの時代でした。
日露戦争や日清戦争で日本が勝ってもロシアや清が潰れなかったのと同じようなものです。
特に、イギリスとの戦争は海戦でした。
船団どうしの対決でした。
船を消耗してしまえば交易が不能になりますのでお互いに必死です。
オランダはイギリスの他に スペインやフランスとの地上戦も強いられていました。
戦争による国力の消耗という意味ではイギリスよりも不利でした。

投稿日時 - 2016-01-19 11:59:57

お礼

ありがとうございます。ガレオン船の税の話はアムステルダムの運河面の間口の広さ税に似てますね。なので家屋がうなぎの寝床様になり、アンネの隠し部屋が見つかりづらくなった。
なるほど、考えてみれば海賊は攻撃側からすると海峡狙いであれば効率的に貴重な物資が満載されたものを強奪出来るわけですね。
現代でもソマリアでは組織的な海賊があるらしい。
イギリスは孤島であることがオランダより有利なんですね。

投稿日時 - 2016-01-30 11:46:03

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回答(11)

ANo.10

No.3・9です
わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。

お礼に追加のご質問がありました。
>オランダは魅力のない日本にも来た「物好き」ということになるでしょうか?。
植民地として魅力がないということです。
ポルトガルがオランダよりも遥かに前に日本を知っていたことに注意して下さい。
(現在もリスボンには日本発見という碑が建っています。)
「物好き」というよりも商機ありと見たのでしょう。
オランダの視点が他の国と異なっていたのはオランダの歴史が深く関与しています。
詳細は割愛しますが、オランダ東インド会社という組織の方が政治的なオランダ国よりも早く出来ていた国です。
当時のアムステルダムはヨーロッパ随一の国際港でした。
各国が自由に使用していました。
東インド会社というのは現在の総合商社が武装していたような組織です。
商品を仕入れる一方で他国の商船を襲って荷物を略奪するということが当たり前のことでした。
国が海賊船と契約していた時代です。(私掠船と呼ばれます)
自国の産品を輸出するという考え方とは根本的に違います。

オランダ東インド会社はバタビア(現在のジャカルタ)を拠点としていました。
徳川幕府が渡航を禁止するまでは、日本の商船も出入りしていました。
日本の商人とは非常に早い時期から接触していて豊富な銀を持っている国であることは知っていました。
この銀を入手するために、中国船から仕入れて日本へ売りつけることを考えるのは商人としては自然な発想でしょう。
競争相手のポルトガルはマカオに拠点を持っていました。
スペインはマニラに拠点を持っていました。
スペインやポルトガルはカトリック国で教会が強大な権力を持っていて布教に熱心でした。
布教などは商社であるオランダ東インド会社にとっては無関心です。
カトリック教会の影響を排除する宗教改革運動の後押しもしていました。
あれやこれやで新たに日本の盟主となった徳川氏に接近するのはポルトガルとスペインを出し抜く好機と考えたのでしょう。

>国力としてどこが違いだったのでしょうか?。
違いというよりもオランダの国力が衰退していったということです。
イギリスが勃興するまでは、互角で度々戦火を交えていました。
イギリスが力を付けるとともにヨーロッパの交易の中心がアムステルダムからロンドンへ移行していったことも大きく影響しています。
オランダは嘗ての宗主国であるスペインとの小競り合いが続き隣国のフランスとも度々戦火を交えていました。
18世紀にはフランスに占領されて独立国家としてのオランダが消滅したことがあります。
注)オランダとして一括して説明していますが、オランダは度々領域や国名が変わったきた国です。
現在のオランダの領域もご質問の時期とでは異なっています。
現在もオランダはオランダ王国の一部とされていて厳密にはヨーロッパオランダと呼ばれています。

蛇足
オランダとかスペインなどと国として区分して考えていますが、ご質問当時は現在の「国」とは様相が違います。
むしろ王朝とでも言った方がイメージとしては合っているでしょう。
現在のオランダを含むネーデルランド地方というのは支配権を持つ王朝が度々入れ替わっていますので、現在の国のイメージで考えますと混乱します。
国としてのオランダよりもオランダ東インド会社という組織の方が早かったというのもこれが原因です。

帆船時代は船を襲って強奪すると言うのは日常的なことでした。
洋式帆船(ガレオン船)が商船であれなんであれやたらに大砲を搭載しているのはこのためです。
自分が現地で仕入れてきたものか、他の船から強奪したものか、などということにお構いなく、陸揚げして売りさばいていました。
強奪を主な生業とする連中は、一定の金を払うことで寄港地での安全を保証されていました。
この寄港の安全を王朝が保証したものを私掠船と呼んでいました。
各王朝(国)がそれぞれ私掠船を持っていました。

室町時代から戦国時代にかけての時期には多数の日本の商船が東南アジアに進出していました。
日章旗もこの商船の識別旗でした。
日章旗が法律上国旗となったのは平成11年です。
それまでは習慣的なものであり、法律上は船舶の識別旗でした。

投稿日時 - 2016-01-18 13:50:09

お礼

ありがとうございます。
「植民地として魅力がない」つまり、

オランダは「商社」
それ以外は「征服者」

ということでしょうか。

オランダには、国境にこだわらない特性を感じます。ハイネケンやフィリップスには、オランダの特色がありません。それこそがオランダ色。イギリスやフランスやドイツの企業には国家の誇りのような色がついてます。
また、おっしゃるようにアムステルダム港を各国が使ってたというのは現代でもスキポール空港が欧州のハブ空港として存在するのと全く同じではありめせんか。
海賊行為については、私の想像では「稀にそんなこともある」というレベルではないのでしょうか?。なぜなら略奪行為の方が遥かに面倒だし、そもそもマグロ漁のようなもので、当てにならない。それよりも確実な上客といい仕入先との良好な関係にこそベネフィットがあると思えます。ま、いいのですが。
オランダは商売の才はあるが、戦争に弱いというわけですね?。

投稿日時 - 2016-01-18 21:24:50

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No.3です
わあわざお礼を記入頂きありがとうございます。
お礼に追加のご質問がありました。

>ではその3国以外はどうだったのでしょうか?。
日本の織豊時代から徳川幕府成立時期の16世紀末~17世紀というのはヨーロッパも戦乱が続いていた時期でした。
とくにイギリスは新興国としてスペインと対峙していました。
イギリスがスペインの艦隊を撃破したのは1588年です。
イギリスがインド洋以東へ進出するようになったのはこれ以降です。
オランダをインドから駆逐したのが1661年です。
以降インドの植民地化に勢力をつぎ込んでいました。
当時の最大の交易品はインド産の木綿でした。
幕末のアヘン戦争はこの木綿の交易に必要な銀を中国から手に入れるためにアヘンを売りつけたのが発端です。
インドよりも遥かに遠く木綿を産出しない日本には興味はありませんでした。

フランスのブルボン王朝が成立したのが1589年です。
ヨーロッパの内部で地歩を固めるのに専心していました。数々の戦乱を引き起こしていました。
海外への進出を初めたのは1605年以降です。
アメリカ大陸とアフリカ大陸が主体でした
東アジアへ向かうのは18世紀に入ってからです。
アメリカは当時はイギリスやフランスの植民地でした。

尚、オランダが日本との交易品としていたのは中国産の絹でした。
日本は明治に入るまで絹の輸入国でした。
当時日本は世界有数の銀の産出国でした。
オランダは日本の銀を獲得するために中国産の絹を取り扱っていました。
中国船は漢方藥の素材と火縄銃に使う硝石が主な交易品でした。
戦国時代に必要不可欠な火薬の主原料である硝石は全て輸入品でした。
中国船が好んだのは日本刀でした。
諸外国から見た場合、当時の日本の魅力は銀と日本刀だけした。

木綿や絹の主要産出地でもなく、香辛料や砂糖、コーヒーなども産出しない島嶼国で耕地も少ない日本は植民地としての魅力に欠けていました。
イエズス会の宣教師からの報告でも、教養があり統治が行き届き、ヨーロッパの騎士に相当する武士が支配していて一筋縄ではいかない国であることは承知していました。
はるばるインド洋を越えて植民地とする魅力が無い上に戦闘を覚悟する必要がある国よりも身近に幾らでも土地(インドや東南アジア諸国)があったということです。

投稿日時 - 2016-01-16 12:03:29

お礼

ありがとうございます。ということはオランダは魅力のない日本にも来た「物好き」ということになるでしょうか?。
また、結局、イギリスがオランダの勢力圏を横取りというか塗り替えたのは、国力としてどこが違いだったのでしょうか?。

投稿日時 - 2016-01-17 19:41:56

ANo.8

MONKEYMONKEY さん、こんばんは。

それはカトリックと違って、プロテスタントの国なので、必ずしも宗教の布教をしなくてもよいという合理的な思想を持った国だから、幕府も国交を許可しました。

投稿日時 - 2016-01-15 19:26:20

お礼

ありがとうございます。
他のプロテスタントの国も気になります。

投稿日時 - 2016-01-15 22:10:01

ANo.7

島原の乱で幕府側に味方したからです。

当時ポルトガルとオランダは戦争状態でポルトガルを排斥し、ヨーロッパにおける対日本交易を独占したいという思惑があったようです。
ちなみに対するポルトガルは一揆軍に味方をする予定だったそうですが、実現できなかったそうです。

投稿日時 - 2016-01-15 15:46:53

お礼

ありがとうございます。
そうなんですね。経済的、兵器的援助でしょうか?。

投稿日時 - 2016-01-15 22:08:56

ANo.6

江戸時代に国レベルで付き合いがあったのは,対馬藩を通した朝鮮と,薩摩藩を通した琉球だけです。これらの国からは通信使あるいは謝恩使・慶賀使が派遣されてきました。これらの費用は幕府が負担していました。
それ以外には松前藩を通してアイヌとの交易がありましたが,アイヌには独自の政府はないという位置づけです。
さて,長崎で行われていたのは国交ではなく,民間レベルでの通商です。ここではオランダと中国(明)の商人が来ましたが,国としての付き合いはありません。オランダ人と中国人の滞在費用などすべての費用はすべて本人の負担です。
なお,なぜヨーロッパ人の中でオランダ人の長崎入港が認められたかは,他の人が解説していますから省略します。

投稿日時 - 2016-01-15 14:55:56

お礼

ありがとうございます。
よくわかりました。

投稿日時 - 2016-01-15 22:07:20

ANo.5

簡単に言うとオランダとだけは外交のチャンネルを持ってたからです
ウイリアム・アダムス(三浦按人)が橋渡し役になったおかげです
彼はオランダと交渉が出来たので自然と鎖国前から日本はオランダとは国交を持てた
そのまま鎖国に入ってもオランダとの窓口は閉じなかった

投稿日時 - 2016-01-15 13:31:40

お礼

ありがとうございます。慣れ親しんだ特権という事でしょうか?。

投稿日時 - 2016-01-15 22:05:56

ANo.4

布教活動をするのはカトリックだけだから、と
オランダが日本説得に成功したからです。

ルターの宗教改革により、プロテスタントが登場し
カトリックは大幅に信者を減らしました。

それでカトリックは、精鋭を海外に送り込み、信者
獲得に乗り出したのです。

そのため、欧米以外のキリスト教は多くがカトリックに
なりました。
戦国時代に来日したイエズス会もカトリックです。

オランダはそういうことを説明し、説得に
成功したのです。

投稿日時 - 2016-01-15 12:33:58

お礼

ありがとうございます。本国でのシェアを海外で補うとは、まるで現代の企業の話のようですね。
オランダまではわかりましたが、イギリス、アメリカなどはどうだったのでしょうか?。

投稿日時 - 2016-01-15 22:03:49

オランダが交易を認められたのはオランダの歴史とスペイン、ポルトガルの植民地獲得手法の二つが原因です。
オランダは宗教改革を後押しする交易商人が主体となってスペインからの独立を獲得した国でした。
一方スペインやポルトガルはカトリック教会が布教をする際に宣教師の身の安全と布教の自由を確保するために相手国の法の支配が及ばない地域の確保を求めました。
この治外法権の領域を拡大し、結果として相手国の全土を治外法権化して最終的に植民地化していました。
カトリック教会の中でもイエズス会は急進的な宗派で軍事組織も保有していました。

当時、現在の長崎県の地域は農耕とくに米作に適した地域が少ないことから、現地の戦国大名は交易に財源を求めていました。
莫大な利益をもたらすスペインやポルトガル商船の誘致合戦を繰り広げていました。
その一環として大村氏がイエズス会に長崎の地を提供していました。
九州を支配下に置こうとしていた秀吉にとって宗教教団に治外法権がある都市なぞ認める訳にはいきません。
イエズス会が治外法権を楯に長崎の寺院の破壊活動を行ったり、秀吉の眼前で砲艦による示威行動を行ったりしたことから逆鱗に触れバテレンすなわち宣教師の追放令を出し、従わない宣教師を処刑しました。
秀吉も交易がもたらす富に着目していましたから、布教活動をしない交易行為は認めていました。
徳川氏の時代になってもこの方針は引き継がれました。
一方イエズス会は布教をあきらめずに、ゲリラ的な布教活動を続けていました。
信徒が増えて信長時代の一向宗のような政治集団になることを畏れた徳川幕府は再三禁止令を出し、一般人の外国との接触を禁ずるようになりました。
商船の入港も長崎に限定しました。
(この一連の法処置を総称して鎖国令と言っていますが、法令として独立した鎖国令というのは存在していません)

この幕府の動きに対して、新興国であったオランダはポルトガルやスペインを日本市場から駆逐する好機と捉え徳川氏(幕府)に急接近しました。
元々カトリックの布教などに興味はありませんから徳川氏(幕府)と利害が一致し、最終的に幕府と二人三脚で交易を独占することになりました。
平戸に置かれていた商館も商館というようにオランダ政府の出先機関ではなくオランダの国営会社であるオランダ東インド会社のいわば日本支店でした。

蛇足
正確にいいますと「鎖国」をしていた訳ではありません。
江戸幕府が交易や情報を独占していただけです。
従って「鎖国」という言葉も交易を認められていなかった薩長が主体となった明治以降に一般に使われるようになった言葉です。

交易先はオランダだけではなく中国の商船の入港も認めていました。
朝鮮王朝とは対馬藩の宗氏を窓口として接触していました。
結果として将軍が交代する度に朝鮮王朝からのお祝いの使節(朝鮮通信使)が来朝していました。
幕府側から使節を送ることはありませんでした。
朝鮮側も家臣として来訪しない以上は入国を認めませんでした。
間に立った宗氏は四苦八苦していたようです。

純然たる鎖国をしていたのは中国と朝鮮です。
従って日本に入港する中国商船は中国(清)に言わせれば密貿易船ということになりました。
中国や朝鮮は朝貢貿易が基本でした。
家臣として貢物を持って来たのに対して皇帝が御褒美を下賜するという形式です。
周辺国の国王が中国や朝鮮王朝に対して家臣として頭を下げさせることが目的であって交易が目的ではありませんでした。
国王が頭を下げない限り入国を認めないということです。

投稿日時 - 2016-01-15 11:46:08

お礼

ありがとうございます。すごくよくわかりました。つまり、オランダが選ばれたというより、スペインとポルトガルという先行国に対して、後進国のオランダが「出し抜いた」ような格好ですね。
米作に適してない長崎が貿易に財源を求めるとはリアリティのある話ですね。ではその3国以外はどうだったのでしょうか?。イギリスとかアメリカとか。

投稿日時 - 2016-01-15 22:01:06

ANo.2

海外情報収集のため(この他、朝鮮経由でも情報を収集
していた)。

ペリー来航は(オランダからの情報により)来る前から
知っていた。

投稿日時 - 2016-01-15 08:25:03

お礼

ありがとうございます。なぜ、オランダを選んだのでしょう?。

投稿日時 - 2016-01-15 21:48:00

ANo.1

宗教を持って来ない、幕府を尊重する、交易(商売)だけの付き合いが確認できたから。

投稿日時 - 2016-01-15 01:00:49

お礼

ありがとうございます。なぜオランダだけそういう態度だったのでしょうかね?。

投稿日時 - 2016-01-15 21:46:43

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