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解決済みの質問

引揚者が故郷へ向かう、敗戦後の国鉄の運行状況。

南方からの引揚者の大半は、九州各地の港に帰国してきました。
Wiki「引揚者」によれば、
博多港(1,392,429人) 浦頭港(南風崎駅)(1,396,468人) 鹿児島港(360,924人) 門司港に
着いています。

九州から故郷へどのようにして帰ったのか、並大抵の苦労ではなかったでしょう。
質問です。
1.敗戦直後から1946年当時、九州から東京までは線路はつながっていたのですか。
鉄道橋は修復されていたのですか。
2.何百万人もの引揚者がやっとの思いで故郷にたどり着くまでの状況が分かるサイト(できれば体験談)を教えてください。
特に食事はどうしたのでしょうか。門司から京阪神まで、何時間かかったのでしょうか。
よろしくお願いします。

投稿日時 - 2015-08-16 20:21:37

QNo.9031386

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

1.敗戦直後から1946年当時、九州から東京までは線路はつながっていたのですか。
鉄道橋は修復されていたのですか。

 はい、つながっていました。1945年8月末、利用しましたが、関門海底トンネルは、開通しており、九州、本州はまだ蒸気機関車でしたが、海底区間の電化は健在でした。

2.何百万人もの引揚者がやっとの思いで故郷にたどり着くまでの状況が分かるサイト(できれば体験談)を教えてください。

 1945年当時は軍需品の関係で貨物列車が優先されており、旅客用の長距離列車は廃止されていたので、九州から本州まで熊本、鳥栖、博多、門司、と短距離列車の乗り継ぎでした。

 終戦後は、旧1•2等車は占領軍が使っていたので、日本人は背もたれが板張りの3等車にリュックサックなどの大荷物を窓から押しこんで乗り込むありさまでした。

 客車不足で引揚者の輸送には無蓋貨車なども使われ、牽引の機関車も木製の排煙板に、かまぼこ型の戦時型、台風シーズンはびしょ濡れで、九州を出るのに丸一日かかりました。

 下記などをお調べください。
  http://www.heiwakinen.jp/taisen/hikiage.html

投稿日時 - 2015-08-17 02:10:01

お礼

貴重な体験を書いて下さって真にありがとうございます。

>1945年8月末、利用しましたが、関門海底トンネルは、開通しており、
九州、本州はまだ蒸気機関車でしたが、海底区間の電化は健在でした。

>…九州から本州まで熊本、鳥栖、博多、門司、と短距離列車の乗り継ぎでした。
>…九州を出るのに丸一日かかりました。

様子がよく分かりました。
各駅停車で速度もノロノロ、「九州を出るのに丸一日」かかったのですね。
蒸気機関車と電気機関車を入れ替えるので、門司は、大混雑だったでしょう。


「背もたれが板張りの3等車」「無蓋貨車」は覚えています。
田舎の親戚へ米を貰いに行くときはいつも「無蓋貨車」でした。
「トム」とか「ト」の記号も覚えています。

投稿日時 - 2015-08-17 20:05:59

ANo.2

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回答(7)

ANo.7

 #2です。補足です。

>>長距離列車が無かったということですね。

 はい。全然無かったという訳ではなく、東京下関間の列車が一日一本という有様でした。まあ一般市民にとっては無いも同然でした。

>>機関士や機関助手の勤務を考慮すれば、日帰りできる距離内で個々の列車は運行されていたのかも知れません。

 当時は蒸気機関車の時代でした。空襲で発電所や送電施設の破壊による鉄道輸送の中断を怖れた軍部は鉄道電化に反対でした。

 後に新幹線となった「広軌」(実際は標準軌)弾丸列車の計画では静岡以西は蒸機が予定されていたのでも分かります。多分満鉄の「あじあ」の技術を活かしたかったのでしょう。

 したがって、当時は九州から京阪神は、関門海底トンネル区間を除いて非電化です。蒸気機関車は石炭と水の補給、点検給油が必要で、ぶっ続けには走れなかったこともあります。

投稿日時 - 2015-08-19 01:23:31

お礼

再度の丁寧なご回答ありがとうございます。

>蒸気機関車は石炭と水の補給、点検給油が必要で、ぶっ続けには走れなかったこともあります。

そうでした! 石炭と水の補給を忘れていました。
まともに動く機関車も少なく、給油するにも満足な油がない状況でした。

>空襲で発電所や送電施設の破壊による鉄道輸送の中断を怖れた軍部は鉄道電化に反対でした。

そういう事情もあったのですね。よく分かりました。

投稿日時 - 2015-08-19 19:58:45

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ANo.6

祖父母と母が満州の首都、新京からの引揚者です。
九州から東京まで鉄道は繋がってましたが、切符が入手困難だったとのこと。

祖父は南方への出征命令により(戦地に送られるはずのない軍属技術者まで、最後は戦況悪化に伴い南方戦線へ招集)満州から内地に戻り、原爆投下前日の長崎から鹿児島港へ。
そこで終戦を迎え、隊は現地解散になったものの、金銭を持っておらず
兵隊用の装備など手持ちの品を売ってお金に替えたそうです。鉄道は繋がっていたものの、
切符がなかなか手に入らず、九州に一ヶ月ほど滞在の後、東京の実家に帰還。

終戦直後、新京でも侵攻してきたソ連兵による日本人宅の襲撃が横行し
幼い母も町で拳銃を突きつけられたりして怖かったとのこと。
祖母は、満鉄の重役の娘さんからの情報をもとに引揚を決意。
貴重品を中国人に売り、軍属技術者だった祖父の軍服姿の写真が
家を襲撃に来た兵士に見つかると、家族が殺される危険があったため全て焼き捨て
地味な紬で母の人形を作って、札束を丸めて中へ隠し
曾祖母と幼い母を連れ引揚列車に乗り、船で佐世保へ帰国。
その後、九州の親戚宅に一ヶ月ほど居候。出征した祖父の無事がわかり、
入手困難だった切符を元国鉄勤務の親戚に融通してもらい、東京の祖父の実家へ。

鉄道の所要時間は不明。九州~東京間は親戚が食料を持たせてくれました。
引揚船での食事は、コーリャン、粟などの配給がちゃんとあったそうです。
祖母は出港前に、蓋付き鉄鍋でありったけ炊いたご飯に梅干しをたくさん入れて
そのまま持ち込み、家族でそれを船内で食べたとのこと。

当時5歳の母曰く、引揚の旅は大変だったとの思いはないそうです。
亡くなった祖母に引揚について、子供の頃に尋ねたことがありますが
軍属の家族として首都にいたので、大変ではなく、当時としては普通とのこと。

引揚に苦労した多くの人は、満州の地方に住んでいた開拓殖民の家族だそうです。
守ってくれるはずの関東軍がさっさと撤退し、侵攻してきたソ連軍からの襲撃がある中
引揚列車が出る都市まで辿り着くのに苦労された方が多かったようです。

投稿日時 - 2015-08-18 05:35:16

お礼

ご家族の体験談を書いて下さって真にありがとうございます。

>祖父母と母が満州の首都、新京からの引揚者です。
>九州から東京まで鉄道は繋がってましたが、切符が入手困難だったとのこと。

「故郷までの国鉄の切符」は、復員・解員者(軍人)については当局が用意して、優先的に扱ったと思います。
引揚者(民間人)は、個人で入手せねばならなかったのでしょうか。
入手困難だったのですね。
物凄い数の機関車、客車、貨車が爆撃でやられましたから、満足に列車を編成できなかったことが多く、民間人は後回しになったのでしょう。


>…原爆投下前日の長崎から鹿児島港へ。

まさに“危機一髪”!!

>そこで終戦を迎え、隊は現地解散になったものの、金銭を持っておらず
>兵隊用の装備など手持ちの品を売ってお金に替えたそうです。

現地解散ですか。
当局と掛け合うにも当局なるものも無力で、大混乱の様子が目に浮かびます。
カネもなく、“途方にくれる”とは、こんな状況を言うのでしょうね。


>九州~東京間は親戚が食料を持たせてくれました。
>引揚船での食事は、コーリャン、粟などの配給がちゃんとあったそうです。
>祖母は出港前に、蓋付き鉄鍋でありったけ炊いたご飯に梅干しをたくさん入れて
>そのまま持ち込み、家族でそれを船内で食べたとのこと。

様子がよく分かりました。大変、参考になりました。

投稿日時 - 2015-08-18 19:43:58

ANo.5

 #2です。補足です。

 下記の上巻には終戦時の時刻表などが出ているようです。
 http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%89%84%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E6%9C%AC%E3%80%88%E4%B8%8A%E5%B7%BB%E3%80%89%E8%BC%9D%E3%81%91%E3%82%8B%E9%BB%84%E9%87%91%E6%99%82%E4%BB%A3-%E6%98%AD%E5%92%8C%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%B9%B4~%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%B9%B4-%E7%B7%A8-%E6%89%80%E6%B2%A2-%E7%A7%80%E6%A8%B9/dp/4381103602

>> 特に食事はどうしたのでしょうか。門司から京阪神まで、何時間かかったのでしょうか。

 当時は、住民登録に基づく米穀配給制度で、外食には配給から取る「外食券」で、外での食事が出来たのですが、引揚者は到着港での炊き出しに頼るほかありませんでした。

 ただ当時の主要駅の朝は、宿屋の洗面所のような雰囲気があり、歯ブラシを銜えてホームをステテコで闊歩する姿は珍しくありませんでした。

 門司から京阪神はざっと一日でしょう。占領軍の列車が優先で、日本人鈴なりの旅客列車はあちこちで待たされ、広島、岡山辺りで降りて次の列車を待つという有様でしたから。

投稿日時 - 2015-08-17 13:42:31

お礼

再度のご回答ありがとうございます。

>門司から京阪神はざっと一日でしょう。
>占領軍の列車が優先で、日本人鈴なりの旅客列車はあちこちで待たされ、広島、岡山辺りで降りて次の列車を待つという有様でしたから。

長距離列車が無かったということですね。
機関士や機関助手の勤務を考慮すれば、日帰りできる距離内で個々の列車は運行されていたのかも知れません。
それでも線路が繋がっているおかげで、途中歩くことなく乗り継いで故郷へ向かわれたのですね。

『国鉄の戦後がわかる本』の紹介、ありがとうございました。

投稿日時 - 2015-08-18 19:35:38

ANo.4

既出の回答に有ります様に、鉄道は繋がっていましたね、個人の
勝手な想像ですが、米軍は日本占領後に必要なので、破壊しなかった
のでは?と思ってます。
88歳になる母が17歳の時に満州の新彊から徒歩で8ヶ月掛かり
釜山まで来て、船で博多に辿り着きました、機雷の危険があり下関
には上陸出来なかった様です。
船中で博多湾に1ヶ月待機した後、やっと上陸出来たそうです。
最初にされた検査は妊娠の有無で、妊娠している人とソ連兵や
朝鮮人に暴行されたと申告した人は別の場所に連れて行かれた
そうです。
列車には各県行きの貼り紙がしてあり、山陽線、東海道線、東北線で
北海道に10日で着いたそうです。
博多湾に待機中の食事は粗末な物でしたが、食べられる事だけで、
有り難く、感謝の気持ちで一杯だったと言ってます。
係りの人は休む間も無く働いていたので、過労死で亡くなった方が
居るのでは?と危惧して時々思い出すようです。

本題からは外れますが・・・
満州の人(中国人ではないです)に助けて貰らはなかったら、日本には
帰れなかったと事ある度に話ますので、私の耳は耳蛸状態です。
余り知られてない事ですが、中国人の支配を嫌い、今のモンゴルに行こうとした
人達が多数、殺されました。
その犠牲者の中に、助けて貰った心優しい満州の人が居るのではと、未だに
気になるようで、その人達の顔が夢に出て来るみたいです。

投稿日時 - 2015-08-17 13:01:51

お礼

お母様の体験談を書いて下さって真にありがとうございます。

>列車には各県行きの貼り紙がしてあり、山陽線、東海道線、東北線で北海道に10日で着いたそうです。
>博多湾に待機中の食事は粗末な物でしたが、食べられる事だけで、有り難く、感謝の気持ちで一杯だったと言ってます。
>船中で博多湾に1ヶ月待機した後、やっと上陸出来たそうです。

様子がよく分かります。
北海道までお帰りになったのですね。
10日間もかかったのですね。
おそらく途中の駅では食事の差し入れがあったのでしょう。


満州からの引揚げの記録は、多くの体験談が出版されており、図書館にあるものは全て読みました。
とにかく胸が詰まる思いで読みました。
日本の港に着いてからも、故郷にたどり着くまで、どんなに大変だったろうと思って質問しました。
機雷の危険があり下関には上陸出来できず、博多湾へまわって、そこで1ヶ月も待機されたのですね。
また、妊娠している人とソ連兵や朝鮮人に暴行されたと申告した人は別の場所に連れて行かれたとのこと、そこでもまた、そしてそれからも多くの苦労が待っていたのですね。

投稿日時 - 2015-08-17 20:39:23

ANo.3

1、
繋がっていました。
関門トンネルも健在です。
東京まで以外でも、要修理箇所は、1945年中に米軍の指示により、鉄道連隊が修復しています。1946年には、全国繋がっていました。

2、
ゴメンナサイ。サイトは知りません
食料と共に、故郷までの帰郷できる国鉄切符を、上陸手続きの時に配布されています。

投稿日時 - 2015-08-17 12:09:07

お礼

ご回答ありがとうございます。

>東京まで以外でも、要修理箇所は、1945年中に米軍の指示により、鉄道連隊が修復しています。
>1946年には、全国繋がっていました。

なるほど!!そうですよね。
占領軍も鉄道の復旧を優先事項とするのは当然。
言われてみればもっともです。

>食料と共に、故郷までの帰郷できる国鉄切符を、上陸手続きの時に配布されています。

深刻な食糧難の時代、船が着けば一度に数千人の人びとが上陸してくるのですから、食料を用意することは並大抵の苦労ではなかったでしょうね。

投稿日時 - 2015-08-17 20:11:33

ANo.1

もう引揚者のお方って85歳以上ですから体験談もあやふやかと。御姑さんが大阪から九州に疎開(昭和19年)2年後に戻られた話はよく聞きました。
鉄道は広島辺りは原爆でダメと思っていたんですが、ちゃんと繋がっていたような話です。佐賀のほうから大阪まで丸1日。通路まで座りこみ、窓からの出入りと超満員。食事もロクになかった時代なので、皆食べ物持参での移動です。
大阪から東京までも、鉄道は被害なく繋がっていました。
終戦後1年は、引揚者の元兵隊さんが優先なので、疎開した家族が帰れるような状態じゃなかったそうです。インドとかどっかの国のように、客車の屋根の上までということもなかったようです。

投稿日時 - 2015-08-17 00:41:27

お礼

ご回答ありがとうございます。

鉄道はちゃんと繋がっていたのですね。
広島原爆投下直後の現地調査の報告書を改めてよく読んでみますと、
駅舎は全壊・全焼ですが、「各駅トモ開通セリ」となっています。
線路は強いのですね、びっくり!!。

>佐賀のほうから大阪まで丸1日。通路まで座りこみ、窓からの出入りと超満員。
>食事もロクになかった時代なので、皆食べ物持参での移動です。

具体的に様子がよく分かりました。

投稿日時 - 2015-08-17 19:59:18

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